地球をくるりと一周り

《ちょっと世界一周して来ます。頭もお金も足りないので、無理をせずに行けるとこだけ、行けるとこまで。》

いろ (クロアチア ドブロヴニク)

2011年01月01日 | Weblog
魔女の宅急便の舞台となったと言われている町
ドブロヴニクへやって来た…はいいけれどお部屋に暖房器具がない。
宿のおばちゃんに「寒いんだけど」って言ったら、お酒を出された。
これで温まれってこと?
こっちの人は昼間っからバーでお酒を飲んでる。
そうやってみんな暖をとっているみたい。
私はあんまりお酒は得意じゃないんだけど
でもこれはおばちゃんの気遣いだもんね
ぐいぃ っと飲み干す。

お酒のせいで呼吸が苦しいんだよ。
そんな事にめげずに スルジ山を登る。
鳥が自分の下を飛んで行く
そんな景観に足を緩めながら辿り着いた頂上
アドリア海に面した町並みが一望出来る。

寒いのに景色が暖かく感じられるのは常緑樹が多いからかな
屋根の赤と、木の緑の色合いがほっかりと暖かい

町へ降りて旧市街まで歩く
その案内役を買って出てくれたのは小学校高学年くらいの子どもたち
入り江を歩いて走って、板を渡って海をまたぎ、城壁をくぐり抜けて町へ入る
それがこの子たちのお決まりのルート

この道をたどる間、みんな一生懸命 ホンシュウ トウキョウ って
知ってる日本語を並べてくれた

ワックス塗る ワックス取る って…ん~まぁ それも日本か?

翌日、自転車で町中を行くこの子たちと再会
すれ違いざまに男の子がすっと右手を挙げ
それに応えた私の手を パン!と叩いて走り去って行った。

このワンシーン 私の中できっとずっと色あせない ぞ、と。

陽気な太陽 (ブラジル)

2008年05月25日 | Weblog

ホテルのテラスへ出てみる。
相も変わらずキラキラと輝く太陽。
照らされた街がまぶしくて目を細める。
ぼやけた景色を見渡して日本はどっちだろうと思う。

~~



振り返ると、モップを持ったおっちゃんが鼻歌まじりに掃除をしている。
彼は目が合った私に、ただ笑顔をくれてモップを軽やかに動かし続ける

その 普段と変わらない今日を過ごしているおっちゃんを見て 
私がどんなに慌てても、誰に何があっても、1日は24時間でしかなくて 
今日と言う日は ただそこにあるのだ と、そんな風に言われた気がした。

大きな出来事があった日は、ただ流れていく1日より確かに色濃くて、
その日の気温も空の広さもずっと忘れない。

つまりね。今日は、そんな日じゃないと。

だって弟は今戦ってる最中な訳で。
なのに大ごとを想定して私が凹むのってさ 失礼でしょ 頑張ってる弟にさ。
信じててやらないと。
今日が、普段と変わらない1日になるって。

あたしの神経は時折、自分でもびっくりするほどに単純だ。
信じるスイッチが入ったら、もう疑わない。
もしも…なんて考えないから 変に心配なんかしない。

こんな風に考えられるようになったのは 私が強いから…じゃなくて。
これまで誰かにこっぴどく騙されたり、裏切られたり、
そう言う経験がないからなんだろう。

ツライ目に遭ってる人ほど、ガマンが上手になってくだろうし、
疑い深い人には、疑わなくては不安になってしまう
それなりの理由があるんだ思う。

だから。
私が物事を切り替えて考えるのが上手なのは、強いからとかじゃなくて。
ただ、平気だった事が多いからなんだ。

そうやって生きて来られたのは
紛れもなく私を取巻く全ての人たちが優しかったおかげ。
ホントに、みんなどうもありがとう。



泣くのも喚くのも、もしも…が、現実になってからでいいや。
そう眩しい太陽に呟いて、街へ出た。


わはは わはははは (現在 日本)

2008年05月25日 | Weblog
わははーぃ
どこまで笑ってごまかせるかしら

更新1年以上ぶりでーす
旅したのなんかもう 何年前だよ ってな話しになってしまいました

お許しをぉぉ

でもこの空白の1年間は 濃かった。
旅してた時と同じくらい、1日1日意味があった気がしてる。

そんな1年をくぐり抜けて、私は今ちゃんとお仕事してます。
今度は正社員 月給制で 影絵劇団員
色んな仕事があるもんです。

とにかく今は労働マシーンと化して働く日々。
ガンバッテ生きてます

ぐっすり (ブラジル)

2007年04月23日 | Weblog

ホテルの部屋に入るとすぐに、ベッドが目に入った。
「この旅で一番立派なベッド…」そう思って、ふっくらした布団をなでた。

で、決めた。

今、出来る事はなんだ?

