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玉袋筋太郎「親父を死に追いやった姉夫婦を、今も許せないまま」

2021-11-27 13:30:00 | 日記

婦人公論.jp様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

昨年出した著書で、玉袋筋太郎さんは父が自殺していたことをはじめて明かした。当時、自身は35歳。その死を受け止めるには若く、また、人に語ることでもないと胸にしまってきたのだ。なぜ父を突然失わなければならなかったのか。そして、その後芽生えた家族観とは。(構成=福永妙子 撮影=川上尚見)
メモに「ごめん」とだけ書き残して
オレには3歳上の姉がいるけど、この17年間、まったく会っていません。オレから絶縁を言い渡して以来、今どこで何をしているのか、生きているか死んでいるかも知らない。

うちの実家は雀荘をやったりスナックをやったりしていたので、両親は共働き。いつも一緒に留守番をしているような姉弟だった。親父やお袋といるより、姉と過ごす時間のほうがずっと長かったし、たくさん遊んで、世話もしてもらって、仲よかったんだよ、あの頃は……。

それなのに、姉と縁を切ろうと決めたきっかけは親父の自殺です。遊園地の観覧車に子どものオレだけ乗っけて、自分は下から見ている――。そんな高所恐怖症の親父が、65歳の時、ビルの6階から飛び降りちゃった。きったねぇメモに「ごめん」とだけ書き残してね。

親父は体調を崩し、メンタルも弱って入院していた。元気づけたくて、オレ言ったんだよ。「今まで大変だったけど、お楽しみはこれからだよ、お父さん」って。芸人の仕事が順調になってきて、商売しながらオレを育ててくれた両親にようやく恩返しできると思ったから。

その2日後に自ら命を絶つなんて、考えもしなかった。「ごめん」のメモ以外に遺書はなかったけど、親父を苦しめ、自殺の原因をつくったのは姉とそのダンナだとオレは確信しています。

姉は子どもの頃から太っていることがコンプレックスで、学校でいじめにもあってた。そのうえ、精神的に不安定になると自傷行為をして親を慌てさせることがたびたびだった。自分の存在をアピールする方法を、ほかに思いつかなかったんだろうな。

だけどさ、両親にとってはかわいくてしょうがないわけよ。何かあったら娘を助けたいし、守りたい。ともかく親父たちは、姉が問題を起こしても無条件にすべてを受け入れ、面倒を見ちゃう。そうした関係がずーっと続いてきたわけです。

オレは高校卒業後、師匠である北野武に弟子入りして家を出ていたから、両親と姉の関係を客観的に見ていました。そして、たまたま読んでいた本に出てきた「共依存」という言葉に、「これだ!」と思った。両親と姉は、このまま共依存の袋小路に入っていくんだな、と不安を抱いたことを覚えている。
結婚して姉は落ち着くかと思いきや、そのダンナというのがロクでもない奴だった。仕事は不安定で常にその日暮らし。金がないから、平気でカードでキャッシングする。切羽詰まった事情で金が必要ならともかく、使い途はすべて遊興費よ。キャバクラなんかに通って、女につぎこんでんだから。そのたびに姉は自傷行為をして、娘かわいさから親父が借金を肩代わりするわけです。

 切なる思いは伝わらなかった
オレの実家は西新宿一丁目にあって、じいさんが建てた赤江ビルに、オレたち一家や親父の姉弟たちが住んでいました。じいさんの死後、親父はその土地を手放したんだけど、もう商売はやめていたから、土地を売った金が老後の頼りだった。

姉夫婦はしたたかなもので、孫をチラつかせて親父に泣きつく。親父にすれば娘が不憫だし、孫もかわいい。それで結局、言いなりになる。新宿の土地を売ったあと、両親は茨城で暮らしていたんだけど、何を思ったか、姉一家を呼び寄せちゃってさ。自分が住むマンションの別の部屋を買い与えたんだから、甘いにもほどがあるよね。オレはずっと自活してるのに。

そんなある日、親父が「Y子が金で大変な思いをしてるから、助けてやってくれ」とオレに言ってきた。親父もひとりでは借金を抱えきれなくなったんだろうね。さすがにオレも厳しい判断を迫られて、最後はわが家の山の神に相談しましたよ。

でも、それまでの事情を知っているカミさんは、「共倒れになっちゃうよ」と言った。本当にその通りだと思った。姉夫婦のところでメラメラ燃えている炎が引火すれば、オレんちまで丸焼けになる。それに、ここで助け船を出せば、向こうはますます自活する努力をしなくなるだろう。

