岩屋山古墳は見事な横穴式石室が開口している古墳で、駅からも近いため気軽に訪れることができる超お勧めの古墳です。
発見容易
横穴式石室入室可能
墳丘登頂可能だがちょっとデンジャラス
説明板あり
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県高市郡明日香村越41
現況
史跡指定
国指定史跡
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
7世紀(説明板)
7世紀中葉から第3四半期(『国立歴史民俗博物館研究報告第1集』所収「畿内における古墳の終焉」<白石太一郎/著>)
墳丘
形状:方墳、上円下方墳、八角墳の諸説あり
墳丘長:54m(説明板)、45m(「畿内における古墳の終焉」)、
墳高:12m(説明板)
段築:2段築成、あるいは3段築成
葺石:なし
埴輪:なし
主体部
横穴式石室
花崗岩の切石積み
羨道と玄室の2室構造で全長約16.7m
羨道
長:約12.7m
幅:1.2m
玄室
長:4.72m
幅:2.7m
※以上、説明板による
出土遺物
石室内からは皆無(『古代を考える 終末期古墳と古代国家』所収「八角墳の出現と展開」<今尾文昭/著>)
周堀
3.探訪レポート
2020年9月4日(金)
この日の探訪箇所
【午前・大和古墳群】
星塚古墳および大和神社 → 馬口山古墳 → フサギ塚古墳 → 栗塚古墳 → マバカ古墳 → ノムギ古墳 → ヒエ塚古墳 → クラ塚古墳 → 波多子塚古墳 → 西山塚古墳 → 東殿塚古墳 → 西殿塚古墳 → 下池山古墳 → 中山大塚古墳
【午後・飛鳥】
岩屋山古墳 → 吉備姫王墓 → 梅山古墳(欽明陵) → 鬼の雪隠・鬼の俎板 → 小山田古墳 → 野口王墓(天武・持統陵) → 国営飛鳥歴史公園館 → 中尾山古墳 → 高松塚壁画館 → 高松塚古墳 → 文武天皇陵 → 檜隈廃寺跡 → キトラ古墳壁画体験館 → キトラ古墳
ずぶ濡れになりながら大和古墳群の見学を終えホテルに戻ってきました。
まだ10時過ぎ。
急いで靴とズボンを乾かさなければ。
遅めの朝食は、大和八木駅の構内にある「パネトリー」で買ってきたサンドウィッチです。
このトマトがはさまっているのが一番好きなんですよねえ。
美味い。
それでは、重たいリュックを担いで飛鳥探訪へ出かけるとしますか。
今回は狭義の飛鳥(飛鳥寺などがある甘樫丘の東南地域の狭い範囲)ではなく、近鉄の飛鳥駅から出発して、天武・持統陵やキトラ古墳方面、つまり広義の飛鳥地方を歩こうと思っています。
近鉄の写真はだいぶ撮ってきましたが、やはりどうしても撮りたくなっちゃう。
12時過ぎに飛鳥駅に着き、乗ってきた電車を撮影。
橿原神宮前駅方面を見ますが、この先の踏切のすぐ左手に今回の飛鳥における最初の探訪地である岩屋山古墳があるはずです。
飛鳥駅の駅舎。
天気は午後には回復に向かうとの予報ですので、それに期待しつつ探訪を開始します。
※後日註:この探訪の後の10月25日にクラツーでご案内した時は快晴でした。
では、踏切の向こう側へ行きますよ。
飛鳥駅に特急が止まっています。
遮断機が下りる前にもう一枚。
踏切を渡り住宅街の中を道なりに進みます。
お、墳丘が見えました。
でも入口はここではないようです。
ありましたー。
まずは、説明板を読んでみましょう。
古墳時代終末期の7世紀に築造された古墳で、墳丘は一辺が54mの方墳ということで、単純に墳丘の大きさだけ見ると石舞台古墳よりも3m大きいですね。
全国的に見ても方墳としては大きな部類に入りますが、単純な方墳ではないという説もありますので、墳丘に関してはあとで墳丘の上で考えてみましょう。
築造年代に関しても、説明板では「7世紀」と、かなり大雑把な比定となっていますが、後期や終末期の古墳の年代を決める際にもっとも有力な資料である須恵器自体の編年は確立しているものの、その肝心の須恵器が出土しないとどうにもならないという状況がよくあり、白石太一郎先生はこの時代の古墳に関しては、石室そのもので編年を組み立てています。
白石先生の『国立歴史民俗博物館研究報告第1集』所収「畿内における古墳の終焉」は1982年という古い論文となりますが、それによると、畿内の横穴式石室の分類は複雑になるものの大型古墳となると基本的には一系列となり、天王山式→石舞台式→岩屋山式→岩屋山式亜式→二子塚式の5型式に編年できます。
このなかの岩屋山式というのがまさしくこの岩屋山古墳の石室のことで、その年代は7世紀中葉から第3四半期としています。
つづいて横穴式石室の図面をご覧ください。
横穴式石室は羨道と玄室からなるシンプルな2室構造ですが、全長は約16.7mあり、長さでいえば畿内の有力者が葬られた石室として遜色ないです。
ところで、説明板の文章を読むと、玄室の高さの説明が欠字になっているように取れますがいかがでしょう。
では、石段を登って墳丘へ・・・
おお、大きくて素晴らしい石室が開口していますよ!
