朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

あの方が来て下さるのですね。私のところへも。

2013-07-26 22:52:13 | 聖書から
イスラエルの王なる主は

お前の中に

おられる。



お前は

もはや、

災いを恐れることは

ない。

ゼファニア書3:15






 ピラトが

イエスに、

「お前が

ユダヤ人の王なのか」と

訊問すると、



イエスは

「それは、

あなたが言っていることです」と

お答えになった。

ルカ23:3




(ローズンゲン日々の聖句7/27土)






王であるイエスが

来られると、



私たちは、

災いを恐れる必要が

なくなるようですね。




あの時、

その方は、

私たちの

「的はずれ」の責任をとって下さり、



私たちに代わって

処刑され、



私たちが

あの方の許に

帰る道となって下さるために

来られたのだそうですが、



今は、

王として

私たちのところに

来て下さるのだそうです。





私たちの刑罰は

全部処刑済みになっており、

今は、

はばかることなく、

あの方の前に出て行き、



「父よ」と

呼べる身分をいただいているのですから、

恐れる必要はない

のだそうですね。

どんな災いも。




「わたしは

父に

お願いします。



そうすれば、

父は

もうひとりの助け主を

あなたがたにお与えになります。





その助け主が

いつまでも

あなたがたと、

ともにおられるためにです。」

(ヨハネ14:16)


その、

もうひとりの助け主が

来て下さっているのですね。



いよいよ

その方を

求めて行きましょう。



恐れに押しつぶされそうになる

その場所に。



今日も。



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御父・御子・御霊が持っていらっしゃる関係にかたどられるのですね。私たちも。

2013-07-25 23:08:29 | 聖書から
恵みの業をもたらす

種を

蒔け。



愛の実りを

刈り入れよ。

ホセア書10:12






神にかたどって造られた

新しい人を

身に着け、



真理に基づいた

正しく清い生活を

送るようにしなければなりません。

エフェソ書4:24




(ローズンゲン日々の聖句7:26;金)






御子である方と

御父との関係に

似せられた

新しい人を

着るなら、



真理に基づいた

正しい清い生活が

送れるようになるのでしょうね。




御子である方は、

口に出すひとこと、一言においても、



「わたしが

わたし自身からは

何事もせず、



ただ

父が

わたしに

教えられたとおりに、



これらのことを

話している」

(ヨハネ8:28)

と仰っておられ、





ヨハネ3:34によると、

その

御子の在り方は、

聖霊と呼ばれている方によっている

ということのようですね。
.



私たちも、

善悪を知る者となった私自身

(創世記3:22)

からは

何事もせず、



ただ

父である方が

教えられるとおりに

話す、

在り方になるのは、



聖霊と呼ばれている方の

働きによるということでしょうか。




聖霊と呼ばれている方によって、

父である方の

御思いが

私たちの心に

書き付けられ、

思われるようになると

(エレミヤ31:33、エゼキエル36:27)、



父である方、

御子である方、

聖霊と呼ばれている方の

愛が、



私たちの生活に

現れてくるようになる

ということのようですね。




聖霊とお呼びしている方を、

お迎えしていきたいですね。

もっと、もっと。



今日も。




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愛する大きさに現れるのだそうです。赦された大きさが。

2013-07-24 23:28:00 | 聖書から
神よ、

私を憐れんで下さい、

御慈しみをもって。



深い

御憐れみをもって、

背きの罪を

ぬぐって下さい。

詩篇51:3
 





イエスの言葉:

この人が

多くの罪を赦されたことは、



わたしに示した

愛の大きさで

分かる。





赦されることの少ない者は、

愛することも

少ない。

ルカ7:47




(ローズンゲン日々の聖句7/25;木)






