烏鷺鳩(うろく)

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「ジュラシック・ワールド 炎の王国」を観に行ってきた!!:感想編

2018-07-27 | 映画


※ネタバレ注意!!


10日という短い間に2度も鑑賞した映画はこれまでに一度もない。
「ジュラシック・ワールド 炎の王国」は、今までの「ジュラシック・パーク」シリーズとちょっと雰囲気が違ったのだ。何度も見て、何度も考えてしまう、そんな作品である。1度目では盛りだくさんすぎて味わい尽くせないから、ついもう一度見てしまった。つまりは、とっても面白かったのだ。「興味深い」方の面白さもあったのである。そんなわけで、短期間に2回も劇場に足を運んでしまった次第である。

過去の4作品、どれをとっても私は大好きで、特に、第一作目の「ジュラシック・パーク」(1993年)の恐竜を見た時の感動は今でも忘れない。初めて本物の化石を見た時と同じくらいの衝撃と感激を感じた。「恐竜が生きている!」と、思わずにはいられないほどだったのだ。そして特撮の技術はシリーズを追う毎に向上していき、より「本物っぽい」――人類の誰一人として本物を見たものはいないのだが――恐竜をスクリーンで見ることができるようになった。

「ジュラシック・パーク」シリーズ作品に対しては、「ストーリーに粗がある」とか、「人間が懲りずに同じ事を繰り返し、ワンパターン」だとか、色んな批判もあるようだが、私はそういったものに全然気づかないのである。「恐竜が動いている!!」と、ただもうそれだけで嬉しいので、そんな粗だとかに全く気がつかずに何度も鑑賞しているのである。動く恐竜が見られるだけでもう幸せなのである。

今回の作品がちょっと雰囲気が違う、というのは、次のような哲学的な問いが投げかけられている点である。
「人間は自らが作り出した生命に対し、生殺与奪の権を有しているのか?」


(※以下、ネタバレ注意)



かつてジュラシック・ワールドが建設され、多くの観光客で賑わっていた、イスラ・ヌブラル島は、今や恐竜たちが自由に住む島となっていた。恐竜たちの脱走でジュラシック・ワールドは破壊され、放置された結果、現在は人間の近づかない廃墟と化していた。
しかし、イスラ・ヌブラル島の休火山だった山が突然噴火を始める。いずれ、島は溶岩で覆われ、恐竜たちはそれに飲み込まれてしまう運命にある。
クレア・ディアリングが創立、運営する恐竜保護団体が、恐竜たちの保護を呼びかけるも、アメリカ上院の委員会では、「自然にゆだねる」という結論が。

この委員会で、イアン・マルコム博士が、遺伝子操作や核開発といった、人類が本当の意味でコントロールしきれていない科学技術を濫用してきたことに対して批判する。彼は1作目からパークの創設には反対の立場を取っていた。言うなれば、科学技術の「負の側面」を見つめ続け、批判をし続けてきた人物なのである。そして彼の委員会で発言する姿は、作品の冒頭と最後に分けて映し出される。委員会はクレア達が島に向かう前に終了している。ということは、作品の最後に、
“Welcome to Jurassic World.”(「ジュラシック・ワールドへようこそ」)
と彼が述べているのは、不吉な予言だった、ということが皮肉にも後から判明する、という構造になるのである。


北カリフォルニアのロックウッド邸に招待されたクレアは、ロックウッドから恐竜保護の申し出を受ける。しぶるオーウェンや、保護団体の仲間達と彼女はイスラ・ヌブラル島へと急ぐ。
飛行機で島に降り立ったクレアの足下がクローズアップされる。前作のピン・ヒールとはうってかわって今回はトレッキング・ブーツである。そういえば、髪型も、前作はストレート・パーマをかけた都会的で人工的な雰囲気も漂うボブ・カットだった。今回は、自然なロングヘアーで、あまり手を加えているようには見えない。こうした彼女のスタイルが、彼女自身の変化を表しているのである。
「ジュラシック・ワールド」の責任者だった頃は、人工的に作り出した恐竜たちや、インドミナスレックスを、単に見せ物、さらに言うと金儲けの道具としてみていた彼女が、今回の作品では「恐竜保護団体」を立ち上げ、島に残された恐竜たちの保護と移動を訴えるのである。つまり、クレアの恐竜の見方が180度変わっていると言えるのである。そうした変化が、履いている靴の種類、髪型にも表れているのだ。

