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比較優位の原理。

2020-03-26 | 学問
 3月26日  木曜日

 おはようございます。  ウィン・ウィン国王です。


自由経済を受け入れた現代、

経済学者がいう概念の中で最もウィンウィンな関係を築けるのが、

デービット・リカード氏が提唱した比較優位の原理であろう。

この原理は、

自由経済において個人と個人とが常に利益を上げる考えを説明している。

比較優位の原理はまた、

企業同士によるウィンウィンな関係の際の手法にも応用できる。

例えば、

利己的ジーンと利他的ミームは同じアパートの隣同士にいる。

ジーンは料理が上手で、ミームは掃除が得意なキレイ好きだ。

二人とも料理と掃除を全て片付けるのに10時間掛かるとしよう。

二人が仲良しでジーンが料理を、ミームが掃除をそれぞれ担当した場合、

二人合わせて20時間掛かっていたものが、

それぞれ5時間で料理と掃除を終えられる。

「だから、それがどうした?」 と思うかもしれないが、

これこそがウィンウィンの関係だ。

まるで魔法のように凄いことである。

考えてみてほしい。

ジーンとミームが仕事を交換することで、どちらも5時間節約できたのだ。

お互いに不快を生じることはなく、どちらも損害を被ったわけでもない。

ただ自分が得意なことを取り換えるだけで二人はどちらもハッピーだ。

勿論、個人だけの話ではない。

国と国との関係にも広く応用できること受け合いだ。

二人の間柄に、それぞれ特定の能力に秀でている場合、

仕事を専門化することで利益がもたらされる。

つまり、二人が仲良く得意なことをやる方が良いということになる。

この際、短所のことなど忘れて、長所の上に己を築けだ。

もし仮に、二人とも料理が得意で掃除が苦手だとしても、

仕事を交換することで、やはり得をすることになる。

利益のためなら多少仲が悪くても、

協力した方が早く片付くに決まっているからだ。

問題なのは、ミームが働き者に対して、

ジーンが怠け者の場合、困った問題が生じるように、

比較優位の原理にせよ、コミュニケーション能力にせよ、

二人の利益が成立するか否かはシェアして試すのが解りやすい。

なぜなら、

二人の能力が等しくてかつ、

その比率にあると考えられるからである。

それは利得をめぐってせめぎ合う

損得感情がゲーム理論経済の基礎だからだ。

アダム・スミスが話すように、

肉屋の主人が毎日仕事に出かけるのは友愛によるものではなく、

自らの利益をギリギリまで追求する結果だからだ。



   つづく。



経済学によるゲーム理論。

2020-03-25 | 学問
 3月25日  水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


人生はゲームだ。

社会は「お金」を競い合うゲームで成り立っている。

その世界には同情や哀しみといった利他心は存在しない。

ただひたすら自己利益の追求があるだけだ。

誰もが自分のことだけを考え、

また、誰もがそのことを知っており、

そして誰もがそのことを受け入れている。

そう、ゲーム理論の研究対象は、

ある戦略的状況に置かれた時に賢明かつ無慈悲な人物がどう行動し、

相手の出方にどう対応するべきかという問題だ。

全てのプレーヤーが全てのプレーヤーを相手に戦う極限のマネーゲームだ。

勝つ秘訣は一時の情けを持たずに、

生存競争を展開する状況下で利己的論理を展開することにある。

愛や健康などのバランスが大切だとか、

思いやりのあるリーダーになりなさい、などと説いたりはしない。

人は競争をしている時または、

競争相手を叩きのめした時に最もスリルを感じるはずだ。

そのためなら、自らの退路を断って最後まで戦い抜くことを誓ったり、

見せしめの為に最初に一人をクビにするのもよくあることだ。

社会は一度ダメージを受けると、

二度と元には戻れないエントロピー法則には逆らえないように、

競争原理が働く限りそれらを維持することで利益に繋がるのならば、

相手に勝つことで自らの存在価値や存在意義を高めることが何が悪い。


ゲーム理論では、あの人はお金持ちだからとか、

あの人は優しいとか、カッコいいといった理由で誰かを信頼することはない。

あなたが正直に振舞うのは、

正直が自分にとって利益になると判断された時だからであり、

勝ち抜きゲームに勝利するには、微笑みながら隠し、接待して弱味を握り、

常に欺こうと努力することで真価が問われる。

だから「空気」など関係ない。

他人が何が好きかはほとんど気にならない。

周囲の人に気配りしながら行動を選択することは犬のような奴だと考えている。

従って、ナッシュ均衡にせよ(自分が選んだ行動を後悔しない状態)、

囚人のジレンマにせよ(自分だけが得する合理的判断)、

スパムやクレームにせよ、(たった一人だけ協定を破る効果は絶大だ)

すべては利己的な追求とその結果なのである。(自ら問題を起こして解決せよ)


それでも一回限りのゲームなら、

常に意地悪行為を選択した方が断然利益を得られるだろう。

長期戦ともなれば終始、親切にする方が断然お得になるだろう。

最後の最後に相手を裏切る選択をすれば高いリターンが回収できる。

そして相手の裏切りをすぐさま察知した後、

ただちに報復行動に出なければ、いいようにやられてしまう。

どちらにせよ仁義なき戦いには本気度が勝敗を左右する。

MBAが欲望達成ゲームの攻略法だというのは最もだろう。

経済理論という学問は、

今なお暗い将来を予想することで頭がいっぱいなのだ。


    つづく。




火事場の馬鹿力。

2020-03-24 | 学問
 3月24日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


人が潜在能力を発揮する際に必要なもの、

それが利他的行為である。

火事場の馬鹿力とは、利他的な行動で発揮される。

私たちの幸福に影響を与える

セロトニン、ドーパミン、アドレナリン、オキシトシンのうち、

オキシトシンは利他的DNAの中に存在する。

人は自分の為に力を発揮するより誰かの為に、

そう考えた時に思いもしなかった潜在能力を発揮させる。

私たち一人ひとりが生まれ持った長所それは、

人に役立たせてみなければ解らないものなのである。

それが生命共通の隠された能力であろうと、

あるいは、それが生命由来の形質の類似であろうと、

逆境という状況下で個人が潜在能力を発揮するというものには、

万事、生き残るための能力が備わっているのである。

火事場の馬鹿力とは、

単に自らが生き残りを賭けて他者を見捨て逃げ出す程度のものではなく、

利他的行為を説明するには、

実際にあなたが愛する人を守るのと同様の結果で証明される。

なぜ、火事場の馬鹿力が存在するのか?