オレは親父に手紙を書きました。あの状況で視野が狭くなってしまっている親父に何を言っても、聞く耳なんて持たない。ここは冷静に、文章にしたほうがわかってもらえると思った。

それで、「今回の件は協力できません。お父さんもいい加減、あちらと距離をとってください」といった内容を、丁寧な言葉で一生懸命書いた。親だし傷つけたくないから、ズケズケじゃなく。でも、姉夫婦にいかに問題があるか気づいてもらえるようなヒントを何ヵ所も盛り込んだ。珍しく、何度も推敲してさ。

ところが、手紙を読んだ親父の返答は、「お前はお姉ちゃんを殺すのか!」だった。もう、ありゃりゃですよ。オレの切なる思いはまったく伝わらなかったってわけ。ここまで洗脳されているならもはやオレには説得できない、と諦めて手を引いた。
そうして1年半が経って、親父は死んだ。あの時のオレの判断は正しかったのか今も考える。もしオレがヒーローで、いくらでも借金を肩代わりできてたら親父は死を選ばなかったんじゃないか、とも思う。

でも、あの当時は自分の家族だけで精一杯だった。それに一時、姉に金を貸したとしても、あの泥沼状態はエンドレスで続いただろう、と思うよね。

葬儀のあと、親父の部屋を片づけていたら、金の出し入れを書いたメモがたくさん出てきた。親父は若い頃、証券会社に勤めていたこともあって、帳簿をかなりマメにつけるタイプだった。見て驚いたよ。姉夫婦が親父に借金の尻拭いをさせていたのは知っていたけれど、それはもう信じられない額だった。

姉のダンナがカードで限度額いっぱいまでキャッシングする。親父がそれを返済する。繰り返し返済すれば、借りられる限度額はどんどん上がる。そしてまた借りて……。そんなふうにして姉のダンナが焦げつかせた多額の借金を、親父が全部返し続けていたんです。

今度はお袋に取り入り出した
両親が茨城で老後を何十年も過ごせるだけのお金は十分にあったはずなのに、貸借対照表の最後を見ると蓄えはすっかり底をつき、それどころかマイナス120万円になっていた。親父はこれを気に病んで、衝動的に飛び降りたのではないか……。

なのにさ、張本人たちはとぼけてんだよ。「お父さん、なんで……」って泣いて悲しんじゃってる。オレは姉のダンナを呼んで、帳簿を突きつけた。「これを見ろ! おまえが親父を殺したんだ!」って。相手は土下座をしたけれど、まあ、それだけよ。そんなダンナから姉は離れられない。つまり、こっちはこっちで夫婦で共依存っていうわけさ。

相談に乗ってくれたのは、母の弟にあたる叔父さんだった。ガンで闘病中の身にもかかわらず、「盗人に追い銭じゃないけど、あいつらはもういい。俺たちで処理しよう」と、120万円の清算を一緒にしてくれた。それを機に、オレは姉ときっぱり縁を切ることにしました。宣言もした。死を選ぶまで親父を追い詰めた姉たちを、断固として許せなかったから。

 

ところがさ、今度はお袋に取り入り出したんだよ。その頃、お袋は以前に買っていた新宿のマンションでひとり暮らしをしていた。そこに姉夫婦が金の無心に来る。孫の教育費だとか、アトピーになったとか言われると、親父の生命保険を出しちゃうんだよね。「一緒に住もう」とも言ったらしいけど、それはお袋のことを思ってじゃない、金ヅルだもん。

「金を出すことは、お姉ちゃんのためにならない」といくら言っても、洗脳されているから怪訝な顔をしているわけよ。「お母さん、頼む。このままじゃ、親父と同じことになる。つらいと思うが、向こうを切ってくれ」と土下座して、涙ながらに訴え続ける息子を見て、少しずつわかってくれたようだった。

オレは40歳にしてようやく自分の家を買えたので、お袋を引き取った。姉たちには「お袋に絶対に近づくな」と伝えたし、新居の住所も連絡先も一切教えなかった。さながらカルト教団からの救出劇ですよ。


あれから10年以上が経ってお袋に認知症の症状が出てきたので、昨年から施設に預かってもらうことにした。お袋は気持ちのさっぱりした人で、オレたちと一緒に暮らし始める時に「お姉ちゃんのことは忘れた」と言ってくれたけど、本当は心の中で無理していたかもしれないよな。

