高速道路を安全運転するのが大好きな私ですが、今日は訳あって下道で茨城まで行かないとなりません。
最初に目指すのは茨城町で、高速を使えば1時間半くらいで行けると思いますが、下道だと結構掛かりそうです。
というわけで、4時15分に出発しました。
カーナヴィに指示された道路は、甲州街道から環七に乗り、ついで水戸街道で行くという非常にベタなコースです。
でもまあ、その無難な線で行きましょうか。
甲州街道で都心へ向かうのは慣れた道です。
でも環七に入ると未知の領域となります。
水戸街道に関しては、私は千葉県松戸市出身なので非常になじみがあるのですが、自分の運転で走るのはもしかしたら生まれて初めてかもしれません。
昔、魚釣りをするために従兄弟と自転車を漕いで江戸川へ行った時や、高校時代の同級生と20歳くらいの時にわざわざラーメンを食べに取手に行ったりした時のことを懐かしく思い出します。
利根川に近くなってくると濃霧に包み込まれました。
でかい川って霧に包まれやすいんですかね。
霧に包まれた坂東太郎さんを越えて茨城県取手市に入ると、水戸証券の看板がありました。
昔、CMで「水戸は水戸でも水戸証券」とやっていたのを思い出しました。
私なんかですと、まだバリバリのドラマ「水戸黄門」の世代ですよ。
お銀さんって結構なお歳になってもシリーズの最初に裸を披露していましたが、普段から美に関して努力していないと人様に裸を見せることはできませんので、そういったプロ意識には敬意を表します。
あ、ダスキンさん!
朝の水戸街道は、当然ながら上りが混んでおり、今走っている下りは空いています。
しかもバイパスによって結構スムーズに走れて、それほどストレスを感じずに走ることができています。
3時間ばかり運転を続け、そろそろお腹が空いてきました。
すると前方に松屋を発見!
よし、朝飯に牛めしを食べて、今日も昼飯を抜こう!
お腹いっぱい幸せ気分になりました。
時刻がだんだん通勤時間のコアタイムになってきたので、ちょっと道が混んできました。
なので、ナヴィに従わず、方向だけは間違わないようにして、KKD(経験・勘・度胸)での運転に切り替えます。
そして9時ちょうど、4時間45分かけて最初の目的地に到着しました!
茨城町の宝塚古墳です。
簡易的な駐車スペースの裏手が高くなっており、おそらくそこに古墳があるんでしょう。
行ってみますよ。
お、墳丘らしきものが見えてきました。
バーン!
よし見っけ!
あれ、古墳の前に平坦地が広がっていますよ。
ちょっと気になるので行ってみましょう。
ここには元々、学校か何かあったのでしょうか。
※帰宅後調べたら、茨城町立川根小学校野曽分校の跡地で、昭和44年に廃校になったそうです。
おー、素晴らしい眺望。
眼下は現在は田んぼになっていますが、往時は涸沼(ひぬま)がこの辺にまで広がっていました。
宝塚古墳の被葬者は涸沼の上に君臨していたわけですね。
では、墳丘を見に行きましょう。
こちらが後方部ですね。
前方部へ回ります。
周溝も残っている。
綺麗な前方後方形をしていますね。
墳丘に登ります。
前方部から後方部を見ます。
高低差はメリハリがありますが、極端ではないです。
後方部の墳頂は、一部分だけ植物が植えられています。
後方部のエッヂを確認。
綺麗に整備されているため、エッヂが効いています。
墳頂からの眺望は、現在は樹がさえぎっていて良くありません。
後方部から前方部を見下ろします。
そして説明板は後回しになってしまった・・・
説明板によると、墳丘長は39.3mとなっていますが、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると、周溝内側下端で計測すると41.2mあるそうです。
また、同書に拠れば、葺石と埴輪は認められず、周溝は墳丘と同じ形で幅6m、深さ80㎝で構築されています。
説明板には町内で最も古い古墳としておきながらも、4世紀末から5世紀初めの築造としています。
関東地方には弥生末期から東海人が進出してきていますが、茨城県は関東の中で東海人の進出が最も遅れた場所です。
なので、東海人のシンボルともいえる前方後方墳であっても4世紀末以降と判断してるわけですが、その理由は周溝から出土した土師器を基にしていると思います。
ただ、私はもう少し古い古墳ではないかと思うのですが、私自身、まだ茨城の古墳についての経験値が少ないので、今後よく見聞・考察して、茨城の古墳時代の始まりについての理解を含めたいと思っています。
⇒この続きはこちら