生存闘争の観点から見れば、

最も気前の良い利他的行為が、

最も利己的行為の間を隔てるもの、

偶然にせよ、必然にせよ、生命に隠された

奥義の一つであることは確かのようだ。

火事場の馬鹿力はすでに私たちの内部にあるように、

その能力を気づくには誰かの為にという助けが必要だった。

それが適切な条件として命に係わるような状態を作り出しさえすれば、

後は、野となれ山となれ。スーパーマリオも夢じゃない。

だから、居心地の良い状態に身を置く者には決して解らない裏技だ。

常在戦場に身をもって体現することでのみ、

火事場の馬鹿力が解放される仕組みとなるのだ。

そう考えると、なぜ?

自然淘汰に利他行為が生き残ってきたのか。

どうやって利己という厳しい境遇と共存してここまで来れたのだろうか。

その答えが火事場の馬鹿力に見て取れるのかもしれない。

それは人間にとって不釣り合いなほどに

生きる上での利得が与えられているからであろう。

利己と利他。これほどの良きパートナーが存在するだろうか。

しかも万人共通のメカニズムである。使わない手はないだろう。

過去人類の中で最もひ弱だったホモサピエンスが生き残った理由には、

利他的行為をとった唯一無比の潜在能力を発揮させたことを意味している。

おそらく、与えられた環境の悪化に対する驚異は計り知れなかっただろう。

現在、ホモサピエンスの繁栄は、逃げ惑う他の動物をしり目に、

ひとえに他者を助ける選択をした思い切った勇気に勝算されるだろう。

人間をよい高いレベルに前進させることが出来る能力こそ人類の長所だ。

乱暴な言い方だが、現代人にはオアシスよりも火事場が丁度いい。

平和ボケが長引く日本社会において、楽なことしか考えず

逃げてばかりいる人たちには、一度火事場に堕ちた方がいいだろう。

あっ、そうだった。この世が地獄か!

どうやら人間は神に嫌われているようである。

いばらの道に逃げ場なし。安易な道はないのだ。



   つづく。


経済に答えがあるのか?