だけど今は、自分のお腹を痛めて産んだ娘のことも、孫のこともすっかり忘れている。もともとの性格と、認知症によるボケがミックスされたのか、よく笑うんだ。その笑顔にオレはすごく救われてるね。もう、娘のことを無理して忘れようとしなくていい。つらい現実と向き合わなくていい。そう考えれば、認知症もまんざら悪くないのかもしれない。

 

絶縁しても、思い出は消せない
「きょうだいは他人の始まり」と、先人はよく言ったものだよね。実はその昔も、オレは身内がバラバラになるのを経験しています。うちは親父が長男で、ほかに姉と弟がいた。じいさんが建てたビルで叔父さんや伯母さんの家族と一緒に、何不自由なく暮らしてたんですよ。両親も親戚も商売をやっていてみんなで飯を食ったり、大人たちは酒を飲んだり。

ところが、じいさんが死ぬと状況が変わった。ビルは新宿の一等地にあって、相続は揉めに揉めた。結果、一家離散ですよ。親父はそれで傷ついて、住み慣れた新宿を離れた。理想の家族なんていっても、いつ壊れるかわからないと、この時学んだ。

だからさ、ほんと家族って何だろうと思うよ。オレには、今年27歳になる息子がいるけど、彼とは血はつながっていない。25歳で所帯をもった時の、カミさんの連れ子だから。

だけど縁あってオレのところに来てくれて、こんなダメな父親なのに息子は横道に逸れることなく、まっすぐに育ってくれました。オレは、自分があいつに育ててもらったと思っているしね。その息子も結婚して、オレには息子夫婦という新たな家族が増えたわけです。

血のつながりがあるのに切り捨てた家族があり、一方には、血はつながらないけど愛おしみながら築き上げてきた家族がある。血縁なんかどうでもいい。そう思いながら、姉夫婦の借金を一緒に肩代わりしてくれた叔父さんがつぶやいた言葉が忘れられないんだよ。

「でもなぁ。お前は最後は血がつながっているんだからな」

その言葉は矢尻のように、ざっくりオレの胸に刺さった。今も刺さったまま、オレはこの先も生きていくんだろうと思う。
姉のこと、本当に許せなかった。だけどさ、ちっちゃい頃、一緒に風呂に入ったことだとか、そんなのを思い出してポロリと涙してしまう自分もいる。絶縁しても、思い出は消せないんだ。あっちにいる甥っ子や姪っ子だって、オレにとってはかわいいんだよ。そのことまでは否定できないのさ。

まさか自分が、家族の恥ずかしいエピソードを売ってメシを食うことになるなんて思ってなかったよ。第一、こんなふざけた芸人やってて親父が自殺したとか、やっぱりキツかった。

でも、ずっと隠しておきたかった“ワケあり話”を話す気になったのは、現在の身の回りのことやらでモヤモヤしているものを抱えているからだろう。オレにとってこの仕事は疑似家族みたいなものだったから。30年も一緒に過ごしてきたけど、師匠が会社を去り、オレのもう一つの家族も崩壊したってわけさ。


そんな身辺のゴタゴタに加え、プライベートでは親父や姉に対する整理のつかない思いがいまだにくすぶっている。心にいくつも荷物を抱えていることが、だんだんキツくなってきた。だからガス抜きじゃないけど、こうして話すことでちょっと身軽になりたかったのかもしれない。

西新宿で、みんな仲よく暮らしていた頃を、懐かしく思う。オレの黄金時代ですよ。今は跡形もなく消え、焼け野原が残っているだけ。それはそれでしょうがない。大事なのはそこからどう復興して、街をつくっていくか。それは、新しい家族というインフラをしっかり整備することだと思う。カミさんや息子のことをちゃんとケアしてさ。

オレは昭和の雰囲気が残るスナックが大好きなんだけど、スナックっていいもんだよ。隣り合った80代のおじさんと話してると、親父から聞けなかった話を聞いたような気持ちになる。姉くらいの年回りのおばちゃんと飲めば、「今頃、こんなふうになってるのかな」……って、感傷的になってるオレ、まだ青いね。(笑)

構成: 福永妙子
撮影: 川上尚見
出典=『婦人公論』2019年6月25日号
玉袋筋太郎
芸人
1967年東京都生まれ。ビートたけしに弟子入りし、お笑いコンビ「浅草キッド」を結成。芸能活動のかたわら、一般社団法人「全日本スナック連盟」の会長を務め、自身の店「スナック玉ちゃん」も経営している。



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