森(poem) 無限の一なる生命(仏性)
【 僕は小鳥の夢を見る
そこは里山に近い小さな森の中だった。
樹木の枝に、メジロがいる
全身は黄緑に近く、腹は白っぽい
くちばしは小さく、よく口をあけて鳴く
鳴き声は素晴らしい。
「メジロ君、君の声は素晴らしいよ」
メジロは雀のようによく首を動かす
こんな可愛い生き物を創造する自然はやはり偉大だ
何しろ、仏性の現われだからな。
柳のたれる小川のあたりにはカワセミがいる。
ブルーの背中と長いとがったくちばし、茶色の腹
鳴き声はピーと澄んだ声
それに、魚を口ばしで素早くつかまえるカワセミの素早さは驚くね
僕は川のそばの草のはえた所を選んで横になり、
空を見る
色んな樹木がはえ、樹木の間に花と青空が見える
仏性は木にも花にも青空にもなる。
青い鳥といえばルリビタキとオオルリ。
ルリビタキは明るい青色の羽、口ばしは小さい 黒い眼 腹の白さ
オオルリは濃い青色
両方、真珠のように美しい。
仏性は人の呼吸にもなるし、見ることによって宝石のような鳥にもなる。
仏性は無限の一なる生命で、物の根源なの(空)だから
オオタカとカラスの争いも見た。
凄い。オオタカは猛禽類ですから、カラスより少し強い
空を舞う沢山のカラスは仲間を応援しているのだが、
協力して上から次々と急降下して顔を攻撃すれば、オオタカは下のカラスを離すだろう
からすは頭がいいというけれど、協力を前に一歩進める知恵がないのであろうか
抑え込まれたカラスはやがて死に、餌になる
オオタカは絶滅危惧種だから、大切な生き物
人類が栄えたのは協力という知恵があったからではないか
僕は夢から覚めてそう思った。
慈悲と協力という知恵を忘れた時に、戦争が起きるのではないか
科学が発達したのは、歴史の中で多くの人の協力したその賜物
ただ科学は人間に多くの恩恵をもたらしたけれど、
二ュ―トンのような固定した価値観を与えてしまったのではないか
その価値観を瞑想すれば
そこには無限のいのちと法が躍動する浄土があるのではないか
そこは人間が廃墟と見るところも
無位の真人に気がついた人から見れば、
そこは美しい光とそよ風があり、平和に満ち、天使と妖精が歌を歌い
森と丘のような沃野には、宝石のような輝きに包まれ
素晴らしい果物と花に満ちた樹木が青空のような湖水にはえ、
素朴な人達が踊りを踊っている
その風景を見れば、誰の心にも愛と大慈悲心が湧きたつ
これからは宇宙時代
宇宙に飛び立つのも平和と協力があってこそ、人類の英知が生きる
宇宙の軍事基地などもっての他
いつの頃からか、森の中の小鳥のさえずりがうらやましくなった。
小鳥のさえずりは美しい
それに比べ、ヒトは無意味な沈黙と奇妙な噂話に夢中になった。
ことばの堕落
その挙句が膨大な軍拡競争と気象温暖化
僕は森の小鳥の夢を見て、人類のリスクを思い、慄然とした。そして、宇宙の銀河の美しさにも目を向ける。
人類の英知を働かせば。
多くのリスクー核兵器と気象温暖化などを克服できるのではないか。
子孫のためにも頑張ろう
さあ、熱いコーヒ―を飲もう 】
こうして詩を書いたり、日当たりの良い所に座り、瞑想に耽ったり、「ワールデンの森」を読むのが私は好きである。何故なら、著者ソローはこのような生活が一番素晴らしいとほめてくれているのだから、嬉しくなる。
ソローは言う「ときどき、夏の朝など、いつものように水浴をすませたあと、日の出から昼まで松やヒッコリーやウルシに囲まれ、乱されることのない孤独と静寂のなかで、ぼくは日当たりのいい戸口にすわり、物思いにふけっていた。周囲では、鳥がうたったり、音もなく家をとびぬけていった。
そうして、西側の窓にさしこんでくる夕日や、遠くの街角を行く旅人の馬車の音で、時の流れに気づくのだった。」
