朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

「『われわれ』に似たものを、『われわれ』のかたちとして」

2018-12-26 18:32:03 | 聖書から
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。」創世記2:18



 シメオンは幼子を抱き、
神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、
お言葉どおりこの僕を
安らかに去らせてくださいます。
私はこの目で
あなたの救いを見たからです。」ルカ2:28~30



 ヨハネ1:1~5(6~8)9~14
 ヘブル書1:1~3(4~6)
 マタイ2:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/26;水)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、
われわれに似せて」と思われて、



 まず、人の住まいとしてこの天地宇宙を造り、
地球の自然環境を整え、
すべての準備が終わったところで、アダムを造り、
これをエデンの園に置いてくださったのだそうです。


 そして、アダムのあばら骨からエバを造り、
ふたりが結婚によって「一体」となることで、
「神(われわれ)のかたち」を表すもの、
「神(われわれ)に似た」ものとされたようです。





 しかし、人は、
この「神のかたち」、「神(われわれ)に似せられた」場、
神と一体になっている場にとどまることを良しとせず、
もっと素晴らしい者に、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになろうと思い、
天の神、主に対抗、対立するものとなり、
創造の目的から「的外れ」になってしまったのだそうです。



 天の神、主は、
人が「的外れ」になった、その当初から、
「おまえ(サタン)の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく」
と預言しておられました(創世記3:15)。





 数千年、歴史は下って、
イエスの親となったヨセフとマリヤは、
きよめの期間(40日)が満ちたので、
モーセの律法の規定に従って、幼子を天の神、主にささげるため、
エルサレム神殿に行きました。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいました。
彼は「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と、
聖霊のお告げを受けていたのだそうです。

 シメオンは、神の御霊に感じて宮に入り、
幼子イエスを見て、腕に抱き、神をほめたたえて、
「主よ、今こそあなたは、
お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです」と言ったのだそうです。


 このイエスについて、12使徒のひとり、ヨハネは次のように記しています。
初めに、ことばがあった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。



 すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。



すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。



 この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。


 この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。



 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:1~5、9~14新改訳)。





 また、ヘブル書の記者は言います。
神は、むかし父祖たちに、
預言者たちを通して、多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られましたが、
この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。



 神は、御子を万物の相続者として、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられます。


 また、罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(ヘブル1:1~3)、と。





 このイエスが、およそ33歳の頃、
「自分を神の子と言い、自分を神と等しいものとし、神を冒涜した」として、
ユダヤの指導者たちの反感を買い、訴えられ、
「ユダヤ人の王」として(マタイ2:2、ヨハネ19:19)、
十字架刑での処刑を受けられたのですね。



 そして、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、上げられ、
天の父である神の右の座に復帰されたのだそうです。


 〔父である神〕は、私たちを、
このイエスに合わせられたものとしてくださって、
〔神のひとりのようになり、善悪を知る者〕になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
十字架刑で処刑されたもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。



 そのうえで、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。



 それで、私たちは、
この〔生まれたときからの私〕から出て来る思いは、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認めて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る
〔父である神〕の御思いを
私の思いとして生きるようにしていただけるのだそうです。



 〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、自由意思で、自発的に
思いを一つにし、心を一つにしておられる、一体となっておられる、
そのかたちを表すもの、似たものとして。



今日も。



(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]



話のとおりを体験して、心が喜びおどり

2018-12-25 08:20:11 | 聖書から
主の助けを得て
私の心は喜び躍ります。
歌をささげて
感謝いたします。詩28:7

 羊飼いたちは、
見聞きしたことがすべて
天使の話したとおりだったので、
神をあがめ、
賛美しながら帰って行った。ルカ2:20 ルカ2:(1~14)15~20

 テトス書3:4~7
 マタイ1:18~5(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/25;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は
私の力、私の盾、
私の心は主により頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、
私は歌をもって、主に感謝いたします。



 あの夜も、
雇われて、野宿しながら、
野で羊の晩をしていた貧しい羊飼いたちは、
「今、私は
この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
今日ダビデの町で、
あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリスト(神の子である救い主)です。
あなたがたは布にくるまって
飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これが、あなたがたのためのしるしです」
との天使の知らせを聞いて、
急いで、ダビデの町、ベツレヘムへ行き、
布にくるまって飼い葉おけに寝かされている赤ん坊のイエスを見つけ、
全部が御使いの話したとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのだそうです。



 このイエスによって、
私たちの救い主である神の
いつくしみと人への愛が現れたのですね。



 神は、私たちの行った義のわざによってではなく、
私たちは、
神に認められるような義のわざを行なうことができないにもかかわらず、
ご自分のあわれみのゆえに、
〔聖である霊〕と呼ばれる方による、
新生と更新との洗いをもって
私たちを救ってくださいました。



