RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.18

2008-12-17 11:24:19 | 連載小説
 

     §

 翌日、いつもより遅めに十時頃起きる。ユウナちゃんのお母さんから頂いたパンと牛乳で簡単な朝食を摂り、松崎の実家へ向かった。

 目黒駅で降り、アトレでケーキを買って、天気も良かったので地下鉄に乗らずに歩いて向かう。

 この間行った庭園美術館の前を通る。とても緑が多くて、通りにもオシャレなお店が多くて気持がいい。

 松崎の家のマンションは、よくある四角形ではなく、上の階に行くにしたがって狭く台形のような形になっている、とてもゆったりした造りのマンションだ。エントランスも広々としていて、アーチ型の大きな門があり、バラの木が植えられていて、その周りには春になると花がたくさん咲く。
 松崎は昨日のうちに、お昼頃着くと電話をしてくれていて、ご両親が土曜日なのに出掛けずに待っていてくれた。

 玄関には一足早くクリスマスリースが飾られていた。きっとお母さんの手作りだ。ヒイラギの葉をふんだんに使い、銀色の玉をちりばめ、ナンテンの実をあしらってあって、リースの上部真ん中にはベルが二つ、紺と金のリボンを付けてある。それは重厚な玄関の戸にとてもよく似合っていた。

 戸を開けると 「ニャー」  とまずルルが挨拶してくれた。
 それからお母さんが出てきた。松崎はお母さんにそっくりだ。松崎のお母さんは、薄く化粧をしていて、白いブラウスにピンクのカーディガン、花柄の茶色のロングスカート、それに赤いエプロンをしていた。

「こんにちは、お久しぶりです。お邪魔します」

 松崎の家の間取りは4LDKで、LDK部分がすごく広い。リビングは南向きで、グランドピアノもそこの窓際に置いてある。

 松崎のお母さんは、昼食の準備をしてくれていた。イースト菌のいい匂いが漂っている。

 松崎のお母さんは料理が上手い。ピアノももちろん上手い。総じて器用な人なんだと思う。松崎も小学生の頃から工作や絵が得意だったと前に聞いたことがある。でも、バイオリンやピアノは続かなかったのだそうだ。その代わり歌がとても上手い。高校の時友達とバンドを組んで、ボーカルを担当していたと言う。今はそのメンバーはみんなバラバラになってしまって、バンドは消滅してしまったらしいが、たまにカラオケに一緒に行くと、私も歌を歌うのが好きなので、二人で平気で二時間は歌っている。松崎は普段はねちっこい声なのに、歌になると別人のような美声になるのは不思議だ。

 私は先程買って来たケーキを差し出した。

「まぁ、ありがとう。さあさ、どうぞお上がりになって」

 とお母さんは私をリビングに促しながら奥へ歩いて行って、キッチンへ行き、ケーキを冷蔵庫にそっとしまう。

「今日は久しぶりにピザを焼いてみたの」

 ああ、この匂いはピザだったのか。

 松崎は反抗期もなかったのだそうだ。このような家庭では反抗する材料もないだろうけれども。

 松崎のお父さんはリビングのソファにゆったりと凭れて新聞を読んでいた。私に気が付くと

 「ああ、理美ちゃんいらっしゃい」

 と笑顔で挨拶してくれた。私が来るからちょっと気を遣ってか、ワイシャツにVネックのセーター姿だった。

 松崎のお父さんは、ちょっと変な例えかもしれないが、リンボウ先生に桂文珍の雰囲気を加えたような、知的で穏やかな方だ。

 南向きの窓からは、12月だというのに明るい日射しが入ってきていて、大きなバルコニーにはパンジーが咲いている。学校から坂を下る途中にあるマンションの中庭にも、植えられていたっけ。
  出窓には、サーモンピンクのような色の、大きなポインセチアが飾られている。ソファとピアノの間に置いてあるベンジャミンの木も、手入れが行き届いていて、つやつやの葉を繁らせている。

 このリビングに飾ってある、大きなルノアールのレプリカ、が私は大好きだ。女の子が三人、野外で敷物を敷いてピクニックをしている風景画。昔家族でニューヨークに行った時に、メトロポリタンミュージアムで買って来た思い出の品だそうだ。日本に来てから額装してもらったとのこと。額も素敵なので絵が引き立っているのかもしれない。

 ルルが、我がもの顔でソファに寝そべっている。ルルも年だ。顔をよく観察すると、まゆげとあごひげのところには白髪のような、白い毛がたくさん生えている。松崎が中学校に入ると同時に飼い始めたというから、もう十年ぐらい経つんだな。それにしても可笑しいのは、目をつぶって寝ているのになぜかしっぽを定期的にピヨ~ンピヨ~ン、と振り回していることだ。