最初に目指すのは茨城町で、高速を使えば1時間半くらいで行けると思いますが、下道だと結構掛かりそうです。
というわけで、4時15分に出発しました。
カーナヴィに指示された道路は、甲州街道から環七に乗り、ついで水戸街道で行くという非常にベタなコースです。
でもまあ、その無難な線で行きましょうか。
甲州街道で都心へ向かうのは慣れた道です。
でも環七に入ると未知の領域となります。
水戸街道に関しては、私は千葉県松戸市出身なので非常になじみがあるのですが、自分の運転で走るのはもしかしたら生まれて初めてかもしれません。
昔、魚釣りをするために従兄弟と自転車を漕いで江戸川へ行った時や、高校時代の同級生と20歳くらいの時にわざわざラーメンを食べに取手に行ったりした時のことを懐かしく思い出します。
利根川に近くなってくると濃霧に包み込まれました。
でかい川って霧に包まれやすいんですかね。
霧に包まれた坂東太郎さんを越えて茨城県取手市に入ると、水戸証券の看板がありました。
昔、CMで「水戸は水戸でも水戸証券」とやっていたのを思い出しました。
私なんかですと、まだバリバリのドラマ「水戸黄門」の世代ですよ。
お銀さんって結構なお歳になってもシリーズの最初に裸を披露していましたが、普段から美に関して努力していないと人様に裸を見せることはできませんので、そういったプロ意識には敬意を表します。
あ、ダスキンさん!
朝の水戸街道は、当然ながら上りが混んでおり、今走っている下りは空いています。
しかもバイパスによって結構スムーズに走れて、それほどストレスを感じずに走ることができています。
3時間ばかり運転を続け、そろそろお腹が空いてきました。
すると前方に松屋を発見!
よし、朝飯に牛めしを食べて、今日も昼飯を抜こう!
お腹いっぱい幸せ気分になりました。
時刻がだんだん通勤時間のコアタイムになってきたので、ちょっと道が混んできました。
なので、ナヴィに従わず、方向だけは間違わないようにして、KKD(経験・勘・度胸)での運転に切り替えます。
そして9時ちょうど、4時間45分かけて最初の目的地に到着しました!
茨城町の宝塚古墳です。
簡易的な駐車スペースの裏手が高くなっており、おそらくそこに古墳があるんでしょう。
行ってみますよ。
お、墳丘らしきものが見えてきました。
バーン!
よし見っけ!
あれ、古墳の前に平坦地が広がっていますよ。
ちょっと気になるので行ってみましょう。
ここには元々、学校か何かあったのでしょうか。
※帰宅後調べたら、茨城町立川根小学校野曽分校の跡地で、昭和44年に廃校になったそうです。
おー、素晴らしい眺望。
眼下は現在は田んぼになっていますが、往時は涸沼(ひぬま)がこの辺にまで広がっていました。
宝塚古墳の被葬者は涸沼の上に君臨していたわけですね。
では、墳丘を見に行きましょう。
こちらが後方部ですね。
前方部へ回ります。
周溝も残っている。
綺麗な前方後方形をしていますね。
墳丘に登ります。
前方部から後方部を見ます。
高低差はメリハリがありますが、極端ではないです。
後方部の墳頂は、一部分だけ植物が植えられています。
後方部のエッヂを確認。
綺麗に整備されているため、エッヂが効いています。
墳頂からの眺望は、現在は樹がさえぎっていて良くありません。
後方部から前方部を見下ろします。
そして説明板は後回しになってしまった・・・
説明板によると、墳丘長は39.3mとなっていますが、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると、周溝内側下端で計測すると41.2mあるそうです。
また、同書に拠れば、葺石と埴輪は認められず、周溝は墳丘と同じ形で幅6m、深さ80㎝で構築されています。
説明板には町内で最も古い古墳としておきながらも、4世紀末から5世紀初めの築造としています。
関東地方には弥生末期から東海人が進出してきていますが、茨城県は関東の中で東海人の進出が最も遅れた場所です。
なので、東海人のシンボルともいえる前方後方墳であっても4世紀末以降と判断してるわけですが、その理由は周溝から出土した土師器を基にしていると思います。
ただ、私はもう少し古い古墳ではないかと思うのですが、私自身、まだ茨城の古墳についての経験値が少ないので、今後よく見聞・考察して、茨城の古墳時代の始まりについての理解を含めたいと思っています。
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