Walking Holidays ~ニュージーランド編~

大好きなトレッキングを中心にニュージーでの生活を綴ります。なのでWorkingではなくWalking Holidays!

ドキドキのプレゼント交換

2012-12-23 | かなのカナダ暮らし。
クリスマスパーティーといったら、プレゼント交換。

日本だと、歌を歌って、その歌が終わったときに持っているものがもらえる。
というのが定番だと思います。

他にも色々あると思いますが、シークレットサンタは聞いたことありますか?

日本でもやったことがあったプレゼント交換ゲームでしたが、古今東西色々です。

カナダ版、日本のほんわかしたプレゼント交換に比べると、えぐいです(笑)。

何が来るかな~♩とは違った意味でドキドキします。

細かいルールは、各人で違うと思いますが、たいていこんな感じ。

クジをひく。
クジの番号順にクリスマスツリーの下にあるプレゼントを選べる。
ゲットする。
またはプレゼントを選ぶ代わりに、違う人が既に持っているプレゼントが欲しければ、奪うチャンスがある!
奪われる人は・・・ただ奪われるままです(笑)。
はい、強制的に交換させられるわけです。

ね、最後まで狙われる可能性があって、ドキドキでしょ(笑)。

最初の方の番号の人は、好きなプレゼントをツリーの下から選べるかわりに、狙われる確率も高くなるわけです。

「残り物には福がある」とは正にこのこと!いえ、「残る者には福がある」ですね!!



一万日いきまして、

2012-12-21 | つれづれゴト。
今年は、いつの間にか生まれてから一万日が過ぎた年だったようです。

はい、そこの計算の速いアナタ!年が分かりましたね(笑)。


記念すべき1万日目には全然気づかず、あーっと後になって気づきました。
誕生日が来ると、自分もよく人に送りますが「よい1年を」と書きます。
そして新年を迎えても「今年もよろしく」などと書きます。

1年がプツリプツリと切れた単位で、新しい年を迎えるというのは、
無意識に、ぶつ切りのブロックを重ねてきたと感じていたように思います。
それはそれで、気持ちを入れ替えるということでいいと思います!

が、
生まれてから10000日と考えたとき、あの歴史年表や、地球が誕生してからの出来事が書かれいてる
帯のように長い年表みたいに、自分の人生もオギャーと泣いた時から、ずーっと続いてきてるんだなっと思ったのです。
その歴史年表では、自分が誕生してから365日目は、当然生誕1歳の日(笑)。1000日目は3歳ちょっと過ぎた日みたいに。
ずーっと一続きなんですよね。で、その線の最先端が今の自分。

昨日までの成果が、今日の結果なんですね。うう。

そう考えると、普段思わないことも考えます。
そうか、自分の心臓は10000日も休まず動いてくれてるんだ。感謝。
これからも、まだまだ休まずお願いします。
他の体の他のパーツもそんなに長く動いているのだから、ガタもくるのだろうな。
車と一緒でメンテナンスって大事だな、心も体も。

自分とちょうど60歳違いのおばあちゃん。
おばあちゃんは一万日ユニットを何回生きているんだ?
そう思うと、本当にすごい存在だ。

私の地元では、ほおずき市というお祭りが、毎夏お寺の境内で行われるのですが、
そのお祭りのときにお参りをすると4万6千日分したことになるといわれています。
・・・仏さま、あまりに太っ腹すぎます(笑)。
どんだけお得なんだ、ほおずき市!!と思った1万日を過ぎた今日この頃でした。


ゆめはゆめをよびおこし。

2012-12-18 | つれづれゴト。
私の好きな言葉の一つ。

それは冒険家・植村直己さんの『青春を山に賭けて』に出てくる一文。
「私の夢は夢を呼び起こし、無限に広がる。」

そしてその後、こう続きます。
「過去の出来事に満足して、それに浸ることは現在の私にはできない。困難のすえにやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、
つい昨日のできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、今までのやってきた全てを土台にして
新しいことをやってみたいのだ。若い時代は二度とやってこない。現在(1971年)私は29歳、思考と行動が一致して動くのはここ
1、2年だろう。経験は技術である。今が私にとって、いちばん脂がのり、自分で何かができる時期である。」

最初の文章は、その言葉を見ているだけでも、なんだか自分までワクワクしてきて好きな言葉です。

本当、そう思う。
夢は夢を呼び起こし無限に広がって・・・どこからやっていこう~と手いっぱいになってしまうのが自分なので、
順々にカタチにしていけるヒトになるのが常々の課題です。

そして後半の文章の中で、この強靭な植村さんでさえ、29歳で、「思考と行動が一致して動くのはここ1、2年だろう。」と言っているのに驚きました。いえ、体力勝負な世界にいたからこそ、そう痛感されていたのでしょう。

一理あると思いつつ、自分の回りには、年齢と体力と思考の柔軟さが一致しない方々がおられます(良い意味で!)。
植村さんの言葉からとそんな方々を見て、特に体力面では、アウトドアアクティビティーが好きなので、年を取る=
体力低下は避けられないことではあるけれど、一般平均値とは異なる体力グラフを描けたらいいと思います。

そして「若い時代は二度とやってこない」という言葉に同感。

時間はお金である意味買えます。
例えば、東京ー大阪間を高いお金を出せば新幹線に乗れて、時間の節約ができます。
乗っている2時間弱の間で、本を読んだり、何か違うこともできます。
夜行バスよりも疲れないので、到着してからも疲労にやられずに実行したいことができます。
例えば、お金を出してお手伝いさんを雇えば、家事に費やす時間を他のことに費やせます。

