前回は、浄土真宗というものが、他の仏教諸派から見た場合、非常に異質なグループとして存在しているということと、その原因が信仰の課題が「仏中心」ではなく、「人(自分)中心」になってしまったことにあるというお話をしたと思います。
「念仏為本(念仏が一番大切)」から「信心為本(信心が一番大切)」へのすり替えですね。
その結果、現在、日本の仏教界では、
「通仏教(普通の仏教)」と「浄土真宗」
というカテゴリー分化がなされています。
これ、一般の方はご存じないかもしれませんが、仏教界では常識となっています。
要するに、日本仏教界において、「浄土真宗は普通の仏教ではない」と認識されているということです。
私などは、これ、「どう考えても、親鸞聖人は仏教の王道を歩んでいらっしゃる」としか思えないので、非常に遺憾とするところなのですが、一般的な浄土真宗の皆さんは、むしろ喜んで、「普通でないこと」を受け入れているようなのです。
実際、こんな感じでお互いのことを認識していると思います。
浄土真宗 「他宗の坊さんたちは、前近代的でくだらないことをしている迷信詐欺」
他宗 「あいつら、き〇〇い」
これ、どっちも誇張じゃないです。
浄土真宗の偉いお坊様たちは、他宗だけじゃなく、神道だとか他宗教に対しても同じスタンスであることが多いです。
以前、こんなことがありました。
某「若手の研修で伊勢神宮行ってきました!」
私「お、良いじゃないか。勉強になったろ?」
某「はい。」
私「で、お参りしてきたか?」
某「(誇らし気に)いいえ。鳥居は避けて横から回り込みました、本殿でも参拝はしませんでした!」
私「は・・・・・・・・?」
意味不明過ぎて言葉が出なくなってしまったのですが、とりあえず、「こいつら殺した方が良いな」と思いました。
文化大革命時代の紅衛兵って、こんなやつらだったんだろうな、とも思いました。
いったいぜんたい、彼らは神社に何をしに行ったというのでしょうか?
本気で理解に苦しみました。
そもそも、神社仏閣を訪れたら、そこにいらっしゃる神様仏様に手を合わせ、頭を下げるのは、人として最低限の礼儀です。
マナーです。
それに何より、敬虔な気持ちで神様と向きあわない、というのは、真面目な気持ちで神様に向かって手を合わせていらっしゃる、正常な参拝者に対する冒涜です。
「くだらない迷信に惑わされてる馬鹿ども」だと、見下しているのでしょう。
これでは、「あいつら、き〇〇い」という、他宗の皆さまの評価が正しいと言わざるを得ません。
排他的かつ横柄な自称エリート集団という、勘違い集団ですよ。
あ、これ、怒って言っているわけじゃなくて、フラットに見た評価ですからね。
なぜ、こんな浄土真宗になってしまったのでしょうか?
だれが、こんな浄土真宗にしてしまったのでしょうか?
だから、「人(自分)中心」だとカルトになるって、言ってるの!
