朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

飲ませてくださるのだそうです。〔聖である霊〕と呼ばれる方を

2018-12-16 23:26:17 | 聖書から
わたしは荒れ野に道を敷き、
砂漠に大河を流れさせる。
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。イザヤ書43:20



 イエスの言葉:

渇いている人はだれでも、
わたしのところに来て飲みなさい。ヨハネ7:37



 ルカ1:26~38

 イザヤ書29:1~8(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句12/17;月)



 天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は

言われるのですね。



 「先の事どもを思い出すな。

昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しいことをする。

今、もうそれが起ころうとしている。

あなたがたは、それを知らないのか。

確かに、わたしは

荒野に道を、荒れ地に川を設ける。

野の獣、ジャッカルや、ダチョウも、わたしをあがめる。

わたしが荒野に水をわき出させ、

荒れ地に川を流し、

わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ」(イザヤ43:18~20新改訳)、と。



 その、およそ700年ほど後、イエスは言われます。

「だれでも渇いているなら、

わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしを信じる者、わたしに信頼する者は、

聖書に書いてあるとおりに、

その人の心の奥底から、腹から、

生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37~38)、と。

〔聖である霊〕と呼ばれる方が。

 だから、わたしのもとに来て、
その方を飲みなさい、と。

 この方が私の上に臨むと、
いと高い方の力が私をおおうのだそうです。
御思いのとおりがわたしに実現するために(ルカ1:35)。

 万軍の主は、
雷と地震と大きな音をもって、
つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、
私たちを訪れてくださる(イザヤ29:6)のだそうですから。

今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)

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イエスは、私たちを、耐え難い重荷から救うために来られて

2018-12-16 07:21:53 | 聖書から
主のために、

荒野に道を備えよ。
見よ、
主なる神は力を帯びて来られる。イザヤ書40:3、10



 私の罪悪は頭を越えるほどになり、
耐え難い重荷となっています。詩38:5



 天使はヨセフに告げた。
「マリアは男の子を産む。
その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。」マタイ1:21



 マタイ11:2~6(7~10)

 詩33(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句12/16;Ⅲ日曜)



 頭を超えるほどの私たちの罪悪、

耐え難い重荷。



 イエスは、

その私たちの罪をご自身の身に負い、

私たちに代わって処刑を受けることによって

私たちを処罰が済んだものとし、

私たちを罪から救うために来てくださった

〔御子である神〕なのだそうです。



 当時、ローマの支配下にあって苦しんでいたユダヤの人々は、

ローマ軍を打ち破り、

自分たちをローマの支配下から解放し、

ダビデの繁栄を回復してくれる政治的解放者、

救い主をイエスに求めたのですが、

イエスは、そのような方向に行こうとなさらなかったのですね。



 それで、

イエスを救い主、キリストとして世に紹介したバプテスマのヨハネは、

このとき、ヨハネは、領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したことで捕らえられ、

牢獄にいたのですが、
獄中から弟子たちに託して、言い送ったのだそうです。

 「おいでになるはずの方は、あなたですか。
それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と。

 イエスは答えて言われました。
「あなたがたは行って、
自分たちの見たり聞いたりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、
足のなえた者が歩き、
ツァラート(律法に規定されている伝染性の重い皮膚病)に
犯されている者がきよめられ、
耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、
貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまづかない者は幸いです」(マタイ11:2~6)、と。

この、最初に人の世に来られたとき、
イエスは、軍馬にではなく、子ろばに乗る柔和な方として、
私たちの身代わりとなり、
私たち人間の「的外れ」の責任を負って
十字架刑での処刑を受けるために来られたのですが、

 次に来られる時には、
王として、力を帯びて来られるのだそうです。

 それで、私たちも歌うのですね。
「私たちのたましいは
主、「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方を待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。
まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している」(詩篇33:20~21)と。

 この新しい週も。

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