臨済宗大徳寺派で、河内の戦国武将、三好長慶が建立したとされます。
そこで、驚いたこと。
徳川家康は、元和2年(1616)駿府城で食あたりで死去したという記録なのですが、本当はその前年、堺のこの地で落命したというのです。
1615年は、大阪夏の陣で、家康の幕府軍が大阪城を攻め落として勝利したのだが、そのとき、家康は乱軍の中で敵に槍で刺され、このあたりまで退避してきて絶命したのだそうです。
それが証拠に、無銘の墓石が出てきた。またその後、秀忠、家光両将軍が相次いで当寺院に御成りした。また、この地に東照宮があったとのことなのだ。戦後、水戸徳川家の家老の子孫が、松下幸之助の寄進を受けて家康の碑をたてたのだそうです。
それが本当なら、家康は、死後1年ぐらいは陰武者がいたのではないかというのです。
も一つの話題。
Fくんがいうに、友人Kくんの縁者に歌舞伎界の近代の戯作者、食満南北がいる。
その人は、十一代片岡仁左衛門や、初代中村鴈治郎の座付き作者で、関西歌舞伎の重鎮だったそうです。
その句碑がこの寺にあるというのでしたが、説明者の話によると、非公開の奥の院にあって見られないというのでした。
昔 堺に男ありけり 夏祭り 南北
ミナミは道頓堀の橋のたもとにも句碑があるといわれる。
盛り場を むかしに戻す はしひとつ 南北
また、この寺には 古田織部の作庭とされる枯山水庭園があったりして豪壮な寺院でしたが、撮影不可というので絵はありません。
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