帰れない事を嘆く事か?
祈りを捧げる事か?

きっと違う。

本当に大変なのは帰ってからだ。
帰ってから走れなきゃ意味ないんだ。

だから、寝る。

そう決めてシャワーを浴びて、寝た。

本当に寝た。

特技が 寝る の私 だけれど…
目が覚めた時には、ぐっすり眠った自分に軽く引いた。。。

が!睡眠を取ったおかげで思考回路が動き始めたぞ。

フロントへ~
メールが出来ないか聞くとネットルームへ案内してくれた。
日本語は使えない。
けど、母からのメールが来ていない事だけは確認出来た。
特に進展は無いと言う事だろう。
ローマ字で、帰国の日時だけ伝えた。

またフロントへ~で、
「ここはどこ?空港まではどうやって行ける?」と聞いた。

実は、空港からホテルまでの事をほとんど覚えていなかった。
だから自分が今、空港からどれ位の位置に居るのかも分かってなかったのだ。

フロントマンは不思議そうに
「予定通り、夕方6時にバスで空港までお送りしますよ。」と教えてくれた。

どうやら、空港でホテルを予約した時に送迎も手配してくれたらしい。
あの時全然話し聞いてなかったからなー。
空港のおっちゃんとか、ホテルの人とか、みんな善良な人間で助かった~。

と、ホッとした所でどーすっかな?
迎えまであと9時間以上ある…

遠っ! (ブラジル)

2007年04月18日 | Weblog

結局…飛行機に乗れたのは夕方で、
サンパウロへ到着したのが午後6時。

JALのデスクカウンターへ走る。

誰も居ない… 
あちこち走り回って分かったのは、JALは明後日まで飛ばないって事。

今度は、日本までの便を持つ航空会社を調べてカウンターへかけこむ。

「日本へ帰りたい。」

私の声に顔を上げたおじさんが「いまからですか?」と聞いた。

「そう。満席ならキャンセル待ちをします。とにかく、今すぐ帰りたい。」

そう詰め寄った私に、彼は申し訳なさそうに言った。

「残念ですが、それは出来ません。
 今日は、日本へ行く便は出ていないんです。」

「なら、どこかで乗り換えて行ける便は?」

「もちろん、乗り換えになります。
 それでもやはり、最短で日本へ行けるのは明日の深夜発の便です。」

明日? しかも深夜?

日本って なんて遠いんだろう…
余りの遠さに眩暈がした。

私は、何だってこんな所まで来てしまったんだろう。

小さい時、弟は言ったんだ。

母に連れられて歯医者に行く前、必ず。
「ねー(ねーちゃん)、おくすりちょうだい。」って。
私が調合するフリをして渡した、見えない薬。
「効くはずないんだけど、飲むと痛くないんだもん…」
とつぶやきながら弟は、前日から予約を入れる程の信仰ぶりを見せてた。

それから
「ねーとなら乗る。」って、ジェットコースターにはいつも私と乗りたがってた。
「もし、ベルトが外れても、ねーとだったら大丈夫な気がする。」んだって。

また、作ってやるよ、お薬。
あの時のより、ずっと効くやつ。

あたしと居たら大丈夫な気がするんだろ?
病は気から…って言うんだとしたら「大丈夫な気がする」のって、
すげー大事なんじゃ?

わかってる。
あいつはもうあの時の子どもじゃない。

でも、よく聞くでしょ?
「子どもはいつまでたっても子ども」って。
正にそれ。
弟はいつまでたったって弟なんだ。

先に生まれたあたしより先に、あいつに何かある事なんてガマンならないんだよ。
何があったって、何をしたって、守ってやりたい。助けてやりたいんだ。

なのに、なのに、あたしは今、どこに居る?
そばに居たって何も出来ないかも知れない。
でも今は、そばに居ることすら出来ない。

しゃがみこんで動かないで居る私に、
カウンターから出てきたおじさんが、顔を覗き込むようにして言った。

「とにかく、航空券と、今夜の宿の手配をしてあげるよ。
 そんなに費用もかからないところをね。
 そこで少し休むといい。そうするしかないんだから。」

サンパウロまで (ブラジル)

