3.探訪レポート
2021年4月9日(金)
この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡
馬見丘陵上の古墳の下見を終えて近鉄の池部駅までやってきました。
こちらは河合町役場の入口。
この門構えから推測するに、河合町の職員さんたちは羽織袴で職務に就いている蓋然性が極めて高い。
ここからは黒田駅まで電車で移動です。
お、ちょうど電車が来たから写真撮ろうっと。
ところで、私が乗る電車はいつ来るんだ?
しまった、さっきのだった!
次のはしばらく来ませんよ。
まあでも、急ぐ旅ではありませんから、ベンチに座ってジュースでも飲んでます。
近くに座った地元の方らしき二人のご婦人の世間話に耳を傾けていると電車が来ました。
池部駅から3駅乗って黒田駅に到着。
田原本町には、「楼閣と桃太郎生誕のまち」というキャッチがあったんですね。
楼閣は唐古・鍵遺跡の復元楼閣(というか、その元になった絵画土器)のことを指しているのは分かりますが、かの有名な桃太郎氏はここで生まれたんですね。
説明板の前に「駐車禁止」の看板が覆いかぶさっている。
なかなかシュールな設置位置ですが、これは多分、大事な説明板を保護する意味もあって建てたのでしょう。
まさか説明板の存在を無視しているなんて、田原本町に限ってそんなことはないはずです。
では、説明板を駐車禁止の看板の横から覗いてみましょう。
ほー、太子道の説明でしたか!
ここに書いてある通りですが、聖徳太子が斑鳩の宮と飛鳥を往復した道で、斜行しているのが特徴です。
遺跡として飛鳥時代に造られた斜行の道が確認できるとしたら、飛鳥時代に道を作るというのは大変な権力がないとできない事業ですから、やはり斑鳩の宮にいた厩戸皇子は蘇我政権内でかなりの力を持っていたと考えられます。
ちょうどいま、クラツーのオンライン講座の作業が一時停止中なのですが、再開したら日本書紀講座の次の回は聖徳太子について語ります。
そのせいか、「引き寄せられの法則」に従って、最近は太子関係のものに引き寄せられるようになっています。
太子道の北方面。
※後日註:北方面への道はほぼ真北へ向かっているため、往時の太子道とは道筋が違います。
太子道の南方面。
※後日註:南方面への道はやや東へ振れた斜め方向の道になっているため、こちらは往時の太子道と重なると考えられます。
ところで、何で黒田駅で降りたのかというと、黒田大塚古墳を見ることと、法楽寺を拝するためです。
法楽寺は、第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)跡と言われているため、「欠史八代マニア」としては、以前からずっと来てみたいと思っていました。
ではいったん踏切を渡って北側から法楽寺へ回り込もうと思います。
あ、黒田大塚古墳が見えますよ。
古墳にはあとで行きます。
法楽寺に着きました。
説明板があります。
聖徳太子開基伝承を持つお寺って「法」が付くお寺が多いですね。
それは、聖徳太子が自身のコア・コンセプトとして法(仏法)を学ぶことを最も尊重したからだという説があります。
立派な伽藍や美しい仏様を造立しなくても、心の中にしっかりと信仰を持っていれば仏の道に邁進することができます。
私はそう思います。
つづいて桃太郎伝説について。
そういえば、吉備津彦は孝霊天皇の子ですが、吉備津彦が西道を討ったのは、日本書紀だと第10代の崇神天皇の御代なのに古事記だと孝霊天皇の時なんですよね。
日本書紀と古事記の記述でこのような違いがあるのは、いわゆる「欠史八代」について探る上には大きなヒントになるでしょう。
この説明板には鳥取県日野地方という地名が出てきますが、その近くには孝霊山という山があって、妻木晩田遺跡からもよく見えます。
以前から伯耆の国における孝霊天皇は気になっているんですよねえ。
本堂でしょうか?
