小説をさらに推敲して発表しました。本にもしました。今回は若い頃、見た漫画「はだしのゲン」全巻を丁寧に読み、改めて原爆の悲惨さにショックを受け、家族愛とゲンの愛と生きる逞しさに感動し、その内容を会話の中に少し加えてみました。
小説の中で、高校一年生の主人公が女主人公に接近する動機も主人公の書いた「反戦の詩」が動機になっていることなども、漫画の少年ゲンの気持ちに近づくように推敲しました。
ただし、ゲンは原爆の悲惨さを経験し、私の小説は2002頃を始まりとする現代小説で、背景は今までどうり、のどかな瀬戸内海沿岸ということです。原爆の悲惨さも、ほんの少し入れたつもりですけれど、やはり現代小説ということで、限られてくると思います。
最初に発表してから、少なくない皆様方からの感想とご批判をいただき、まずい所はカットした場面もあります。
小説も絵や音楽と同じように完璧さを要求します。しかし、どこまで書けば、あるいは推敲すれば完璧かは読者と筆者で判断するしかありません。今後も小説「森に風鈴は鳴る」は推敲する可能性はありますが、今回はこのあたりで、読んでいただければありがたく存じます。
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私の体調は胃と年からくる目の疲れですね。パソコンに向かう時間が長くとれないので、この暑いのによく散歩します。
もうしばらく、休憩しますから、今回のは休憩中の発表ということになります。今後ともよろしくお願いします。
2023年 8月 22日
プロローグ
この小説の話の出発点は2002年頃を出発点として始まっている。そして、核兵器を世界中からなくし、それに使っている膨大な金を福祉にまわせば、貧しい世界中の子供達を救えるという発想のもとに、筆を進め、ブログの掲載が終わり、電子書籍にして、ある程度の読者を得て、批判も受けた時点で再び推敲を初めて改訂版を完成した頃は、ロシアとウクライナの戦争はまだ終わらず、互いに激しく攻撃して危険な状態になっている。
第一次世界大戦と第二次大戦を経験した人類は戦争をしてはいけないということを学習した筈なのに、兄弟国とも思われていた所で、突然のようなこの戦争に世界は驚き、原発や核兵器の問題がからむだけに、多くの人は早く停戦することを望んでいると思われる。
第一次大戦の時もすぐに終わるというのが欧米の人の予想だったが、徐々に広がり、フランスとドイツの国境塹壕戦が始まり、二百万の若者が命を落とした。
今回の場合もロシアの大統領は直ぐに終わるとよんでいた節があるにもかかわらず、 長期戦となっている。
一刻も早く停戦をしないと、犠牲者が増えるだけで、さらに大きな戦争へ拡大する不安が出てくる。
ロシアに核兵器がなければ、こんな無謀な戦争はしなかった筈だ。
停戦になっても、世界中に広がっている核兵器があるかぎり、そしてこの核兵器の性能が進化し、量も増えていくかぎり、いずれこれ以上の危機は訪れる。
広島と長崎の上空に落ちた原爆で、その直下にいた人々は炭素になって消えてしまったというではないか。黒焦げの死体が転がり、まるで幽霊のように歩き、水を求めた沢山の人がいたと言う。川には沢山の死体が流れていたという。何という悲惨さ。
このことを思うと、人類は核兵器による人類の滅亡というシナリオを思い描かなければならなくなる。
停戦が実現した時、平和ぼけとか、政治に無関心とか言っていると結局 もっと大きな危機が訪れることは、このウクライナ侵略戦争でも我々は身にしみて感じた。
今、多くの人がロシアのウクライナ攻撃に「戦争反対」の声をあげ、世界中に広がっているように平時に 核兵器をなくすような取り組みが行われねばならないのだと思う。
核兵器があるかぎり、人類の危機は続くのである。そういう思いに囚われた青年を主人公にして小説を書いたつもりだ。それが「森に風鈴の音は響く」である。
ウクライナの戦争が一日も早く停戦になり、犠牲者がこれ以上に増えないように祈るばかりである。
人類の危機はこうした戦争にも感じられるが、その他にも「気象温暖化」「核兵器」「貧困」などがある。温暖化については、京都議定書以来、国連が取り組み、SDGs
に結実しているが、未来への不安がなくなったわけではない。SDGsに核兵器廃止、軍縮を加えようではないか。そうした人類の危機をどのようにして回避するかという視点がこの小説では大切なポイントとして出てくる。
前編
1
尾野絵の町は瀬戸内海の入り江に面している。入り江は海が陸に細長く入り込んでいる。それで、入り江は川のように見える。背後の高台に路面電車が走っている。高台と入り江の間は広大でゆるやかな斜面になっている。そこはゆるい勾配の長い遊歩道に取り囲まれている。それが野絵の町である。
それは尾野絵高の文化祭の一般公開の時で,日曜日であった。十月下旬の秋たけなわの時である。やわらかい陽射しが畳の端のあたりまで射して、彼はその中で、日向ぼっこするような感じで、座って自分の番を待っていた。
畳の道場では柔道の型と練習試合をやっていた。アリサの姿に気がついたのは、彼が自分の番を待っている時だった。彼女が声をかけてきたわけではないが、観客の中にまじって徴笑している姿があった。ブルーの服装で、丸い型の薄いブルーのサングラスが豊かな黒髪と赤い唇に囲まれて、独特の美を畳の道場に放っていた。
松尾優紀は動揺した。そして次の試合で負けてしまった。彼女の見ている所できれいに投げられてしまったので、大変いやな感じだった。彼は彼女に話しかけて良いものかどうか迷っていた。そうこうするうちに彼女の姿が見えなくなった。彼はがっかりした。ひととおりのことが終わって、優紀は井上茂と山本杏衣と一緒に文化祭会場をぶらぶら歩いていた。その時、雲一つない青空そしてそよ風、まるで浄土のような校庭に、数学の教師と立話しているアリサを見かけた。彼が内心ドキマギしていると、彼女が「松尾さん」と呼びかけた。
二人は文化祭の中にある模擬コーヒー店で,話をすることになった。テーブルに赤いコスモスの花が一輪挿してある。
「綺麗ね」
「ええ、詩を書きたくなるような花です」
二人はコーヒーを飲んで、雑談をした。
「柔道どう、面白い」
「面白いですよ。今、習っているのは背負い投げと内またです。ぼくは背が高いから、背負いはやりにくいです。でも、内またが面白いですね。寝技も面白い」
それから、二人は高校を出た。
二人は高等学校の外に出ると、東門から、尾野絵の町の野絵の地区に入り、瀬戸内海を見下ろしながら、なだらかな斜面になっている入り組んだ路地をゆっくり歩き、野絵の中央の広場に来た。校庭ぐらいの広さの石畳の平地だった。周囲は樹木におおわれ、真中に大きな噴水があり、噴水の周囲は花壇になっていた。
ききょうなどが咲いていた。周りの樹木の下に、ある間隔をもって置かれているベンチの一つに二人は座った。そこからは、瀬戸内海の海がはるか向こうに、絵のように見える。
「もう会えないつもりだったけど、あなたが詩を送ってきたでしょ。あれを見て考えたわ。あたしも禅道場を出る時、静かな心に妄想のように湧いてくるのはいつも平和の問題ですもの。ほら、あなたの詩を持っているのよ。」
彼女は赤いバッグを開けて、白い便箋に書かれた松尾優紀の書いた詩を見せた。
「それ、映画『武器よさらば』を見た時、書いた詩ですよ」
「あたし、大学の時、小説で読んだわ。ヘミングウェイの筆力には感動したわ。でも、映画は見ていないの」
便箋には太い字体で、松尾の詩が書きなぐるような力強い勢いで書かれていた。
「 湖の向こうに
岡のような緑の山が続き
その向こうの敵の陣地より銃声が聞こえる
湖の岸辺にたつ柳がそよ風に震え
シャクヤクの花が爛漫と咲く
そして雷のような音が響き
町の建物にミサイルが撃ち込まれる
兵士の肉体は打ち砕かれ
前線から病院に運ばれて
ベッドに横たわり、メスによる手術で、沢山の血が噴き出た
意識を失い、目を覚ました時 見知らぬ慈悲の瞳に出会った
何という神秘な瞳だ、この世を超えた、慈しみの愛の目が兵士にそそがれる
唇は赤く濡れ、優しい、ほほ笑みが浮かんでいた。
「手術は成功しました。あなたは生きるのよ」
そうか、ここは砲弾の飛び交う前線ではなく、
手術の糸が傷口をぬってくれる所なのだ
病院の外には、花が咲きオオルリがさえずっている。
青い鳥だ。幸せを呼ぶ小鳥だ
神秘な目と微笑は深い次元の天界を指さす」
松尾はサングラスをはずした彼女をまじまじと見つめた。樹木の緑の梢がゆらゆらと揺れる、そのかすかな音が彼女の黒髪と細面のピンク色の頬を浮き彫りにして、彼女の目は自分を吸い込むようだ。何で、彼女はこんなに神秘的なのだろうか、と優紀は心の底で問う。詩の中で歌われたあの慈しみの愛の目だ。
「夫の堀川がニユーヨークに半年ほど行ってしまったでしょ。なんだか一人でいるせいか、色々考えるのね。あなたの詩を読んだら、あなたを、座禅会に誘おうと思い、会いに来てしまったわ。不思議ね」
「僕はもう会えないかと思って。 でもいつもあなたのことを思っておりました」
松尾は胸ポケットからアリサの写真を取り出して彼女に見せた。
「ありがとう。でも、私はあなたを座禅会に誘いにきたのよ。この世界をささえているのは、永遠なる宇宙の生命の大慈悲心よ。それを少しでも知って、世の中に出て欲しいと思うわ。
夫の堀川はそういうことに無頓着で、実務に忙しい、あれを見ていると、年令の早い段階で、この宇宙を支えているのが何か、それを求める気持ちをつくる必要性を感じるわ。」
優紀はアリサの言葉の裏に、何か若い女の性の響きを感じた。六才の違いしかなく、優紀のその頃の成長は早かったのだ。
「お仕事、忙しいのでしょ」
「ええ、忙しいわ。あんなに忙しいとは思わなかったわ。本当は今日も日曜日なんですけど、
部活のサブ顧問として出勤しなければならないのですけど、顧問の男の先生の許可を得て、この文化祭に来たのよ」
「そうですか」
「表向きはあなたを座禅会に誘いに来ているのだけれど、自分でもよくわからないの。
そうだ、もしかしたら、あなたに「はだしのゲン」という漫画を読ましたあなたのお母さんの話のことが気になるのかもしれないわ。きっとそうだわ。 その後、夢に現れないの。聞きたいわ。」
小学六年の時、母が病気で死ぬ前にアンネの日記の話をしてくれ、そのあと、日記と映画を見た印象が強く、アリサにその話をよくしたことがある。原爆の恐ろしさを扱った「はだしのゲン」はアンネよりも数年早く読んでいたので、アリサにその時、話した。
「ありますよ。平和の話ですよ」
アリサの目が輝いた。「どんな話」
「夢ですからね。とぎれとぎれの記憶なんで」
「それで、いいわよ」
「戦争が起きないようにするには、市民の力が必要だとか言っていた、それははっきり言っていたから、覚えていますけど、他はね、又、見ると思いますよ」
「それで充分よ。それが聞きたかったの。不思議な夢ね。だって、あたしが求めている言葉が、あなたの夢にあらわれるなんて」
しばらくの沈黙があった。黄金の神秘な沈黙だった。その沈黙の中から、アンネが隠れ家で日記を書いている姿が蜃気楼のように、優紀の目に映った。
「どうしたの?」
「アンネとゲンが話しているのが見えたのです」
「あなたには詩の才能があるのよ。」彼女は全てが分かったとでもいうように「人にレッテルを貼るって、恐ろしい罪よ。ハンセン病の時もそうだった。ナチスのやったことは最悪ね」
松尾はアリサが小声で彼の耳に近づけて話をするのを、 かっての自分の指導者から女への変身という風に感じていた。彼女との最初の出会いは彼が中学三年の時、彼女が教育実習生として来たことに始まる。その時は 「島村アリサ」として来たから、皆、
