私を、お引き止めにならないでください。
この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。創世記24:56
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。...
そして十字架から降りて来い。」マタイ27:39~40
(ローズンゲン日々の聖句4/3;金)
子どもの生まれないアブラハムに、天の神、主は約束なさったのだそうです。
「さあ、天を見上げなさい。
星を数えることができるなら、それを数えなさい。
あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)と。
さらに仰せられたのだそうです。
「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、
カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。
わたしはあなたの子孫にこの地を与える。」(創世記15:7、18)と。
そして、100歳になり、
人間の可能性がついえ果てて久しいアブラハムとサラに、
待望の、約束の子、イサクが生まれたのですね。
イサクが成人したとき、
アブラハムはイサクの妻を自分の親族から迎えようとし、
自分の全財産を管理しているしもべを自分の生まれ故郷へつかわし、
そこから妻を迎えようとしたのだそうです。
そのしもべは、神である主の不思議なくすしい導きで、
アブラハムの兄弟であるナホルの子ベトエルの娘リベカと出会うことができたのだそうです。
そして、リベカをイサクの妻として連れ帰ることになったとき、
リベカの兄と母は、リベカを10日間ほど、とどめて、
それからのちに、行かせたいと希望したようですが、
そのとき、しもべは、冒頭の言葉のように答えて、
リベカを早くイサクのもとに連れ帰ろうとしたのだそうです(創世記24章)。
次の、マタイ27章の言葉は、十字架に架かられたイエスを、
通りかかった人々がののしり、あざけっている言葉だそうです。
確かに、イエスはエルサレム神殿の庭で「この神殿をこわしてみなさい。
わたしは、三日でそれを建てよう」と言われたのだそうです(ヨハネ2:16)。
それで、この言葉を聞いた人々は、「この神殿」とは、エルサレム神殿のことだと思ったわけですね。
けれども、イエスが言われたのは、「イエスご自身のからだ」のことだったようですね。
2000年ほど前の過越しの祭りの日の金曜日、イエスは、私たちすべての人間の罪をご自身に背負って、罪をあがなう身代わりの小羊として十字架刑に架かり処刑されて下さったのだそうですが、その金曜日の午後3時頃、「完了した」と宣言されて息を引き取られたのだそうです。
そして、安息日が始まろうとしている金曜日の日没の時間が近づいていたので、
急いで、近くにあった、アリマタヤのヨセフという人が自分のために掘っておいた墓に納められたのだそうです。
そして、安息日(土曜日)の一日が過ぎ、日曜日の早朝、マグダラのマリヤほか、数名の女性が
イエスのからだに油を塗ろうと香料をもって墓に行ってみるとイエスのからだはそこにはなく、
イエスは復活されていたのですね。
天の神、主は、確かに、十字架刑によってこわされたイエスのからだを、三日で建て直し、
新しい復活のからだ、霊のからだに復活させ、弟子たち出会わせられ、
弟子たちをイエスの復活の目撃証人として立てられたのだそうです。
そして、しもべを通して、イサクがリベカと出会い、
イサクとリベカが結婚して一体となったように、
私たちも、イエスに関する素晴らしい知らせを伝えてくれる人々を通して、
復活し、今も生きておられるイエスと出会い、
さらに復活されたイエスによって、聖である霊と呼ばれる方と出会い、
神の子として一体になっている者、
思いを一つにし、行動を一つにする者としていただけるのだそうですね。
今日も。
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そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。...
そして十字架から降りて来い。」マタイ27:39~40
(ローズンゲン日々の聖句4/3;金)
子どもの生まれないアブラハムに、天の神、主は約束なさったのだそうです。
「さあ、天を見上げなさい。
星を数えることができるなら、それを数えなさい。
あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)と。
さらに仰せられたのだそうです。
「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、
カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。
わたしはあなたの子孫にこの地を与える。」(創世記15:7、18)と。
そして、100歳になり、
人間の可能性がついえ果てて久しいアブラハムとサラに、
待望の、約束の子、イサクが生まれたのですね。
イサクが成人したとき、
アブラハムはイサクの妻を自分の親族から迎えようとし、
自分の全財産を管理しているしもべを自分の生まれ故郷へつかわし、
そこから妻を迎えようとしたのだそうです。
そのしもべは、神である主の不思議なくすしい導きで、
アブラハムの兄弟であるナホルの子ベトエルの娘リベカと出会うことができたのだそうです。
そして、リベカをイサクの妻として連れ帰ることになったとき、
リベカの兄と母は、リベカを10日間ほど、とどめて、
それからのちに、行かせたいと希望したようですが、
そのとき、しもべは、冒頭の言葉のように答えて、
リベカを早くイサクのもとに連れ帰ろうとしたのだそうです(創世記24章)。
次の、マタイ27章の言葉は、十字架に架かられたイエスを、
通りかかった人々がののしり、あざけっている言葉だそうです。
確かに、イエスはエルサレム神殿の庭で「この神殿をこわしてみなさい。
わたしは、三日でそれを建てよう」と言われたのだそうです(ヨハネ2:16)。
それで、この言葉を聞いた人々は、「この神殿」とは、エルサレム神殿のことだと思ったわけですね。
けれども、イエスが言われたのは、「イエスご自身のからだ」のことだったようですね。
2000年ほど前の過越しの祭りの日の金曜日、イエスは、私たちすべての人間の罪をご自身に背負って、罪をあがなう身代わりの小羊として十字架刑に架かり処刑されて下さったのだそうですが、その金曜日の午後3時頃、「完了した」と宣言されて息を引き取られたのだそうです。
そして、安息日が始まろうとしている金曜日の日没の時間が近づいていたので、
急いで、近くにあった、アリマタヤのヨセフという人が自分のために掘っておいた墓に納められたのだそうです。
そして、安息日(土曜日)の一日が過ぎ、日曜日の早朝、マグダラのマリヤほか、数名の女性が
イエスのからだに油を塗ろうと香料をもって墓に行ってみるとイエスのからだはそこにはなく、
イエスは復活されていたのですね。
天の神、主は、確かに、十字架刑によってこわされたイエスのからだを、三日で建て直し、
新しい復活のからだ、霊のからだに復活させ、弟子たち出会わせられ、
弟子たちをイエスの復活の目撃証人として立てられたのだそうです。
そして、しもべを通して、イサクがリベカと出会い、
イサクとリベカが結婚して一体となったように、
私たちも、イエスに関する素晴らしい知らせを伝えてくれる人々を通して、
復活し、今も生きておられるイエスと出会い、
さらに復活されたイエスによって、聖である霊と呼ばれる方と出会い、
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思いを一つにし、行動を一つにする者としていただけるのだそうですね。
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