全く、このソローの森での生活は、空想上の今の私の生活と少し似ている。
その威容にうたれ、しばらく座禅をする。
時のたつのを忘れている。
ソローも書いている。
「瞑想とか仕事の放棄ということで、東洋の人々が何をいおうとしているのかを悟った。
だいたいいつでも、ぼくは時がすぎてゆくのを気にとめていなかった。
まるでぼくの仕事に光を当てるかのように一日がたっていた。
さっきまで朝だったのに、それがどうだ、もう夕方だ。記憶に残しておくようなことは何も果たせなかった。鳥のようにうたうかわりに、ぼくは自分の絶え間ない幸運に静かにほほえみかけていた。ドアの前のヒッコリーにとまってスズメがさえずるように、ぼくは スズメがぼくの巣のなかから聞こえてくるのを耳にするかもしれないクスクス笑いや、かみ殺したようなさえずりを身につけていた」【真崎義博 訳 】
素晴らしい詩人である。私はこのような森がかっては、日本に沢山あったと聞いている。
確かに、今でも、国土の三分の二を森林が占めているし、森林公園もある。しかし、人間に優しい森が徐々に破壊されて、今や鎮守の森ですら、相当減ったと聞いている。
私はこのように、瞑想にふける場所が減るとは嘆かわしいと考える。
森があれば、そこで星の王子さまと巡り合えるような気がするのである。
私のある日、見た空想。
「ぼくの星に、今度、森をつくったんだ」と王子さまが日差しが射しこむ森の中で、すくっと立って、ほほえみました。
「え、あんな小さな星に? 」と私は驚いて言いました。
「ううん、森が欲しくなったので、もう少し大きな星に引っ越した。そこにはキツネもいるし、薔薇もいくつか咲いているよ。君も閑だったら、来てみないかい」
「え、ぼくが。ぼく、今忙しいんだ」
「何言っているんだ。いつも居眠りばかりしているくせに」
「あれは、ソロー先生が瞑想だって、いいことだって教えてくれたからさ」
「確かにね。瞑想は素晴らしいよ」
「瞑想していると、王子さまと心の通信ができているような気がするんだ」
「ああ、それはぼくも同じ。それで、森をつくったんだ」
「バオバブの木は」
「うん、バオバブは前の小さな星では、根がはびこるので、大変だった。でも、今の星は一本ぐらいなら大丈夫だよ。でも、もっと素晴らしい樹木を植えているのさ。ケヤキの木とシイの木、クスノキがいいよ。これだと、とても気がやすまるし」
「里山資本主義」の著者は、化石燃料さえも捨て、木材の燃料に切り替えたオーストリアを見なさいって、言っていますよ。
今まで、見捨てられていた木材を活用すれば、エネルギー源にもなるし、低コストで生活できるし、高層建築用の鉄筋コンクリートの代わりに木材での高層建築も可能。(そういう技術が確立されたのだそうです) それを示したのが脱原発を憲法に明記しているオーストリアだそうだ。
貧乏だった町が外からのエネルギーを断り、原発も断り、木材のエネルギーを活用したことにより、一般家庭にまで及ぶ地域暖房を実現し、経済も豊かになったとある。
私の空想の町では、そうした科学技術を基礎にした労働に喜びのある工場と農場が基本である。
人間が人間らしい労働する場が提供され、生活するだけの賃金が支払われる。それは当然のことである。私の町には、その他にも森があり、川や緑のある人間に優しい里山がある。
そこに神社の鎮守の森があり、寺がある。そして野良猫が大切にされている。そこに座禅道場があるのも良い。気功道場があるのも良い。
私はふと、良寛の次のような漢詩を思い出す。何か、ソローと似たセンスがそこにはある。
生涯 身を立つるにものうく
とうとう天真に任す
のう中三升の米
炉辺一束の薪
誰か問はん迷う悟の跡