 ピザは、今まで食べたことのあるどこのピザよりも格段に美味しかった。味は二種類あって、ベーシックなモッツァレラチーズとトマトのピザで、上にフレッシュバジルがさりげなくトッピングしてある。もう一方はきのことベーコンとほうれん草のピザだった。

「理美さん、よかったらもっと召し上がって。遠慮しないでね。昔はこの子の弟もいて、今は名古屋の大学に行っていて家を出ているのだけれど、英文はよく食べる子でね。それで昔の癖でいつもたくさん作ってしまうのよ。大志もほら、もっと食べて」

 松崎の弟さんが英文くんと言うことは一年の時に聞いて知っていた。

「…英文は文系で。ピアノはオレと違ってずっと上手いんだ。背もオレより高いし…」
 なんて愚痴ってたっけ。

 お昼を食べて、後片付けを手伝った後、窓の方へ行って、

「ちょっとバルコニーに出てみてもいいですか?」

 と言って外へ出る。

 下には冬枯れの前庭が見える。春には濃いピンク色の額をつけるハナミズキも、あの色はいったいどこから来るのだろうと不思議に思うほど今は無彩色で、春の来るのをじっと待っているかのようだ。

 戸をなるべく狭く開けて部屋入り、すばやく閉める。松崎の隣に戻って、目を上げると、ソニーの大画面液晶テレビには、どこかヨーロッパらしい素敵な風景…両側が瑞々しい緑の河、近くにお城が見える…が映し出されている。

 ルルはいつのまにかお父さんのひざの上にのっかって頭をなでてもらっている。

 時計の針はちょうど二時を指した。

「理美さん、コーヒーとお紅茶どちらがよろしいかしら?」

 と聞かれたので紅茶を頼む。

 アトレで買ってきたケーキでお茶をした。ウエッジウッドの、苺の絵柄のお皿とカップ。スプーンもピカピカだ。私なんて食器はほとんど100円ショップのだから、たまにこういうものに触れると本当に優雅な気分になる。

 お母さんがポットを傾ける。アール・グレイの香りが部屋に広がる。濃さもちょうどいい褐色で、地が真っ白のティーカップによく映える。

 松崎はお母さんのことを、 「オレのお母さんは教育ママだったよ」  とこぼしていたことがあったが、少なくとも私の目には全く厳しい方には見えず、憧れの存在だ。私も将来こんな風に年を重ねられたらいいなぁと、松崎のお母さんに会う度にしみじみ思う。

 ふと、母のことを思い出した。私の母はいつも仕事に追われていた。だからお弁当は自分で作っていたし、学校の行事にもあまり出てはくれなかった。かぎっ子で、いつも誰も居ない家に帰って行くのが本当は嫌だった。三時のおやつが出てくるような友達が羨ましかった。それでも、働くお母さんはかっこいいなと思ったし、自分も将来は仕事を持ちたいと思う。でも母はちょっとがんばりすぎていたんじゃないだろうか。さまざまなストレスがガンを呼び起こしたのだと考えるならば、やはり仕事の無理が祟ったんじゃないだろうか…。

 ケーキは二種類選んだ。お父さんと松崎にはニューヨークチーズケーキ、お母さんと自分には四種類のベリーの乗った、ババロアとスポンジが二層になった筒型のケーキ。

 ルルも物欲しそうにこちらを見ている。

 この部屋にいると、すべてのことは成るようになると素直に感じてしまう。この家は、世間の些細な荒波にはびくともしない、動じない雰囲気がある。お母さんも、単なる教育ママとはきっとひと味違ったんじゃないだろうか。松崎をみれば分かる。何ものにも突き動かされない安定感というかポリシーみたいなもの、を持っている気がするのだ。

 ケーキを食べ終わると、松崎が自分の部屋に誘ってくれたのでリビングを失礼して松崎の部屋に行く。

 松崎の部屋は九月に来た時と全然変わっていなかった。そのことは妙にほっとした。

 松崎は少し古いごっついノートパソコンを使っている。お父さんのおさがりだそうだ。その『アクセサリ』の中にちょっとしたゲームがあって、私はひそかにそれが好きで、今日もやった。
 それは『ケロケロケロッピのおいかけっこ』というゲームで、パソコンの中で、サイコロを振り、その数字の分だけ進み、二匹のカエルが追いかけっこをするゲームで、ちょうど同じマスになってつかまえた方が勝ち、という簡単なゲームだ。およそ大学生の遊びには幼稚すぎるのだが…。
 マスは池のようになっていて、進むごとに『チャポンチャポン』とかわいい音がする。五分もしないうちに私は松崎のカエルにつかまえられてしまった。

