古墳時代を考察するうえで超貴重な史料となる115文字が金象嵌された国宝・稲荷山鉄剣が出土した墳丘長120mの大型前方後円墳です。
国宝・金錯銘鉄剣が出土
発見容易
登頂可能
前方部は完全復元
説明板あり
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
埼玉県行田市大字埼玉4834(埼玉県立さきたま史跡の博物館)
現況
さきたま古墳公園
史跡指定
国指定史跡
指定日:昭和13年(1938)8月8日
国指定特別史跡
指定日:令和2年(2020)
出土遺物が見られる場所
埼玉県立さきたま史跡の博物館
2.諸元
築造時期
5世紀後半(現地説明板)
500年前後(『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』)
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:125m
墳丘高:前方部10.7m(推定)・後円部11.7m
周堀を含めた最大長:南北205m・東西170m
段築:2段
葺石:なし(埼玉古墳群で葺石が確認されているのは丸墓山古墳のみ)
埴輪:あり
主体部
後円部第1主体部(礫槨)
竪穴系
礫槨(舟形に掘りこんだ上に川原石を貼り付け)
内法長約5.7m、最大幅1.2m
舟形木棺
遺物は金錯銘鉄剣・環状乳画文帯神獣鏡など多量
主体部構築時期は古墳築造から20~30年後
後円部第2主体部(粘土槨)
竪穴系
粘土槨
2段の掘り込み
上段:全長約6.5m、最大幅1.9m
下段:長さ約5m、最大幅1.1m
形状不明の木棺
遺物は刀身残欠ほか
構築時期は不明
前方部にも主体部があった可能性がある
出土遺物
周堀
長方形
二重
内堀幅20m、中堤幅14m、外堀幅12m
遺物は、円筒埴輪・円筒埴輪片・形象埴輪(巫女・武人など)・鬼高Ⅰ式土師器ほか
3.探訪レポート
2015年3月14日(土)
この日の探訪箇所
忍諏訪神社・東照宮 → 行田市郷土博物館 → 忍城 → 高源寺 → 妙音寺 → 大日塚古墳 → 丸墓山古墳 → 稲荷山古墳 → 将軍山古墳 → 将軍山古墳展示館 → 二子山古墳 → 愛宕山古墳 → 瓦塚古墳 → さきたま史跡の博物館 → 奥の山古墳 → 鉄砲山古墳 → 前玉神社および浅間塚古墳
⇒前回の記事はこちら
丸墓山古墳のあまりもの巨大さに驚愕し、その墳頂から周囲の古墳や忍城を眺めながら短時間の妄想に沈溺したあとは、埼玉古墳群のなかでもとくに話題に取り上げられる回数の多い稲荷山古墳を楽しみましょう。
埼玉古墳群の特徴は、各古墳の距離が非常に近いことです。
周溝が接するんじゃないかくらいの距離で密集しているんです。
別に土地の値段が高かったとかそういうことはないのですが、これには何かサキタマの王たちの事情があったのでしょうか。
稲荷山古墳。
さきほど登った丸墓山古墳が名残惜しい・・・
古墳を撮影する際、好きなアングルがいくつかあるのですが、特にこのアングルは堪りません。
前方部の奥に後円部が見えますが、そのくびれ部分が良いのです。
前方後円墳のこのセクシーな形を考えた人は本当に天才だと思います。
なお、前方後円墳のデザインは、当時の女性が着たワンピースのような服から考案したと考えている人もいますが、諸説あって定説はありません。
※後日注:現在の私は中国北東部の遼河文明で「天円地方」の思想があったことが考古遺物から想像できるため、その思想が日本列島に入ってきたものだと考えています。
さて、実はこの後方部は昭和12年(1937)に土取りで消滅してしまい、それからだいぶ経った2004年に復元したものなのです。
お城の場合もそうなんですが、異様に復元を嫌がる人がいます。
今日の最初に見た忍城の御三階櫓なんかもそうですが、復元だと分かっている上で見学する分には問題ないかと思います(ただし、御三階櫓の場合は場所も往時と違いますが)。
さらには古墳の場合は墳丘の整備を嫌う人もいて、草や木々の生えた素のままの古墳が好きな人もいますね。
私はその辺は結構ミーハーで、この稲荷山古墳のようにきれいに整備されているのも結構好きです。
だって、カッコいいじゃん!