2020-03-18 | 学問
 3月18日 水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


社会秩序についてのきっぱりとした原理を説明することは、

それがどの様な原理であっても今日ではほぼ間違いなく、

生存競争やゲーム理論という激しい論争が繰り広げられている。

それは権力を持っている人々が、

それを持ったり用いたりすることを好まない個人に対して、

大農園で働く非常にやさしい心の労働者が、

鞭打つ主人の仕事を引き受けるそれと同じである。

個人の知識の制限の自覚から、どの個人も集団も、

誰かに知られていることの全てを知ることは出来ないという事実から、

個人主義はまたその主たる実践的結論すなわち全ての強制的ないし、

排他的権力を厳しく制限されるよう要求する。

個人主義の理論は適切な法の枠組みを構築しかつ、

自発的に生成してきた制度の改善や技術に対して、

一定の貢献をすることが出来るが、個人主義の強調点はもちろん、

我々の社会秩序の内で人間理性の感謝的産物にすることが出来る部分または、

そうすべき部分は社会の全ての力の内の小さい部分に過ぎないという事実にある。

個人主義的秩序は特殊な指令の強制ではなく、

象徴的原理つまりウィンウィンに基づかなければならない。

そうだとすると、我々が必要とする一般的規則の種類の問題は、

まだ、そのまま残されている。

あらゆる社会的過程の金融統制へ向かう漸次的傾向が、

全てのものがきっちりと計画され認知できる

見えるシステムを作らなければならないと言い張る方法的態度、

その結果による事実であるならば漸次的傾向が

金融統制の秩序と安全を保持しうるような、

条件を創り出す傾向のあることもまた事実である。


国と国との特殊な状況下についての経済の重要性を、

出来る限り忍耐強く評価するのが日銀の流行のようだが、

変化というものの重要性を今後は認めない限り、

グローバル経済は堅く結び付くことはないだろう。

社会活動とりわけ経済問題は主として、

国と国との特殊性における急速な対応に

問題があることを我々が同意できるとするならば、

最終的な決定はそのような事情を熟知している人たちに

重要な変化とそれに応じるための直ちに入手できる

資源を直接知っている人たちに委ねられるべきである。

我々がこの社会で出会うべき問題の数々は決して、

経済だけの固有なものではなく、

そのほとんどが全て真に社会現象としての、

我々の飽くなき欲求および大部分は

歴史的産物に関して生じるものであって、

まさしく全ての社会科学の中心的理論を構成している。


複雑な経済における合理的金融システムが、

不可欠かどうかについてのAI導入が試されていないが、

相異なる金融見解を論じる陣営の問題だけで行われないだけでも

多くの点で幸いだと言えるだろう。



    つづく。





仁義なき経済に対するワクチン治療。

2020-03-17 | 学問
 3月16日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


経済に新しい存在次元を附与された場合、古い理論は使えなくなる。

経済に欠けた最大のものは利己的な欲求に他者を結び付ける利他である。

自らの利己の方向性が利他に結び付く時、仕事への情熱が沸き上がる。

逆に、これが欠けた毎日の仕事では、

退屈で無気力になったり自己中心的な行動へと向かわせる。

社会の実践的生活に直結する限りにおいて、その意義を持ち直し得るのは、

利己行為だけでも利他行為だけでも長続きしないのが現状だ。

利己と利他の一致。それらバランスが労働意欲として情熱と不眠不休への結果となる。

この社会活動で生き残る為に従うべき柔軟な姿勢は、

私たち人間性の中から生まれるものでなければ安定は難しい。

社会理念や共感できるビジョンをどれほど巧妙に改善を繰り返しても存続が困難なのは、

いかにも利己と利他による真の適応度に問題があるからだ。

その適応とは認識ではなく実在であり、脳は認識出来ないものには関係を築けない。

適応者を実践する際に必要なのは利己と利他による認識であり実在である。

利己と利他が同一の原理だと結び付くまでは、利益の安定を得ることはないだろう。

適応度は原理的に認識だから収入確保は、利己と利他によて初めて可能となる。

なぜなら、収益を侵害するものは内部にはなく、外部が常に立ちはだかるからだ。

あらゆる社会現象は知的なものであれ、搾取的なものであれ、博愛的なものであれ、

利己と利他による欲求には違いないのだが、

自己愛と隣人愛それらの出現によるバランスで初めて安定する。


現代の成功は、他者が失敗するという代償によって得られている。

よりどちらがその場で適応度が高いかによって出費と利益が出されている。

必ずしも競争と公平は共通とは言えないが、

人を不当に差別扱いをしないという点においては

競争と公平は同じ美点を持っている。

誰も運、不運をコントロールすることはできないからだ。

日本の場合、

有能な経営者ほど利益の最大化を追求するのが鉄の掟だ。

利益を上げられない経営者は罪人だと教えられる。

その考えではある程度の犠牲は仕方ないことになる。

そんな暗黙の価値規範は競争原理によって

徐々に過激で過剰なサービスへと進んでいく。

日本のおもてなし文化に対するモラルハザードは、

結果を追い求め過ぎるゆえの過剰なビジネスモデルへとドンドン発展し、

実際、そのサービスの4分の1にしか知恵が無く、残り4分の3は自己犠牲だ。

必要なサービスとは役に立つものであって、非生産的な想像ではない。

サービスの対価は労働力の成果によって決まる訳ではなく、

価格と消費によって決定されるものである。

サービスをそのまま自由奔放主義に委ねては、

長期的に見て労働対価を正常な状態に保つという想定は明らかに非現実的である。

現代商法は過度に進んだ経済活動にこそ問題があるように、

サービスが長期的に安定するには(発展は一先ず置いといて)、

限定的だが必要に応じた社会主義の理念を取り入れる必要があると考える。

行き詰った経済にとって社会主義の「良いところ取り」が

自由主義経済にとってはカンフル剤となるだろう。

プロレタリアの平等を求める要求の真の内容は階級社会の廃止はもとより、

労働対価の正当性にあるからだ。

また、アインシュタインの相対性理論によると、

物質とエネルギーは交換可能であるように、

自由主義と社会主義は交換可能だ。

ケインズが言うように、

競争の欠如は根本的な問題ではない。

必要なのは政府の積極的な介入だ。

社会が長期的に安定するには、

必要に応じた政府による経済への介入を選択する必要が生じる。

もししなければ、国民を裏切ることになるだろうと。





   つづく。



絶滅か、進化か。誰が生き残るか?

2020-03-16 | 学問
 3月16日 月曜日


 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


三葉虫は生まれて消えていった。

ティラノザウルスも生まれては絶滅した。

全ての種の99.9%が生まれては絶滅していったことをよく考えてほしい。

気を付けなければならない。

貴方が最善だと考えるその行動がもしかすると、

社会全体を絶滅へと連れ去って終うような恐ろしい

連鎖を引き起こす引き金となるかもしれないのだ。

それは、誰であろうと予言することはできない。

気を付けたほうがいい。

しかし、歩き続けるしかない。

貴方は他に選ぶ道が無いのだ。

出来るだけ賢明な一歩を踏む出すしかない。

そして貴方が実は何も判っていないということを

認めるだけの知恵を忘れてはならない。

私たち全体が出来るだけのことをしても、

それは単に最終的な絶滅の条件を整えて行くだけであり、

新しく誕生する生命や生き方への道筋を作り上げているに過ぎないのだ。

極端に楽天的な世界も、その逆の絶対服従を強いる世界も存在しない。

我々が常に考える現実がただそこにあるだけである。

最善を尽くそう!

貴方も結局はこの繰り返しの生活の中で、

絶滅危惧種たちと一緒に歴史を刻んでゆくことになる。

いずれにしろ、失敗に終わることが判っているのに

挑戦し続けるとは、なんと大胆な冒険だろうか!

それでは貴方に素敵な人生観を教えてあげよう。

ベストを尽くしなさい。

決められた時間に目覚ましが鳴り、

朝食を抜いて満員電車に飛び乗り、

大して役立つか解らないことを一生懸命やって、

他人の目を気にしながら自らをアピールし、

共に過ごす一時期の仲間と愚痴を言い合いながら、

今日という日が過ぎ去ってゆく。

そして一日の最後に貴方は何を得るのか?

苦労の中でのほんのひと時の安らぎである。

なんと厳しい現実か!

それでも世の中の総ての生命体にとっては、

それが精いっぱいのことなのである。

実社会を見てみよ! はっきり言って、

政治、経済、人間関係、その中心にある慣習はどれも、

完全に今、行き詰っている状態ではないか!