 ゲームの中のことなのに、松崎は実際に私にとびついてきて、

「つーかまえたっ!」

 と嬉しそうに抱き締めてくれたのは、とても可愛かった。

 それから松崎は窓を開けてKOOLを吸った。松崎の部屋は西側に窓がついている。小さなベランダもあって、煙草はいつもそこで吸う。

 松崎の煙草デビューは中学二年の短期留学先でだったそうだ。ロンドンから少し離れた田舎町に、夏休み三週間ホームステイをした時、そこの家の高校生のサムウェル君に教えてもらったという。教育ママのお母さんに見つからないように、日本に帰って来てからも隠れて吸っていたという。

 四時ぐらいになって、またリビングへ行くと、

「理美さん、今日よかったら夕ご飯も召し上がって行きません?これから近くのスーパーに買い物に行くのだけれど、一緒にどうかしら?」

「はい、もちろんです」

 即答した。嬉しかった。

 サッとお化粧直しをし、茶色のコート(今日は黒いファーも付けてきた)を羽織り、ヴィトンのショルダーバッグを下げて、玄関に行き、ブーツに足を入れる。

 お父さんを残し、三人でスーパーに買い出しに行った。近くなのに車で行った。松崎がクラウンを運転する。

「大志は日曜にはよく買い物に付き合ってくれるのよ」

 松崎は本当に優しい子だ。

 着いたのは、聞いたことのない立派なスーパーだった。駐車場はさほど混んでいなかった。  自動ドアがスーッと開き、松崎がかごを持ってくれる。

 店内にはアッパークラスのマダムが多かった。松崎はこのスーパーでよく芸能人に会うのだそうだ。でも、周りの人はそういう人がいてもいちいち反応しないのだそうだ。  松崎のお母さんは、

「お昼がピザだったから、夜は和食がいいかしら?お刺身に茶わん蒸しなんてどう?」

 と高級食材を、次から次へとかごに入れる。


 マンションに戻ると、素敵な外灯が灯されていて、白い外壁をぼんやりと照らし、まるで軽井沢辺りの避暑地に立つホテルのよう。

 夕食の準備のお手伝いはとても楽しかった。流しはピカピカで使いやすい配置になっていて、コンロは四つもあって、とにかく何もかもがゆったりしている。  準備しながら、松崎のお母さんも心なしか嬉しそうだ。

「息子が二人でしょ。だからね、理美さんが来てくれると、娘ができたみたいでね…」

 そして松崎の小さい頃のことなんかを懐かしく話してくれた。

「大志は、立てるようになったのも話せるようになったのも普通の子よりずっと遅くてね、それはもう心配したものよ。でもね、いつもにこにこしていてかわいい子だったから、気長に育てたの。だって他の子と比べてもしかたないでしょう?だから元来マイペースなのよ、大志は。困ることあったらピシッと言ってあげて下さいね。あ、理美さん、この冷ましただし汁とたまごを合わせて混ぜてくださる?」  

 ダイニングテーブルにお料理を並べて午後七時、夕食が始まった。
 お刺身は、なんと鯛やアワビやまであって、豪華なものだった。ふと秋に皆で母の実家に泊まりに行った時、松崎がスーパーで蛤をかごに入れたことを思い出した。
 茶わん蒸しにはとり肉、しいたけ、かまぼこ、そして底の方にギンナンが入っていて、上に三つ葉が添えられていた。器も素敵な茶わん蒸し専用のもので、まるで料亭で出てくるもののようだった。

「こんなに美味しい茶わん蒸しを頂いたのは初めてです」

 お世辞ではなく、自然にそんな言葉が出た。

 お酒も少し飲んだ。 

 夕食の後片付けを手伝った後、お父さんの中国出張土産というジャスミンティーを淹れてもらって飲んだ。

 お父さんは気分よく酔ったらしく、

「お母さん、久しぶりにアレをやらないか?」

 と言ってバイオリンを取り出して来た。

 松崎のお父さんはバイオリンが上手い。松崎のお父さんとお母さんは学生時代同じ音楽サークルで知り合った、と前松崎が話していた。

「それはいいわね」

 お母さんも手を合わせてそう言って、壁側にある大きな楽譜棚の戸を開けて、楽譜を探し始める。

「あったわ」

 お父さんがピアノの真ん中辺りの『ラ』の音を中指で弾いて、先っぽのネジで弦の張りを調節する。

 そうして始まったのは、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』だった。  松崎の実家に初めてお邪魔した時に、ご両親が披露してくれた、思い出深い、曲。「後悔」「やるせなさ」を訴えているような、切ないのに力もある、壮大なストーリー性のある曲。そのストーリーは例えて言うならば、別れ別れになった二人が、二度と戻らぬ愛の日々を追憶するような、それでも現実を受け入れて人生は進んでゆく…そんな感じに聴こえる。メランコリックで美しいメロディーで、不思議と今の季節にも合っている。

 曲の中盤で、知らず知らずのうちに涙が出てきた。高村くんとの恋の挫折が、自分では思いもよらないくらい、深く根を這っているのかもしれなかった。そして、松崎のことを、少しの間であっても欺いてしまったことへの、自分への怒り、そんなことをしてまで、好きになってしまった人…。

 キレイゴトかもしれないが、松崎を好きな気持ちと高村くんを好きになった気持ちを、同じ天秤にかけることは出来なかった。それらは同じ器機で量れる性質のモノではなかった。
 そもそも、間違っていたのだ。松崎でいいじゃないか?私はいったい何がしたかったんだろう。もう松崎だけを見て生きていこうよ。今からならまだ間に合うよ。  高村くんとの思い出は、心の奥底に閉まって、鍵をかけよう。


 時刻は九時になろうとしていた。

「理美さん、もしよかったら今日泊まっていかない?ほら、英文の部屋が空いているし」

 初めてだった、こんなこと言われたのは。松崎はそのお母さんの言葉を聞いて、急に顔を輝かせた。

「いいんですか?ありがとうございます。それではお言葉に甘えてお世話になります」

 松崎の実家に泊まれる。下着がないとかパジャマはどうしようか、なんてことはどうでもよかった。ただただ、お母さんの気持ちが嬉しかった。

 お母さんはお風呂を沸かしに行った。

 ヴォカリーズの余韻が部屋じゅうにまだ漂っていた。松崎はルルを抱き、喉の下をなでてあげている。  お父さんに、

「理美ちゃんもピアノで何か弾いてくれないかね?」  と言われたのだけれど、

「いえいえ、あんなに素晴らしい演奏の後では、弾ける曲がありませんよ」  と答えた。実際そう思ったから。

 その後お風呂を頂いた。

「確か新しい下着があったはずなんだけど…あったわ。理美さんこれ、良かったらどうぞお使いになって。それから化粧水や乳液も、私ので良ければどうぞお使いになってね」

 松崎が毎日入っているバスルームに入る。脱衣所には、よくあるピンクや黄緑色のプラスチックのかごなどはどこにも見当たらず、広々としていて、余計なものは一切置いてない。洗面所は、大袈裟ではない大理石調で、大きな鏡が付いていて、傍らには、ライム色のポトスが透明の花瓶のようなものに水指ししてあって、まるでどこかの高級ホテルのようだ。

 バスルームの中も掃除がゆき届いていた。まずおそるおそるシャワーを出して周りに跳ねないように気をつけながらお湯を体にかけ、髪を洗わせてもらう。意外にも、シャンプーは庶民的な安いものだった。高級なフランス製の、何千円もするのとかじゃなくてホッとする。それから体を洗い、ゆったりと湯船に浸かった。なんて優雅なんだろう。心からリラックスすることができた。最近、頭を使い過ぎていた。

 上がる時に髪の毛が浮いていないか何回も碓認し、バスタオルでよく体を拭いてから脱衣所に上がる。用意してもらった新しい下着とパジャマを着る。サイズはぴったりだった。松崎のお母さんと体型が似ていることに、初めて気付く。

 最近、松崎の実家に来ていなかった。その間に高村くんと出会って、松崎を蔑ろにしてしまっていたのを、今、すごく反省している。私には肝心な部分が見失われていた。高村くんの実家はどんな家なのかは分からないが、とにかく私は、やはり松崎と別れることはあり得ない。

 付き合うって、もちろん本人同士の問題だろうけれど、家族ぐるみの付き合いを始めた以上、責任があるんだ。そして、それは重たいものではなく、かえって二人の支えになり、クッションになり、二人を繋いでくれる大切なものであると…。

   翌日午後二時半、松崎の実家を後にして、目黒駅で松崎と別れ東中野に帰る。  松崎は別れ際に、

「理美ちゃん、ヴォカリーズ聴いて泣いてたよね。オレもね、あの曲は訳もなく切なくなるよ」

 昼下がりの山手線は健全だ。これから原宿の竹下通りにでも繰り出すだろう、まだあどけなさが顔に残る中学生の男の子六人組や、二十代前半ぐらいの小綺麗な女の人、オシャレな革製のハンチング帽を被り、新聞に目を通しているおじいさん、なんかが、皆穏やかに電車に揺られている。