2007年04月15日 | Weblog
かつては奴隷売買や奴隷への拷問が行われていた事から
『むち打ち刑の柱』という意味を持つ、ぺウロリーニョ広場。

その広場まで歩いて、タクシーに乗り込む。
空港へ そう告げると運転手さんはうなずいて、走り出した。

まずは国内線でサンパウロまで飛ぶ。

空港のカウンターで
「日本へ帰るためのチケットが欲しい。」そう言うと
次のサンパウロ行きは満席だと言われた。

キャンセル待ちしかない。

その間に、母とメールのやりとりをした。
今そっちへ向かっているから、と。
母からは…

「心配かけてごめん。

 今、弟は集中治療室に入ってる。今の所原因は不明。

 夜9時頃に頭が痛いと言い出して…
 痛がり方が普通じゃなかったから車で病院へ来たんだけど、
 調度急患が入ってしまって、仕方なくロビーで待ってて…

 初めは口を聞いていたんだけど、口数も減って…
 やっと先生に診てもらえた時には、自分の名前も言えない状態だった。

 先生が「名前、言える?」って言ってるのに、答えられないの。
 もう、日本語じゃないような言葉しか出て来なくて。
 
 それで横になってと言われて、ベッドに横になった途端に
 痙攣が始まって、白目を向いて…
 
 まるで脳がどんどん壊れて行くみたいだった。。。」





キャンセルは出なかった。


次の便も… くそっ!!!!

じゃぁ、そろそろ。 (ブラジル)

2007年04月09日 | Weblog

「いや、帰るって聞いて…」
どこからともなく話を聞きつけて、
同部屋の何人かがわざわざ帰って来てくれたんだ。

良い人たちねぇ…と、私が思っていると、別の人が言った。

「みんな、心配してんで。」

そうです。その通りです。理由くらい言わないとね。

「…弟が、入院したって メールがあって だから あたし 帰ります。」

帰りのチケットは持ってるのか、とか、空港まではどうするのか、とか
とにかく今すぐ帰るのだと言って聞かない私を、みんな心配してる。

気が付けば日が暮れていて、
タクシーで空港に向かうんでも、カーニバルの影響で渋滞するだろうし 
興奮状態の街中へ行くのが危ないのをみんな分かってるから。

さっき、心臓が一度、強く跳ねてからずっと、落ち着いたようで
落ち着いてなんかなかったんだ。冷静なフリをしてただけ。

みんなの顔でそれに気付いて、出発を夜明けまで延ばすことにした。
いずれにせよ空港は24時間開いていない。
深夜便があるかも分からない状態で、私は空港へ向かうところだった。

夜明けに発つ、そう決めた私にみんな少し安心したようだった。
そして、私が出発するまで、みんな付き合って起きていてくれた。

いや、カーニバル中は結構夜中騒いでいるみんななんだけど、
部屋に残って話し相手をしてくれていた。

たった数日の共同生活。
それでもみんなこんなに暖かくって。
とてもありがたかった。



 空が白んで来て、サルバドールの海がキレイな青色を見せ始める。。。



見慣れていたこの景色ともサヨナラだ。

バックパックを背負って、部屋を出る。

みんな声をかけてくれる中
「弟さん、帰ったらケロっとしてるよ、絶対。」

その一言がやけに胸に残った。

お帰りの仕度 (ブラジル)

2007年04月04日 | Weblog
宿の入り口には大きな錠がついていて、
これを開けるのにちょっとしたコツがいった。

分かってるのに、開かない。

ガチャガチャガチャガチャ
ガチャ ・ ガチャ 開いた! …あと3つ

ガチャ!2つ目のカギは軽くクリアーして、階段を駆け上る。
3つ目を準備しつつ部屋の前に立つと
同部屋の人が中から残りのカギを開けてくれた。

「ありがとう」
実際に感じてる ありがとう の半分にも満たない言い方をして、
自分のベッドに駆け寄る。

2段ベッドの上段が私のスペースなのだが、梯子を上るのも手間に感じ
バックパックを引っ張り寄せ、電子辞書を取り出した。


『脳炎』

【症状】
頭痛、発熱で発症。進行するとさらに高熱となり髄膜刺激症状(くも膜下出血などによって起こる症状。頭痛や吐きけ、嘔吐が典型的。)が出て、さらに意識障害、けいれん、昏睡がみられるようになり、ついには死に至る。

【標準治療法】
有効な抗ウイルス剤がないため、対症療法(症状を抑えることを目的とした治療。かぜの治療などが典型的。)を行うしかない。

【病後の経過】
致命率は患者により異なり、20~50%である。また死亡を免れても、重要な後遺症を残す。高齢者や発熱の長く続く症例では予後は悪い。』

 …ナニ?

 …治療法 ないの?

 …で、 20~50%が、 ナニ?