何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵の裏
双脚等閑に伸ばす 【Soukyaku Toukan Ni Nobasu 】
【生計をたて、官に生きるのが下手で、のほほんのほんと、木地のままでいる。托鉢袋には、三升の米があり、炉のそばに、薪が一たばある。迷いとか悟りとか、他人のあしあとを気にせず、浮世の名利など、何の関係もない。草屋根をうつ、夜半の雨音をきいていると、二本の脚が思わず前にのびている。 】(柳田聖山訳 )
良寛と言えば禅である。彼は悟りの境地に達して、和歌や漢詩を書いていたのだが、それを理解した人は当時の江戸時代には、ごくわずかだったようだ。
さて、禅では、究極の悟りは心身脱落であるが、結局、自我が抜け落ち、宇宙と一体になる。
つまり、大自然と一体になる。そのためには、森が必要なのである。
その悟りの境地を示した宋の有名な詩人「蘇東坡」は、谷川は仏の説法と言っている
渓声はすなわち是れ広長舌。 【Keisei wa Sunawachi Kore kouchouzetu 】
山色は清浄身に非ざる無し。 【Sanshoku wa Shoujoushin ni Arazaru Nashi】
夜来 八方四千の偈 【Yarai HachimanYonsen no Ge 】
他日 いかんぞ 人に挙似せん【Tajitu Ikanzo Hitoni Koji Sen 】
要は滝の音が仏の説法に聞こえるということであろうか。大自然そのものは仏の説法なのである。いや、全てがそうだ。街を行きかう、空の雲も春の風の訪れも、満開の桜の花も、チューリップもすみれの花も、全てが仏の説法。仏が我々に顔を見せているのである。しかし、残念ながら、我々はそれに気がつかない。この場合、仏とは何か。本来、言葉で指し示すことが出来ない。形もない。色もない。目に見えない。しかし、我々をいかしている究極の不生不滅の大きないのちの力とでも形容したらよいだろうか。宇宙生命とよんでも良い。純粋生命とよんでも良い。神とよんでもいい。ただ、「生命」と呼ぶ人もいるかもしれない。医学は、その仏が生命エネルギーとなり、物質化した人間の形の部分を扱い、生命がどのようにして、形となり、六十兆の細胞がどのような連携をして、独りの人間をつくりあげているかを探求している。
生命エネルギーつまり目に見えない「無限の一なる生命」そのものを科学は扱うことは出来ない。何故なら、それは目に見えない、つまり、計器の網にひっかからないのものであるから。
こういう実験からも明らかであろう。 最近の科学の報道によると、何千ものES細胞を、培養液の中で培養させていき、それなりの器官になるように誘導すると、自然に細胞どおしが連絡しあって、その器官になっていく、つまり、細胞は自然に自己組織化するというのである。
色を見る、音を聴く、つまり、風景を見る、音楽を聴く、これは生命そのものなのではないか。つまり、空即是色。空とは一なる生命。つまり、全世界は一個の生命。全世界は一個の明珠。それが色(しき)となる。森羅万象の世界が現象するのである。
目に見えない【無限の一なる生命】こそ、神とも仏ともよばれる根源的な存在であって、我々人間や動物や地球や様々な風景をつくっているのである。この「一なる生命」のことを道元は「仏性」と呼んでいるのではないか。
【一なる生命】だから、道元は仏性を「全世界は一個の明珠」であると表現したのだと思う。
我々文明人はこの「無限の一なる生命」つまり「仏性」を見失っている。
それを回復するためには、我々の住む町に、森をつくることである。水車をつくることである。
