日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

多摩川流域の古墳時代後期と終末期

2020-04-18 16:10:31 | 歴史探訪
 昨日から群集墳や横穴墓についてあれこれ考えていました。

 手元にある限られた資料を参照しつつ、現段階での私の考えをここにまとめておきます。

 素っとん狂なことが書いてあるかもしれませんが、それは私の知識がまだまだ浅いことが原因ですから、学術的におかしな点はコメントなどで指摘していただければと思います。

 1.国立市の古墳

 さて、手元には群集墳についてまとまった資料があまりないので、手始めに、くにたち郷土文化館で2004年に開催された「国立の古墳」の展示解説書を見てみます。

 それによると、2004年の時点で国立市には横穴墓を除くと30基の古墳が確認されています。

 古墳群としては青柳古墳群と下谷保古墳群があり、青柳古墳群に属する古墳は、名称を付けられていない古墳を含めて16基で、下谷保古墳群は8基です。

 これら30基のなかで、本格的な発掘調査が行われた古墳が15基ありますが、もともとの残りが良くないものも多く、発掘したとしても大きさすら良く分からないものもあります。

 そして、2004年時点では12基が残存し、消滅した青柳古墳群の四軒在家(しけんざけ)1号墳は移築して保存してあります。



 調査の段階ですでに石室上部が失われていたため、復元できた石室は下の方だけです。

 ここから上の壁面は、持ち送り式に徐々に内側に接近するように積まれ、天井まで到達していたと考えられます。

 そう考えると、石室内は人が立つと頭がつかえる高さであったと思われます。

 なお、四軒在家1号墳の直径は19mで、群集墳としては標準的な大きさでしょう。

 国立市内の古墳の築造時期に関しては、現状知られる限りでは、前期・中期の古墳はありません。

 後期のものとすると、青柳古墳群の16基の古墳のうち、1号墳と2号墳からは円筒埴輪が採取されており、1段目が長い6世紀後葉のデザインの円筒埴輪なので、この2基は後期後葉(6世紀後葉)の築造と考えて良いでしょう。

 残りはおそらく7世紀(終末期)の築造だと思います。

 首長墓といえるような古墳は含まれておらず、国立市内の古墳はすべて、群集墳として考えて良いでしょう。

 2.群集墳とは何か

 群集墳というのは、その名の通り群集している古墳のことですが、例えば埼玉古墳群のような大型古墳が集まっているものは群集墳とはいいません。

 正確には、埼玉古墳群の範囲内にも小さな円墳が群集していたのですが、それらはすべて湮滅しているので、あくまでも埼玉古墳群を群集墳としてはイメージしないでください。

 群集墳の初現は西日本では5世紀で、東国でも5世紀後半には見られます。

 東国の初現期の群集墳は、リーダー的立場のやや大きめの盟主墳(40~50mほどの帆立貝形古墳など)が1基から数基あるほかは基本的にすべて10~20mほどの円墳であり、渡来系の人びとが含まれている場合は方墳の積石塚が含まれまることがあります。

 多摩川流域で初現期の群集墳を探すと、大田区や世田谷区、そして狛江市といった下流域に分布しています。

 大田区と世田谷区といえば、古墳時代前期に宝莱山古墳や亀塚古墳といった100m級の大型古墳を擁する荏原台古墳群が有名ですが、この地域では規模は小さくなってもその後ずっと古墳の造営が続きます。

