朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

弁護して下さるのだそうです。私たちの側に立って。あの方。

2015-04-13 23:43:31 | 聖書から
主よ、生死にかかわるこの争いを、私に代わって争い、
命を贖(あがな)ってください。哀歌3:58
私たちが持っているこの希望は、
魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、
また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。ヘブル書6:19
       (ローズンゲン日々の聖句4/14;火)
 預言者エレミヤは、天の神、主からの民に対するメッセージをそのとおりに伝えたために、捕えられ、殺されそうになったのだそうです。まさに生死にかかわるその争いの中で、自分に代わって神である主が争ってくれるように、命を買い戻してくれるようと願ったのだそうです。
 この世の争いでもそうですが、私たち人間には、天の神、主の御前での裁判において訴える者と争わなければならない時が来るのだそうです。
私たち、一人一人が自分の今までの生きて来た生き方について弁明しなければならないのですね。告訴する者、サタンは私たちを告訴して地獄行きを求刑し、私たちを道連れにしようとするのだそうです。けれども天の神、主は私たちに代わって争ってくれる、弁護してくれる方を用意して下さっているのだそうですね。
 その方は、ご自身で私たちの罪を負い、私たち人間に代わって死刑を受けて下さって地獄の底の底まで降って下さり、よみがえられた方なのだそうです。
 その方の弁護は、私たちの無罪、あるいは減刑を争うのではなく、私たちの有罪、死刑を認めたうえで、その死刑が、ご自身の十字架刑での処刑ですでに完了していること、処刑が終わっていることを主張して下さるのだそうです。
 自分は無罪だと、死刑にあたるようなものではないと自負し、自分で自分の言い開きをしたい者は、自分で争い、言い開きをすることになるのだそうですが、十字架に架かって死なれたイエスに弁護をお願いし、私に代わって争っていただくことも可能なのだそうですね。
 私たち人間には、このような希望が用意されているのだそうですが、この希望は、この世の流れの中を渡っていくうえで、世の流れに流されそうになるときの、あるいは力尽き、望みを失いそうになるときの錨のようであり、また、天の神、主の御前にはばかることなく出て行き、親しく「父よ」とお呼びすることの出来る身分保障でもあるのだそうです。
 日々の生活において、告訴する者、サタンは、「お前はだめだ。消え去れ」とささやいてくることがありますけれど、それが事実であるとしても、私たちは、イエスの弁護によって、あの方の招きに応じて、このままで御前に出、「父よ」とお呼びして親しく語っていただけるのだそうです。
今日も。
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私は私、あの人はあの人で、喜んで折れるようにして下さるのだそうです。あの方。

2015-04-13 07:24:50 | 聖書から
相手に損害を与えてはならない。
あなたの神主を畏れなさい。レビ記25:17







何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。フィリピ2:3




            (ローズンゲン日々の聖句4/13;月)







 完全な愛は、相手の思うことを尊重し、それが成ることを願っていくもののようですね。

 人間、生まれたときからの私という霊から出る愛は、自分を相手よりも優れた者とし、相手は自分の思いのとおりにするのが最善だとして、情に絡めて、なんとかして相手を自分の思ったとおりに従わせようとするものなのだそうです。




 天の神、主が、
イエスを十字架刑で処刑して、私たちに提供していて下さる、
生まれたときからの私という霊の死を受け取り、
生まれたときからの私という霊から来る思いを
死んでしまっている者から来る思いであると認め、
そのように計算(帳簿付け)して、
天に帰られ、 父と呼ばれている方の右の座に着かれたイエスが派遣してくださる、
聖である霊と呼ばれる方をお迎えするとき、
その方が私たちの心に、
父である方の御思いを書き付けてくださるのだそうです。




 それで、私たちの心にも天の神、主の御思いが来て、
買い取ったものをある期間自分のものとして使った後は、
それを元の持ち主に返したり、解放することを喜びとする思いが来るようにもなるようです(レビ25章)。




 自分をなにか立派な、優れた者であるかのように背のびする思いに従うよりも、
ありのままの自分でいることのほうが嬉しくなり、
相手の自分よりも優れた点はそのまま認めて、
天の神、主がそれぞれに与えて下さっている個性を喜んでいける心になるようです。




 どんな思いが、聖である霊と呼ばれる方によって私の心に来るのか、
楽しみにしていきたいものですね。
今日も。


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