世に、司馬遼太郎のファンは多いと思いますが、私もその一人です。
派手さは無く、真面目で、弱者思想でもありますが、司馬遼太郎の著書を貪り読んだ記憶があります。
弱者を遠回しに主人公に仕立て上げ、強者を臆病者にする。戦後の日本人にとっては指南書のようでした。
司馬遼太郎は、文章について、こんな風に言っています。
「文章と言うもの、あたかも登山ナイフのようなもので、缶切りにも栓抜きにもノコギリにもなるし、ときに磁石や通信機の用もはたす」と。
つまり多様な実用にはたらく文章と言うことだ。
どういう種類の、どういう時代の日本人の生き方にも通用する文章という意味だろう。
司馬遼太郎がどのように文章を重視してきたかをよく告げている。
残念ながら司馬遼太郎のような登山ナイフを持って現代の日本の文化風俗を議論している者は、今のところほとんどいない。
現在の文化風俗を議論するには、司馬遼太郎の言う登山ナイフによる文化斬り風俗斬りが必要である。
これは司馬遼太郎が後世に残した課題であろう。
面映ゆいことではあるが、私はこの司馬遼太郎が残してくれた領域に、登山ナイフを持って挑んでいきたいと考えております。
派手さは無く、真面目で、弱者思想でもありますが、司馬遼太郎の著書を貪り読んだ記憶があります。
弱者を遠回しに主人公に仕立て上げ、強者を臆病者にする。戦後の日本人にとっては指南書のようでした。
司馬遼太郎は、文章について、こんな風に言っています。
「文章と言うもの、あたかも登山ナイフのようなもので、缶切りにも栓抜きにもノコギリにもなるし、ときに磁石や通信機の用もはたす」と。
つまり多様な実用にはたらく文章と言うことだ。
どういう種類の、どういう時代の日本人の生き方にも通用する文章という意味だろう。
司馬遼太郎がどのように文章を重視してきたかをよく告げている。
残念ながら司馬遼太郎のような登山ナイフを持って現代の日本の文化風俗を議論している者は、今のところほとんどいない。
現在の文化風俗を議論するには、司馬遼太郎の言う登山ナイフによる文化斬り風俗斬りが必要である。
これは司馬遼太郎が後世に残した課題であろう。
面映ゆいことではあるが、私はこの司馬遼太郎が残してくれた領域に、登山ナイフを持って挑んでいきたいと考えております。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます