蝦夷犬(エゾイヌ)

奥羽越列藩同盟の東北北海道さらに新潟県をテーマとして、地域の新聞から記事を選び、勝手なことを書きたいと思う。

関東大震災100年 地震予知と今村明恒 20年前 発生を警告

2023-07-12 09:49:00 | 日記
河北新報電子版 朝刊
令和5年7月12日 10/28

地震予知は難しい。
難しい故に当たってもハズレても、我関せず、と言う風潮はどこで生まれたのか?

21歳の今村は予知の可能性があるならと研究を始めた。
きっかけは濃尾地震だった。
東大(当時の帝国大学)一年に居た今村は惨状を目にして、地震研究を志した。
その後、帝国大学で助教授になっていた今村は当時の太陽と言う雑誌に寄稿して、東京大地震を警告した。
その記事を東京二六新聞が、「大地震襲来説 東京市大罹災の予言」の見出しで紹介した。
直後に地震が起きて、予言は当たるのではないかと騒ぎになった。
今村の二歳年上の上司、大森房吉は教授だったが、今村説を「大地震は数百年単位で、根拠無き空説」と全否定。
関東大地震は、それらの約20年後の大正12年9月1日に、マグニチュード7.9で起きた。

帝国大学(現在の東京大学)の地震研究の始まりは上記の状況である。
2011年3月9日午前11時45分に発生した三陸沖の地震はマグニチュード7.3の震度5弱(宮城県)。
東京大学地震研の纐纈一起教授は、当時三陸沖大地震が懸念されていたことを受け、テレビで「三陸沖大地震の余震であるわけが無い」と断言。
2011年3月11日14時46分マグニチュード9.0という類を見ない大地震が発生。
後に前兆や予兆、前震など多くの前触れがあったことが報告された。
その後、東大地震研の纐纈教授が、テレビで断言したことへの謝罪を、私は一度も聞いていない。
そして、纐纈教授は定年で東大を辞したが、未だに地震研究の大家として、とある大学で教授のまま君臨している。

明治時代に始まった地震研究は、ほぼ1.2世紀の時間を経て、予測さえ確立していない。
反省も無いままに身分を維持出来る研究職と言うのはどうなのだろう?と思うのである。
纐纈教授だけを責めようと言うのではない。
科学者として、plan do seeは当然だろうと思うのだ。
計画は目標を作ることで始まるだろう。
実行することは、試行錯誤の連続でも、どれを選択したかを検証しながらであるハズ。
更に、結果から導き出される次への予測。
そこから、新たに目標を作って、段階的に可能性を詰めて行く作業を重ね、発明なり発見なりが発表されなければならない。

120年も占い師のような言動を続けたのでは、恥ずかしくないのか?
科学者なら意地を見せてくれ。
地震研が、これまで使って来た膨大な資金は、地震研究によって生み出された金では無い。
国民に無駄金を使ったと思わせないだけの、研究者としての矜恃を見せて欲しい。
次に起こるであろう大地震は、関東大震災の再来では困る。
東大地震研は最先端に立っている。
必要十分な資金を与えられて来ただろう。
そろそろ、国民を納得させる、途中経過を発表する時期ではないのか?
不安の中で、国民はどう準備するべきか、悲しみを繰り返させないで欲しい。