臨川寺盛り上げ隊長のりんちゃんだよ
長い間お休みしてたブログだけど
今日から再開だよ~
ちょっとしばらくはお庫裏さんからね
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お庫裏です
長い間お待たせいたしました
実は、私の母が92歳で旅立ちました
備忘の意味でもこちらで綴っていきますので
よろしければお付き合いください
長年老人施設でお世話になってました
頭はしっかりしていて
腰を痛めていたので車椅子で生活してましたが
それ以外は元気に暮らしてました
2月17日に
膵臓ガンの末期と肝臓への転移を知らされました
膵臓の状態では
半年から1年は経過しているはずなのに
痛みを感じてなかったのが不思議なくらいだと・・・
圧迫骨折等で腰痛を持っていたので
腰痛だと思っていたのか
はたまた
痛みに強く、辛抱していたのか不明です
今回はさすがに痛みを感じたので
病院へ行きたいと言ったそうです
その施設は看取りをしてくれます
本人は検査と治療を拒否
痛みを取るだけの緩和ケアを望んだので
そのまま施設でお世話になりました
痛みはカロナール多め程度ですみました
10日間ほどは寝たきりで
食事や水を少し、お風呂も1回入った程度
2月26日から昏睡状態へ・・・
昏睡に入る前日までに
関東で暮らす孫や、自分の弟妹にも会えました
運の強い母です
私への最後の言葉は・・・
「帰るから、また明日ね」と言ったら
開けにくい目を一生懸命開けて
「顔を忘れるといけないから」と
じーーーっと顔を見てました
その頃は言葉を発するのも切れ切れでした
きっと力を絞って発した言葉だと思います
逢いに来てくれた家族や弟妹にも
「来てくれてありがとう」と
頑張って声をかけてました
5日間昏睡が続きました
最初の数日間は
目を開かないものの瞼が動いたり
手を握っていると握り返したりできました
その後は無反応で
徐々に弱っていきました
病院ではないので点滴もなく
ただただ本人の自力だけで生きてました
1週間近く食事も水も取れてないのに
こんなに生きられるものかと
人間の生命力の強さを感じました
末期になると
下顎呼吸(かがくこきゅう)で
心臓だけがポンプのように懸命に働き
見ているのも辛いものでした
今回初めて下顎呼吸というものを知りました
亡くなる前日には
血中酸素濃度が下がってきたので
酸素吸入器を着けてもらい
なんとか維持してました
翌日行くと
酸素マスクに変わり
酸素供給量もMAXの5リットル
亡くなる頃になると
血圧測定不可
血中酸素濃度も50を下回ってきました
すでに瞳孔も開いている状況だったので
心臓だけが頑張っている感じでした
膵臓ガンは辛い痛みを感じる病気です
私も家族も
とにかく苦しむこと無く
穏やかに逝かせてやりたかったので
「頑張れ!」とは一言も言いませんでした
が・・・
その最後の日は
どうしても外せない用があった兄家族だったので
万一の時は私達の方で対処するからと
出かけてもらいました
おっ様も夕方近くには
りん坊とおせんちゃんの世話の為に寺へ戻り
1時間半ほど私ひとりで母を見てました
まだ頑張っていた母に
「あと30分でみんな来るから頑張るんだよ!」
「今だけは頑張れ!!」って・・・
午後4時半頃には全員集合できて
家族全員で辛そうな母を見守りました
最期まで見守ってあげることが
子や孫の最後のつとめだと思いました
そのうち、心臓の動きが弱くなり
呼吸が止まったかと思っていると
口が魚のようにパクってなり
また止まったかと思うと
パクってなりが数回続き
午後5時の時報の音楽が流れるのと同時に
止まりました
やっと楽になれたね・・・
悲しい寂しいよりもそう思えました
92歳の人生、お疲れ様でした
この続きは明日へ・・・
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看護師の義姉は1ヶ月ぐらいだろうと思っていましたがお母さんの心臓の強さにおののいていました。
最後は義姉達がご飯をワイワイ食べていた隙に逝ってしまたらしい。
私は今までで最期に立ち会えたのは、今回の母とりんちゃんだけです。
今回はちゃんと見届けたいと思っていたので、私の中では心残りが無いです。
1人で看ていた1時間半ほどの間に、ちゃんとお別れの言葉も伝えれました。
聴覚は死ぬまであるそうなので、伝わったと思っています。
後悔なく見送れました。
お庫裏でした