森があれば、育つ子供たちにこういう素晴らしい思い出を残すことが出来るという証明に、
ドストエフスキーの小説「貧しき人々」の中の森の描写が良い。
女主人公が子供の頃の思い出を語る場面がある。
【
草に露が宿り、湖畔に並ぶ百姓家にあかりが灯り、家畜の群れが家路につくころ――そんな時に私は湖を見るためにそっと家を抜け出して行き、私の湖にいつまでもじっと見とれていたものでした。
水辺のすぐそばで 漁師たちが枯れ枝か何かを焚いており、その光が水面を遥か彼方まで伝っています。空は冷たい群青(ぐんじょう)色で、地平線の辺りには赤く燃えるような帯が幾筋も伸びているのですが、その帯が時間のたつにつれ少しずつ薄い色になってゆき、月が出ます。
空気は澄み渡ってよく音が響き、小鳥が何かにびくっと驚いて飛び立っても、微かな風に葦(あし)がそよいでも、水の中でぱしゃりと魚が跳ねても―――何もかもがよく聞こえました。
群青色の水の上に、白く透けるような蒸気がうっすらと立ち昇ります。
【略】
でも翌朝は一輪の花のように爽やかな気分で目覚めます。窓の外を覗くと、野原一面、寒気に包まれ、すっかり葉を落として裸になった枝に秋の霜がうっすらと降り、湖には紙のように薄い氷が張り、湖面に白い蒸気が立ち昇っています。小鳥たちも楽しげに歌っています。太陽の光がキラキラと輝き、その光線が薄氷をガラスのように割ってゆくのです。なんて明るくキラキラして、楽しいんでしょう。
暖炉ではまた薪がはぜ 皆がサモワールを囲んで座ります。
それを一晩中寒さで震えていたうちの黒犬のポルカンが 窓の外から覗き込み、人懐っこく尻尾を振ってみせるのです。
元気のよい馬に乗ったお百姓のおじさんが 窓の外を通って、森へ薪をきりに行きます。 皆が満ち足りて、皆が幸せでした !・・・・・・
ああ、私の子供時代はなんという黄金時代だったのでしょう ! ・・・・・】
【安岡治子 訳】
【 僕は小鳥の夢を見る
そこは里山に近い小さな森の中だった。
樹木の枝に、メジロがいる
全身は黄緑に近く、腹は白っぽい
くちばしは小さく、よく口をあけて鳴く
鳴き声は素晴らしい。
「メジロ君、君の声は素晴らしいよ」
メジロは雀のようによく首を動かす
こんな可愛い生き物を創造する自然はやはり偉大だ
何しろ、仏性の現われだからな。
柳のたれる小川のあたりにはカワセミがいる。
ブルーの背中と長いとがったくちばし、茶色の腹
鳴き声はピーと澄んだ声
それに、魚を口ばしで素早くつかまえるカワセミの素早さは驚くね
僕は川のそばの草のはえた所を選んで横になり、
空を見る
色んな樹木がはえ、樹木の間に花と青空が見える
仏性は木にも花にも青空にもなる。
青い鳥といえばルリビタキとオオルリ。
ルリビタキは明るい青色の羽、口ばしは小さい 黒い眼 腹の白さ
オオルリは濃い青色
両方、真珠のように美しい。
仏性は人の呼吸にもなるし、見ることによって宝石のような鳥にもなる。
仏性は無限の一なる生命で、物の根源なの(空)だから
オオタカとカラスの争いも見た。
凄い。オオタカは猛禽類ですから、カラスより少し強い
空を舞う沢山のカラスは仲間を応援しているのだが、
協力して上から次々と急降下して顔を攻撃すれば、オオタカは下のカラスを離すだろう
からすは頭がいいというけれど、協力を前に一歩進める知恵がないのであろうか
抑え込まれたカラスはやがて死に、餌になる
オオタカは絶滅危惧種だから、大切な生き物
人類が栄えたのは協力という知恵があったからではないか
僕は夢から覚めてそう思った。
慈悲と協力という知恵を忘れた時に、戦争が起きるのではないか
科学が発達したのは、歴史の中で多くの人の協力したその賜物
ただ科学は人間に多くの恩恵をもたらしたけれど、