間口が広いですねえ。
中を覗くときれいな切り石積みが見える・・・
入ります。
羨道の高さは私の身長(177㎝)くらいであれば立って歩くことができます。
説明板に書いてあった羨道の入口側の天井が一段高くなっているというのこのことですね。
入口側から見ると段差が分かりますが、これは珍しくて面白いです。
しかし、一つ一つの石がでかい・・・
崩壊防止の技術として、L字形に石を切ることも行われています。
玄室は一般的な構造と一緒で天井が一気に高くなっており、形状自体が「家形」に造られていますよ。
写真に収めるのは困難ですが、天井石の一枚岩は本当に巨大です。
現状では棺はありません。
『古代を考える 終末期古墳と古代国家』所収「八角墳の出現と展開」(今尾文昭/著)によると、昭和53年の発掘調査時には副葬品や棺の残片の出土は皆無でした。
この規模の石室ですから、立派な家形石棺が収められていたと考えるのが一般的だと思いますが、でかくて重い石棺が丸ごと無くなっているというのはいったいどういうことでしょうか。
確かにこの古墳は羨道の幅も高さもあるため、引っ張り出そうと思えば可能ですが、こういう場合は元々石棺は無かったと考える発想はいけないことなのでしょうか。
まあでも、普通に考えたら石棺はあったはずですが・・・
それはそれとして、広々とした空間で、これなら住めますな。
石室内から外を見ます。
いやー、こんな素晴らしい石室が住宅街の中に残っているとういのは凄いことですね。
つづいて墳頂へ登ってみましょう。
墳丘はかなり削られており、築造された当時とはだいぶ形が違います。
説明板には単に「方墳」としか書いていないのですが、最初に説明板が設置されている場所から眺めても分かる通り、2段築成となっており、石室開口部は上段テラス部分にあることが分かります。
そして実は上段の形状については四角や丸や八角形など研究者によって意見が分かれているのです。
※後日註:10月25日にクラツーでご案内した時に東南側下段(方形)のエッヂ部分の写真を撮ってきました。
上段が四角であれば2段築成の方墳となりますが、円形であれば上円下方墳となります。
また、八角形であれば八角墳となるという、いろいろな可能性を楽しめる古墳なんですね。
白石先生は「畿内における古墳の終焉」にて八角墳の可能性が高いと述べており、2段築成の下段が一辺45mの方形で、上段が対辺間の長さが27mの八角形としています。
今尾先生の「八角墳の出現と展開」でも、上段は八角形であった可能性が高いとしており、白石先生の説を一歩進めて、平面形を長方形として段築も下段の下の南側にさらにもう一段あったと推測しています。
確かに、単なる2段の八角墳だと、天皇陵としては今一ゴージャスさに欠けるため、今尾先生の説のようにもう一段あったと考える方が自然な気がします。
墳丘からの眺望。
この墳丘はかなり急なので、こういう場所はとくに下りが危ないですから、クラツーで案内するときはその点を注意しないとなりません。
石室開口部の天井石も土に埋まっている部分が多いですが、かなりの大きさであることが分かります。
開口部横にある石。
ところで、『古代を考える 終末期古墳と古代国家』所収「終末期古墳と寺院」(関川尚功/著)では、岩屋山古墳は比較的近くにある天武・持統陵や高松塚、中尾山などと一緒に「飛鳥古墳群」と呼んでいますが、Webで調べてみた感じだと、地元の方々は「西飛鳥古墳群」と呼んでいるようです。
その西飛鳥の地域の古墳を見ると、岩屋山古墳から西へ2㎞弱の地点に点在する与楽鑵子塚古墳や与楽乾城(かんじょ)古墳などの石室の構造はこの岩屋山古墳とあきらかに違うようなのです。
まだ当該地域の石室については私自身の知識が足りないために自分の考えを語れる段階にはありませんが、与楽鑵子塚古墳などに関しては、このあと訪れる予定の檜前谷に住んでいた渡来系の東漢氏との関連が考えられます。
それら渡来系の古墳と比べると岩屋山古墳の立派さは際立っており、もし八角墳だった場合、被葬者は天皇レヴェルの人物となる可能性が極めて高く、白石先生は被葬者を斉明天皇としています。
ただし、これには反論も多く、岩屋山古墳は形状だけでなく被葬者もまだ確定できない興味深い古墳なんですね。
なお、明治時代に来日して古墳マニアとなってしまったウィリアム・ゴーランドも岩屋山古墳の石室を絶賛していますよ。
⇒この続きはこちら
2020年10月25日(日)
クラブツーリズムにてご案内しました。
墳丘の傾斜が急なため登るのは結構危ないのですが、今回のお客様はそれをものともせずに、多くの方が墳丘登りを含めて楽しんでくださいました。
また、鉄道が好きなお客様が多く、飛鳥駅の踏切で電車の撮影を楽しんでいる方々を見ていて、古代史以外のものでも積極的に興味があるものを楽しんでいただいている様子を見ていてとても嬉しかったです。
※下の写真はお客様からいただいたもので、石室内の見学をしていただくための第1陣を送り出した後に、説明板の前で説明している様子です。
2020年11月22日(日)
クラブツーリズムにてご案内しました。
今回のお客様の大半は古墳をきちんと見ること自体が初めての方々でしたので、したがって横穴式石室に入るのも初めての方が多く、人生初の石室入室が岩屋山古墳という方々には当墳の被葬者になりかわり祝福させていただきます。
これからどんどん古墳を訪れてその面白さにハマっていってくださいね。
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『国立歴史民俗博物館研究報告第1集』所収「畿内における古墳の終焉」 白石太一郎/著 1982年
・『古代を考える 終末期古墳と古代国家』 白石太一郎/編 2005年