「島村さん」とか「島村先生」と呼んでいた。後に、堀川と結婚しても松尾は堀川アリサとは呼ばず、口頭でも、島村アリサかアリサと呼んでいた。
松尾は自分がまだ未熟で、世の中についてまだ知らないことが山ほどある、それなのに、いつの間に、自分が男になって、彼女を女として意識しているのが奇妙で恥ずかしかった。
二人の背後にある太い幹の楓の梢が風に揺れた。そして幾枚かの楓の葉がひらひらと二人の前に落ちていく。
「楓の葉が落ちていくわね。まだそれほど紅葉していないのに」とアリサは何かを考えるように言い、一呼吸すると、さらに続けた。
「ところでね。松尾さん。松尾さんの出た中学は荒れていました?」
優紀は驚いて、「え」と聞き返すように、彼女の顔を見た。
「どうしてですか ?ごく普通の中学で、荒れているということはありませんでしたけど。今、噂にあるような荒れた中学ではありませんでした。ごく普通の中学で、落ち着いていたと思いますけど」
松尾はどきりとした。何か秘密を自分に相談するような雰囲気を感じたからだ。
やはり、彼女は先輩以上の神秘な存在なのだ。
「ええ、自分でもだらしないと思っているのですけど、あたしこの頃、うつなの。忙しすぎるのね」と彼女は笑った。優紀には冗談のように聞こえた。
「荒れた学校って、噂で聞いていたけれど、あそこの中学生には一部なんですけど、 授業中、 ガムをかんだりおしゃべりしたりトランプしたりというぐあいなの。注意するとすごむのよ。全く、驚くわ。普通の生徒もそんな雰囲気を面白がっているみたいなのよ」
「剣道二段でも、駄目ですか」
彼女が剣道二段というのは噂で聞いた。が優紀はそのことを聞きたいという気持ちはなかった。たとえ彼女が剣客だったとしても、彼が彼女に魅かれているのはそんなことではない。むしろ、そんな所があったとしても、それをみじんも感じさせない不思議な女性の優しい深い魅力なのである。
「剣道二段?」彼女は苦笑した。「教師が生徒を力で押さえつけろというの。やはり、愛と慈悲心で彼らを導くのが私の義務なのよ」
「それにしても、噂にあるような荒れた中学ってあるんですね。僕も中学の時、随分、悪いことをしたけど、授業中そんな風に先生を無視して騒ぐことはなかったな。」
「一人、暴れん坊君みたいなのがいて、なんだかその子が学校中のそうした傾向を持つ子をオルグしてかき乱しているような所があるわ。 どの先生も指導しきれないでいるのよ。 そして彼はけっこう頭がいいの。自分は先生にしかられるような悪いことはあまりしないのね。彼の子分達が動いているのよ」
「アリサさん、突飛なことを言って、悪いんですけど、その暴れん坊君に僕を会わしていただけません?」
「田蜜君に?」
「ええ、その田蜜っていう男にぜひ会うチャンスを与えてくれませんか」
「会ってどうするの?」
「どうするって、島村先生を困らすやつの顔が見たいし、場合によっては意見してやるつもりです」
「まあ、 いさましいことを考えつくのね。 でも喧嘩になるからやめた方がいいわ」
「いえ、喧嘩はしません。もしするなら徹底的にやつつけます。でもその自信がないから喧嘩はしません。彼をちょっとたぶらかしてやろうと思うだけです」
「あなたの方がそのつもりでも、田蜜君は中々のつわものの非行少年よ。べテランの先生方ですら、抑えられないのよ。一人だけ怖い先生がいるけど、おとなしくしているのはその時だけみたい。高校生のあなたには無理じゃない?」
「そうは思いませんね。少年は先生のいうことはきかなくても、先輩の言うことはきくものですよ。 つまり田蜜君が僕を仲間と思ってくれれば、案外聞いてくれると思いますよ。僕はあくまでも仲間の中の先輩として言いますからね。教師の言うことを聞かないというのは田蜜君が教師を仲間と思っていないからですよ。」
「まあ、 いいわ。会わしてあげてもいいけど、 どこで会うのが一番いいかしらね。そうだわ、私のお寺にしましよう。」
「それは名案です」
一週間後、 日曜日の二時に三人で、島村寺院で
落ち合った。秋が深まり、寺の周囲の桜の木の葉は赤く色づいていた。もみじはまだ緑のものが多いが、いずれ美しい深紅の葉を見せるだろう。寺に入ると、枯山水がよく見える。色即是空空即是色という言葉が優紀の耳に響いた。座禅道場で何度か聞かされた言葉である。しかし優紀には、いい言葉であるという思いはあっても、その神秘の言葉の中身を開ける鍵がどこにあるのかさえ、見当がつかない。それがまた魅力でもあった。
寺院は大きなお寺で、座禅道場の前には、枯山水の砂の広い庭がひろがっていた。寺の裏手は墓地である。
三人は座禅道場の隣の畳の小部屋で対面した。
2
床の間には漢字で仏教の言葉が書かれている掛け軸がある。優紀には読めないが、見事な筆さばきだけは分かる。花が活けてある。薄紫の菊が上の方に伸び、下に白い菊がうずくまるように、美しい花びらをさらしている。その二つの花の間に野ばらの赤い実が沢山まるで小さくしたミカンの群れのように、空間を埋めている。
三人の座る畳の部屋はすっかり静寂に包まれている。時々、小鳥の声が聞こえる。松尾は田蜜の顔を見ると、少年の顔を否定した凄みのある表情にどきりとして、枯山水の庭の方を見る。色即是空空即是色の声が再び耳に響いている。この言葉が聞こえる限り、自分の心は乱されることはないと、優紀は思った。
確かに、田蜜は松尾優紀に強い印象を与えた。
中学校をひっかきまわすだけあって、かなりのつらだましいをしていると優紀は思った。田蜜は背も一七0センチ近い。体格も良い。 もう立派に大人の身体だ。気も強そうである。そして服装は皮ジャンンスタイル。