二ュ―トンのような固定した価値観を与えてしまったのではないか
その価値観を瞑想すれば
そこには無限のいのちと法が躍動する浄土があるのではないか
そこは人間が廃墟と見るところも
無位の真人に気がついた人から見れば、
そこは美しい光とそよ風があり、平和に満ち、天使と妖精が歌を歌い
森と丘のような沃野には、宝石のような輝きに包まれ
素晴らしい果物と花に満ちた樹木が青空のような湖水にはえ、
素朴な人達が踊りを踊っている
その風景を見れば、誰の心にも愛と大慈悲心が湧きたつ
これからは宇宙時代
宇宙に飛び立つのも平和と協力があってこそ、人類の英知が生きる
宇宙の軍事基地などもっての他
いつの頃からか、森の中の小鳥のさえずりがうらやましくなった。
小鳥のさえずりは美しい
それに比べ、ヒトは無意味な沈黙と奇妙な噂話に夢中になった。
ことばの堕落
その挙句が膨大な軍拡競争と気象温暖化
僕は森の小鳥の夢を見て、人類のリスクを思い、慄然とした。そして、宇宙の銀河の美しさにも目を向ける。
人類の英知を働かせば。
多くのリスクー核兵器と気象温暖化などを克服できるのではないか。
子孫のためにも頑張ろう
さあ、熱いコーヒ―を飲もう 】
こうして詩を書いたり、日当たりの良い所に座り、瞑想に耽ったり、「ワールデンの森」を読むのが私は好きである。何故なら、著者ソローはこのような生活が一番素晴らしいとほめてくれているのだから、嬉しくなる。
ソローは言う「ときどき、夏の朝など、いつものように水浴をすませたあと、日の出から昼まで松やヒッコリーやウルシに囲まれ、乱されることのない孤独と静寂のなかで、ぼくは日当たりのいい戸口にすわり、物思いにふけっていた。周囲では、鳥がうたったり、音もなく家をとびぬけていった。
そうして、西側の窓にさしこんでくる夕日や、遠くの街角を行く旅人の馬車の音で、時の流れに気づくのだった。」
全く、このソローの森での生活は、空想上の今の私の生活と少し似ている。
その威容にうたれ、しばらく座禅をする。
時のたつのを忘れている。
ソローも書いている。
「瞑想とか仕事の放棄ということで、東洋の人々が何をいおうとしているのかを悟った。
だいたいいつでも、ぼくは時がすぎてゆくのを気にとめていなかった。
まるでぼくの仕事に光を当てるかのように一日がたっていた。
さっきまで朝だったのに、それがどうだ、もう夕方だ。記憶に残しておくようなことは何も果たせなかった。鳥のようにうたうかわりに、ぼくは自分の絶え間ない幸運に静かにほほえみかけていた。ドアの前のヒッコリーにとまってスズメがさえずるように、ぼくは スズメがぼくの巣のなかから聞こえてくるのを耳にするかもしれないクスクス笑いや、かみ殺したようなさえずりを身につけていた」【真崎義博 訳 】
素晴らしい詩人である。私はこのような森がかっては、日本に沢山あったと聞いている。
確かに、今でも、国土の三分の二を森林が占めているし、森林公園もある。しかし、人間に優しい森が徐々に破壊されて、今や鎮守の森ですら、相当減ったと聞いている。
私はこのように、瞑想にふける場所が減るとは嘆かわしいと考える。
森があれば、そこで星の王子さまと巡り合えるような気がするのである。
私のある日、見た空想。
「ぼくの星に、今度、森をつくったんだ」と王子さまが日差しが射しこむ森の中で、すくっと立って、ほほえみました。
「え、あんな小さな星に? 」と私は驚いて言いました。
「ううん、森が欲しくなったので、もう少し大きな星に引っ越した。そこにはキツネもいるし、薔薇もいくつか咲いているよ。君も閑だったら、来てみないかい」
「え、ぼくが。ぼく、今忙しいんだ」
「何言っているんだ。いつも居眠りばかりしているくせに」