でも、オーガニックな感じの古墳ももちろん好きですよ。
『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』によると、土取りの工事が始まる前には宝探しで多くの人が訪れて、おでん屋まで出店する騒ぎだったそうです。
前方部の土取りの際には、中から石組が出てきて錆びた刀や固まった鏃が出てきたそうで、前方部にも埋葬主体があった可能性があります。
南側には二子山古墳が見えます。
稲荷山古墳のそばにも説明板がありました。
これにも書かれている通り、稲荷山古墳の最大の目玉は出土された国宝・金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)なのですが、これについてはまた後で話します。
図の通り、周溝は二重に巡っており、これは埼玉古墳群の他の前方後円墳すべてに共通です。
ただし、周溝の形状は古墳によって若干違いがあり、稲荷山古墳の場合は長方形で、西側にお城の枡形のような造出部分があります。
内側の周溝は残っていますが、外側は一部に形跡があるもののほぼ消滅しています。
『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』によると、「風土記の丘」事業により古墳群の整備が始まった1967年当時は、古墳と言えば周溝に水を湛えたイメージが一般的であり、そういった先入観に加え、その後の調査が不十分だったことも相まって、1976年には水が湛えられるように周溝を掘削してしまいました。
しかしその後、水は溜まっていなかったことが分かったので、現在では写真の通り水を抜いてあります。
前方部からは階段があって墳頂に登れるようになっていますよ。
やっぱり丸墓山古墳が気になる。
さて、後方部墳頂に登りましょう。
墳頂から西側を見下すと造出部分が見えます。
これも埼玉古墳群の特徴の一つで、稲荷山古墳以外にも、二子山古墳・将軍山古墳・瓦塚古墳・鉄砲山古墳にも造出が認められます。
ただその位置はなぜか古墳によって微妙に違って、前方部から見て左側(西側)というのは共通なんですが、稲荷山古墳はくびれ部分のやや後円部側から半島状に飛び出ていますが、例えば二子山古墳の場合はどちらかというと後方部寄りから飛び出ています。
上の写真で周溝の対岸に半円状に草地が見えますが、現在は地表面からは分からないものの往時は葬送儀礼の場となった中堤の張り出し部分があり、人物埴輪を始めとする多くの埴輪が立てられており、発掘調査で見つかったそれらの埴輪は、さきたま史跡の博物館で観ることができます。
しつこく丸墓山古墳。
前方部から後円部を見ます。
原則として前期と中期の前方後円墳は前方部よりも後円部の方が標高が高いです。
一応、現代の学者は四角い方を「前」、丸い方を「後」として考えており、それが正しいとしたら奥の方が標高が高いのは視覚的にも納得できます。
というのは前方後円墳で祭祀を行う際は、前期・中期は前方部の底辺側から後円部の方へ向かって行ったと推定できるからで、天皇陵の拝所の位置がちょうどそのイメージです。
後期になると両者の高さが伯仲してきて、むしろ前方部の方が高い古墳も現れますが、後期は横穴式石室が造られ始め、祭祀の位置も前方部側から墳丘の南側の長辺に移動し、墳丘のデザインも真横から見て「二子山」になるようになっていくのです。
将軍山と二子山のツーショットも辛うじて撮れます。
おっと、埋葬主体の展示がありますね!
こちらは第1主体部の礫槨。
遺体を安置する場所を埋葬主体といったり埋葬施設と言ったりするのですが、私は用語の語感を楽しむのが好きで、ドイツ語っぽい「しゅたい」という発音の方が好きです。
埋葬主体に入ることを「埋葬シュタイン」と言います(稲用語)。
稲荷山古墳の後円部からは埋葬主体が2基見つかっており、両者とも竪穴で、上のは舟形に掘った上に川原石を並べてその上に棺を置いていました。
ここからあの金錯銘鉄剣が出たんですよ!
もう一つの埋葬主体(第2主体部)は粘土で棺をくるんだ粘土槨です。
※後日註:現在は両主体部の展示の仕方が変わっています。
私は古墳の見どころは大きく二つあると思っていて、一つは墳丘、そしてもう一つは埋葬主体です。
埋葬主体は大きく分けて上のような竪穴方式と関東では古墳時代後期に出てくる横穴方式があります。
こうやって竪穴式石室を観察できる古墳は珍しいのですが、横穴式石室だと石室自体がうまく保存してあって、中に入って見事な石積みを見ることができるのもありますよ。
通常、古墳築造時に最初に埋葬された主体は墳頂の中央部にあるものなのですが、『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』によると、墳頂の調査をした際に、中央からは外れた上記の2基が見つかり、その時点で発掘調査が終わりました。
遺跡は発掘調査をすると当然ながら破壊を伴うので、発掘も慎重にしないといけないのですが、その後破壊せずに地下の様子が分かるレーダーを使い調査したところ、中央部にも石室らしきものと思われる反応があり、またそれ以外にも2基はあることが分かり、後円部の埋葬主体は合計5基であると考えられています。
造出を今度は後円部から見ます。
しつこく丸墓山古墳。
稲荷山古墳は既述した通り、それまで古墳がなかった地域に5世紀後半になって突如築造された古墳です。
稲荷山古墳以降、大型古墳の築造が続くことから、この地域を治めた「サキタマの王」が、安定的に広大な地域の支配を続けていたことが分かります。
(つづく)
2017年8月6日(日) 東国を歩く会「古墳スペシャル!」
この日の探訪箇所
東国を歩く会(歴史を歩こう協会の前身)で、乗用車2台に分乗して探訪してきました。
その時の写真を羅列します。
おっ、主体部の展示方式が変わっている!
