⇒前回の記事はこちら
海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)の方に丁寧かつマニアックな解説および現地案内をしていただき、私たちは非常にエキサイトしました。
楽しかったですねえ。
でも気づけば空模様は快晴だったのが曇りとなってきて、時刻も14時半となっています。
立春は過ぎましたが、まだまだ冬ですから、そろそろラストスパートということにしましょう。
なお、クラツーで今度ご案内するときは、ここでお終いの予定です。
カタログ上ではここでお終いなのです。
でも、常連のお客様が想定している通り、カタログ上の探訪が終わってもまだ時間が早い場合は、無料オプションツアーをやります。
もちろん任意参加です。
そのオプションツアーとして用意しておこうと思っているのが、これから行く上浜田古墳群です。
今回初参加のかんめいさんは少し疲れてきたように見受けられますが、もう少し頑張りましょう。
今では私たちと普通に歩いている仲間も、「最初はきつかった」と後で述懐することが多いです。
まあ、義務ではないのできついことを無理に続ける必要はないわけですが、人間の身体は、やはり続けているとそれなりに対応できるようになってきます。
では、行きますよ。
上浜田古墳群へ向かう途中、現代の国分寺に寄ろうと思いましたが、近道をしようとして逆に失敗してしまいました。
この辺は起伏のある地形なので、それが災いしてうまく到達することができませんでした・・・
仕方ないので割愛します。
バス通りをテクテクと歩いていくと、前方にこんもりとした森が見えてきました。
きっとあそこに違いない。
近接すると、「ひさご塚公園」の看板が出ています。
この辺は丘の上なのですが、そこからさらに高所へ行くんですね。
階段を登ると前方後円墳が横たわっていました。
説明板もあります。
ここには4世紀から5世紀初頭というちょっと広い年代幅が書かれていますが、秋葉山古墳群の築造が終わった後、それに続く形で造られたわけです。
復元すると墳丘長は80mもあるそうで、秋葉山古墳群最大の1号墳よりも一回り大きいですね。
普通に考えれば、秋葉山古墳群に続く首長墓ということになり、4世紀後半か5世紀初めの頃の築造とすると、ちょうど畿内や関東各地の前方後円墳が巨大化した時期に当たります。
そうなると、「いわゆる河内政権」とされる百舌鳥・古市古墳群を築造した「倭の五王」の時代に相模一帯を収めた有力者の墓の可能性があり、しかもヤマト王権にとって非常に重要なパートナーだったことが想定できます。
では、墳丘に登りましょう。
お、後円部に三角点。
クラツーでもたまに三角点が好きな方がいらっしゃいますよ。
それにしてもいい景色。
周りを見下ろしながら金子さんが「抜けがいいですね」とつぶやきました。
なるほど、「抜けがいい」という言葉は眺望にも応用できますね。
音楽をやっている人間の場合、抜けがいいといった場合は、ある特定の楽器の輪郭がとくに際立ってよく聴こえる場合などに使います。
歌にも同様に使いますね。
この眺望の良い土地は、サガミの王墓の立地として極めて適切かと思います。
ただし、実は神奈川の古墳は全体的に調査が遅れており、相模川と金目川のちょうど中間あたりの平野にあった真土大塚山古墳の位置づけがはっきりしないことには、歴史の構築に確実性が加わらないのです。
真土大塚山古墳はきちんと調査をする間もなく破壊されてしまったのですが、三角縁神獣鏡が出ているので、ヤマトにとって重要な人物が葬られていたことは確かです。
しかし、形状も大きさも分からない・・・
そのため真土大塚山古墳の位置づけによって、この瓢箪塚古墳の被葬者の位置づけも変わるというわけです。
ちなみに、海老名市温故館の方もおっしゃっていましたが、秋葉山古墳群も主体部を調査すれば、もしかしたら三角縁神獣鏡が出てくるかもしれませんよ。
さて、後円部から前方部を見てみましょう。
今度は前方部から後円部。
結構高低差があるので、5世紀にかからず、4世紀に収まる古墳のように見えます。
そうなると、河内政権以前の、佐紀古墳群の被葬者たちが政権を運営していた時代の東国での有力者かもしれませんね。
いやあ、しかしいいですねえ、この古墳。
では続けて上浜田古墳群を探訪しましょう。
⇒この続きはこちら