「あれは、ソロー先生が瞑想だって、いいことだって教えてくれたからさ」
「確かにね。瞑想は素晴らしいよ」
「瞑想していると、王子さまと心の通信ができているような気がするんだ」
「ああ、それはぼくも同じ。それで、森をつくったんだ」
「バオバブの木は」
「うん、バオバブは前の小さな星では、根がはびこるので、大変だった。でも、今の星は一本ぐらいなら大丈夫だよ。でも、もっと素晴らしい樹木を植えているのさ。ケヤキの木とシイの木、クスノキがいいよ。これだと、とても気がやすまるし」
「里山資本主義」の著者は、化石燃料さえも捨て、木材の燃料に切り替えたオーストリアを見なさいって、言っていますよ。
今まで、見捨てられていた木材を活用すれば、エネルギー源にもなるし、低コストで生活できるし、高層建築用の鉄筋コンクリートの代わりに木材での高層建築も可能。(そういう技術が確立されたのだそうです) それを示したのが脱原発を憲法に明記しているオーストリアだそうだ。
貧乏だった町が外からのエネルギーを断り、原発も断り、木材のエネルギーを活用したことにより、一般家庭にまで及ぶ地域暖房を実現し、経済も豊かになったとある。
私の空想の町では、そうした科学技術を基礎にした労働に喜びのある工場と農場が基本である。
人間が人間らしい労働する場が提供され、生活するだけの賃金が支払われる。それは当然のことである。私の町には、その他にも森があり、川や緑のある人間に優しい里山がある。
そこに神社の鎮守の森があり、寺がある。そして野良猫が大切にされている。そこに座禅道場があるのも良い。気功道場があるのも良い。
私はふと、良寛の次のような漢詩を思い出す。何か、ソローと似たセンスがそこにはある。
生涯 身を立つるにものうく
とうとう天真に任す
のう中三升の米
炉辺一束の薪
誰か問はん迷う悟の跡
何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵の裏
双脚等閑に伸ばす 【Soukyaku Toukan Ni Nobasu 】
【生計をたて、官に生きるのが下手で、のほほんのほんと、木地のままでいる。托鉢袋には、三升の米があり、炉のそばに、薪が一たばある。迷いとか悟りとか、他人のあしあとを気にせず、浮世の名利など、何の関係もない。草屋根をうつ、夜半の雨音をきいていると、二本の脚が思わず前にのびている。 】(柳田聖山訳 )
良寛と言えば禅である。彼は悟りの境地に達して、和歌や漢詩を書いていたのだが、それを理解した人は当時の江戸時代には、ごくわずかだったようだ。
さて、禅では、究極の悟りは心身脱落であるが、結局、自我が抜け落ち、宇宙と一体になる。
つまり、大自然と一体になる。そのためには、森が必要なのである。
その悟りの境地を示した宋の有名な詩人「蘇東坡」は、谷川は仏の説法と言っている
渓声はすなわち是れ広長舌。 【Keisei wa Sunawachi Kore kouchouzetu 】
山色は清浄身に非ざる無し。 【Sanshoku wa Shoujoushin ni Arazaru Nashi】
夜来 八方四千の偈 【Yarai HachimanYonsen no Ge 】
他日 いかんぞ 人に挙似せん【Tajitu Ikanzo Hitoni Koji Sen 】
