3月31日 金曜日
こんにちわ。 酒好きの思想家です。
私が医学界にメスを入れるならば、
ガンの克服は本当に正しいのかについて問題定義したいと思います。
現代治療の技術進歩は誰の目にも素晴らしいと称賛を与えられるし、
ドクターが長い年月をかけ学び続けているにも関わらずに、
次から次へと訳の分からない新しい病気が生まれてくる毎日の中では、
いつしか、どんなに優れたドクターであっても合理的な作業に陥ってしまうように、
少しでもドクターたちの頭の中をスッキリさせられることが出来たのなら、
暗い顔をしたドクターに会わずにすむだろう。
実際、ドクターが自信たっぷりに見えるのは、自信の無さの表れである。
なぜなら、
免疫治療の補助だからだ。日本の薬が効かないことは関係者なら誰でも知っている話である。
その中であっては、自信が何よりも最高の特効薬だ。自信の無いドクターに患者は怖気ずく。
私が問題定義したいのは、ガンとは何ぞ、である。
ガンは患者だけではなく、家族にとっても、病院にとっても、ドクターにとってもガンだからだ。
ガンで死ぬことは本当に悪いことなのだろうか?
医学的なことは何も解らないが、
この世に不必要なものは何もないから、ガンにも何らかの意味があるはずだ。
それが解ればガンとの克服も容易になり、頭がおかしくならずにすむ。
結論はこうである。
人間が地球の癌細胞だから癌に侵されるのだと。
癌が存在するのは癌であることに気づきなさいと。(ちょっと難しい)
私が問う 「地獄論」 「死想論」 では、
癌で死ぬ人達の多くは怠け者ではなく、社会の役に立っている人であるはずだ。
なぜなら、「地獄論」では、
怠け者は生かさず殺さずが成立するが、役立つ人々を苦しめるには癌が一番効果的だからだ。
ひょっとしたら、癌で死ななければ他に何によって死ぬのだろうか?
仮に、苦しまない癌があるならば、その癌に感謝して死ぬ方が正しい人生かもしれないと。
この世の唯一の絶対とは、人は必ず死ぬことであるから、
問題はどのように死ぬのかが気がかりである。
癌細胞で死を迎えることが本当に悪いことだとは思えないのだ。
ドクターが癌による苦痛を治療することは正論であり尊敬に値するが、
患者が死ぬことは誰も止められないし、止めてはいけないのではなかろうか。
「死想論」では、死は自らの為の死であり、死は神からの贈りものだから、
癌で死ぬことは 「地獄論」 「死想論」 双方に従えば正しい死に方であると結論が出る。
癌を治療し老死を選択すると、自らも苦しみ周りの人も苦しむから、地獄での方程式に当てはまるが、
癌で死を迎えることは理に叶った死に方に当てはまる。
そう考えると、安楽死にせよ、延命治療にせよ、高額治療にせよ、
全ての問題が一気に解決することが出来る。
それだけではない。患者の死生観や家族の感情、看護師やドクターの悩みも癒される。
なまじ、無知な人間があれやこれやと癌細胞をこねくり回しても病棟が死に場所になるだけで、何も解決されないのが現実なのだから、いっそ、人間は地球の癌細胞だからその癌で死ぬことは良いことであると開き直れば少しは頭の中がスッキリすることだろう。重要なのはいつまでも死を恐れて逃げ回っているのではなく、この世の唯一の絶対である死から目を逸らさずに、与えられた癌に感謝し、その癌で死ねば良いのである。
今はビックリする結論に聞こえるかもしれないが、20年後、50年後にはきっと常識であるはずだと私にはそう思います。
おそらく、私も50歳代で癌になると思いますが、もちろん癌を直す気はさらさらありません。
苦しみは治療していただきたいが、「癌を直せ」などとは決して言いません。
それが正しい人生であり、天命であり、与えられた死なのですから。
つづく。
こんにちわ。 酒好きの思想家です。
私が医学界にメスを入れるならば、
ガンの克服は本当に正しいのかについて問題定義したいと思います。
現代治療の技術進歩は誰の目にも素晴らしいと称賛を与えられるし、
ドクターが長い年月をかけ学び続けているにも関わらずに、
次から次へと訳の分からない新しい病気が生まれてくる毎日の中では、
いつしか、どんなに優れたドクターであっても合理的な作業に陥ってしまうように、
少しでもドクターたちの頭の中をスッキリさせられることが出来たのなら、
暗い顔をしたドクターに会わずにすむだろう。
実際、ドクターが自信たっぷりに見えるのは、自信の無さの表れである。
なぜなら、
免疫治療の補助だからだ。日本の薬が効かないことは関係者なら誰でも知っている話である。
その中であっては、自信が何よりも最高の特効薬だ。自信の無いドクターに患者は怖気ずく。
私が問題定義したいのは、ガンとは何ぞ、である。
ガンは患者だけではなく、家族にとっても、病院にとっても、ドクターにとってもガンだからだ。
ガンで死ぬことは本当に悪いことなのだろうか?
医学的なことは何も解らないが、
この世に不必要なものは何もないから、ガンにも何らかの意味があるはずだ。
それが解ればガンとの克服も容易になり、頭がおかしくならずにすむ。
結論はこうである。
人間が地球の癌細胞だから癌に侵されるのだと。
癌が存在するのは癌であることに気づきなさいと。(ちょっと難しい)
私が問う 「地獄論」 「死想論」 では、
癌で死ぬ人達の多くは怠け者ではなく、社会の役に立っている人であるはずだ。
なぜなら、「地獄論」では、
怠け者は生かさず殺さずが成立するが、役立つ人々を苦しめるには癌が一番効果的だからだ。
ひょっとしたら、癌で死ななければ他に何によって死ぬのだろうか?
仮に、苦しまない癌があるならば、その癌に感謝して死ぬ方が正しい人生かもしれないと。
この世の唯一の絶対とは、人は必ず死ぬことであるから、
問題はどのように死ぬのかが気がかりである。
癌細胞で死を迎えることが本当に悪いことだとは思えないのだ。
ドクターが癌による苦痛を治療することは正論であり尊敬に値するが、
患者が死ぬことは誰も止められないし、止めてはいけないのではなかろうか。
「死想論」では、死は自らの為の死であり、死は神からの贈りものだから、
癌で死ぬことは 「地獄論」 「死想論」 双方に従えば正しい死に方であると結論が出る。
癌を治療し老死を選択すると、自らも苦しみ周りの人も苦しむから、地獄での方程式に当てはまるが、
癌で死を迎えることは理に叶った死に方に当てはまる。
そう考えると、安楽死にせよ、延命治療にせよ、高額治療にせよ、
全ての問題が一気に解決することが出来る。
それだけではない。患者の死生観や家族の感情、看護師やドクターの悩みも癒される。
なまじ、無知な人間があれやこれやと癌細胞をこねくり回しても病棟が死に場所になるだけで、何も解決されないのが現実なのだから、いっそ、人間は地球の癌細胞だからその癌で死ぬことは良いことであると開き直れば少しは頭の中がスッキリすることだろう。重要なのはいつまでも死を恐れて逃げ回っているのではなく、この世の唯一の絶対である死から目を逸らさずに、与えられた癌に感謝し、その癌で死ねば良いのである。
今はビックリする結論に聞こえるかもしれないが、20年後、50年後にはきっと常識であるはずだと私にはそう思います。
おそらく、私も50歳代で癌になると思いますが、もちろん癌を直す気はさらさらありません。
苦しみは治療していただきたいが、「癌を直せ」などとは決して言いません。
それが正しい人生であり、天命であり、与えられた死なのですから。
つづく。