⇒前回の記事はこちら
素敵な前方後方墳である茨城町の宝塚古墳を見た後は、東の海の方を目指します。
大洗の代表的な古墳を見てみましょう。
30分ほど運転し、大洗町の中心部に入りました。
子供の頃、母親に連れられて大洗に海水浴に来たことがありますが、あれはもう35年以上前のことです。
小学校の低学年のころまでは、毎年のように近所のミーちゃん母子やトモちゃん・ナオちゃん母子とともに夏になると海水浴へ行っていたような気がします。
松戸に住んでいたので房総半島が多かったですし、伊豆にも行きました。
あ、今日は海岸までは行きませんよ。
これから目指す日下ヶ古塚(ひさげづか)墳と車塚古墳の近くには駐車場が無いようなので、なるべく近い場所に停めて見に行ってみます。
まずは日下ヶ塚古墳から。
海岸段丘でしょうか、急な坂道を登っていきます。

登りきると視界が開けました。
おーっ、墳丘が見えるぞー!

説明板もあります。

ここにも書いてありますが、別名を常陸鏡塚とも言い、磯浜古墳群の一基です。
「坂東東限の水上交通を掌握した被葬者像」っていうのがいいですね。

墳丘長は103.5mで、後円部中央に粘土槨に包まれた木棺があったわけです。
説明板には前方部が2段とありましたが、後円部は3段でしょうか。
ということで、早く墳丘に登りたいですが、その前に日下ヶ塚古墳の海側にある平らに整形された郭のような一画へ行ってみます。

これは古代の遺跡ではなく、磯浜海防陣屋跡と言って、江戸後期の天保年間に築造されたものです。
登ってみましょう。
西側には筑波山が見えます。

大洗町のホームページによると、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)の命により築造されました。

おー、海だー!

おおよそ南東方向に視界が開けています。


大きなフェリーも見えますよ。

さて、この土壇状の遺構の規模は、幅が約36mで奥行が約24mあり、当時の建物で使われていたと思われる軒桟瓦・桟瓦・軒丸瓦・丸瓦・平瓦などの瓦が見つかっています。

上陸した米英の軍隊に対してここでどうやって戦うつもりだったのかは、具体的には分かりませんが、砲台跡は見つかっていないようですね。
建物自体は、元治元年(1864)の元治甲子の変(天狗党の乱)で焼失しました。

陣屋から見る日下ヶ塚古墳。

では、本来の目的である日下ヶ塚古墳へ行ってみます。
周溝の跡も分かりますね。

墳丘に登ります。
後円部から見た前方部。

かなり細いですが、下野型の古墳のように元々このような設計だったわけではなく、後世に削られてしまったのでしょう。
不自然に削られているのが目立ちます。

後円部墳頂には石碑があります。


現在は後円部墳頂から海の眺望は樹木にさえぎられて今一つです。

山側はよく見えます。


おや、車塚の墳丘も見えますね。

古墳チラリズムだ。

この後はあの巨大円墳に行きますよ。
後円部から見下ろすと3段に見えますが、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると2段だそうです。

説明板には墳丘長は103.5mとありますが、もっと大きく見えますねえ。

なかなか見ごたえのあるボディです。


では、墳丘から降りますよ。

いいねえ、日下ヶ塚古墳。

タンポポ。


ではつづいて、隣にある車塚古墳へ行ってみましょう。
⇒この続きはこちら
素敵な前方後方墳である茨城町の宝塚古墳を見た後は、東の海の方を目指します。
大洗の代表的な古墳を見てみましょう。
30分ほど運転し、大洗町の中心部に入りました。
子供の頃、母親に連れられて大洗に海水浴に来たことがありますが、あれはもう35年以上前のことです。
小学校の低学年のころまでは、毎年のように近所のミーちゃん母子やトモちゃん・ナオちゃん母子とともに夏になると海水浴へ行っていたような気がします。
松戸に住んでいたので房総半島が多かったですし、伊豆にも行きました。
あ、今日は海岸までは行きませんよ。
これから目指す日下ヶ古塚(ひさげづか)墳と車塚古墳の近くには駐車場が無いようなので、なるべく近い場所に停めて見に行ってみます。
まずは日下ヶ塚古墳から。
海岸段丘でしょうか、急な坂道を登っていきます。

登りきると視界が開けました。
おーっ、墳丘が見えるぞー!

説明板もあります。

ここにも書いてありますが、別名を常陸鏡塚とも言い、磯浜古墳群の一基です。
「坂東東限の水上交通を掌握した被葬者像」っていうのがいいですね。

墳丘長は103.5mで、後円部中央に粘土槨に包まれた木棺があったわけです。
説明板には前方部が2段とありましたが、後円部は3段でしょうか。
ということで、早く墳丘に登りたいですが、その前に日下ヶ塚古墳の海側にある平らに整形された郭のような一画へ行ってみます。

これは古代の遺跡ではなく、磯浜海防陣屋跡と言って、江戸後期の天保年間に築造されたものです。
登ってみましょう。
西側には筑波山が見えます。

大洗町のホームページによると、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)の命により築造されました。

おー、海だー!

おおよそ南東方向に視界が開けています。


大きなフェリーも見えますよ。

さて、この土壇状の遺構の規模は、幅が約36mで奥行が約24mあり、当時の建物で使われていたと思われる軒桟瓦・桟瓦・軒丸瓦・丸瓦・平瓦などの瓦が見つかっています。

上陸した米英の軍隊に対してここでどうやって戦うつもりだったのかは、具体的には分かりませんが、砲台跡は見つかっていないようですね。
建物自体は、元治元年(1864)の元治甲子の変(天狗党の乱)で焼失しました。

陣屋から見る日下ヶ塚古墳。

では、本来の目的である日下ヶ塚古墳へ行ってみます。
周溝の跡も分かりますね。

墳丘に登ります。
後円部から見た前方部。

かなり細いですが、下野型の古墳のように元々このような設計だったわけではなく、後世に削られてしまったのでしょう。
不自然に削られているのが目立ちます。

後円部墳頂には石碑があります。


現在は後円部墳頂から海の眺望は樹木にさえぎられて今一つです。

山側はよく見えます。


おや、車塚の墳丘も見えますね。

古墳チラリズムだ。

この後はあの巨大円墳に行きますよ。
後円部から見下ろすと3段に見えますが、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると2段だそうです。

説明板には墳丘長は103.5mとありますが、もっと大きく見えますねえ。

なかなか見ごたえのあるボディです。


では、墳丘から降りますよ。

いいねえ、日下ヶ塚古墳。

タンポポ。


ではつづいて、隣にある車塚古墳へ行ってみましょう。
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