経済の健全さが社会に貢献する確かな根拠がどこにあろう?

私たちは進化をありのままに見て感じとり、

それがどうやって願うかを想起し、どのように働くかを見直して、

自由で平等な環境を創り出すことなしに生き残るための、

そして私たち自分本位な思考を動かす何かをその目で見ない限り、

絶滅の影響下に社会があることを今や受け入れるしかないのである。

進化が利用できるものは何であれ、利用して良いのだ。

それでも進化の最前線に立つ人類は上手くやっている。



   つづく。


「利己的ジーン」と「利他的ミーム」との比率とバランス。

2020-03-15 | 学問
 3月15日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


人間の脳は進化によって出来た器官である。

それは突然変異によって進化した遺伝子進化論だ。

そんな二重らせんである遺伝子には、

異なる二つの性質が備わっている。

適応という名の 「利己」と「利他」 だ。

好むと好まざるとに関らずに、

我々はある意味 「二重人格」 であるのだ。

問題なのは、その異なる二つの比率である。

極端な偏りは、又は、どちらか一方だけでは、

どちらも自然淘汰の対象となるのだ。

生存闘争に勝ち抜くためには、

どちらも必要で必然というわけである。

だからといって、

バランスが整った平均状態は死を意味する。

なぜならラプラスの言うように、

「平均値は差がものを言う、差のない平均値に意味がない。」

熱力学によると、平均とはでたらめであり、適当は平均を意味している。

50:50の比率では何らかのトラブルが生まれて上手くは行かないだろう。

遺伝子進化論とは、

相対的な二重らせんであって、対立ではなく、協調でもない。

繰り返すが重要なのは、比率である。

「利己的ジーンと利他的ミーム」この二つを交互に前進させてゆくことが重要だ。

ジーンだけでも、ミームだけでも空回りして前進は見込めない。

最適者とは、

「自由、平等、平和、幸福の追求」とい人類のビジョンに向かって、

一歩一歩進化する者のことを 「適応者」 と呼ぶ。

なぜなら、

正しい理念その方向性に向かわせる能力こそが「適応度」だからだ。

逆に、自然淘汰の対象に選ばれるのは、

「80:20」では、危険人物と承認され、

「90:10」では、死に至る。

どちらにせよ、過度の競争、闘争、報復、

そして共生、団結、友愛には、

バランスを失った適応度、それはどれも自然淘汰の対象なのだ。

多かれ少なかれ、私たちはみな

二重らせんの遺伝子を備えた二重人格者といえるのである。

これが遺伝子進化論の結論となる。

人類の目的はどこにある?

最適者なのか。適応者か。その適応度とは・・?

一体私たちはどう、振舞えば良いと言えるのか?

一度、考えてみようと思います。


パターンA.

挑戦するのは利己的ジーン。挑戦を楽しく変えるのが利他的ミーム。

自分の賢さを得意げに話すのが利己的ジーン。その話を謙虚に聴くのが利他的ミーム。

他人に命令されると反抗する利己的ジーン。ひと息ついてホッとさせる利他的ミーム。

怠け者を見つけると虐めたくなる利己的ジーン。そんな怠け者を甘やかす利他的ミーム。

人を押し退け打倒しようとする利己的ジーン。共存共栄を理念に掲げる利他的ミーム。

恐れを知らない一匹オオカミが利己的ジーン。仲間と一緒にいたいと思う利他的ミーム。


パターンB.

過去の失敗を後悔する利他的ミーム。障害を突破するまで諦めない利己的ジーン。

失意の底で傷を舐め合う利他的ミーム。困難の前で怒りをぶつける利己的ジーン。

無抵抗なまま人に譲る利他的ミーム。自分が一番だと競争心を掻き立てる利己的ジーン。

頼まれると断れないのが利他的ミーム。難なく「NO」を言う器量の大きな利己的ジーン。

偽って自分を犠牲にする利他的ミーム。他人を追い抜く喜びを感じる利己的ジーン。

協調を信じて自分の方針を捨て去る利他的ミーム。最後まで我が道を行く利己的ジーン。


考えられる限り書きたいのですが、時間がきました。


   つづく。


「個人主義」 + 「集団主義」 = 「適応者」

2020-03-09 | 学問
 3月 9日  月曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


社会経済の進歩は、

競争原理によって徐々に過激で過剰な生産性を糧に、

そこから「生産の為の生産」「消費の為の消費」「成長の為の成長」が

繰り返されてゆくその中で、「幸福の為の幸福」のはずが、

いつしか「システムの為のシステム」へと変わりはじめる。

過去、動物と同じく人類は生き残ることで意味をなしていたのだが、

現代、それらを全て発展させた状態をひたすら受け入れるしかないにしても、

今後、一人一人が最適者として適応してゆく以外に生き残る道はないだろう。

将来、社会に支配されたくなければ、他人にコントロールされたくなければの話だが。

確かに自由主義は素晴らしい。賛成だ。しかし問題点もある。

自由主義の基本原理はそれを一定不変の法則たらしめるようなものを

なに一つ示されていなければ、決定的な方法も規則も何もない。

言い換えれば、悪用のオンパレード、やりたい放題だ。

ルールがないところに反則はない。


民主主義は、個人的自由にまで拡大させているが、

社会主義は、個人をコントロールすることに長けている。

民主主義は、お金の価値を個人にまで認めているが、

社会主義は、個人のお金を駒の一つだと考えている。

それでも、

両者の間には「平等」という一つの共通点が存在する。

しかし、

民主主義は、自由の中にそれを見出そうとするのに対し、

社会主義は、干渉と命令の中に求めようとする。

結果がどう出るかは、どうしたいのか。プロセス次第だ。


集団主義と個人主義ではどうだろう?