 〔父である神〕は、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
私たちの救い主であるイエス・キリストによって、
私たちに豊かに臨ませてくださっているのだそうです。



 それは、私たちが
キリストの恵みによって義と認められ、
永遠のいのちの望みによって、
神の国を相続する者となるため、
なのだそうです(テトス3:4~7)。



 〔父である神〕は、
私たちにも、イエスによって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を豊かに臨ませてくださり、



 この方によって、ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり、
私たちが心に来た、
その〔父である神〕の御思いに聞きながら、
御思いと思いを一つにしながら
生きるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。



 その、〔聖である霊〕と呼ばれる方の御業の中に一歩踏み出してみて、
なにもかも、全部、聖書に書かれているとおりであることを体験して、
心が喜びおどり、
神をあがめ、賛美するようにしていただけるのだそうですから。
私たちも。
今日も。



(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)

今日、救い主がお生まれになった

2018-12-24 10:52:48 | 聖書から
主よ、あなたを呼び求めます。
私の岩よ、
私に対して沈黙しないでください。詩28:1

 今日ダビデの町で、
あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。ルカ2:11

 マタイ1:(1~17)18~21(22~25)
 ロマ書1:1~7
 マタイ1:1~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/24;月・休)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
救い主を求める、当時の、民の叫びに答えようとせず、
沈黙しておられたのではなく、
ご計画の時の満ちるのを待っておられたようですね。



 その、ご計画の時が満ちて、
その夜、〔御子である神〕は、
救い主として、
私たちすべての人間の背き、「的外れ」の責任を負って
十字架刑での処刑を受けるために、
「女の子孫」(創世記3:15)、
人間イエスとして
この人間の世に来てくださったのだそうです。



 旅の途中のことで、宿屋には彼らのいる場所がなく、
石で作られた冷たい飼い葉おけに、
布団にではなく、
布にくるまって寝かされて。



 その誕生の次第を12使徒のひとりマタイは次のように記しています。
イエスの母となったマリヤは、
ヨセフの妻と決まっていたが、
ふたりがまだいっしょにならないうちに、
聖霊によって身重になったことがわかった。



 夫のヨセフは正しい人であって、
彼女をさらし者にはしたくなかったので

(マリヤが身ごもったことについて、
ヨセフには身に覚えのない事であり、
そのことがわかると、マリヤは不倫をしたということで、
さらし者にされ、
石打の刑で殺される可能性さえあった。

 また、当時、婚約しているとはいえ、
結婚するまでに子が生まれるようなことは、
自制心のない者たち、
不品行な者とのレッテルを張られることになった)、

内密に去らせようと(婚約を解消しようと)決めた。



 彼がこのことを思い巡らしていたとき、
主の使いが夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ
(ヨセフもマリヤもダビデ王の家系の一人であった)。
恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。
その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。
その名をイエス(神は救い)とつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」



 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」(イザヤ7:14)
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)



 ヨセフは眠りからさめ、
主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、
その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1:18~25新改訳)





 使徒パウロは言います。
この福音(うれしい知らせ)は、
神がその預言者たちを通して、
聖書において前から約束されたもので、
御子に関することです。

 御子は、
肉によればダビデの子孫として生まれ、
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、
大能によって
公に神の御子と示された方、
私たちの主イエス・キリストです。
このキリストによって、
私たちは恵みと使徒の務めを受けました。

あなたがたも、それらの人々の中にあって、
イエス・キリストによって召された人々です(ロマ1:2~6)、と。



 私たちも、
このイエスが受けてくださった十字架刑での処刑によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっているもの、死んだものとしていただき、


 そして、死者の中からの復活され、
天の、〔父である神〕の右の座に復帰されたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と思いを一つにしながら生きるように
していただけるのだそうですから。

今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]



民全体に与えられる大きな喜びが

2018-12-23 08:52:55 | 聖書から
主において常に喜びなさい。
重ねて言います。
喜びなさい。
主はすぐ近くにおられます。フィリピ書4:4~5


 主の使いはその周りに陣を敷き、
主を畏(おそ)れる人を
守り助けてくださった。詩34:8


 主の天使が近づき、
主の栄光が周りを照らしたので、
羊飼いたちは非常に恐れた。
天使は言った。
「恐れるな。
私は、民全体に与えられる
大きな喜びを告げる。ルカ2:9~10

 ルカ1:(39~45)46~55(56)
 詩130(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/23;Ⅳ日曜)