 中学生六人組は予想通り原宿駅で降りた。空いた席に座り、車窓の景色を、ただぼんやり眺めていた。

 東中野に着いて、まっすぐ家に帰っても良かったのだが、お母さんにはがきを書こうと思って、駅前の文具屋さんではがきを買い、ドトールに寄る。あの二階の窓際の席が今日も取れた。

 オーダーして席に着く。

 私にとって、高村くんは全く異色な出現だった。それは例えて言うなら、現実の中の『夢』の世界、という感じの時間だった。現実的でない現実…。どんな人にも、そういう時間っていうのは与えられているのだろうか。

 窓の下には、いつもの八百屋さんが見える。冬なのに真っ赤なトマトとかピカピカのきゅうりとか、いろんな色のいろんな種類の野菜がまるで芸術品のように並んでいる。まだ夕方の買い物客もいなくて閑散としていて、店員さんも暇そうだ。  そんな景色を見ながら、金曜に受信したメールのことを思い出し、受信箱を開く。

 高村くんへの疑問が、また浮上してくる。高村くんは、美雪さんを大切にしている。なのに、なんで私と二人で会ってくれたのか。朝方まで公園で話したり、真夜中に部屋にあげたり。それでいてあくまでも礼儀正しく、健全であり続けようとする。その態度が不可思議で、私は、そのことをちゃんと聞いてみたいと思った。でも、そんなことを聞いて、いったい何になるというのだろう。

 高村くんには、きっと、美雪さん以外の女友達なんて沢山いるのだろう。それで、その女友達たちのことは、女として見ることはないのかもしれない。そして、高村くんはきっと、私を含め、女友達とは、自分の男友達と同じように付き合っているのかもしれない。同性の友達と夜通し話し込むなんてことよくあるし、同性の友達とするようなことを、普通に異性の友達ともしているに違いない。そんな結論に達した。

 冷めた残りのコーヒーを飲む。
 結局、色々考えた末、高村くんには次のようなお別れメールを出した。

「高村くん、ずっと言ってなかったのだけれど、私には一年の時から付き合っている彼がいます。でも高村くんに出会って、貴方に急速に惹かれ、すごく迷い、本気で彼と別れることも考えました。でも、この間高村くんの気持ちを知って、諦めることにしました。付き合えない以上友達とはどうしても思えないから、これからはもう連絡しないようにします。短い間だったけれど、こんなに楽しく話せた人は高村くんが初めてでした。どうもありがとう。貴方のことは一生忘れないと思います。私高村くんの考え方が好きです、きっといいジャーナリストになれますよ。頑張って下さいね。それでは元気でね、さようなら」

 最後の言葉に高村くんを非難するようなことは書きたくなかったのだ。書いた後、何回も読み直して、修正して、送信した。

 これでいいんだ。私は自分に言い聞かせた。

 それから母にはがきを書いた。



 拝啓  目白通りの銀杏並木もすっかり葉っぱを落とし、街はクリスマスの飾りで賑やかになってきました。その後体の具合はどうですか?  私の方は、サークルもピアノも楽しく頑張っています。家庭教師のアルバイトも続けています。  ところで、年末なのですが、カウントダウン・ライヴに行くことになったので、一日のお昼頃帰ることになると思います。大学は六日からなので五日に東京に戻ります。それでは久しぶりにお会いできるのを楽しみにしています。

                         かしこ  理美  


 手帳の帯から50円切手を取り出し、貼る。

 それから急に、松崎にケイタイストラップを作る約束をしたことを思い出した。

(クリスマスまであと十日もないな。さっき原宿で降りてビーズ屋さんに寄ればよかったなぁ…)

 表参道に、よく買いに行くビーズ屋さんがあるのだ。まだ明るかったので、ドトールを出て表参道に向かった。定期は新宿までだけど…。

 原宿駅の表参道口はいつものことながら大混雑だった。改札で手前の人が『ピーッ』となって、あからさまに嫌な顔をしてしまう。

 すれ違う人の中には、白人系外国人の姿が結構あった。それから自意識過剰なロリータ・ファッションの女の子達もいる。

 ここのビーズ屋さんは、店内が暗くて正確な色がいまいちはっきり分からないのは不満だけれど、今まで行ったどこのビーズ屋さんよりも圧倒的に種類が豊富で、だいたいイメージ通りのものが手に入る。

 今日も、満足のいく買い物ができた。

 高村くんにも、何か作って渡せたらよかった。



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