社会に貢献する個人こそが集団主義で、

集団にありながら何もしないのが個人主義。

集団による役割を果たすのが個人主義で、

個人の能力を出し合うのが集団主義。

集団によって短所を補うのが個人主義で、

長所を掛け合わせようとするのが集団主義。

最悪なのは、

怠け者の個人と、足を引っ張る集団それと、

集団を混乱させる個人と、怠惰な集団だろう。

社会主義 - 平等、保護、組織、理想、分配。

個人主義 - 平等、機会、自由、現実、競争。

集団と個人との強度では、

巨大な集団レベルは個人主義に比べてレベルが低くなるように、

鎖の強度は一番脆いところで引きちぎられる。

団結が強さなのは認めるが、細分化すればレベルが下がるものである。

それを補う関係性が集団主義と個人主義とのウィンウィンだ。

なぜなら、

社会主義と個人主義が「平等」という同一の源泉から発している以上、

「平等理念」の追求は、我々の生きる道となり得るからだ。

それゆえに相反する主張をぞんざいにしてはいけないことになる。

そこには何らかの調和が秘められている可能性があるからだ。

バランスを求める者は集団に属し、

極端な論理を押し付けるのは個人に属す。

社会的自由は、経済的自由が無ければ持続可能ではないし、

経済的自由は、選択権を所持してその責任を負わなければならないように、

経済と責任 - 最も強い動機 - 自由への渇望 - お金による欲求。

それらを満たすための新しい取り組みが今、求められている。



    つづく。


進化による報酬は偶然か必然か。

2020-03-07 | 学問
 3月 7日 土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


偶然か、必然か。科学的相互作用か。

遺伝子構造は200個のアミノ酸を含む一個のタンパク質の配列順度が

正確に解っていても、それらの構造は偶然なものだという。

生物体の本質は盲目的であり、進化は翼を得た偶然であるそうだ。

遺伝子進化論は本来、

全人類を縛り付けている鎖から解放する為の方法の中で、

企てて社会の眼を晦まし世人を惑わすことに長け、

それをライフワークにする一部の人にだけ役立つものでは決してない。

実際、鎖というのはどんなに丁寧に磨きたてても身に付けるには不快であり、

結局は、自分自身でさえ手に負えずに自らの鎖で縛られることになる。

自然が爪と牙を血に染め、情け容赦の無い生存競争の真っただ中で、

最も気前の良い隣人愛の行為が何故? 過酷な自然淘汰を生き延びたのか。

利他的行為が利己的行為と共に進化してきたのであれば、

そこにはきっと何らかの目的が適っているからであろう。

その秘められた目的が明確になるなら、

適応者を測る尺度として自己犠牲的行為が個人的な利得にも通じる道が見えてくる。

相対的に見ても利己には利他が無ければ、又は利他には利己が必然で必要となる。

それが何を為すのか。また何を為すべきか。

選ばれた個体としての利己と利他。進化をもたらした理由。そして最適者。

利己的ジーンと利他的ミームは共に、

生きる上での何らかの利益を袖の下で分け与えられているのだろう。

欲望と仕事。社会貢献と自己犠牲。自己愛と隣人愛。それらの比率。

あらゆる結果がその個体にとって有益であるなら、

突然変異はそれ自体、害を成すものではないはずだ。

もちろん、自己犠牲にも幸福という分け前によって利益を得ている。

ダーウィンの名著「人間の由来」によると、

「下等動物の場合と同じく、間違いなく共同体の幸福のために獲得された人間の社会的本能は、

 最初から仲間を助けたいという欲求や同情心を人間に多少なりとも与えられていた」という。

いつまでも生存闘争が自然法則だと言っていては、

第二のヒトラーを再び生み出すことになりかねない。

報復に次ぐ報復が絶望の科学の代名詞だとすれば、

自然法則を前には、誰も逆らうことができないだろう。

進化は常に環境に適応しているにせよ、

偶然による報酬か。必然的な報酬なのか。

いずれにせよ、何らかの報酬が約束された結果なのだ。




     つづく。





ヒエラルキー

2020-03-06 | 学問
 3月 6日  金曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


ダーウィンが話すには、

「地球に現在生息している生物はどれも、

 それぞれの進化の過程において最先端に位置している。

 さもなければ、既に絶滅していたはずだ。」と。

ヒエラルキーの形成 - 

単純に言えば「強者による支配」または「ジャングルの掟」は、

自然発生的に生じるものだと主張する。

この考えに従えば、

人間も同様にこの掟からは逃れられないそうだ。

なんでも、

能力の優れた者が能力の低い者の上に立たなければ集団が維持できないと断言する。

はっきり言はせてもらえば、

この考えは人間関係を提起している訳ではなく、

問題解決どころかさらに混乱を招きかねない。

一部の権力者が社会全体の統率を行うヒエラルキーは、

動物の世界の中でもごく稀である。

そうしたヒエラルキーが強く感じられるのは、

上から目線で社会を見ているからだ。