「堀川さんよ。 俺は座禅なんか嫌だぜ。いったい何の用だい? 俺は三日前の誕生日で、十五になったんだ。男になったということよ。それで、 こんなノッポを護衛に連れてきたりしたのかい。いやだねえ」と田蜜は言った。
松尾優紀は百七十五センチの身長になっていた。 逆三角形の顔立ち。白い肌。ほっそりした身体つき。何か大きなごぼうをたてて、その上に顔が乗っかっている感じに、田蜜の目には映ったに違いない。
「松尾優紀さんっていうのよ。あなたとお話がしたいというので連れてきたの」
「おれと話をしたい。何を話するのさ。おれはむずかしい話はきらいだよ」
「いや、君とむずかしい話なんかするつもりなんかないよ。 ただ、中学校の暴れん坊君の気分で、どんな風かなと思ってね。」
「別にたいしていい気分でもないよ」
アリサは二人を部屋にのこして別の部屋に出ていった。
「いい気分でもないのに、何で暴れん坊君なんかになったんだい?」
「別になりたくってなったわけでもないし、 ただ、喧嘩がめっぽう強かっただけよ。強いからみんなおれの言うことを聞く。 それだけさ。だけどよ。そんなことを聞くために、俺をこんな所に呼びだしたってわけ?」
「こんな所って、 いい、所じゃないか。 アリサさんのお寺だぜ。 君は招待されたんだ。喜んでほしいよ」
「お寺なんておれの柄じゃないよ。堀川さんの水着姿の写真でも見せてくれるなら、今日来たかいもあるんだがなあ。」
「おい、気安く堀川さんなんていうなよ。 おれにとっても先生なんだ」
「あれは先生っていう風にはおれには思えんね。お姉様というか、お嬢さんというか、そんな所じゃないの?おれには先生なんていえないね。あんなに女くさくて先生づらしようたって、 どだい無理さ。まあ生徒指導部の教師みたいに敵とは思っていないがよ。ただ、剣道二段なんだってよ。本当かと、疑いたくなるけど、どうも本当らしい」と言って、彼は笑った。
優紀には剣道二段がどのくらい強いのかも見当がつかない。自分は柔道で初段を取るのに、頑張っても、あと一年はかかると思っていたから、なおさらだ。ただ、彼女は棒さえ持てば、かなりの強さになるのかなと、想像して、何故かおかしくなった。
「ふーん。じゃどうだい。 おれは君の敵かい、味方かい。」
「まあ中間だろうな。敵でも味方でもないというやつよ。君の態度しだいということでしようね。 ハ」
アリサが次の部屋から入ってきた。彼女がお盆に乗せた湯飲みにお茶を入れると、地味な花模様のついた湯飲みから、白い湯気が馥郁たる香気を放ちながら立ち上っていた。
「堀川さんよ。なんでおれはこんな男とかかわりあわなくちゃいけないんだ」
アリサは微笑して言った。 「松尾さんがあなたとお友達になりたいっていうのよ」
「ふうーん。しかし、 おれにはいつぱい友達がいるからよ。わざわざこんなノッボとつきあうこともないよ」
「まあ、 そんなことを言わないで、ゆっくりお話してって」
「まあよ。堀川さんがそういうなら少しの時間、我慢するか」
アリサは笑って、持ってきた手提げ袋から、漫画七冊を重ねて畳の上に出した。
「ああ、はだしのゲン」と松尾はうめくように声を出した。
「松尾君、面白かったわよね。田蜜君に読むの勧めて」とアリサは言った。
「ええ、面白かった。これを田蜜に貸すんですか」
松尾は自宅に持っている。死んだ母が大切にし、母が読むことを勧めた本である。小学五年の時に読んだもので、原爆の悲惨さが描かれ、アリサと親しくなったのも、この本を話題にしたことが大きかったと思われる。
「田蜜君が気に入ったら、あげてもいいわよ」アリサは微笑して立ち上がり、部屋を出て行った。
「漫画なら、読んでもいいですよ」と田蜜が言った。
「君は島村先生の言うことはよくきくんだね」
「島村先生だって。ああ、君は旧姓で呼ぶのか。」と田蜜はぼやいた。
松尾は苦笑した。内心、この少年はおれと同じようにアリサにほれているかもしれないと思っていた。
「堀川さんも先公の一人だからね。先公のいうことはききたくないね。しかし、 ここにいた堀川さんは若い女に見えたんで、ついきいてしまったんだ。」
ハハハと彼は笑った。田蜜鉄男は中学生にしては豪快な笑い方をする少年である。そしてジロリと松尾の方をにらむようにして見る。
松尾優紀はデリケートで気の弱い所もあるからすぐに視線を避けたりするが、 すぐこんな中学生に負けまいと思って彼の方に、にらみかえしたりした。
「君の学校では授業中トランプをしたり将棋をしたりマンガを見ている生徒がいるんだって」
「いるよ。別にかまわんだろ」
「それって、授業妨害じゃないかな」
「そうだろうな、 それがどうかしたのかい」
田蜜はちょっと挑戦的に語調を強めた。
「いや、 そういうことをやめてもらいたいと思ってね。 まじめに勉強したいと思っている生徒が迷惑だろ」
「なに、先公みたいなことを言うやつだな。 しかし言っておくがね。 おれにそんな忠告したって、無駄だよ。 おれは授業がおもしろくないから自分のやりたいことをやるまでよ」
「それじや、犬や猫と同じじゃないか?」
「どうせ、 人間は動物だろ。お前だって犬や猫と変わらないことをやっているんじゃないの」
田蜜はちょっとおそろしい顔つきをして、すごむように松尾を見た。松尾優紀は徴笑した。余裕ある態度を見せることが必要だと思ったからだ。
「おれもよ、中学時代、色々悪いことをやった。けれど、まじめにやりたいと思っている生徒までまきこみはしなかったよ。そりや悪いことをしたい時はおおいにするのもいいかもしれないよ。結局、最後の責任は自分でとるんだから。 しかしなにも他の生徒に迷惑かけることをしなくたっていいと思うがね」
「悪いことをやったって、何をやったんだい。 たいしたことやってないんだろ。それで大きな口をたたくなよな。」
