朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

栄光に輝く御座の前に、ご自身と同じ栄光に輝かせて立たせようと

2018-12-29 22:50:48 | 聖書から
言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた。
私たちはその栄光を見た。ヨハネ1:14


 見よ、神は私を助けてくださる。
主は私の魂を支えてくださる。詩54:6


 あなたがたが罪に陥らないように守り、
また、喜びにあふれて
非のうちどころのない者として、
栄光に輝く御前に立たせることのできる方、
私たちの救い主である唯一の神に、
私たちの主イエス・キリストを通して、
栄光、威厳、力、権威が
永遠の昔から、今も、
永遠にいつまでもありますように。ユダ書24~25

 ルカ2:(22~24)25~38(39~40)
 マタイ4:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/30;Ⅴ日曜) 

 神の言(ことば)と呼ばれる方、
〔父である神〕の御思いの表現者であられる方が、
私たち人間と同じ肉体を着て、
私たちの間に住んでくださったのだそうです。



 使徒ヨハネたちは、
「私たちはその栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」
と証言しているのですね。



 まことに、天の神、主は私たちを助けてくださる方、
私たちの魂、いのちを支えていてくださる方。



 私たちを罪に陥らないように、
「的外れ」の生き方にならないように守り、
非のうちどころのない者、
誰からも責められるところのない者にして、
大きな喜びにあふれて、
栄光に輝く御座の前に立たせてくださる方。



 私たちの救い主である唯一の神であり、
栄光、威厳、力、権威を、
永遠の昔から、今も、
そして、永遠に、世々限りなくまとっておられる方。



 その方が、人として、
ヨセフとマリヤの息子として、
私たち人間の歴史の中に来てくださったのだそうです(ルカ2:22~40)。



 自分の考えを行なうためではなく、
ひたすら、〔父である神〕の御思いを行なうために(マタイ4:1~11)。



 そして、〔父〕から託された、
自分のなすべきその御業を完了され(ヨハネ19:40)、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたのですね。



 そして、受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置き、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにして、
自分の思いを行なうのではなく、
心に来た〔父である神〕の御思いを行なうように(ヨハネ14:12)
してくださるのだそうです。



 心を一つにしているものとして、
ご自身の栄光に輝く者にしようと。

今日も。


(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)

主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源

2018-12-29 09:10:10 | 聖書から
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、
あなたたちの力の源である。ネヘミヤ記8:10

 希望の源である神が、
信仰によって得られる
あらゆる喜びと平和とで
あなたがたを満たしてくださるように。ロマ15:13

 Ⅰヨハネ3:11~16a
 マタイ3:13~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/29;土)

 バビロンの捕囚からエルサレムに帰ってきた人たちは、
まず、神殿を再建したのですが、
エルサレムは城壁は崩れたままの裸の町で、
近隣の民のそしりの中にあったのだそうです。



 それで、
ペルシャの王アルタシャスタに献酌官として仕えていたネヘミヤは、
王に願い、総督としてエルサレムに帰り、
民を指導して城壁を再建したのですね。



 そして、第七の月の一日
(レビ記23:24、ラッパが吹き鳴らされ、聖なる会合を開く日)に、
民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まったのだそうです。



 それで、祭司であり学者であるエズラは、
夜明けから真昼まで律法の書(創世記~申命記)を朗読し、
レビ人たちは民に律法を解き明かしたのですね。



 民は読まれたことを理解し、みな泣いていたのだそうです。
そのとき、ネヘミヤやエズラ、レビ人たちは民に言ったのだそうです。
「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。
泣いてはならない。悲しんではならない。
行って、上等の肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。
何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。
きょうは、私たちの主のために聖別された日である。
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源であるから」と。


 私たちも、聖書のことばに照らすとき、
天の神、主の御思いから大きく「的外れ」になっていることが解る者です。


 〔父である神〕は、私たちの、その「的外れ」の責任のすべてを、
〔御子イエス〕の上に置き、
この方を神に反逆した者、神に呪われた者として十字架刑で処刑されたのだそうです。


 そして、私たちをこのイエスに合わせられたものとし、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださっているのだそうです。



 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に
御自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
私たちをご自身と一つ思いになって生きる者にしてくださるのだそうです
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28))。



 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)
と言っていただける愛によって、
私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられる者に(Ⅰヨハネ4:11~16)。



 それで、このことを受け取った者、もらった者は、
〔生まれたときからの私〕に死んで、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きる、
新しく生まれた者(ヨハネ3:1~8)として、
〔御霊〕に導かれて進む者に(ガラテヤ5:25)
していただけるのだそうです。


 だから、どんなに自分の「的外れ」が見えても、
「泣いてはならない。主を喜び祝いなさい」
と言っていただけるのだそうです。

 望みの神、希望の源である神は、私たちを、
この方への信頼関係で得られるあらゆる喜びと平和で満たし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の力によって
望みにあふれさせてくださるのだそうですから。

今日も。

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