平等社会においてあるまじき行為だ。

実際、私たちの思考は自分に解る範囲でしか識別されず、

また、感情だけなら感情のみでしか判断できない。

もちろん、「ジャングルの掟」も動物進化論による認識に過ぎず

原始的な旧進化論と言わざるを得ない。

問題なのは、

こうしたヒエラルキー構造が人類史においても、

そればかりか日常生活の中でさえも至る所で機能している点である。

これをマルクス・エンゲルスは階級社会と呼びかけた。

自由を志す者にとっては、

命令されない方がより正しい選択が可能であり集団としても効率的なのだ。

集団行動について生物学的観点から行われた最近の研究によると、

多数による決定はほとんどといって良いほど少数の決定より優れている。

いつの時代も、複雑な社会問題を見事に解決する集団の能力には驚かされる。

それと同時に驚いたのは、

ヒエラルキーの中には自己愛しか見当たらずに、隣人愛が欠如している点である。

つまり、階級社会とは隣人愛の無い社会構成だと説明できる。

ヒエラルキーの構成は自己愛だと。

そう考えると、

過去の進化論に莫大な影響を与えた生存闘争が、

認識違いであったと結論付けられるのである。

人類が犯した過ちの一つがまさにこれだ。

ダーウィンやスペンサーが話す通り、

「生存競争が最終的には幸福に繋がる」とする考えは、

100年前の苦しみが100年後の幸福さが増大することで報われると信じたその結果、

過去の消せない歴史が現代のグローバル社会の苦悩を増幅させているのである。

激しさが増す生存競争の中で、

憎しみが示すグローバル化の中で、

現代社会の苦悩はいまだ増すばかりだ。




     つづく。



遺伝子進化論

2020-03-05 | 学問
 3月 5日  木曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


生命体は、と言っても、遺伝子を持つ生命体は、

自らの生存のために行動する時や、

自らの存在価値を守るために、

また、自らの潜在能力を発揮するためにも、

自らの遺伝子を使用する。

だからといって、

生命体は自分のためにだけ行動しているわけでは決してない。

行動するのは、

自分と自分が属する種とを結ぶ歴史の軌跡を守るためにも行動する。

これこそが、他者との関係でしか実現出来ない究極の目的だ。

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読めばそれが解る。

とても重要な本なので紹介したいと思います。

生命を有する個体がおくる一生は、

その個体を一つの乗り物として通り過ぎていくものである。

同時に、その個体が本質的に有しているものでもある。

これらの自己は全て他者との仲間意識において属性が確立されており、

それだけに自分一人だけでは確立されないのだ。

個体のそして血統の属性は種の系統に位置し、

生命の再生のプロセスで永遠に維持されてゆく。

どんな属性の情報も遺伝子レベルで保有され受け継がれてゆく。

種は長い年月を経て、

遺伝子的に再び復元され別の次元へと引き渡される生物学的属性だ。

ー 私 - 私 - あなた - あなた - 私 - という風に

属性は必ずしも単一体の生命体やモジュール体の生命体だけに付属しているわけではない。

時を経て、個体のパターンとして残されることもある。

個体は種に従属しており、その逆は無いように個人は集団に属している。

目的が何であれ、コード化されている遺伝子には、

明らかにそれを次世代へと伝える個体の所有者であると同時に、

種の所有物、集団の一員なのだ。

つまり、遺伝子は一人で生きていてもあまり意味がないし何も起こらない。

機能する集団が無ければ遺伝子は無意味なのだ。

遺伝子は環境と相互作用して初めて遺伝子たり得る。

関係性の無いところに生きている意味はない。

遺伝子は確かに生命体をコントロールしているが、

環境次第によって情報入力を利用するそのシステムは、

私たちが考えるよりずっと複雑で面白い現象だ。

厳然たる社会現象を受け入れるためにも、

自由と安全、生活の質、社会を通じてどんな地球に住みたいか。

戦争か、平和か。

これは科学か。それとも思想か。

進化においては、

使えるものは何であれ使えるだけ使ってでも、

21世について議論を継続する必要があるのだ。



     つづく。



道徳の善悪(モラルハザード)

2020-03-04 | 学問
 3月 4日  水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


歴史を紐解けば、

人類は「徳」について深く思いを巡らせてきた。

ソクラテス、カント、聖徳太子、佐藤一斎。

それは人を欺く行為と共に受け継がれてきた。

人が善悪を知る者になることを神が許しを示したとしても、

悪徳によって善悪を知らなかった者が

善悪を判断する身になったとしても、

幾つもの答えに窮する問いが残されている。

宗教家は道徳を神の教えだと説き、

学者は哲学を修士して社会が発展したものだと信じた。

今や、両者とも歴史の事実を再確認しなければならなくなった。

道徳によって一体だれが得をするのか?