いや!母は命に関わることはないと思う、と言った。
では?後遺症を、重要な後遺症を残すと言うことか?

「…フッ」 泣きそうになって、声がもれた。

でも今は泣いている場合じゃない。
左手に辞書を持って、今度はゆっくり読み返しながら、
右手でパッキングを始めた。

帰るんだ。 今すぐに。

躍起になってパッキングする私の姿に気が付いた同居人が不思議そうにしてる。

「あたし、帰ります。」
ちょっと気持ち悪い笑顔になってたと思うけど、それだけが言えた。

人に心配かけないように話せる気はしなかった。

旅中に何度としたパッキング。
手馴れたもので、割と早く済んだ。

何より、旅が最後となれば、捨てて行ける物とか、
まだ旅を続ける人に貰ってもらえる物も多かったから、
バックパックにはゆとりがあった。

そうこうしているうちに、同部屋の何人かが戻って来た。



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『脳炎』の情報は、私なりの理解として書いたものですので、
決して正確ではありません。参考にはなさらないで下さい。

サンバカルナヴァルへも行くぞ! (ブラジル)

2007年04月02日 | Weblog
カルナヴァルの開催日は、地域毎に多少ずれていて 
サルバドールのカルナヴァルに参加した後でも、
あの有名なリオのサンバカルナヴァルに間に合う事が分かった。

そこで、リオデジャネイロ行きのバスチケを手配した。

移動が決まったので、それを家族や友達に知らせようと 
数日ぶりにネットカフェへ行った。

何件か受信したメールの中に、母からのメールが3件。
暑さにうだりながら、流し読んで行く。

1件目「弟が大学受験合格しました。」

2件目「弟の高校卒業が確定しました。」

3件目「弟が大変な病気かも知れません。冗談ではなくです。
    早く帰れるようなら帰って来て。」

ドキン!!

心臓が強く、1度だけ跳ねて
落ち着け…そうつぶやいた自分の声で静かになった。

3件目の送信日時を確認する。
1時間半前だ。何日も前でなかっただけラッキーだった。

「病名は?今どうしてるの?」

そう送信すると、すぐに母から返信があった。

日本は真夜中であるのにも関わらず、応答がある事が 
落ち着いた状態ではないと感じさせた。

しかし同時に、メールが出来ると言う事は、
緊迫した事態は避けられたのかも知れないとも思った。

「きちんとした検査結果はまだだけど、脳炎かも知れないって。
これから大学病院に移るかも。とりあえず、命には関わらないと思う。
でも、出来れば早く帰って。お母さんが心強いから。」

「すぐ帰るよ。飛行機の時間とか、分かったらまた連絡する。」

返事をしてすぐに、検索エンジンで「脳炎」を検索。

遅い… ここも決してネット環境は良くない。
ゆっくりと「脳炎」に関する情報が表示されていく。

慣れているはずのこの遅さに我慢ならず、座ったばかりの席を立った。
宿へ戻って、持参している家庭の医学で確認した方が早いからだ。

走りながら、

ナンデ? ナンデ? ナンデ弟なの?

旅を始めてからずっと、お父さんが心配だった。
もし、万が一何かあるとしたら、高血圧な父だと漠然と思っていた。

それがナゼ弟なのか。
もちろん父だったら予想通りと言う訳ではない。
ただ、余りにも考えが及ばない事だったので、私の頭の中は

ナンデ

でいっぱいだった。

現地語ではカルナヴァル! (ブラジル)

2007年03月30日 | Weblog
おっきなトラックに、おっきなスピーカーを搭載し、
その上にステージがこしらえてある!!
そこにバンドや人が乗っかって、叫ぶ!!踊る!!

そんなんが何台も、大音量で音楽を鳴り響かせながら、
チームを引き連れてバーハ海岸沿いを練り歩く!!

人・人・人・人! 人の山~ 人の波~ 人の大洪水だ~っ!!
たーすけてくれーぇ!! なーがーさーれーるー!!

通勤ラッシュ状態!!
でもね、みんな ものすっごい楽しそうなの!!
ギュウギュウなのに「楽しい」って吹き出し以外は付いてない!!
想像つく? 汗だくの満員電車で全員が心底ウキウキ♪してる!!
ちょっと異様な光景よ!!

なんでも、カルナヴァルに必要なのは
 ・3%の理性と97%の本能 だとか!?
ついでに不要なのは
 ・日本人の美徳とされる、恥じらいや謙譲の心!?

ナルホド 納得。って感じです!!

ある人が言いました
「カルナヴァルは狂ってる!!」

これまた納得。 完全に狂ってます!! イャッホホーーイ!!