あれ、扁額には子安地蔵とありますよ。
そうか、説明板に書かれていた通り、往時は25宇を数えたものが現在はこのお堂のみとなってしまったんですね。
桃太郎の看板がまたありました。
しかし、さきほどはかぐや姫の伝承を楽しみましたが、今度は桃太郎ということで、奈良は「リアル昔話ワールド」が展開していて面白いですね。
人によっては、桃太郎とか孝霊天皇とか、そういったものは絵本だけのお話だと考える方もおられると思いますが、ウインクこそはしないものの、大人になればきっと分かると思います。
往時の伽藍配置。
ではつづいて、先ほども見えていた黒田大塚古墳へ行ってみますよ。
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4.補足(2021年6月11日)
上述の踏切から南方向を向いて撮った写真を再掲します。
奥の方が少し左に曲がっていますが、太子道はその場所から一直線に飛鳥まで向かっていました。
帰宅してから知ったのですが、黒田駅からこの道を5分も歩かずに黒田池に到達し、その南側には保津・宮古遺跡があります。
『太子道の巷を掘る』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編・2006年)によると、1995年の保津・宮古遺跡第14次調査の際に、幅3mほどの溝が検出され、これが真北から西に約22度傾いた太子道の地割と一致したため、その遺構を太子道西側の側溝跡と考え、これをもって太子道は考古学的に証明されたとしています。
また、その近辺では「保津・阪手道」と仮称される東西の道も見つかっており、その辺りは飛鳥時代から交通の要衝であったことが分かったのです。
道と道が交差する場所を「衢(ちまた)」と呼びますが、そういう場所には市が立っていた可能性があり、悪い霊が集まる可能性もあるため、神を祀って呪術的に防御していた可能性もあります。
事実、飛鳥時代の土馬や、奈良時代の斎串が出土しています。
さらに、飛鳥時代から奈良時代にかけての官衙的な建物跡も見つかっており、古墳時代後期の黒田大塚古墳の存在も含め、黒田駅の南側は非常に注目すべき地域であると言えましょう。
現代の道路地図で太子道を追いかけていくと、黒田駅を中心に南北約3.2㎞くらいの道の形跡は、現代の道路で追うことができますが、それ以外はほぼすべて不明です。
「今昔マップ」で明治時代の地図を見てみましたが、すでにそのころには現代と変わらないくらいに斜向の道筋は無くなっています。
太子道の南北の起点がどこか調べてみると、南側に関しては現在分かる道筋を飛鳥まで延長していくとちょうど向原寺に当たります。
向原寺は我が国初の尼寺と伝えられ、太子とともに政治を執った蘇我馬子の父であり、かつ太子の曽祖父にあたる蘇我稲目の邸宅だった場所です。
太子が生きた時代は向原寺の裏の甘樫丘は蘇我氏の本拠地となっており、大雑把に言って、太子道の飛鳥側の起点は甘樫丘や向原寺であったと考えられます。
反対の北側の起点は、そのまま線を引いて行くと斑鳩町高安付近になり、ちょうどそこから富雄川を渡って西へ進めばすぐに法隆寺にたどり着きます。
ただし、太子道の北側は大和川の支流が集まる場所を縦断していますから、無理に一直線の道として考えずに、自然堤防上をある程度ウネウネと進んだ可能性もあるのではないでしょうか。
なお、太子道の性格ですが、よく「太子の通勤路」と言われることがありますが、普通考えたら道路を作る最大の目的は軍事利用です。
当時の豪族はそれぞれ自身の軍事力を保持しており、当然太子の一家も軍事力を保持しており、「いざ鎌倉」ではないですが、飛鳥に何かあったときは斑鳩の軍勢を即座に動かす意図のもとに太子道を作ったのではないかと考えます。
そう考えると、飛鳥時代はいつも平和だったわけではなく、日本書紀にも蘇我氏と物部氏との軍事衝突などが記載されている通り、意外と不穏な空気が流れることも多かったのではないかと考えます。
こういった飛鳥時代の貴族同士の軍事的関係については、今後詳しく調べて行こうと思います。
余談ですが、私は太子に対して武勇に優れた青年貴族のイメージを持っており、子供の頃は結構「腕白」で、ケンカの強さで若者たちから認められていた少年貴族だったんじゃないかと想像しています(あくまでも個人的な想像です)。
5.参考資料
・現地説明板
・『太子道の巷を掘る』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2006年