 中期には中央の政策により帆立貝形古墳の導入および運用が始まり、それを受けた荏原台古墳群でも、リーダーは帆立貝形の野毛大塚古墳(82m)を築造します。

 狛江市には前期の首長墓級の古墳はありませんが、狛江古墳群では70基ほどの古墳が確認されており、現在残っているのは13基ほどといわれています。

 そのなかで5世紀後半頃に築かれた帆立貝形古墳の亀塚古墳(40m)は古墳群のリーダーの墓であり、こういった特徴から狛江古墳群は初現期の群集墳として認められます。



 なお、亀塚の次の代には兜塚が築かれ、兜塚は円墳とされていますが、帆立貝形古墳の可能性があります(小さく見積もっても43m)。



 狛江市の上流の調布市には、東から国領南、下布田、上布田、下石原、飛田給の古墳群があります。

 このうち、国領南古墳群は、古墳群といっても見つかった古墳は円墳が1基だけで、方形周溝墓が周辺を含め5基見つかっています。

 下布田と上布田は一体の古墳群として考えて良いかも知れず、下石原は群と呼ぶには貧弱で、飛田給は20基以上からなる6~7世紀の古墳群です。

 下布田古墳群では平成27年現在、円墳が17基見つかっており、狐塚(下布田6号墳)は、周溝の内径が44mあり、首長墓として十分な大きさを誇っています。

 ただし、築造時期は7世紀初頭と言われているため、後に述べる終末期の首長墓の仲間に入れて考察しましょう。

 狛江市から下流は、6世紀以降になり大きな古墳が造られなくなっても、大きな古墳の周辺に小さな古墳がポコポコと造られていき、群集度が増していきます。

 大きな古墳の近くに造ったそれら群集墳の被葬者たちは、もしかすると、かつての大型古墳の被葬者とは血縁関係はなくても、擬制的な一族として、また精神的な支柱としてかつての「王」と繋がるつもりで、その墓の周辺に自分たちの墓域を形成していったのかもしれません。

 実は古墳を研究する人は、見た目が大きくて立派だったり、副葬品が素晴らしかったり、はたまた「何とか天皇陵」といったようなネームヴァリューの高い派手派手しい古墳を研究する人が多数派で、地域にある10~20mくらいの円墳がポコポコと密集している後期や終末期の群集墳を研究する人は少ないようなのです。

 そのため、群集墳というジャンルは研究が遅れており、ただでさえ分からないことだらけの古墳時代なのに、さらに謎が多いジャンルなわけです。

 3.後期の群集墳

 ところで、多摩川流域の古墳を説明する上でよく聞かれる説明としてこんなものがあります。

 後期になると多摩川流域の勢力が衰え、同じ武蔵国内では埼玉古墳群の勢力が勃興するため、武蔵国内での権力の交代が行われたことが伺われ、それが日本書紀に「武蔵国造の乱」として反映されている、といった言説です。

 しかし、何度も言っている通り、武蔵国というその後の令制国の範囲を古墳時代に遡って当てはめるのはナンセンスな話で、そもそも多摩川流域と荒川流域は別水系の別文化ですから、多摩川流域の話と荒川流域の話は無理してくっつける必要は無いのです。

 令制武蔵国はきわめて政治的な産物であり、明治の廃藩置県と同じです。

 さて、後期になっても前期に隆盛を極めた荏原台古墳群での古墳の造営は続きますが、多摩川流域には大きな変化が訪れます。

 現状見る限りでは前期の古墳がゼロで、かつ中期の古墳もあったとしてもごく僅かだった、調布市西部から上流地域にかけて古墳群が出現するのです。

 その範囲は、下流は調布市の飛田給古墳群ではないかと考えられ、それより上流の府中市、多摩市、日野市、国立市といった地域に、6世紀の後期群集墳が造られます。

 しかし、それら後期群集墳のなかには、卓越した力を持ったリーダーの墓(初現期群集墳の帆立貝形古墳に該当するようなもの)が認められません。

 既述した国立市内の青柳古墳群や下谷保古墳群がそうですし、日野市にある西平山、平山、七ツ塚、万蔵院台などの古墳群もそうです。

 リーダーの墓が見当たらないということは、6世紀のおおよそ100年間、それらの古墳群の被葬者は誰の支配を受けていたのでしょうか?

 普通に考えたらもう少し範囲を広げて、多摩川全域でこの時代の大きな古墳を探せばいいかもしれません。

 ところが、多摩川流域を全て見てもそういう古墳はないのです。

 6世紀というと、同じ関東地方でも群馬県には大型前方後円墳が異様にたくさん造られました。

 多摩川流域はそれとはまったく事情が違うので、これは中央の地方に対する政策が今でいうところの東京都域と群馬県域では異なっていたと考えた方がいいでしょう。

 東京都の周辺で見てみると、より畿内に近い山梨県や神奈川県も後期には大型前方後円墳の築造はないので、6世紀の政府(具体的には継体~欽明政権)は、東京・神奈川・山梨地域と、群馬県域とでは違う統治方法を導入していたと考えます。

 応神に始まるいわゆる河内政権の時代(古墳時代中期)には、多摩川流域にも帆立貝形古墳を導入して間接支配をしましたが、継体~欽明政権では、多摩川地域の直轄化が一気に進行したのではないでしょうか。

 日本書紀の安閑紀では、武蔵国造の乱の結果として武蔵国内の4つの屯倉が政府に献上されたことになっていますが、実際に、6世紀に多摩川流域には政府の直轄地である屯倉が多数設定され、かつ都の貴人たちと結びついた部民も多く置かれたのではないかと考えます。