個人か、集団か。道徳はウィンウィンか。

その問いかけに対しての答えが共同体にあるというのが、

ベンサムの言う最大多数の最大幸福論だ。

社会に文明をもたらした人間にとって、

有効な道徳と同じ原理に基づく愛の力も、

功利主義が幸福をもたらすことは可能なのだろうか。

確かに子供には愛が無い。あるのは感情だ。

感情では善悪の判断がつかないために

道徳教育が善であることには同意できるが、

気を付けなければならないことがある。

道徳を命令に変える悪徳の存在だ。

そんなヤツらは自らを必要悪だと認めている。

現代の社会は改めて「いったい何のために?」といった、

哲学的な問いかけを思考しなければならない時代なのである。


道徳の善悪をどの様に見分ければ良いのか。

道徳の第一原則ともいうべき、

「己の欲せざる所、人に施する勿れ」

「汝が欲せざることを、他人になすなかれ」

これらから始まる 「修身」 とは精神教育であり、

その精神は文化に発展する 「まじめ」 である。

仁 - 隣人愛、自己愛。
義 - 道理に適う、筋道が通る。
礼 - 感謝に勝る能力なし。
智 - 人の幸せは脳に比例する。
信 - 責任、言行一致。

道徳研究はまだ始まったばかりなのです。


自らが道徳によって騙されないためにも、

正しい道徳を修身することは何よりも 「顔」 に現れる。

なぜなら、

見る人が見れば一瞬で善悪を見抜くことくら容易いからだ。

道徳は万人向けであって命令的ではなく平等であるはずだ。

だから、相手の道徳に悪意を感じ場合、

言い返さなければ上下関係、ヒエラルキーが成立してしまう。

そうならないためにも、例えば

老人が若者に道を譲れといった場合、この様に言い返す。

「若者と老人、どちらが徳か。」と。

仕事に対しては、

「個人と集団、だちらが徳か。」と。

また、

「先生と生徒、親と子、どちらが徳か。」と。

重要なのは、

道徳は命令ではなく万人法なのですから。

道徳の善悪(モラルハザード)、お判り頂けたでしょうか。



    つづく。



利己と利他による社会学

2020-03-01 | 学問
 3月 1日  日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


「リバイアサン」がいう、

各人が各人ともに敵と戦う共食い状態こそ自然状態とし、

集団は平和維持のためにヒエラルキーをもって社会を治めるという

ホップスの考えはあながち間違いではなかったし、

ミルの名著 「功利主義」 がいう、

利他的な心情は功利的道徳を受け入れる感性的な自発的基礎、

道徳的な感性は生まれ持ったものではなく獲得するものだという

大思想家の見解もはやり正しかったし、

「ニコマコス倫理学」 がいう、

私たちが他人に対して持つ友愛の情は、

私たちが自分自身に対して持つ友愛の情に由来するものであるという

アリストテレスの思想も素晴らしかった。

また、社会ダーウィン主義者が話す、

暴力を正当化しエントロピーの概念と、

ハイゼンベルクの不確実性原理を誤用した

悲観的で対立的な社会ニズムを展開してきた

ヒットラーの我が闘争が動物進化論的考えであって、

国富論が示すように、

人はみな自分の資金から最大の利益を引き出す有利な使い道を見つけ出そうと常に努力し、

その際、人は一般的に社会の利益に役立ちたいとは考えていないし、

どれだけ社会の役に立つかどうかも解っていない。

頭の中にあるのはひとえに自分自身の利益だけだという

アダム・スミスの考えにも同意してきた。

アプリオリ的な心情に従うならば、

進化の成果は前もって存在する自然的全体性にとっての、

仮説 ー 理論 ー 検証 ー 結果、

これらは歴史の特定の段階で予め定められているように、

仮説(動物進化論) - 理論(自然淘汰) - 検証(生存競争) - 結果(世界戦争)

これらがいわゆる過去の歴史だ。

さらにこれらを進化させると、

仮説(地獄論) - 理論(遺伝子進化) - 検証(適応者) - 結果(まだ白紙)

