3.探訪レポート
2021年4月9日(金)
この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡
⇒前回の記事はこちら
それでは、さきほど見えていた黒田大塚古墳へ行ってみましょう。
バーン!
ポッチャリ系の可愛らしい古墳ですね。
古墳の周囲は公園のようになっており綺麗に整備されています。
黒田大塚古墳の主軸はほぼ東西方向で前方部が西側を向いていますから、右手が前方部ですよ。
敷地内にはトイレもあって、建物の壁に説明板があります。
珍しく、古墳築造後の変遷が書いてありますね。
この説明の通り、黒田大塚古墳は低地に築造された古墳で、最近では奈良盆地でも低地に古墳が思いのほかたくさんあったことが分かってきました。
でも多くは「古墳跡」で、この黒田大塚古墳のように多少削られてしまってはいても墳丘がちゃんと残っているのはレアケースなのです。
前方後円墳だけを見たら、田原本町では黒田大塚古墳と、このあと行く予定の笹鋒山1号墳しかないのです。
後円部側から見ます。
周堀の跡が分かるようになっています。
後円部から前方部方向を見ると周堀の形跡が良く分かりますね。
後円部側はもう分からなくなっています。
それでは、墳丘に登りましょう。
ちょっと急だ。
鞍部から後円部墳頂を見ます。
前方部墳頂。
前方部墳頂からだいたい南西方向の眺望。
前方部墳頂から見た後円部。
後円部側は段築のようになっているのが分かります。
周辺の景色を見ても、低地部に築造されているのが分かると思います。
さきほど訪れた法楽寺の森。
黒田大塚古墳が破壊されずに現代にまで残っている理由は、単に大きいからではなく、黒田大塚古墳よりも大きい古墳がどんどん破壊されて跡形もなくなってしまっています。
法楽寺は古代の後半から中世にかけてかなり勢威があり、黒田大塚古墳はその境内にあったため破壊を免れたと考えることができます。
全国的に見ても、古墳がお寺や神社によって守られてきたというケースはとても多いです。
少し遠くを見ると一際高い高架の道路が見えますが、あれを造るときにこの辺の発掘も進んだようです。
もちろん道路を造るのが目的ですから、遺跡は調査した後に無くなっちゃうわけですが・・・
登ってきたのと反対側の南側の方から降ります。
おっと、こっちにも説明板があった。
三宅古墳群というと、133点もの車輪石や石釧や鍬形石が出土した墳丘長200mの島の山古墳が有名です。
島の山古墳と結構距離があるように思えますが、同じ古墳群として研究者は考えているんですね。
※地図で確認したら、直線距離で2㎞もないです。
墳丘長は70mということで、現状はそれより少し小さいように思えます。
前方部の底辺はカットされている感じがしましたし。
※『消えた古墳』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編・2011年)では、墳丘長を85mとしています。
築造時期は6世紀初頭ですね。
最後に書いてある羽子田1号墳出土の牛形埴輪には、唐古・鍵考古学ミュージアムに行くと会えます。
これは珍しいのでミュージアムに行ったときは必ず見てくださいね。
馬形埴輪は列島各地で普通に出てきますが、牛形埴輪は全国でも9例しか見つかっていない大変貴重な物なのです。
黒田大塚古墳の説明板にわざわざ書いてあるというのは、読む人にそのすごさに気づいて欲しいからだと思います。
おっと、黒田大塚古墳に来ているのに最後の〆が羽子田1号墳の牛形埴輪の話だと、黒田大塚古墳の被葬者が残念がりそうだ。
いやいや、あなたは大きさでは羽子田1号墳よりも全然大きい!
しかし良い古墳に出会えてよかったです。
つづいて、笹鉾山1号墳へ行ってみますよ。
⇒この続きはこちら
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『消えた古墳』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2011年