 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たち一人一人のすぐ近くにいてくださるのですね。



〔御子である神〕は、
天の栄光の位を後にして、
「女の子孫」、人間イエスとして、
インマヌエル=神は私たちとともにおられる、
という名をもって来てくださった方なのだそうです。



 そのイエスは、
私たちの身代わりとなり、
私たちの背き、「的外れ」の責任を負って、
神にそむいた者、神に呪われた者として(申命記21:23)、
十字架刑での処刑を受けて死んでくださり、
アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ(マタイ27:60)、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです(使徒1:3~11)。

 そして、そのイエスが
天の〔父である神〕の右の座にあって
受け入れる者に派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
さらに近く、
受け入れる者を覆い、満たし、
ご自身の臨在の中に沈め、漬け込んで(使徒2:4、エペソ5:18)、
いつも、いつまでも一緒にいてくださる方なのだそうですから(ヨハネ14:16)。

 この方は、私たちの心の思いの端々まで、
「的外れ」な思いの一つ一つを、
〔父である神〕の御前に差し出し、
見ていただき、知っていただきながら生きる、
光に照らされた明るい歩みに導いてくださるのだそうです(エペソ5:11~14、ピリピ4:6)。

 私たちの心にも、
〔父である神〕の御思いを置き、書きしるして(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
私たちを、いつも、常に、
神と心を一つにする喜びで満たして。

 だから、このことを実現してくださったイエスの誕生は、
民全体に、すべての人に与えられる
大きな喜びのニュース、だったのですね。

 そして、〔父である神〕は、
私たちにも天使を派遣して、
私たちを守り助けてくださっているのだそうです。

 私たちをイエスの名をもって呼ばれる者、
イエスと一つになっている者として。

 この新しい週も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]



かの日まで守ることのできる方を避難所として

2018-12-22 09:30:43 | 聖書から
いかに幸いなことか、
主を避けどころとする人はすべて。詩2:12



 パウロの言葉:
私は自分が信頼している方を知っており、
私にゆだねられているものを、
その方がかの日まで守ることがおできになると
確信しています。Ⅱテモテ1:12



 黙示録22:16、17、20、21
 イザヤ書35:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/22;土)



 幸いなのですね。
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方を
避けどころ、避難所とし、
そこに逃げ込む者は。



 その方は、
ご自身が御心のとおりに私たち一人一人にゆだねているもの、
あずけているものを守ってくださる方、なのだそうですから。



 私たちは、自分の能力や地位、健康、
環境や状態、
あるいはまた、神に対する信頼、宣教の使命などを
自分で得たかのように思っていますけれど、
これらはすべて、天の神、主が、御心のとおりに
私たちに預けてくださっているもの、なのですね。



 あのイエスのたとえ話に出て来る、
主人から「これで商売をしなさい」と、
それぞれ、5タラント、2タラント、1タラントを預かったしもべたちのように。


あるいは、主人の財産の管理を任された家令のように。


 「わたしは、ダビデの根、また子孫、
輝く明けの明星である」とおっしゃる方、イエス。

 そのイエスに、御霊も、
花嫁である私たちも言うのですね。
「来てください」と。

 イエスは答えて言われます。
「しかり。わたしはすぐに来る。
渇く者は来なさい。
いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙示録22:16、17、20、21新改訳)と。

 その方が、それらを、
その日まで、守り、全うさせてくださるのだそうですから。


 その日には、
荒野と砂漠は楽しみ、
荒地は喜び、
サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び、喜んで歌う。
レバノンの栄光とカルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、
彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見ることになる、のだそうです。

 だから、弱った手を強め、
よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。
「強くあれ。恐れるな。
見よ、あなたがたの神を。
復讐が、神の報いが来る。
神が来て、あなたがたを救われる。

 そのとき、目の見えない者の目は開き、
耳の聞こえない者の耳はあく。
そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、
口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水がわき出し、
荒れ地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり、
潤いのない地は水のわく所となり、
ジャッカルの伏したねぐらは、
葦やパピルスの茂みとなる。

 そこに大路があり、
その道は聖なる道と呼ばれる。
汚れた者はそこを通れない。
これは、贖(あがな)われた者たちのもの。
旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、
猛獣もそこには上って来ず、
そこで出会うこともない。
ただ、贖われた者たちがそこを歩む。

 主に贖われた者たちは帰って来る。
彼らは喜び歌いながらシオンに入り、
その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、
悲しみと嘆きとは逃げ去る(イザヤ35:1~10)、のだそうですから。

 だから、私たちも言うのですね。
「主、イエスよ。来てください」と。

今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)