 多摩川流域の6世紀の群集墳の被葬者は、屯倉の管掌者とその一族や部民、つまり単に地方の富裕層ではなく、「中央政権と結びついている地方の特別な身分の人たち」の墓でないかと考えます。

 そして、7世紀の終末期になってもその流れは続くと思いますが、政権は蘇我氏が運営する時代に変わります。

 4.多摩川流域の終末期

 従来から単純化した話として、7世紀には蘇我氏と仲が良い勢力は方墳を造り、そうじゃない勢力は円墳を造ったと言われてきました。

 ただし、もう少し厳密にすると、中央では方墳は主として蘇我氏、阿部氏、平群氏が造営し、円墳は物部氏、中臣氏が造営しており、前者は姓(かばね)が臣(おみ)であり、後者は連(むらじ)であることから、姓によって分けていた可能性があります(『終末期古墳と古代国家』所収「前方後円墳の終焉」<白石太一郎/著>)。

 多摩川流域の終末期古墳を見てみると、方墳がまったく目立たないことから、政権の首班である蘇我氏とはそれほど懇意ではなかったのでしょう。

 古墳時代後期に首長墓が存在しなかった多摩川流域では、終末期には首長墓が復活します。

 終末期の首長墓を列挙すると、八王子市には39mの円墳である北大谷古墳、多摩市には八角墳の稲荷塚古墳、府中市には上円下方墳の熊野神社古墳、三鷹市には同じく上円下方墳の天文台構内古墳、そして調布市には、44mの円墳である狐塚古墳(下布田6号墳)といった古墳が挙げられます(仮称「多摩5大首長墓」)。

 ただし、終末期と言っても7世紀の100年間という長い時期であり、645年には蘇我政権が倒れたことにより地方政策がまた変わりますから、厳密には前半と後半に分けて考える必要があります。

 そうして考えた場合、前半に造られと考えられる古墳が北大谷と稲荷塚、それに狐塚で、後半が熊野神社と天文台です。

 終末期になると群集墳に加え、横穴墓も考慮しないとなりません。

 そしてまた、この横穴墓に葬られた人びとに関しても、いまだはっきりしたことは分かっていないのです。

 横穴墓も古墳のジャンルに入りますし、横穴墓の基数は群集墳よりはるかに増えることから、こういった特別なお墓に葬られる人々の数が急増したことが分かります。

 多摩5大首長墓の被葬者は、横穴墓に葬られた人びとをも管掌していた可能性が高いです。

 なお、かつて隆盛を極めた下流域の荏原台古墳群の範囲には終末期の首長墓は見当たらないものの、群集墳や横穴墓は多数造られるため、中央は後期と同じ支配方式を取っていたと考えられます。

 5.八王子の終末期前半

 では、終末期前半を見てみましょう。

 その時期に多摩川上流域で最大の規模を誇った古墳は、八王子市の北大谷古墳です。



 北大谷古墳と関連する古墳群を周辺で探ると、日野市の七ツ塚古墳群があります。



 七ツ塚古墳群は谷地川が多摩川に合流する場所にあり、谷地川を遡ると北大谷古墳があります。

 七ツ塚古墳のほうが造営が古いため、その勢力が谷地川を遡り、やがて力を得て北大谷古墳を築造したと考える人もいますが、例え人の流れがそうだとしても、その地元勢力が独力、というか勝手に北大谷古墳を造ったとは考えられず、その地元勢力の力が中央政権(蘇我政権)に認められたことにより、39mもの古墳の築造を許可されたと考えます。

 北大谷古墳は、円墳か方墳かで長い間揉めていましたが、最近は八王子市も円墳として公表しているため、政権首班の蘇我氏に直接結びつく古墳ではありませんが、既述した「連」系の為政者の支配下にあった古墳と考えられます。

 北大谷の被葬者の支配地域は、谷地川流域を本貫として、浅川流域も含まれているでしょう。

 北大谷の位置は、谷地川流域にくくっていますが、浅川流域にもアクセスが良いのです。

 そうなると、日野市内の古墳群も彼の支配下となりますが、興味深いこととして、八王子市域には古墳群らしい古墳群がないことが挙げられます。

 列島各地の群集墳を見ると、平気で数百基もの古墳が密集している古墳群がいくつもあるため、個人的には群集墳と言ったら少なくとも10基くらいの古墳がポコポコと密集していて欲しいのです。

 既述した国立市や日野市の古墳群は基数は寂しいですが、辛うじて古墳群と呼べるようなものですし、また府中市や調布市、狛江市というように多摩川下流方向に向かうと、「古墳群らしい古墳群」が展開しています。

