

奥の山古墳は、瓦塚古墳につづいて築造された非首長墓系列の前方後円墳ですが、全国的に見ても大変珍しい脚無しの子持壺が出土したことで有名な古墳で、最近の調査で二重周堀の形状がさらに詳しく判明しました。





お勧め度:

*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
埼玉県行田市埼玉4834(埼玉県立さきたま史跡の博物館)
現況
さきたま古墳公園
史跡指定
国指定特別史跡
指定日:令和2年(2020)3月10日
出土遺物が見られる場所
埼玉県立さきたま史跡の博物館(展示替えがあるため常に見られるとは限らない)
2.諸元
築造時期
6世紀中頃から後半
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:66.4m、後円部径:38.4m、前方部幅:43.2m
墳高:後円部高5.6m、前方部高:6.0m
段築:後円部2段、前方部2段
葺石:なし(埼玉古墳群では丸墓山古墳以外では葺石は見つかっていない)
埴輪:あり
主体部
発掘調査は行われていないが、地中レーダー探査により後円部墳頂の1.6~1.9m下から長さ2m、幅0.5、高さ0.5mの物体の反応、2.5m~3m下から長さ2m、幅0.5mの物体の反応あり
出土遺物
造出から形象埴輪、須恵器、装飾付須恵器(子持壺)
周堀
長方形(台形)、二重
3.探訪レポート
2021年2月6日(土)2021年ファースト古墳めぐり⑤
この日の探訪箇所
栢山天王山塚古墳 → 塩古墳群 → 宮塚古墳 → 瓦塚古墳 → 奥の山古墳 → 中の山古墳 → 戸場口山古墳 → 浅間塚古墳 → 二子山古墳 → 将軍山古墳 → 稲荷山古墳
⇒前回の記事はこちら
瓦塚古墳の次にやってきたのは奥の山古墳です。
こちらもまずは、2015年3月に初めて来た時の写真から。

山が3つ見えますが、一番左側は鉄砲山古墳の前方部です。
奥の山古墳も二重堀ですが、整備されているのは内堀と中堤部分で、そこから外側は特に何もないです。

前方部東側コーナーからの眺め。

鉄砲山古墳の外堀南側と奥の山古墳の外堀北側はかなり接近しており、一部は僅かながら切りあっているようで、そのためにこういう眺めになるのですが、いみじくもこれが埼玉古墳群の特徴です。
つまり、大型・中型の前方後円墳がかなり密接に配置されているのです。
別に土地が無かったわけではないと思いますが、ギュッと密着させて築造しているところが面白い。
東の側面から。

右が後円部ですよ。
そして、2017年8月の夏期古墳講習。
上の写真と似たようなアングルで撮っていました。

緑の古墳も素敵ですが、プロポーションをより楽しみたい場合は冬がお勧めですよ。
奥の山古墳は瓦塚古墳の次に築造された非首長墓系列の古墳で、墳丘長は瓦塚の73.4mに対して66.4mと7m短くなっていますが、墳高は逆に高くなっており、後円部が0.8m高い5.6mで、前方部にいたっては一際高くなり、瓦塚より1.4mも高い6.0mになっています。
一般的な古墳の形状の移り変わりと同じく、前方部の高さが後円部の高さを上回り、しかも全体的にもより高さを志向するようになっていますが、後円部径も拡大しており、全体のプロポーションはポッチャリ型に変化しています。
滝山の会のO森さんが映りこんでいる。

名前を伏字にしても意味がないですね。
説明板。

ここにはネーミングの由来が書かれていますが、今の埼玉古墳群は行田市が誕生する前は埼玉村と渡柳村にまたがっており、渡柳村内にある古墳は、東側から戸場口山、中の山、奥の山と呼ばれていたわけです。
周堀に関しては、1967年にさきたま風土記の丘整備事業が始まったときの調査では一重で形状も一般的な盾形とされたのですが、2007年度から再び発掘調査をしたところ、二重ということが分かりました。
ちなみに、埼玉古墳群を理解するためにお勧めしたい『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 埼玉古墳群』(高橋一夫/著)は2005年に刊行されたものなので、該書にはまだ一重堀と書かれていますが、上述のような刊行後に分かった情報を加味して行くことにより、該書の価値が損なわれることはありません。

