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つづいて千代田町へ向かいます。
さきほどお会いした榊原康政の居城であった館林城の近くを通り、少し走ると新宿二丁目に来てしまいました。

「にいじゅく」ではなく、「しんじゅく」ですね。

音楽をやっていた20代、新宿三丁目のライヴハウスには自分たちが出演するほか、友達のバンドを観るためによく行っていたのですが、その当時は音楽仲間に「二丁目行こうよ」と何度も誘われました。
さて、館林市から千代田町へ入り、やってきたのは光恩寺です。
でもまずは古墳を見たいので、お寺の散策よりも古墳に向かいましょう。
といっても初めてきた場所ですから、境内のどこに古墳があるのか分かりません。
駐車場に車を止め、いつものごとくKKD(経験・勘・度胸)で歩き始めます。
あれは墳丘かな?

立派なお堂が現れました。

ほー、結城合戦ですか!

場所柄、結城合戦にも関係していたんですね。
ところで、阿弥陀堂の裏手が古墳っぽいですね。

丘の外れに標柱らしきものが見えますよ。

当たり!

はい、堂山古墳へやってきました。
説明板では墳丘長80メートルとありますが、『群馬の古墳物語』(右島和夫/著)によると90メートルを測ります。
いずれにしても大型の前方後円墳ですね。
それにしても築造年代が4世紀から7世紀という説明は随分とダイナミックだな。
少し引いて写真を撮ります。

今は後円部側にいるみたいですね。
それでは墳丘に登ってみましょう。
お寺の梵鐘がありました。

ほう、結構貴重なものなんですね。

「国の重要美術品とされた」とありますが、これは昭和25年にできた文化財保護法以前に国が保護していた文化財のことです。

そして今はこういう時代。

自動制御です。

後円部から前方部を見ます。

鞍部まで下がり、後円部を振り返ります。

前方部にも何かあるようですよ。

おや、大きな五輪塔。

初代館林城主・赤井照光の墓でした。

赤井氏の史料上での初見は、永享10年(1438)の永享の乱のときに佐貫氏庶流の舞木持広の寄騎として赤井若狭守がみえているため、当初は舞木氏の被官だったと考えられますが、戦国時代には舞木氏を上回る力を付け、佐貫荘を掌握したと考えられます。
照光は勝光とも言われ、天文元年(1532)に館林城を築城して移り、同5年(1536)には成田氏の忍城を攻めましたが落とすことはできませんでした。
そして同14年(1545)に亡くなり、ここに葬られました。
下から2番目の水輪がふくよかな感じがしますね。

墳丘前方部のエッヂは尖っていません。

後円部方面の裾を見ます。

墳丘から南側の眺望。

ここでこの辺の地図をご覧ください。

堂山古墳から利根川までは、500メートルもありません。
『群馬の古墳物語』(右島和夫/著)によると、平成9年から翌年にかけて行われた発掘調査において大きな横穴式石室が見つかっており、石室の側壁石として榛名山の角閃石安山岩を削り出したものが使われ、奥壁には栃木県南西部の山間から運び込まれたと思われる安山岩の巨石が据えられ、すでに無くなっていた天井石は近くの熊野神社にある大型板石であろうと言われています。
該書でも述べられている通り、堂山古墳の被葬者は利根川の河川交通を掌握していた有力者で、石室に使用した巨石も当然ながら川を使って運搬したと考えられます。
赤岩には現在でも対岸の熊谷との間に赤岩渡船が就航しており、この区間は道路はありませんが水の上が県道83号線になっています。
戦国時代の赤井氏も重要な交通路である利根川をしっかり押さえていたはずで、館林城の位置が利根川と太日川(渡良瀬川)の2大河川のちょうど真ん中にあるのも興味深いです。
では、ついでなので光恩寺の境内を散策してみます。

立派な長屋門がありますよ。

荻野吟子生家の長屋門です。

この方が日本初の女医と言われる荻野さんです。

本堂へ行ってみましょう。

光恩寺は真言宗のお寺で赤岩山と号します。
先ほど見た阿弥陀堂の説明板にも書いてありましたが、空海開創伝承を持つ古寺ですね。

お、今度は板碑がありますよ。

S源寺さんがいないのが残念だ。


本当だ、珍しい!

地蔵菩薩が刻されいますよ!
では、そろそろ辞去しましょうか。

光恩寺境内は古墳時代、中世、近現代と千代田町の歴史を一箇所で知ることができる歴史ワンダーランドですね。

とても充実した探訪でした。
※あとで知ったのですが、境内には城郭遺構も残っているそうです。
山門から参道を見ます。

既述した通り、この参道の先、500メートルも行かずに利根川に到達します。
さて今度は、大泉町へ向かおうと思います。
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