私、この問題については、割と細かく分析できているのですが、話題が大きくずれておりますので、元に戻します。
親鸞聖人は、こんなじゃありません。
親鸞聖人は、
「道はいろいろとあるけれど、私が行けるのは、この道だけだから」
と、お念仏の道を歩まれたのであって、他の道(他宗の方法論)を否定されてはおられません。
自分の歩んでいる道が「普通の仏教」でないなどとは、これっぽちも思っておられません。
普通に仏教を学んでいたら、阿弥陀如来に行き着いたというだけで、仏教の外に出たわけじゃないんですから。
神社に参拝もされたし、阿弥陀様以外の仏様を拝んでもおられました。
それになにより、親鸞聖人の論理は、仏教という枠組みの中で組み立てられた、仏教論理です。
「普通の仏教じゃない」なんて言われたら、顔を真っ赤にして怒り出すんじゃないでしょうか、親鸞聖人。
「すべて仏説、でも、私には阿弥陀様」
「神仏はすべて大切に、敬いましょう」
というのが、親鸞聖人のお考えです。
だから、普通の仏教として、他宗と通じ合うことのできる仏教、「すべて仏説」と言える仏教が、親鸞聖人の仏教なんですよ。
これ、覚えておいてくださいね。
(見真塾サルブツ通信Vol.0030より)
「念仏為本(念仏が一番大切)」から「信心為本(信心が一番大切)」へのすり替えですね。
その結果、現在、日本の仏教界では、
「通仏教(普通の仏教)」と「浄土真宗」
というカテゴリー分化がなされています。
これ、一般の方はご存じないかもしれませんが、仏教界では常識となっています。
要するに、日本仏教界において、「浄土真宗は普通の仏教ではない」と認識されているということです。
私などは、これ、「どう考えても、親鸞聖人は仏教の王道を歩んでいらっしゃる」としか思えないので、非常に遺憾とするところなのですが、一般的な浄土真宗の皆さんは、むしろ喜んで、「普通でないこと」を受け入れているようなのです。
実際、こんな感じでお互いのことを認識していると思います。
浄土真宗 「他宗の坊さんたちは、前近代的でくだらないことをしている迷信詐欺」
他宗 「あいつら、き〇〇い」
これ、どっちも誇張じゃないです。
浄土真宗の偉いお坊様たちは、他宗だけじゃなく、神道だとか他宗教に対しても同じスタンスであることが多いです。
以前、こんなことがありました。
某「若手の研修で伊勢神宮行ってきました!」
私「お、良いじゃないか。勉強になったろ?」
某「はい。」
私「で、お参りしてきたか?」
某「(誇らし気に)いいえ。鳥居は避けて横から回り込みました、本殿でも参拝はしませんでした!」
私「は・・・・・・・・?」
意味不明過ぎて言葉が出なくなってしまったのですが、とりあえず、「こいつら殺した方が良いな」と思いました。
文化大革命時代の紅衛兵って、こんなやつらだったんだろうな、とも思いました。
いったいぜんたい、彼らは神社に何をしに行ったというのでしょうか?
本気で理解に苦しみました。
そもそも、神社仏閣を訪れたら、そこにいらっしゃる神様仏様に手を合わせ、頭を下げるのは、人として最低限の礼儀です。
マナーです。
それに何より、敬虔な気持ちで神様と向きあわない、というのは、真面目な気持ちで神様に向かって手を合わせていらっしゃる、正常な参拝者に対する冒涜です。
「くだらない迷信に惑わされてる馬鹿ども」だと、見下しているのでしょう。
これでは、「あいつら、き〇〇い」という、他宗の皆さまの評価が正しいと言わざるを得ません。
排他的かつ横柄な自称エリート集団という、勘違い集団ですよ。
あ、これ、怒って言っているわけじゃなくて、フラットに見た評価ですからね。
なぜ、こんな浄土真宗になってしまったのでしょうか?
だれが、こんな浄土真宗にしてしまったのでしょうか?
だから、「人(自分)中心」だとカルトになるって、言ってるの!
私、この問題については、割と細かく分析できているのですが、話題が大きくずれておりますので、元に戻します。
親鸞聖人は、こんなじゃありません。
親鸞聖人は、
「道はいろいろとあるけれど、私が行けるのは、この道だけだから」
と、お念仏の道を歩まれたのであって、他の道(他宗の方法論)を否定されてはおられません。
自分の歩んでいる道が「普通の仏教」でないなどとは、これっぽちも思っておられません。
普通に仏教を学んでいたら、阿弥陀如来に行き着いたというだけで、仏教の外に出たわけじゃないんですから。
神社に参拝もされたし、阿弥陀様以外の仏様を拝んでもおられました。
それになにより、親鸞聖人の論理は、仏教という枠組みの中で組み立てられた、仏教論理です。
「普通の仏教じゃない」なんて言われたら、顔を真っ赤にして怒り出すんじゃないでしょうか、親鸞聖人。
「すべて仏説、でも、私には阿弥陀様」
「神仏はすべて大切に、敬いましょう」
というのが、親鸞聖人のお考えです。
だから、普通の仏教として、他宗と通じ合うことのできる仏教、「すべて仏説」と言える仏教が、親鸞聖人の仏教なんですよ。
これ、覚えておいてくださいね。
(見真塾サルブツ通信Vol.0030より)