 しかし八王子市には堂々と古墳群と呼べるようなものがないのです。

 川口川沿いの鹿島古墳の周辺には数基の石積みが残存しているそうなので、古墳群があった可能性もありますが、現状ではちょっと寂しい。

 そもそも、八王子市は見つかっている古墳の数が、古墳時代の想定される人口と比べて少なくアンバランスだという指摘があります。

 群集せずに単独で存在する小さな円墳が市内でいくつか見つかっていますが、7世紀前半はまだ国造支配の時代で、中央集権化はされていません。

 北大谷の王は、蘇我政権から力を認められてはいるものの、完全な支配下には入っておらず、また蘇我政権は谷地川や浅川流域の一般人民を直接支配することはできていません。

 八王子市域に点々と少数ある小さな古墳の被葬者が、北大谷の王の下にいたそれぞれの村を治める有力者の墓でしょう。

 八王子市域の古墳時代について、前期の話はこちらでしたので割愛しますが、中期には市域だけでなく、多摩川上流域全体で集落が激減します。

 一方、下流域では順調に集落が営まれます。

 ところが、八王子市域でも後期になると、ほとんど無人に近いような状況から一転して集落が増加し、終末期には急増します。

 この急増した集落群を支配していたのが北大谷古墳の被葬者なのです。

 八王子域での人口増加が多摩川下流からの住民の自主的な移住として考えた場合、中央の蘇我政権から見ると八王子の勢力は新興勢力に見えたことでしょう。

 そのため、まずはその代表者(北大谷の被葬者)に従来方式である古墳の築造を認め、自治権を大きく持たせたのではないかと考えます。

 6.あきる野市域の問題

 ところで、多摩川上流域のあきる野市では50基以上の古墳の存在が知られる瀬戸岡古墳群などの古墳群が見られますが、それらの古墳にはまた別の問題が含まれています。

 あきる野市は八王子市の北隣であるため、文化的に近いのかと思われますが、その境界線となっている秋川を挟んで古墳の様相が違うのです。

 瀬戸岡古墳群の古墳も、多摩川流域の群集墳によくみられる半地下式です。



 瀬戸岡古墳群は古い時代に墳丘がなくなってしまったため、詳しいことは分からないのですが、土を盛って通常の墳丘にしたのではなく、積石塚であったという証言もあります。

 研究者によっては瀬戸岡古墳群を古墳とは呼ばないこともありますが、私的には渡来系の人びとの古墳じゃないかと考えています。

 昭島市の浄土古墳群も同様ではないでしょうか。


 
 奈良時代になると、高麗郡や新羅郡が建郡されますが、716年の高麗郡建郡の前段階で、神奈川県大磯町の高麗山周辺に進出した高句麗の遺民が北へ向けて北上していたと考えます。

 地図上で高麗山の山頂から埼玉県日高市の高麗神社に線を引いてみると、ほとんど振れていない南北の一直線のラインで結ばれていることが分かりますが、瀬戸岡古墳群はほぼのそのライン上にあります。

 7世紀前半、八王子市域には既述した新興勢力がすでにいたため、北上した高句麗の遺民たちは、多摩川の支流秋川の北岸へ居住地を設定したのではないでしょうか。

 そのため、秋川を挟んで南の八王子市域と北のあきる野市では古墳の様相が違うのではないかと考えます。

 なお、あきる野市域では雨間大塚という謎の塚があり、私は古墳だと思っているのですが、築造時期に関してはいまだ確定していません。



 雨間大塚は、住民の方の話によると「昔は亀のような形をしていた」ということなので、私は前方後円墳か帆立貝形古墳、あるいは前方後方墳の可能性が高いと考えており、そうすると前期あるいは中期の古墳の可能性が高く、これがはっきりすると、あきる野市の歴史どころか、多摩川流域の古代史が大きく書き換わるかもしれません。

 7.八角墳・稲荷塚の謎

 話を戻して、北大谷の被葬者は、中央から従来の間接統治方式を認められた独立性の高い人物だったとして、同じころに築造された多摩市の稲荷塚古墳の被葬者像は、これまた謎が多いです。



 八角墳は中央では天皇が葬られることもある格式の高いデザインです。

 ただし、八角墳に葬られた天皇は、舒明、天智、天武、持統といった主として7世紀後半の人物ですし、奈良県明日香村の中尾山古墳は文武天皇陵の可能性が高い8世紀前半の古墳です。