オーウェンやクレア達は島に到着すると、ロックウッドのもとで働くミルズの雇った怪しげな傭兵達の集団と共に、トラックで恐竜たちのもとへと向かう。その途中、大地を揺るがす震動に、一行は不安な表情を浮かべる。古生物学者で獣医のジアは、その震動の原因を探るためにトラックの外に飛び出す。
すると、ブラキオサウルスがゆっくりと近づいてきた。ジアは本物の恐竜に出会い、感激の涙を流すのである。
このシーンは第一作の「ジュラシック・パーク」の感動的なシーンを彷彿とさせる。「パークⅠ」でも、主人公達が初めて遭遇するのが「ブラキオサウルス」なのである。巨大であるが穏やかな表情をした恐竜、ブラキオサウルス。植物食恐竜の持つ、優しげで穏やかというイメージを体現している恐竜の一つである。オーウェン達もブラキオサウルスを見上げて懐かしそうな微笑みを浮かべる。火山の噴火という危機の中で唯一ほっとする場面なのである。

さっそく恐竜保護に取りかかったと思えば、彼らはミルズに騙されていたことに気がつく。噴火は激しくなる。バリオニクスの攻撃をかわし、逃げる。逃げる途中でカルノタウルスが襲ってくる。ティラノサウルスの登場である。オーウェン達とは前作で共に戦った仲間という認識が彼女の中に芽生えたのかどうかは知らないが、彼らの危機一髪の瞬間、颯爽と登場し、カルノタウルスをばくっと片付けて、クールに去っていくのである。

命からがら、オーウェン達は恐竜を積んだ「アルカディア号」に忍び込む。船は桟橋から離れていく。
島を振り返ると、桟橋にブラキオサウルスが一頭立ち尽くし、遠ざかっていく船の方を見つめている。悲しげな鳴き声が響く。溶岩が次第に迫ってきて、海へと流れ込み始めたのか、白い水蒸気が立ち上る。ブラキオサウルスの姿は厚い水蒸気のベールに包み込まれ、その影だけが浮かび上がる。悲しげな鳴き声がさらに響く。水蒸気の中で光が瞬く。その瞬間、長い首は不自然に左右に振れる。船尾のランプウェイ(車両が乗り込む際の床のような部分。蓋のように閉まる)がゆっくりと引き上げられる。ブラキオサウルスは、その影が白い水蒸気に飲み込まれるかのように、ゆっくりと倒れていった。
美しく描かれた残酷な場面であった。涙が止まらない。
難しい理由はいらない。生命が失われることの悲惨さが痛いまでに伝わってくるのだ。(恐らく、空間の限られた船内には背の高いブラキオサウルスは乗れない、との理由で選別され、人間達に捨てられた命なのだ。)
「アルカディア」とは古代ギリシャで「理想郷」とされた地の名前である。痛烈な皮肉で、行く先は積み込まれた恐竜にとってユートピア(理想郷)ではなくディストピアなのである。




後半は、北カリフォルニアのロックウッド邸での「恐竜オークション」の様子が描かれる。招かれる客達は、有名な富豪から武器商人、裏社会の住人と思われる人物などである。愛玩、兵器として、など、様々な理由で恐竜を購入しようとする人々が続々と屋敷に集まってくる。