海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)の方に丁寧かつマニアックな解説および現地案内をしていただき、私たちは非常にエキサイトしました。
楽しかったですねえ。
でも気づけば空模様は快晴だったのが曇りとなってきて、時刻も14時半となっています。
立春は過ぎましたが、まだまだ冬ですから、そろそろラストスパートということにしましょう。
なお、クラツーで今度ご案内するときは、ここでお終いの予定です。
カタログ上ではここでお終いなのです。
でも、常連のお客様が想定している通り、カタログ上の探訪が終わってもまだ時間が早い場合は、無料オプションツアーをやります。
もちろん任意参加です。
そのオプションツアーとして用意しておこうと思っているのが、これから行く上浜田古墳群です。
今回初参加のかんめいさんは少し疲れてきたように見受けられますが、もう少し頑張りましょう。
今では私たちと普通に歩いている仲間も、「最初はきつかった」と後で述懐することが多いです。
まあ、義務ではないのできついことを無理に続ける必要はないわけですが、人間の身体は、やはり続けているとそれなりに対応できるようになってきます。
では、行きますよ。
上浜田古墳群へ向かう途中、現代の国分寺に寄ろうと思いましたが、近道をしようとして逆に失敗してしまいました。
この辺は起伏のある地形なので、それが災いしてうまく到達することができませんでした・・・
仕方ないので割愛します。
バス通りをテクテクと歩いていくと、前方にこんもりとした森が見えてきました。
きっとあそこに違いない。
近接すると、「ひさご塚公園」の看板が出ています。
この辺は丘の上なのですが、そこからさらに高所へ行くんですね。
階段を登ると前方後円墳が横たわっていました。
説明板もあります。
ここには4世紀から5世紀初頭というちょっと広い年代幅が書かれていますが、秋葉山古墳群の築造が終わった後、それに続く形で造られたわけです。
復元すると墳丘長は80mもあるそうで、秋葉山古墳群最大の1号墳よりも一回り大きいですね。
普通に考えれば、秋葉山古墳群に続く首長墓ということになり、4世紀後半か5世紀初めの頃の築造とすると、ちょうど畿内や関東各地の前方後円墳が巨大化した時期に当たります。
そうなると、「いわゆる河内政権」とされる百舌鳥・古市古墳群を築造した「倭の五王」の時代に相模一帯を収めた有力者の墓の可能性があり、しかもヤマト王権にとって非常に重要なパートナーだったことが想定できます。
では、墳丘に登りましょう。
お、後円部に三角点。
クラツーでもたまに三角点が好きな方がいらっしゃいますよ。
それにしてもいい景色。
周りを見下ろしながら金子さんが「抜けがいいですね」とつぶやきました。
なるほど、「抜けがいい」という言葉は眺望にも応用できますね。
音楽をやっている人間の場合、抜けがいいといった場合は、ある特定の楽器の輪郭がとくに際立ってよく聴こえる場合などに使います。
歌にも同様に使いますね。
この眺望の良い土地は、サガミの王墓の立地として極めて適切かと思います。
ただし、実は神奈川の古墳は全体的に調査が遅れており、相模川と金目川のちょうど中間あたりの平野にあった真土大塚山古墳の位置づけがはっきりしないことには、歴史の構築に確実性が加わらないのです。
真土大塚山古墳はきちんと調査をする間もなく破壊されてしまったのですが、三角縁神獣鏡が出ているので、ヤマトにとって重要な人物が葬られていたことは確かです。
しかし、形状も大きさも分からない・・・
そのため真土大塚山古墳の位置づけによって、この瓢箪塚古墳の被葬者の位置づけも変わるというわけです。
ちなみに、海老名市温故館の方もおっしゃっていましたが、秋葉山古墳群も主体部を調査すれば、もしかしたら三角縁神獣鏡が出てくるかもしれませんよ。
さて、後円部から前方部を見てみましょう。
今度は前方部から後円部。
結構高低差があるので、5世紀にかからず、4世紀に収まる古墳のように見えます。
そうなると、河内政権以前の、佐紀古墳群の被葬者たちが政権を運営していた時代の東国での有力者かもしれませんね。
いやあ、しかしいいですねえ、この古墳。
では続けて上浜田古墳群を探訪しましょう。
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