サンズ・トーク

大東崎にある軍施設の名残り

昨日、大東崎の灯台をご紹介したが、もひとつ、岬の突端には、大東亜戦争当時、軍が設置した「電探」施設の礎石が残っていたのだった。





説明板には、電波探知機と書いてあるが、英語でいえばレーダーなのです。

この岬は、海面から60メートルぐらい切り立った小山なので、海上の遠くを偵察するには視界が開けているのですが、岩盤がもろく、永年風雪にさらされて端から崩落してゆくのです。



これを見ていると、戦争当時のことを思い出します。
私は、当時、国民学校の4年とかそのくらいだったのです。神奈川県の平塚に住んでいました。
次第に戦況が不利になり、始めはB18だった米軍の爆撃機がB29に変り、しばしば空襲を受けるようになってきました。
ラジオが警戒警報を、そして空襲警報を伝達します。
すると、町のほうから警報を知らせるサイレンの音が聞こえてくるのです。
そう。ラジオはJOAKのみ。
家には庭に防空壕が掘ってありますので、防空頭巾をかぶって退避するのです。

ラジオの警報は、東部軍管区情報、東部軍管区情報と前置きがあって、「敵機数機が伊豆半島東部を北上中」などと知らせるのです。
後のほうには、東部軍情報、東部軍情報という言い方に変りました。

そういうふうに次第に緊迫した戦況になってゆきました。
だから、房総半島も外側に面しては敵の侵攻を察知することに神経を尖らせていたはずなのです。

そんなころ、鹿島灘方面では、米軍艦艇による艦砲射撃を受けたことがあったのです。
だから、この大東崎などは、防備の第一線だったのです。
安房鴨川なぞ、海辺の旅館などには、首都防衛軍が駐留して防備に当たっていたのです。

私の居た平塚でも、敗戦の前に空襲を受け、家に焼夷弾数発を受けて焼失、通っていた学校も全焼したのでした。
小学校は国民学校と名が変り、空襲で焼ける前は、勤労奉仕として、クラス全員で松林へゆき、松の根っこをスコップで掘るのです。
掘った松の根は、工場へ持っていって松根油を取るというのです。
それが飛行機を飛ばす燃料になって、お国のためになるというのですが、幼心にそんなんで飛行機が飛ぶのだろうか。
この戦争、大丈夫なのかと思ったものでした。

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