田蜜はちょっとなめらかな抑揚をつけて敵意のない調子になった。 松尾も気をよくして仲間意識を彼に植えつけることが大切と思って、言い続けた。
「おれがやった悪いことかい。色々あるな。その中でも一番の悪は教室であんみつを食べたことだな」と優紀は言った。
これは嘘である。あんみつは田蜜が好きという情報を得ていたから、話の材料に良いと思ったのである。
松尾は田蜜の顔を見た。 田蜜は奇妙な顔をしている。
「何だ、そのあんみつというのは。あんみつを家から持ってきたのか」
「自分で作ったのよ。内の死んだ母さんがつくるのが上手でね。俺はそれを見ていて作れるのさ。俺の席は一番うしろだからな。教師が黒板に書いている時、食ったのよ」
この程度のことじゃ彼は驚かないし、仲間意識を持たないのじゃないのかと思った。
松尾はニヒリズム同盟のことをふと思い出した。ニーチェの考えを地域社会の活性化に役立てようとした風変りな大山という男があんみつが好きだった。彼が入学式でした「地球温暖化を防げ」という演説が目に浮かぶ。
ところで、田蜜はあんみつに反応したのだ。
「君はうらやましい奴だな。俺もあんみつ好きだけれど、今は食えなくなってしまった」
「何で」
「君と同じで、内の婆ちゃんがよくあんみつ食わしてくれたからな。ただ、内の婆ちゃんは自分でつくるのでなくて、店に連れて行って食べさしてくれたのよ」
「じゃ、今度、俺が作って食べさしてあげるよ」
「君がつくったあんみつはうまいのか」
「俺の場合はな、母さんが名人だったから、それを小さい頃から、見て、時には教えてもらった、だからうまいよ。それをあの野美公園でおごってやるよ。」
野美公園というのは大きな池の周囲に広がっているこの町の高台の公園である。瀬戸内海とその周囲の風景が一望の元に見渡せる見晴らしの良い公園である。春には桜、そのあとは、つつじそれから、アジサイそして夏は池に咲く蓮の花と、それに、美術館もある。ただ、野絵の地区とこの公園の間に路面電車が通っている。電車が通る時以外は小鳥の声が聞こえるくらいの静かな市民の憩いの公園である。
「あんみつか、食いたいな。」と田蜜は笑った。
「君はあんみつを一緒に食べる同志と思ったから、こういう誘いをしているのよ」
「君がつくったあんみつ、本当にうまいのか」
田蜜はそれまで、優紀のことを「お前」と呼んでいた。優紀が「君」を使っているのに、先輩に生意気な奴だと思っていた。だが、ここで彼が「君」を使ったことにより話の流れが変わったと思った。
「ま、食べてから、感想言ってくれ。野美公園に屋根のついた所があるよな。あそこのベンチで、食べれば、あんみつ屋で食べるのと同じ雰囲気を味わえる」
田蜜が奇妙な顔をしているので、松尾はなんだかおかしかった。
「それじゃ、 おれの言うことをきいてくれるかい」
田蜜は急にかたい表情になった。
「冗談じゃねえよ。 どうしておれが君の言うことをきかなけりやいけないんだよ」
松尾はしばらく田蜜の目をみつめた。 田蜜にはもう敵意はない。むしろ親しみのこもった目が一種の戯れのような感じで浮遊している。 しかしまだ表情はかたい。
「あんみつ。本当におごるのか」
「ああ、おごるよ。 じゃ、君は松山中学の暴れん坊君なんだからさ、 学校中が静かに授業かできるようになるように君の仲間に言ってくれないか。それから教師に対する反抗もやめるように言ってほしいんだ。」
「ふーん。 そんなことならやってあげるよ」
「島村先生に聞いてそれがうまくいったようだったら、僕は君を電話で野美公園に呼びだしてあげるから、その時あんみつをおごるよ」
「うそはつかんだろうな」
「馬鹿なことはいうな。おれはうそはつかんよ。 そのかわり君の方も今言ったことを徹底してやってもらいたいね。 その成果を見るためにも、君を呼ぶのは一カ月後にするだろ」
「それで、あんみつはいつ」
「今度さ」
「そうだよ。 あたりまえだ。松山中の雰囲気が正常になったかどうかは一ヶ月ぐらい様子を見なくちゃ、わからんだろう」
「よし、 いいだろ。 しかし、 もしも君がうそをついたら、 おれは君に復しゅうするぜ」
田蜜はちょっと笑いながら言った。
「おい、あんみつぐらいで脅かすのか、おそろしい男だね。 まあ、 おれを信用して、 ともかくよ。 松山中学の仲間に授業中の態度と教師に対する態度とを改めるようにしろといえよ。」
「わかったよ。 特に堀川先生に対する態度をきちんとしろと言いたいんでしよ。 わかってますよ。 あんたが堀川アリサさんにほれているというくらい」
松尾と田蜜は肝心の話をそのくらいにして、他の雑談をそのあと十分ぐらいかけて、別れた。 アリサは寺院の玄関にまで見送りにきた。
「先生!しばらくたったら、松山中はものすごく静かになりますよ。」
田蜜鉄男が笑った。
「へえ、 そうなってくれるとうれしいわ。どんな話を松尾さんとしたのか知らないけどあなたが静かになれは他の子も静かになるかもしれないわ」
禅寺の門の周囲がもみじの紅葉が見事だった。優紀が階段に足を置いて、ふと向こうをみると、瀬戸内海の海に夕日がまさに落ちようとしていた。永遠を象徴するように、」
海と空の溶け合う荘厳なひと時があたりを支配しようとしていた。
「綺麗ですね」と優紀は言った。
「ええ、夕日ももみじも綺麗ね。」とアリサは答えた。田蜜は沈黙していた。
優紀はふと、自分の母校の校旗に縫い込まれた織物の風景がここから見たものではないかと想像した。夕日と海と溶け合う光景が校旗に織り込まれている。
まさに永遠を意味する神秘な光景だと思った。
3
十一月の半ば。田蜜と約束をしてから、二週間たった日曜日の午後、ブルーのカーディガンとデニムパンツに身を包んだ松尾優紀はアリサと例の野美公園で会った。アリサはベージュ色の気品のあるスプリングコートを着ていた。
青空には白い雲が動いている。桜の木が紅葉している。白っぽくなった地面に落ちている赤い枯葉が美しい。心地よい陽射しの当たるベンチを選び、二人は座って話をした。
「田蜜君にこの間、ここであんみつおごったんですよ」
「彼、満足したの」
「満足というより、喜んでいましたよ。なにしろ、あんみつには彼の亡くなったおばあちゃんの思い出が埋まっているのですからね。」
「そう」
「僕だって、お母さんの思い出は懐かしい」
「最近は夢を見ないの」
「母の夢は見ますよ。アンネの日記は夜、風呂から出て、寝るまでの間に時々読みますからね。既に全文読んでいるわけですから、ぱらぱらめくって開いた所から、数ページ読んで寝るんです。そのせいか、アンネと母の顔が出てくることがありますよ。
この間なんか、ニヒリズム同盟をあんみつ同盟と名前を変更しろなんて言って来ましたね」
亡くなった母は大山という男を知っていたのだろうか。彼は現代日本はニヒリズムに汚染されているからと言って、弱者救済のNPOニヒリズム同盟に取り組んでいる。
「あんみつ同盟とかニヒリズム克服同盟というのなら、面白いけど、大山さんは賛成しないでしょう」
「大山さんの話によると、ニヒリズムという人生に意味がないという言葉の奥に、ニーチェは克服の意味を込めているのだそうです」
公園の緑の梢がさらさらと優しい音をたてた。しじゅうからが鳴いた。続けてカラスが勢いよく鳴いて飛び立った。
「堀川さんは忙しいの」と優紀は聞いた。彼には気になる相手で、聞きたいことは山ほどあるが、出で来る言葉はそんな単純な言葉だった。
「今、仕事でアメリカに行ってるわ」
「寂しいでしょう」
「そうね」アリサは微笑した。堀川とアリサの関係が微妙な関係にあることを、優紀は感じたが深読みという誤解もありうるという反省の心も働いた。アリサはただ寺の座禅道場に自分を誘いたいだけなのを自分が勘違いしているだけなのかもしれないと。
「ところでね。松山中のことだけど、あなたと田蜜君の間でどんな会話がかわされたのか知らないけど、あれ以来授業がとてもやりやすくなったわ。田蜜君も彼の友達もみんな急におとなしくなってね。前のように授業妨害をしなくなったわ。あまり急に変わったので教師もきつねにつままれたように驚いているわ。」
「そうですか。そんなに変わりましたか。それじゃ田蜜のやつ、約束を守ってくれたんですね」
島村は美しく大きく澄んだ瞳を松尾優紀にむけた。松尾はその瞳をまぶしいものを見るように見つめた。
「どんな約束?」
「ええ、ただ田蜜が彼の仲間達に授業妨害や教師への反抗をさせないようにするという約束ですよ」
「まあ、すばらしい約束ね。でもよくそんなことを田蜜君が承知したわね。どんな風に話をしたのかしら?」
「それは僕の会話の腕ですよ」
それで、あんみつの話をした。
「え、それ、あなた作ったの。大変だったでしょう。あれって、スーパーで売っているのよ。」
「スーパーで売っているんですか。でも、作るの大変だったけれど、母さんが後ろにいて教えているような気がして、不思議に苦にならなかったですよ。残りは両親に食べてもらったし、僕は家に帰ると、数日おやつに困らなかった。」
松尾はちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめながら軽く笑った。
「あら、そう、本当にすごい腕ね。感心しちゃったわ」
松尾は微笑していた。母の笑顔が目の前に浮かんだ。ニヒリズム同盟をあんみつ同盟に名前変更できれば面白いなと優紀は思って、これをアリサに言おうと思って、しばらく沈黙していた。
「でもね、松尾さん。あたし」
アリサはそこまで言って沈黙した。
カラスが何かの吠えるような大きな声をたてて、飛び立った。猫が二人の前を悠然と歩いていた。
「 せつかく松山中も静かに授業ができるようになって、良かったですね」
「ええ、でも以前は、子供ってただ可愛いと思っていたわ。でも、実際にあつかってみると、子供が純なものを失なってしまっているのね。大人の責任でしようけど。」
そこで、アリサはまた沈黙した。何かを言おうとしているのだが、ためらっているようにも思えた
「それからね、私は父から託された使命があるのよ。これは秘密よ。核兵器のない軍縮を目指す世界をつくるというのね。誇大妄想と思われるかもしれないけど、偉い政治家にまかせておくと、戦争になるというのは過去に証明されたわ。今は2002年ね。若い人が世界の若者とインターネットで手を結び、世界に軍縮を働きかけ、偉い政治家を動かすのよ。それには、映像が一番いいわ。
堀川の話では、アメリカでユーチューブが盛んとか、もうすぐ日本にも入ってくると聞いているのよ。ユーチューブについては、まだ分からない所があるから、当分は自前の映画をつくる気持ちよ」
「それは凄い。でも、核兵器をつくるかつくらないかはトップの政治家が握っているのでしょ」
「でも、その政治家を選ぶのは市民よ。日本では選挙権は十八才までに、引き下げられたわ。あなたももうすぐですよね」
「ええ」と優紀は返事をしても、まだ遠い先のことのように思える。
「私、いずれ、お寺の仕事をしばらくお手伝いしながら、映像の下準備ということで、小説やシナリオを書くつもりよ。」
「へえ、小説ですか。 どんなものを書くんですか?」
「大学時代に書いた学園ものの小説があるのね。 それはまだ完成していないです。それでも、原稿用紙で三百枚くらい書いてあるの。いじめがテーマね。今の社会って、ひどい競争社会でしょう。子供の時から、大人になっても、競争ですからね。大人になると、たいていの人は自分がこの競争社会で勝ち抜いてきたのか、負けてきたのかというのを心の底に隠し持っている。それで、毎日の生活に追われている。その中での人間関係って、子供でも、大人でも、横の太い絆が断ち切られ、細く、ようやく繋がっている人もいる。子供は正直だから、露骨に言葉に出す。それが友情になることもあれば、いじめになることもある。禅でいう愛語がないのね。