これがいわゆる未来絵図だ。

ヘーゲルがいう、

人類の歴史的全体像こそが具体的構造であり根本的だとする、

見る目が違う認識の目である。見えざるを見せる構造の一つが、

ヴィトゲンシュタインがいう言語認識が世界だ。

また、ホメオスタシスのスローガン 

「団結すれば栄え、分裂して生き残る」 という

ホメオスタシスが強ければ強いほど対立や競争から遠ざかると示す、

真の自己利益は集団を強化することであり、

人への献身、国への貢献、全体の幸福、

そのためには個人的な代償や犠牲を支払うという

生物学による論理も正しかった。

どれ一つ間違いではなかったのだ。

つまり、21世紀それは人類が

次のステージへ進むその時が来たのだ。




     つづく。



私たち人間の突然変異とは。

2020-02-27 | 学問
 2月27日 木曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


この世では、

絶対に忘れていけないことがあるのです。

それは、この世が地獄であるという事実をです。

実際、地獄を喜んで迎い入れるなら、

森羅万象 : 総ての謎が解き明かされるように、

地獄 : あるいは人間の中間的な状態、

天国 : 神によって準備された一つの試練である。


ウィン・ウィン国王は 「適応者」 という

明確なビジョンによって自然淘汰を制したかに見えたが、

そう単純ではない。

なぜなら、ヒトの脳は欠陥によって変異したものだからだ。

人間の進化は欠陥によってもたらされたのである。

だからあなたが 「欠陥者」 だとしても問題ない。

本来、動物にとって脳の肥大は生存競争において命取りだ。

それは生存上有利な方法では決してないのである。

だから他の動物は脳を肥大させようとはしない。

脳が肥大すれば頭が重くなり重心が高くなるにつれ動きが鈍く、

見た目も悪く、捕食や攻撃に不向きとなり、

そのため、動物は遺伝子で脳の肥大を防止してきた。

しかしどうゆう理由からか、

人類だけが約300万年前に脳が何らかの原因で欠損した。

この時に突然変異が起きたのである。

私たちは欠陥によって進化した 「欠陥品」 なのだ。

「適応者」などと、カッコイイものではない。

また人類は強い顎を欠損し、同時に

完熟した果物しか食べられない弱い胃腸しか持たなかった。

そのため、火を用いた調理を憶え、鉄を生産し、世界を支配した。

脳の基礎代謝エネルギーは筋肉の16倍、

体重の約2%の脳が体全体の20%のエネルギーを消費する。

脳はまぎれもなく私たちの長所であろう。

しかしそれでも 「欠陥品」 なのである。

なぜなら、「怠け脳」 だからだ。

「怠け者、世にはびこる」

「長寿の秘訣は、怠け者であれ」

「社会の未熟さは、怠け者で測られる」

すべて地獄での黄金律の一つであるのだ。

ウィン・ウィン国王がどんなに抵抗しても無意味だ。

人間は地獄に屈するしかないのだ。




     つづく。


ダーウィンの原始進化論。

2020-02-17 | 学問
 2月17日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


社会に混乱を招いたダーウィン進化論に終止符を打つためにも、

新進化論を完成させねばなりません。


誰もが人類は特別だと思い、確かに疑う余地なくその通りだ。

例え個人のあらゆる種がそれぞれ比べようもなく個性的であったとしても、

逆に人類の特異性が本来の意味で特別でなかったとしても、

あるいは進化が、どれだけ自分自身に都合よく解釈されたとしても、

人類の進歩が他の動物から区別されたことには間違いない。

端的に説明すれば、

新進化論とは遺伝子の二重らせんによるものである。

脳は進化によって出来た器官だ。

この器官の中には二つの性質が備わっている。

進化という名の 「利己と利他」 だ。

人類進化の中で淘汰を生き抜いてきたと説明するには、

遺伝子による二つの顔を持つ振る舞いが最適者だ。

共存共栄を分かち合う集団を楽しむ利他的ミームと、

他人に対して残忍な行動を楽しむ利己的ジーンによる、

遺伝子進化論での利己と利他、双方を兼ねた振る舞いによる二重性、

二つの遺伝子に対して対立ではなく相互依存による、

遺伝子進化論の適応性と最適者とは、

利己的ジーンと利他的ミームの比率を以て発展した時にのみ保証されるものであって、

どちらかに偏ってはどちらも淘汰の対象となるのである。

重要なのは比率とバランスなのである。

ダーウィンによる進化論は動物進化論であり、

自然淘汰は初めから終わりまで競争的だという。

次に、進化生物学が現時点で調和を保守している。

過去、この二つが対立し合っていた時代、様々な淘汰が具現化した。

代表的なのは二つの世界大戦であろう。

この戦争によって数知れぬほどの生命が淘汰されたのだ。

つまり、競争、闘争、共生、団結など、

どれもみな全てが淘汰の対象であったのだ。

過去、進化は相手を打ち負かすものと思われていたが、

そうではなく、共生にこそ希望があるとも考えられた時代、

動物哲学にせよ、生物学にせよ、自然科学にせよ、

人間だけが食物連鎖から逃れて、また脳の突然な発展には、

ゆっくりとした自然の中での突然変異であると疑う余地はない。

突然変異での人間の脳の発達による遺伝子進化論なのである。

少し比喩的だが言い方を変えれば、

脳には二つの性質が備わる。利己的なジーンと利他的なミームだ。

どちらも同じ人物であり、誰にでも備わる人間の長所だ。

この長所を発展させることが新進化論の目的であり、

動物進化論と進化生物学による過去の対立とはこれでさよならだ。

利己的なジーンは攻撃的であり、利他的なミームは協調的だ。

どちらが良いか悪いかではなく、どちらも自分自身なのである。

重要なのは、

この二つのどちらかに偏りすぎればそれが淘汰の対象になることである。

つまり、利己的でも利他的でも生き残れないのである。

最適者とは一体誰なのか? 人類が解決しなければならない難問だ。

過去、ダーウィンによる種の起源が社会を利己的へと導いた時代、

全ては自然淘汰によって強いものだけが生存可能だとするかなり強引な理論が人々の感情を支配した。

自然が牙と爪を血に染め、情け容赦のない闘争が繰り返されていた時代、

自然が一つの大きな蒼然たる闘争。残酷で過激な競争社会での生存闘争という理由。そして適応性。

その適応性がより強いものだけが生き残ることで進化がもたらされるという、

まるで地獄のルールブック。相手を殺さんばかりの競争をそそのかすようなものである。

ダーウィンの自然淘汰が地獄論でいうところの 「絶望という科学」 であるにしても、

この情け容赦のない生存闘争において生き残りを賭けたプログラムに終止符を打つのが新進化論だ。

いつまでも 「我が闘争」 が自然法則だと言っていては

第二のアドルフ・ヒトラーを再現するだけであるからだ。

それに対して、

共生が成せる業、利他的行動の主張には、

もっとも気前が良い自己犠牲がどうして自然淘汰を生き延びることが出来たのか?

利他行為には相互協力による利益がある。最適者にとってこれ以上の武器はない。

生存闘争において生き残ることが最大の使命であり相互援助が実際には最適者として生き残るのだ。

ホメオスタシス。体内の細胞が生物個体全体の利益のために機能しているのと全く同じように、

各個体は集団に貢献し従属するようになり、またアナロジーに向けられた「内部環境」を

制御、調整、維持させて集団に貢献している生物学と生態学の原理によるものである。

ホメオスタシスは部分と全体の対立に対する解決策である。

個人の利益と集団の幸福の間のかじ取りにおいては、

相互依存によるバランスと比率に懸かっている。

どちらにしても、これらの答えを全て自然に当てはめて今日まで激しい論争が続いている。

ある動物として他の個体の為に自らを犠牲にするように仕向ける行動は、

第三者に対する優位を獲得する上で究極的な合理性があることが解る。

自分の利益につながるところでは、あらゆる生物は当然のことながら仲間を助けると予想される。

個体を受け継ぐ遺伝子。集団を破滅さようとする個体。他の集団と共生しようと試みる集団。

利他的行動が利己的行動と共に進化してきた事実であろう。

それは何らかの目的に適し、何らかの秘められた天性の尺度として進化に通じる道であろう。

ここで一つ重大な疑問が浮かび上がる。

本来の利他的行動とはそもそも存在するのかという疑問である。

全面的に自分自身の利益のために振る舞う機会が与えられたら、

利他主義を装ってみても偽善者の血が流れていることに気づく。

相対的に見ても利己には利他が無ければ、また

利他には利己が無ければ生まれないのではないか。

善悪同様、幸福と苦痛と同じように表裏一体ではなかろうか?

民主主義の正義と自由市場。共産主義と平等への期待。自立と団結。

私たちの進化はどこに向かうのか?

生命誕生から人類進化への壮大な歴史物語である。

闘争か。平和か。 共生か。対立か。

この世界が地獄であっても法則さえ解れば対応可能だ。

文明をもたらした人類にとっての適応性と最適者。

私たちが暮らす地球の守護者としての使命。

それはミームとジーンによる、二つの性質の比率(バランス)にあるのだ。



   つづく。