要は滝の音が仏の説法に聞こえるということであろうか。大自然そのものは仏の説法なのである。いや、全てがそうだ。街を行きかう、空の雲も春の風の訪れも、満開の桜の花も、チューリップもすみれの花も、全てが仏の説法。仏が我々に顔を見せているのである。しかし、残念ながら、我々はそれに気がつかない。この場合、仏とは何か。本来、言葉で指し示すことが出来ない。形もない。色もない。目に見えない。しかし、我々をいかしている究極の不生不滅の大きないのちの力とでも形容したらよいだろうか。宇宙生命とよんでも良い。純粋生命とよんでも良い。神とよんでもいい。ただ、「生命」と呼ぶ人もいるかもしれない。医学は、その仏が生命エネルギーとなり、物質化した人間の形の部分を扱い、生命がどのようにして、形となり、六十兆の細胞がどのような連携をして、独りの人間をつくりあげているかを探求している。
生命エネルギーつまり目に見えない「無限の一なる生命」そのものを科学は扱うことは出来ない。何故なら、それは目に見えない、つまり、計器の網にひっかからないのものであるから。
こういう実験からも明らかであろう。 最近の科学の報道によると、何千ものES細胞を、培養液の中で培養させていき、それなりの器官になるように誘導すると、自然に細胞どおしが連絡しあって、その器官になっていく、つまり、細胞は自然に自己組織化するというのである。
色を見る、音を聴く、つまり、風景を見る、音楽を聴く、これは生命そのものなのではないか。つまり、空即是色。空とは一なる生命。つまり、全世界は一個の生命。全世界は一個の明珠。それが色(しき)となる。森羅万象の世界が現象するのである。
目に見えない【無限の一なる生命】こそ、神とも仏ともよばれる根源的な存在であって、我々人間や動物や地球や様々な風景をつくっているのである。この「一なる生命」のことを道元は「仏性」と呼んでいるのではないか。
【一なる生命】だから、道元は仏性を「全世界は一個の明珠」であると表現したのだと思う。
我々文明人はこの「無限の一なる生命」つまり「仏性」を見失っている。
それを回復するためには、我々の住む町に、森をつくることである。水車をつくることである。
森があれば、育つ子供たちにこういう素晴らしい思い出を残すことが出来るという証明に、
ドストエフスキーの小説「貧しき人々」の中の森の描写が良い。
女主人公が子供の頃の思い出を語る場面がある。
【
草に露が宿り、湖畔に並ぶ百姓家にあかりが灯り、家畜の群れが家路につくころ――そんな時に私は湖を見るためにそっと家を抜け出して行き、私の湖にいつまでもじっと見とれていたものでした。
水辺のすぐそばで 漁師たちが枯れ枝か何かを焚いており、その光が水面を遥か彼方まで伝っています。空は冷たい群青(ぐんじょう)色で、地平線の辺りには赤く燃えるような帯が幾筋も伸びているのですが、その帯が時間のたつにつれ少しずつ薄い色になってゆき、月が出ます。
空気は澄み渡ってよく音が響き、小鳥が何かにびくっと驚いて飛び立っても、微かな風に葦(あし)がそよいでも、水の中でぱしゃりと魚が跳ねても―――何もかもがよく聞こえました。
群青色の水の上に、白く透けるような蒸気がうっすらと立ち昇ります。
【略】
でも翌朝は一輪の花のように爽やかな気分で目覚めます。窓の外を覗くと、野原一面、寒気に包まれ、すっかり葉を落として裸になった枝に秋の霜がうっすらと降り、湖には紙のように薄い氷が張り、湖面に白い蒸気が立ち昇っています。小鳥たちも楽しげに歌っています。太陽の光がキラキラと輝き、その光線が薄氷をガラスのように割ってゆくのです。なんて明るくキラキラして、楽しいんでしょう。
暖炉ではまた薪がはぜ 皆がサモワールを囲んで座ります。
それを一晩中寒さで震えていたうちの黒犬のポルカンが 窓の外から覗き込み、人懐っこく尻尾を振ってみせるのです。
元気のよい馬に乗ったお百姓のおじさんが 窓の外を通って、森へ薪をきりに行きます。 皆が満ち足りて、皆が幸せでした !・・・・・・
ああ、私の子供時代はなんという黄金時代だったのでしょう ! ・・・・・】
【安岡治子 訳】