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(左)大阪府警此花署から送検される高見素直容疑者(右)黒煙を上げ炎上するパチンコ店(イザニュースより)

「数日前から殺そうと思った」パチンコ店放火高見容疑者が供述7月9日15時50分配信 産経新聞

大阪府警此花署から送検される高見素直容疑者=8日午前10時26分、大阪市此花区(安元雄太撮影)(写真:産経新聞)
 大阪市此花区のパチンコ店「cross-ニコニコ」が放火された事件で、高見素直(すなお)容疑者(41)が「事件の数日前から人を殺したいと思うようになった」と供述していることが9日、捜査関係者への取材で分かった。高見容疑者は昨年9月に石油製品販売会社を辞めた後、再就職した食品会社も今年4月末に退職。此花署捜査本部は、多額の借金を抱える一方、思うような待遇を得られない状況への不満を殺意に転嫁させた経緯について、さらに詳しく調べる。

 関係者らによると、高見容疑者は大阪に転居してくる以前の平成18年、鹿児島県で木材を運ぶトラック運転手をしていた。しかし収入が不安定だったため、19年3月末に「年間を通じて仕事がある大阪の会社に移りたい」として退職した。

 翌月に此花区に移り住み、石油製品販売会社に就職してタンクローリーの運転手として勤務。しかし、不況のあおりで仕事の受注が減り、昨年9月に「仕事がないのに会社にいれば迷惑がかかる」と自主退職した。

 今年2月、職業安定所を通じて此花区内の食品会社に就職。月額約15万円の手取りでスーパーに食品を配送していたが、「積み降ろしの作業がきつい」と訴えて4月末に退職。その後も職を探していたとみられるが、事件直前は無職だった。

 高見容疑者は消費者金融に約300万円の借金を抱えており、これまでの捜査本部の調べに「どうして自分だけがこんな目にあうのかと嫌気がさした」と心境を説明。「借金があるのに仕事が見つからず、どうでもよくなった。だれでもいいから殺したくなった」と供述していた。

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理事長、今回のパチンコ店放火犯の冷静さは、過去に例が無いくらい残酷非道

まして従来の放火事件は、火をつけた時点で逃走する しかし今回は客らが炎や煙にまかれ断末魔の様子を確認をするなんて、とても人間業じゃない

4人の亡くなられた方や、多くの重軽傷者それに家族達に対して、とても私はこれ以上言葉が出ません



自分も新聞の記事を読んだり、テレビの報道を見ても、今までの犯人像とは訳が違う

まして犯人の勤務先の同僚らから真面目でおとなしい男と評され、仕事振りは非常に真面目で酒も殆ど飲まず、経営者は土日の急な仕事でも嫌がらずに引き受ける男と聞いたら、今回おこした大事件は何であったのか

それを考えれば、前書きのコメントなどマスコミや何かで、出してもらいたくない

今、多くの国民は皆まじめに、いくら苦しくても生活をしている

それに対し、前文のような内容を書かれれば、国民の多くに不快感を与える

それくらい今回の事件は、過去に例がないくらいな、極悪非道な事件であることを理解してもらいたい

今回、特に私が逆に被害者遺族の立場になったときのことを考えれば、この犯人に対して極刑どころか、自分のまじめに生活している家族が焼き殺されたことを考えれば、簡単に死刑じゃすまない

かつての江戸時時代の刑罰ぐらいをやってくれなければ、被害者遺族として納得出来ない


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これが、江戸時代なら、磔(はりつけ)の刑だな


外国人に向けた日本のお土産写真である横浜アルバムの中の1枚。明治時代初期に撮影された磔と晒首の情景である。撮影者はFelice A. Beato(1833年~1907年) 。磔にされているのは壮吉という25歳の奉公人で、盗賊団を店に手引きして主人一家を殺させたという。盗賊団は斬首の上で獄門に処せられたが、壮吉は主人殺しの重罪であったため、1人だけ磔にされたものである。

撮影場所は横浜の闇坂(くらやみざか~「鞍止坂」と書くこともある)刑場と伝えられている。現在の画像の版は、2008年1月2日 (水) 11:31更新されたもの(wikipediaより)


磔刑(たっけい)

外国人用土産写真の明治初期の磔。処刑方法は江戸時代のままで非常に貴重な資料。
受刑者を十字架などに磔(はりつけ)にし、槍などを用いて脇腹から内臓を突き刺す刑。

前述の「十字架刑」に似ているため同一視される場合があるが、前項の方法が物理的な損傷を与えず呼吸困難から死に導くのに対し、こちらの磔刑は槍による刺殺であるため、受刑者が死に至るプロセスは大きく異なる。

戦国時代、織田信長など諸侯がこの刑を見せしめに利用し、信長は自分の甥に当たる浅井万福丸という子供に対しこの刑を使った。

江戸時代の日本の磔は親殺し犯、主人殺し犯などに適用される、通常の死刑より一等重い刑罰であった。

十字架上の受刑者の脇腹を槍で突いた後、そのまま肩口から突き出すまで刺し貫くのが作法である。

左右の脇腹から反対の肩先に向けて交互に串刺しにして繰り返す。ニ~三回突かれると受刑者は絶命するが、かまわず二十数回突く。

最後にとどめ衝きとして咽頭部を突いて刑が終了する。

処刑後に晒されている死体を西洋人が撮影した写真が残されている。

女性用は十字型、男性用はキの字型の柱を用い、男性は開脚状態で処刑される。出血と外傷性ショックによる死となり、最初の数回は体を貫通される苦痛を味わうため斬首などより苦痛は大きいといえる。