一年間の教師生活で経験したことを参考にして、 この原稿を愛語という柱を入れて人間関係を復活させる試みをしたいのよ。 この小説を発表したら、その次は平和を題材にしたシナリオを書いてみようと思う。今は人類の危機という認識から、核兵器をなくすには人間の価値観をどう変えたらいいのかということをテーマにしたいわ」
島村アリサの目がキラキラ輝いた。
「そのシナリオを映像にするわけですか」
「そうね。映像は迫力があるから、多くの人を引き付けますからね。今はビデオカメラがあるから、手軽にできますから」
「ビデオカメラですか。僕もいずれはアリサさんの真似をしたい気持ちもあるけど、今は、読書と試作ですね」
しばらくの沈黙。そよ風と日射しは心地よかった。小春日和を思わせる。路面電車を通る音が消えると、あとは沢山の小鳥の鳴き声が静かに聞こえてくる。
優紀は思った。自分はアリサより六才も若い。彼女の言うことを真似しようとしたら、ヒマラヤに登るような思いで、直ぐには無理だ。その山頂から見る風景は素晴らしいでしょうけど、今は自分を鍛える時だ思った。
「ところで、あなたは高校生になってからお寺の座禅会には出なくなってしまったけど。ああ、 一度だけ出たことがありましたつけ。中学生の時はよく来てくれたわね。どちらにしても最近はほとんど出ていないわね。あたしとしては出て勉強してほしいわ。また出てくださらない?」
「ええ、でも、座禅にはちょっと出られないんです」
松尾はもうしわけなさそうな口調でそう言った。
「どうして?」
「それは今の僕の生活があまりにも仏の教えと反することをやっていますし、それに座禅ってただ座っているだけでしょ。それよりも柔道で早く強くなりたい」
「そう、まだ高校生ですもの、何もそんなに急ぐことはないわ。でも、座禅って何もしないで、ただ座っているだけというのは少し違うと思うの。
確かに、私達の普通の生活はいつも何か目的を持っている。会社の仕事だって、競争があるから、早く利益を上げられるような方式を考え、その目的に一番良い会社のシステムを考え、全員が一丸となって、目的に向かって進む。
社会全体としても、経済が成長するように、ともかく目的を立てる。それはそれなりに、人間の生活にとって重要なこと。でもね、人間ってそれだけではない。霊性というのがあるの。
今の学校の現場はそういうことを教える時と場が全くない。結論的に言えば、競争と勝つための努力が称賛される価値観を生徒に植え付けてしまうのよ。
程よい競争は社会的にはメリットがあるけれども、目的をたてて競争する生き方ばかり、やっていると、霊性を見失うのよ。人間の最も神秘なところが見失われてしまうのよ。座禅のように、目的を持った生き方、そういう荷物を一度降ろして、無我になって、ただ座る。
悟りなんて大それたことでなくていい、ただ座る、人生に取ってそれが大事なことなんだという日がいつかきますよ」
いつの間にか、西の夕日に向かって座っている猫がいる。ちょっと声をかけると、軽く首をこちらに向けるが、直ぐに西に向かって座って静かに座っている。
まるで猫の座禅みたいだ。そのことをアリサに言うと、「無仏性の姿のようにも思える。猫にも霊性があるということよ。人間はあれこれ考えるから仏性を見失う。思考を止めるのよ。その時、目に見えない形のないいのちが、座禅する姿に現れると言うわ」
その猫が何か神々しい神秘ないのちを表現しているように、優紀には思えた。
「思考を止める。やさしそうで、難しいのかもしれませんね。いつの日か、僕が本気に座禅する時が来ますよ」
優紀にとって、座禅会に出れば、アリサにしょっちゅう会えるではないか。それなのに、行こうとしない自分が不可解だった。
4
猫を見ていると、猫の頭上の虚空で、アンネと母が賛美歌を歌っているように思えた。それを察知したかのように、アリサは「あなたはクリスマスはやるの」と聞いた。
「ええ、やります。親父が内村鑑三を尊敬していますから」
「それでは、あなたのお家はクリスチャンということになるの」
「いいえ、親父は無教会主義で、母の実家が浄土真宗です。どちらも、自分の主義を注入しようという雰囲気はありませんから、今の日本みたいに、クリスマスがくるとお祭りの一種としてやるだけです」
「西欧では、クリスマスは、キリストの誕生した日ですから、大切な日なんです。キリストは私達の座禅の立場から見れば、聖霊が舞い降りた人物であると同時に、悟りをひらいた人と私は解釈しています。修業して、罪に汚れた人間が無我になることにより自己の中にある神性を見出す。つまり聖霊が舞い降りてくる。仏教ではこれを法身とかダルマとか言っても良いかと思います。禅では仏性とか無仏性というのが一番近い言葉でしょうね。
キリストはゴッドという神の信仰に生きるユダヤ教の中で育ち、自己の神性を自覚した人なんだと思います。
キリストも自己の神性を知った時、当時、苦しんでいる人達に対して救いたいという愛の気持がおきたのですね。仏教的な感覚で言うならばどんな人間でもキリストのようになれるわけですが、 実際、 キリストのようになった人は歴史上、 数は多くありません。法然は比叡山で修行し、地位の高いお坊さんになれたのに、京都の人生に絶望した貧しい人達を救うために、京都に出て、南無阿弥陀仏を言うだけで、極楽浄土に行けると革命的なこと言ったといわれています。そこで親鸞に出会ったわけですね。
その当時の民衆にしたって、修業して悟るというよりはキリストの手にふれることにより永遠のいのちに入れるという信仰の方が親しみやすかったのだと思います。 科学的合理主義を価値観とする現代に住む私達にとっては、法然の分かりやすさ、キリストに対する親しみやすさが逆に信仰へのトビラをとざしてしまっているのです。禅でも、同じことが言えます。現代人はニヒリズムをなんとなく受けいれながら、それでは生きていけないという状況にあるのですよ。 」