いますぐでなくても、いつかは内容を最新のものにアップデートして改訂版を出していただくと嬉しいなあ。
なお、奥の山古墳から出土したもので注目すべきものは説明板にも載っているこの子持壺です。

こういったものは、壺の本体に小さな子供のような壺がいくつか(この場合は3つ)くっついているため子持壺と呼ばれ、壺だけでなく本体にそれと同じ形状のものをボコボコくっつけたものは「子持」と呼びます。
私の印象では出雲や北部九州の人たちが「子持」が好きな気がしますが、『史跡埼玉古墳群 総括報告書Ⅰ』によると子持壺は関東地方では大変珍しく、該書が執筆されている時点で(2018年刊行)、他には神奈川県の宮山中里5号墳から出土した子壺の破片1点のみしか見つかっていないそうです。
しかもこの写真はキャプションの通り、脚のない子持壺が器台の上に乗せられてポーズを決めており、壺と器台とは別個のものなので、この脚がないタイプの子持壺は上述書によると日本全体を見渡しても他には1点しかないということで、この子持壺、かなりヤバいです。
関東生まれの私が子持系の遺物を気にしだしたのは頻繁に西日本に行きだしたここ3~4年のことですから、それまでは興味がなく(というか気にしておらず)さきたま史跡の博物館で撮ってきた写真を見返してみてもないんですよね。
無念・・・
それはそれとして、今回もきれいな奥の山古墳に会えました。

おや、前方部西側の雰囲気が以前とちょっと違いますよ。
こちら側も公園としての整備が進んでおり、こんなものが置いてあります。

発掘調査の結果、この部分の外堀の形状が分かったんですね。
内側から見ます。

外堀の外から見ます。

普通の長方形を二重にしただけのような周堀ではなく、中堤のコーナー部分に張出を設けていたことが分かったわけです。
なお、私は墳丘からピョコッと飛び出たものを造出と言い、中堤を外側に出っ張らせたものは張出といって区別するようにしていますが、埼玉古墳群の説明板では造出のことを張出と書いてあることもあり、ややこしいですね。
造出と張出は両者とも祭祀のためのスペースだと考えられますが、その違いについてはまだ良く分かりません。
写真を撮ると、どうしてもいつもと同じようになってしまいます。

埼玉古墳群に来たのは既述した通り今日で7度目ですが、桜の時期の写真が手元にないです。
いつか桜の時期に写真を撮りに来たいと思いますが、結構な人出らしいですね。
真冬のこういうサッパリとした墳丘も好きですよ。

奥の山古墳の主体部は発掘調査がされていませんが、2009年に地中レーダー探査が行われ、後円部墳頂の1.6~1.9m下から長さ2m、幅0.5、高さ0.5mの物体の反応があり、さらにもっと深い2.5m~3m下から長さ2m、幅0.5mの物体の反応がありました。
これらは箱式石棺の可能性があるとのことですが、築造時期は早く見ても6世紀半ばで、この時期になってもまだ竪穴系の可能性が高く、奥の山の次にいよいよ横穴式石室の将軍山古墳が築造されます。
それと初葬にあたると思われる2.5m~3m下の埋葬主体ですが、一般的な古墳と比べるとちょっと深い位置にあるのが興味深いです。
では、このつぎは先ほどからチラチラ見えていた鉄砲山古墳ではなく、中の山古墳へ向かいますよ。
⇒この続きはこちら
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
・『史跡埼玉古墳群 総括報告書Ⅰ』 埼玉県教育委員会/編 2018年