第1主体部の礫槨。
第2主体部の粘土槨の説明。
2017年12月3日(日) クラブツーリズムにて案内
この日の探訪箇所
クラブツーリズムにて私としては初めて案内してきました。
稲荷山古墳の墳頂から見る丸墓山古墳。
同じく将軍山古墳。
2018年1月13日(土) クラブツーリズムにて案内
この日の探訪箇所
クラブツーリズムにて案内してきました。
今回は写真は撮れませんでしたが、この日も天候はバッチリでした。
2020年2月22日(土) クラブツーリズムにて案内
この日の探訪箇所
クラブツーリズムにて久しぶりに案内してきました。
まずは、さきたま史跡の博物館で展示してあった稲荷山古墳出土の埴輪。
1本目。
2本目。
ツーショット。
こういう風に「B種ヨコハケ」まできちんと書いてある博物館は少ないですよ!
円筒埴輪が好きな人にとっては嬉しいですね。
埴輪の時期区分に関しては一般的には5期に分けられ、タテハケは全期間に見られますが、B種ヨコハケは3期半ばから5期初頭まで現れます(おおむね5世紀の頃)。
この時期は窯による焼成が普及・定着していく時期で、B種ヨコハケの多くは窯で焼かれ、その場合は黒斑はないのでこういった展示がある時はそれをよく見てみましょう。
上の埴輪片が3つ並んでいる写真の左の物は黒斑なのか、突帯部分が壊れて変色しているのか・・・
あと、B種ヨコハケの場合は、透孔(すかしあな)も三角とか長方形とかはなく丸形が多いはずで、上の写真には半円形や長方形の透孔がある円筒埴輪が展示してあるので、もしかしたら稲荷山古墳の築造時期は5世紀後半より少し古いんじゃないかなあとか想像してみたりしますが、これは素人考えでしょうかね。
稲荷山古墳。
稲荷山古墳からみる将軍山古墳。
そして丸墓山古墳。
稲荷山古墳の造出。
いつ来ても同じような写真を撮ってしまいますが、何度来ても埼玉古墳群は本当に楽しい!
4.補足
『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』所収「北武蔵 埼玉古墳群」では、稲荷山古墳の突如とした構築から「治水王」の誕生を読みとっていますが、この広大な大地で治水に成功して農業生産が拡大すれば、相当な富を得ることができますので、該書が言うように治水の成功がサキタマの王の重要な発生原因の一つだと考えていいと思います。
『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』によると、埼玉古墳群の西1kmに位置する高畑遺跡で発見された幅約3mの方形区画溝は、豪族の居館跡である可能性が高いということなので、もしかするとそこにサキタマの王の居館があったのかも知れません。
また同書によれば、南に4kmの地点にある鴻巣市築道下(ちくみちした)遺跡は、埼玉古墳群の形成とほぼ同時に現れた集落で、古墳時代後期を中心に平安時代までの住居跡789軒、掘立柱建物跡238軒などが検出され、サキタマの王を支える集落の一つでした。
さらに言えば、築道下遺跡と同じ鴻巣市内には、東国で最大の埴輪製造所である生出塚(おいねづか)埴輪窯跡があり、『シリーズ「遺跡を学ぶ」073 東日本最大級の埴輪工房 生出塚埴輪窯』によれば、当初は埼玉古墳群に対して埴輪を供給していましたが、時代が下ると最も遠くは上総方面(千葉県)まで埴輪を供給しており、この埴輪の流通はサキタマの王がコントロールしていたと考え、遠隔地と政治的に提携していた可能性も高いです。
5.参考資料
・現地説明板
・『新編武蔵風土記稿』「巻之二百十六 埼玉郡之十八 忍領 埼玉村」 昌平坂学問所/編 1830年
・『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』 小川良祐・狩野久・吉村武彦/著 2003年
・『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
・『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』 広瀬和雄・池上悟/著 2007年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」073 東日本最大級の埴輪工房 生出塚埴輪窯』 高田大輔/著 2010年
・『ガイドブック さきたま』 埼玉県立さきたま史跡の博物館/編 2015年