罪を

拭い去って下さるのですね。

あの方は。




正義を

押し通すのではなく、



憐れみを

両立させて下さったのですね。



御子である方を

人間として

人の世に生まれさせ、



この方を

処刑することで、



私たちを

処刑済みと

みなして下さったのだそうです。




けれども、

私たち、

自分の赦していただくしかない

「背き」、「的はずれ」の認識は

人、それぞれなのでしょうね。



少し、

赦してもらえば大丈夫だと

思っている人。





丸ごと、

全部、

赦していただかなければ

立ちようのない者だと

分かっている人。




赦してもらっていると思う

大きさが、



赦してもらった

感謝の大きさの違いになって

現れるのだそうです。





イエス様を

食事には招いたが、



サンダル履きでほこりまみれになった

足を洗う水までは

出さず、



頭に油を塗ることも

しなかった人と、



泣きながら、

イエスのうしろで

御足のそばに立ち、



涙で

イエスの足を濡らし、



髪の毛で

ぬぐい、



御足に

口づけして、

足に

香油を塗った

「罪深い女」と言われていた

女性と。




多く

赦されている者は、



多く

愛する者と

なるのだそうですね。



今日も。




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心に来たあの方の思いを大胆に語っていくのですね。私たちも。

2013-07-23 23:09:31 | 聖書から
あなたの御言葉は、

私のものとなり、



私の心は

喜び躍りました。





万軍の神、

主よ。



私は

あなたの御名をもって

呼ばれている者です。

エレミヤ書15:16
 





主よ、

今こそ、

あなたの僕たちが、

思い切って

大胆に

御言葉を語ることができるように

してください。

使徒4:29




(ローズンゲン日々の聖句7/24 ;水)






言葉は、

内にある思いが

表現されたものなのでしょうか。


とすると、

真実な方にあっては、

「言葉=内にある思い」、

なのでしょうね。




あの方の言葉が

私のものになるとは、



あの方の思いが

私のものとなる

ということなのでしょうか。





そのとき、

私たちの心は

喜び躍るのでしょうね。






あの方の

御名をもって呼ばれている者とは、



あの方の言葉によって、

あの方と

思いを一つにしている者

のことなのでしょうかね。




そして、

私たちも、

あの方の思っていらっしゃることを

大胆に

語っていく者になるのですね。





「ことば」として、

あの方の思いの表現となっている

御子である方と

同じように、。



今日も。










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ぶどうの木とその枝の関係と同じ関係にしていただけるのだそうです。私たち、あの方と。

2013-07-22 22:33:37 | 聖書から
あなたを

避けどころとする者は

皆、

喜び祝う。

詩篇5:12




キリストの言葉:

わたしが

父の掟を

守り、



その愛に

とどまっているように、

あなたがたも、

わたしの掟を守るなら、

わたしの愛に

とどまっていることになる。





これらのことを

話したのは、



わたしの喜びが

あなたがたの内に

あり、



あなたがたの喜びが

満たされるためである。

ヨハネ15:10〜11




(ローズンゲン日々の聖句7/23;火)






文字で書かれた

掟を

自分の力で

守っていく、



旧い契約による

救いの可能性に

絶望し、



あの方に

身を避ける者に、



あの方は、

聖霊とお呼びしている方を

派遣されて、



私たちの心の思いに、

あの方と

一つ思いを

思わせて下さるのだそうですね。




ちょうど、

御子キリストが、

ご自身、

全知全能でありながら、



あの方に対する

畏敬と愛のゆえに、



完全に

あの方と

心を一つにし、



あの方の御思いが成ることだけを

ご自分の存在意義としておられ、



言葉の

一つ一つにおいてさえも、

あの方が

話そうとしていること以外は

話していないと

おっしゃっているように、

なのですね。




ぶどうの木と

その枝が

一つであり、



樹液によって

一つ命に

つながっているように、



あの方の御愛によって

御子キリストと

一つにされている

私たちも、



聖霊とお呼びしている方によって、

あの方の思いが

私たちの心の思いに

なっていくのだそうです。




その、

心に

書き付けられた思いに

ついて行くとき、



私たちの内に

御子キリストの喜びが

満ち溢れるのですね。



今日も。










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