 それに引き換え、稲荷塚を始めとして地方でいくつか見つかっている八角墳は、出土遺物から見ると上記の天皇陵より古いものが目立ちます。

 もし、地方で最初に造られた形状を中央が採用したという事実があった場合は、それはそれで面白いことになりますが、地方の八角墳(場合によっては八角「様」墳と呼ぶ方がいいかもしれません)と、天皇の八角墳とは分けて考えた方がいいかも知れません。

 とりあえず、稲荷塚の形状は抜きにしても、墳丘規模や立派な切石積みの横穴式石室から首長墓として考えていいはずです。

 そうなると、稲荷塚の被葬者の支配範囲は多摩川支流の大栗川流域となるでしょう。

 その場合、旧由木村で現八王子市域の日向古墳も含まれます。

 なお、由木村は昭和39年に八王子市に合併されましたが、日野市や多摩市とくっつきたかった住民も多くいて、古代からの文化領域を考えると、同じ大栗川流域である多摩市と一緒になるのが自然でした。

 まあ、古代と現代では事情が違いますが。

 8.半地下式の横穴式石室・調布市狐塚古墳

 さらに下流を見ると、既述した下布田古墳群のなかに終末期における地域最大の古墳が現れます。

 周溝内径44mを誇る狐塚です。



 規模としたら北大谷よりもわずかに大きいですが、石室自体は、多摩5大首長墓の他の古墳がすべて切石積みなのに対して、こちらは河原石積みとなっています。

 ただし、河原石積みといっても、石室の奥壁のみ切石積みにしているという一風変わった石室です。

 切石積みと河原石積みの優劣を考えた場合、やはり技術的観点や手間のかかり具合を考えたら、切石積みの方が贅沢な造りとなるでしょうし、10m台とかの小規模な古墳の石室は河原石積みで造られています。

 切石というのは、その名の通り、石を切ったようにきちんと四角く成形するのですが、当時は石を切ることは不可能なので、適当なサイズに割った後に、削った上にひたすら叩いて成形したのです。

 江戸時代の近世城郭の石垣も作れそうな技術を古墳時代の人たちは持っていました。

 ところで、狐塚の石室は地表下に半地下式で造られています。

 横穴式石室なのに地表下にあると言われると、なんで地表下に横から入っていけるのかと不思議に思うかもしれませんが、掘られた周溝にいったん降りて、そこから水平に入口が付いているのを想像してください。

 この首長墓としては風変わりな横穴式石室は、『新八王子市史 通史編1 原始・古代』によれば、古墳時代中期初めに朝鮮半島の影響により北部九州で造られた竪穴系横口式石室の系譜をひくものです。

 余談ですが、半地下に石室がある例を示すと、群馬県前橋市の大室古墳群にある後(うしろ)二子古墳は、古墳群で3基目の首長墓で、6世紀初頭に築造された墳丘長93.7mの堂々たる前方後円墳ですが、石室の入口への墓道が、2段築成の下段を掘り割って造られています。



 石室内に入ると羨道は緩い下り坂になっており、中から外を見ると低い位置にいるのが分かります。



 このような石室を造る場合もあったのです。

 9.律令国家へ向かう終末期後半

 7世紀後半になると、孝徳天皇による新たな政治が始まり、いよいよ我が国の首脳部は中央集権化へ向けて本格的に動き始めます。

 その時代にできたとされているのが、府中市の熊野神社古墳と三鷹市の天文台構内古墳ですが、両古墳の築造時期に関してはいまだ揺れていますが、7世紀前半にまでさかのぼることはないでしょう。

 両古墳とも上円下方墳というこれまた特徴的な形をしており、その墳形も興味深いですが、そういったことは抜きにしても首長墓として相応しい古墳です。

 天文台構内古墳は、三鷹市内で唯一の古墳となります。



 周囲に群集する古墳がなく、首長墓が単独でポツンとある風景は、終末期になるとたまに見られるようになります。

 つまり、周りに従える古墳が一切ないのですが、その代わり野川流域の国分寺崖線には、出山横穴墓群などの横穴墓がたくさんあります。



 2003年に発行された調布市郷土博物館の「企画展 下布田古墳群の調査」の解説書によれば、三鷹市内には7つの横穴墓群があり、総計63基の横穴墓があります。

 天文台構内古墳はこういった横穴墓の被葬者たちのリーダーだったのでしょう。

 そして、「多摩5大首長墓」の残り一基である熊野神社古墳の話をしたいところですが、この古墳の場合は、武蔵国府が現在の府中市に置かれた理由を含めて考察すると面白いはずです。

 今日はここまでにしておきましょう。




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