ロックウッドにはメイジーという「孫」がいる。好奇心旺盛でおてんばな彼女が秘密の地下室に忍び込み、インドラプトルに遭遇するシーンがある。後ずさりする少女の長い髪を、インドラプトルの手がゆっくり伸びていき長い爪がそっと触れる。単に獲物としてメイジーを認識していれば、素早く気づかれないうちに彼女の首をつかみ取っていたことだろう。このシーンから、インドラプトルはメイジーに興味を抱いたのではないかと感じられるのである。
この後、雨が降る中、メイジーの部屋の屋根にインドラプトルが這い上がるシーンがあるのだが、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に登場する怪物の姿に重なって見えて仕方が無かった。フランケンシュタイン博士が作り出した怪物は、次第に言葉を学び、思考し、意志を持つようになる。それでも、その醜い姿から人間に恐れられ、孤独に生きて行かざるを得ない。怪物はその心に悲しみを抱えてさ迷うことになるのだ。
兵器としての訓練を受け、殺戮を目的として作られたインドラプトルに悲しみが感じられているかどうかはわからない。しかし、メイジーの存在とインドラプトルの存在はまるで「鏡写し」のようなのだ。実はメイジーは、ロックウッドの亡くなった娘のクローンだったのである。共に遺伝子操作によって生み出された存在/生命なのだ。
自分の部屋に逃げ込んだメイジーに再びインドラプトルがそっと手を伸ばす。いたぶってから殺そうとしているのか、それとも興味を示しているのか。このようにどちらとも解釈できるシーンが2回登場するのである。こうしたことから、メイジーとインドラプトルは「対の存在」として描かれているのではないかと思うのである。


クライマックスで、恐竜たちの檻が集まる部屋に、シアン化ガスが充満していく。システムの故障によって換気システムが作動しない。このままでは、「ガス室」の中の恐竜たちは死んでしまう。クレアは檻の扉を開ける。狭い空間に逃げ惑う恐竜たち。捕食する側とされる側、共にガスによって苦しんでいる。クレアがその先にある扉を開放しようとするも、オーウェンに止められる。扉の外は人間達の住む世界なのだ。そこへ恐竜が放たれてしまったら、何が起こるのか予測はできない。まさに「カオス」である。
大人達が恐竜の死を受け入れようとする中、メイジーは恐竜たちを外の世界へと解放してしまう。
「私と同じ。クローンで作られた命にも、生きる権利はある」
彼女には迷いはない。生きているものを見殺しにする、それはどんな理由があったとしても、本能的に避けねばならない事なのである。

「人間が科学技術を駆使して作り出した生命を、人間がそれらを生かすも殺すも自由であり得るのか?」という問いが、我々見るものに投げかけられているのではないだろうか、と思えるのだ。
人間は実際、家畜を飼い、殺し、食料にしているではないか、と仰る方もいるだろう。そう、食べるために生物を繁殖させ、殺し、それを食べているのが我々である。あるいは、ペット動物のように、愛玩のために繁殖させ、売り買いし、共に暮らして楽しむのである。
そうして人間は生きている。それは紛れもない事実で、否定することは現実的ではない。ただ人間は、科学技術を過信するあまり、予測のできない状況を引き起こしてはいないだろうか。あるいは、あまりにも自分達の能力を過信してはいないだろうか。


映画の原題は”Jurassic World :Fallen Kingdom”(「ジュラシック・ワールド:崩れ落ちた王国」)である。イスラ・ヌブラル島の火山によって、恐竜たちの王国が崩壊する。しかし、恐竜たちが北カリフォルニアという、孤島ではなく大陸において放たれたことで、人間達の「王国」がそれまでとは予測のつかない事態に陥っていくことが、映画の最後でほのめかされている。モササウルスがサーファーを飲み込もうとする。あたかもサメがサーファーを襲う事故のように。ティラノサウルスが突然動物園に現れる。グリズリーやワニが突然人家の庭先に出没するかのように。今までとは全く違った生活が始まる。遺伝子操作によって生み出された生命が、人間界に解き放たれることで。崩れ落ちたのは「人間の王国」でもあるのだ。このように、映画の題名に二重の意味が込められているのである。


「ジュラシック・ワールド 炎の王国」はこれまでのシリーズ作品とは全く異なり、後味が悪い、というか、ざわざわした感じを残す、バッド・エンドと言えるかもしれない。CG技術の向上により、より一層本物っぽい恐竜たちが大暴れする、大変面白い作品であった。と、同時に、今まで何の疑問も抱かず享受してきた科学技術の恩恵に、やや疑念を抱かせるようなストーリーでもあった。
絶滅した恐竜が復活したのは、我々に生命というものについて考え直すきっかけを与えてくれたのではないかと、ふと思ってしまうのである。