島村アリサがここまで言った時、松尾優紀の頭にニヒリズム同盟が頭に浮かんだ。
「ニヒリズムでは生きていけませんか ?」
「あたしにとってニヒリズムという言葉は何の意味もなく死のように空しく響きます。大山さんは発明家で、ソーラーカーで、ユーラシア大陸の旅に出たいといったり、それは無理だから、今は弱者救済をするとか、そこまではいいとしても、高校生をメンバーにしているのでしょ。あんみつがよく出されるらしけど、あれは若い人を誘う手段だと思うわ。
あなたも出入りしているとか噂を聞くと、戸惑うわ。それで、座禅会にこれなくなくなるのではと思ってしまうわ」
優紀はそうではないと思った。こうして長く話していることの中にも、喜びとともに、悲しみのような魂の苦がある。それを感じているからこそ、自分は故意にニヒリズム同盟なんて場所に行くのだ、と内心の声がささやくのだ。
野美公園は、まだ六時だというのに、すでに外は夜の闇に包まれていた。ひんやりとした空気がいつのまにか晩秋になっていたことを二人に感じさせるのだった。 近くの公園の樹木から落ちる木の葉がものがなしく、裸になりかけた銀杏の並木は冬の到来を暗示していた。
二人はしばらく公園を歩いた。公園のべンチに腰をかけて、そうした自然の気配に耳を傾けた。 しばらく沈黙しながら、都会の雑踏がしのびこんでくる不思議な静寂を味わった。夜空には、星がまたたいている。星に視線をむけていた二人は沈黙に耐えかねたかのように深い呼吸をして、会話を始めた。
「あたしね、時々思うことがあるの。 何か胸が熱くなって、この自然の中で座禅をしてみたいと思うことがあるの。自然が好きなのね。お釈迦様がお悟りになったのだって、森の中でしょう。お寺の座禅道場で座っていても、いつ悟れるのかしらと、思うの。ですから、こうやってあなたを誘っても、本当はたいした意味があるように思えないことがあるの。それより、読書や勉強や柔道などいくらでも、青春の盛りにはやることが、あるじゃないのって思うわ。
でも、そう思うことがあるっていうだけよ。やはり座禅は大切だわ。神秘な宇宙のいのちの世界を見つける稀有な機会ですもの。それが見つかれば、本物の大慈悲心と愛が生まれる。そうすれば、世界で苦しんでいる人達の声に耳をすまし、助けたいという気持ちが起こるのだと思うわ。」
「なんとなく、分かるような気がしますよ。核兵器をなくすというテーマの映像を作りたいと言われるのも、そういう愛から生まれるわけですね」
「そう。魔法の扉を開けるのよ。みんな、そんなことを考えるなんて誇大妄想だなんて、諦めてしまっている。あなたの詩に魔法の扉を開けると、宇宙は一変するというのがありましたね。若いんだから、挑戦してみるのよ」とアリサは言った。優紀は以前、書いた自分の詩を思いだした。彼女がおぼえていてくれたことが嬉しかった。
川のせせらぎの音がきこえた。木の梢の音が聞こえた。鳥の鳴き声が聞こえた。空には白い月が地上を照らし、猫のように、悠然と座禅しているように思える。。
松尾にはいまだに神仏を肯定できない自分を感じていた。そのためか、神がいなければすべてが許されると大小説の中で言った登場人物の考えには何か得体のしれない不安を感じるのだった。それに内的には性の衝動が激しい年頃に入っている。
しかし大山さんの言うことにも矛盾がある。社会の悪を追放し、平和になったら、いずれユーラシア大陸を遍歴の旅に出たいと言っているが、そんな時は近い内に訪れる気配はないでは、ないか。
この場合の悪というのは何だろう。それにしても全てが許されるという言葉は恐ろしい。悪は許されないと人が思うのは、神仏がいるという証拠なのではないか。
既に大きな悪はなされている。戦争がそうだった。原爆は巨大な悪だった。東京を襲った爆撃も凄かった。住宅地を取り囲むようにして、逃げられないように爆撃したあと、焼い弾の残酷な嵐が来る。あれは戦争の悪そのものではなかったか。戦争そのものが悪い。
ナチスの悪もすさまじい。
そう言えば、アンネと母の夢をつい数日前に見たことがある。アンネと母が郊外であんみつを食べている至福の時に、青空にピカッと光るものがあり、原爆が落ちたのだ。幽霊になったアンネと母は核兵器をなくせと叫んで消えた。
【すみません。このあとは電子書籍にしたPuboo【パブ―】で読んで下さい。無料です。 】
【参考に】に、後編の最後にエピローグを加筆したので、そこだけ掲載しておきます。
エピローグ『SDGs』
この物語が終わる頃、そのあとに、国連では、MDGsからSDGsの動きがあった。
それ故にこそ、この物語のように、平和産業が動き出すのも意味あることではないか。
SDGsは一人一人の市民にも呼び掛ける。つまり、物語の平和産業が動き出すということは一人一人の市民から「核兵器をなくそう」という声があがることにねらいがあると思われる。それは、国民の意思となり、核大国の政治家を動かしていくのではないだろうか。
このことが大切ではないだろうかと思われる。
なぜなら、 2021年に核兵器禁止条約が出来ても、事態は良い方向に、進まないのは多くの国の国民の声にならないからだと思われる。SDGsが声をあげ、核大国の国民が「核兵器をなくそう」という声をあげることが大切なのではなかろうか。
それ故にこそ、SDGsに「核兵器をなくそう」の項目を入れて、世界の企業も含め、特に核大国の市民に呼び掛けることが大切なのではなかろうか。
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