が、

流れてしまった過去の時間は買えない。

自分の21歳の時のあの夏の時間が欲しいのだけれど・・と言って、いくらお金を積んだところでも、
アラブの石油王でも世界一のあのお金持ちでも買えないでしょう。

若い時代=若い数字の年齢のときが若さでは単純にはないと思うのですが、やっぱり10、20年後の自分より今の自分の方が
新しく体験することがたくさんある気がするから同じ刺激でも衝撃的に感じるだろうし、そのぶん感受性も大きく揺さぶられるの
ではないのかなと思っています。

だからこそ、多くの経験をしたいし、その時受けた刺激が自分にどんな影響をくれたのかしっかり自分の中で観察して次につなげていきたい。





思い描く年

2012-12-14 | つれづれゴト。
今年も残すところ、あと数週間。
2012年も終了。

ちょっと前に、なんだか去年の今日なにかあったような
・・・とソワソワして、手帳を見返してみた。

ちょうどぴったり1年前には何もなかったけれど、
ほぼ1年前、登山家・栗城さんに、ある言葉をもらっていた。

栗城氏からもらった言葉、というより文字。

それは 「 叶 (かなえ)」

それは、いつも大事にしているもの。
何か叶えたいとき、自分で自分に壁を作っていないか、
どんな壁を作ってしまったか自問自答しつつ、そのチカラのある文字を見ては勇気をもらう。

自分の思いは叶ったか?


そして、もう一つ。

リスペクトする友人から今年のはじめ、「思い描く一年にしてください」という言葉をもらった。
自分は何がしたいのだろうか、何を思い描いているのだろうか?
あったはずの自分の標が霧の中に隠れたように分からなくなると、いつも思い出してきた言葉。

叶ったものもあれば、まだ叶えていないものもある。
そして新しく叶えたいと出てきたことは、当然これからの課題。

自分の思い描くもの。
思い描いたものを掴んだら、いつの間にか次のことを思い描いている。

それは山登りに似ている。
登山口から見える山のいちばんてっぺん。それが最初に仮定する頂上。
けれど、そのテッペンだと思ったところまで行くと、今まで見えなかった視界が開け、
新たな世界が広がる。こんな世界が広がっていたなんて!!!
と、同時に、目指す頂上はもっと先だったとも気づく(苦笑)。
そして、このルートでいこうと予定していても、いざその場に行くと、違う道に進んだ方が
いいということもあり、常に軌道修正をする。

はじめに思い描いたものと、今思い描くものは若干、違っている気がする。
本当は、年の始めに思い描いたことが、これだけ達成できました!なんて明快に示せれば
分かりやすいけれど、そうはいかないようで。

大まかには、思い描けたと思う。
けれど、日々修正中の頭の中のキャンパスは、まだ作成中。

2012年、これにておしまい、閉店。
と単純にはいきません。

まだ描いている途中のもの、さらに来年描けるように気持ちを整理して
2013年につづけよう。







動物と肉。

2012-12-10 | つれづれゴト。
ニュースを見ていて、ふと思ったこと。

畜産農場で子豚が蹴られたりの暴力を受け、ヒドイ扱いをされているというニュースをやっていた。
別にさいごは肉になるのだからってことで、モノとしか扱ってないのだろうな。

それを見ていて思ったのは、
生きているうちに、子ブタにしろブタにしろ、何度お目にかかる機会があるのだろう?

肉を食べる人は、ほぼ毎日、牛・ブタ・鶏の肉を目にしているでしょう。
けれど、生きているその動物たちに会うのって、そう多くはないはず。

ほぼ毎日食べているのに、その本体のこと、本体がどのくらいの大きさで、どんな感じで生活しているか、
ほとんどの人は知らない。

よく考えたら奇妙な話。
毎日、動物の体の一部を食べているのに、その動物や動物の生態のことなんて未知なる世界のことのようで。

まあ、別に知らなくたって困ることは無いと思うけれど。
今の世の中、誰かが代わりに肉にしてくれるのだから、肉に飢えることもないでしょう。
スーパーがある限り、簡単に手に入るはず。

けれど、それでいいのかな?
都会で生まれて、肉は肉屋やスーパー切り身になったものを買うのが当たり前で育ったので、何がヤバいのか実感としてあまりない。
(私の場合はフィッシュイーターなので、魚なのですが。)

けれど一つ、体験から自分の言葉として言えること。
鳥を絞めた時のこと。鳥の命の灯火を消すあの寸前の鳴き声は一生忘れられない。
命が消されると分かったときの、あの声といったら・・・。けれど、自分たちは毎日それを人任せにして美味しい部分だけ頂いているんだ。

生暖かい鳥の体を解体し、いつも見る「とり肉」にして、焼いて、さらに盛りつける。
何の変哲も無い鶏肉だけれど、その時の自分の目に見えるそれは、「いのち」だった。

ちょっと前まで鳥小屋の中をウロウロしていた、あの子。
まさに命の上に自分の命が成り立っていると感じたときだった。絶対に無駄にできない、したくない。

自分で解体することで、なにがどう変わるのか。
うーん、普通の生活に戻るとすぐに忘れてしまうかもしれない。
別に解体しなくたって、動物に接するだけでも良いと思うけれど。

命を潰すのは簡単に出来てしまう。
しかし、もう二度と戻すことはできない。
裂いた部分を完璧に縫ってあげても戻らない。
そんな命を日々自分の体に取り入れて、自分の体は動いている。
そんなことを思えることが、豊かなことなのかどうかは分からない。
けれど、自分はそれを知れて本当に良かったと思っている。

結局とりとめも無くなってしまたけれど、直感的に、やっぱり自分が食べる「いのち」のことは知っておいたほうがいい気がする。
自分の健康のため。そして心のためにも。

あ、野菜だっていのちですよ。