ルカ1:39〜56
聖徒の交わり〜聖霊による喜び
"それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」"
ルカの福音書 1章 39〜41節
新改訳2017
聖徒(クリスチャン)どうしの交わりと、この世の人たちとの交流。
どちらも楽しいですね。
しかし、この2つの交流には大きな違いがあります。
それはクリスチャンどうしが交わるときには、聖霊が働かれるということです。そしてそこには、この世では味わえない喜びがあるのです。
最近はネット配信などで、リモートで礼拝を守ることもできますね。
確かに足が不自由だったり、
近くに教会がなかったりして、
教会に行きづらい場合は便利です。
しかし、リモートでは、聖徒の交わりが十分にはできません。
教会に行くことの喜び。
それは聖霊に満たされる喜びです。
礼拝で神様のことばを聴き、神様に愛されていることを知ったときの喜び、
そして聖徒が交わるときの喜び。
どちらも聖霊が働かれることによる喜びです。
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「私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をたたえます。
この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。」
ルカの福音書 1章 46〜49節
新改訳2017
「あがめる」という言葉は、原語では大きくするという意味があります。
「主をあがめる」というのは、主を大きくするということです。
それに対して、マリアは自分のことを「この卑しいはしため」と言っています。
主を大きくして(高めて)、自分を小さくして(低くして)います。
ある牧師は「信仰の成長とは、自分がどんどん小さくなり、神がどんどん大きくなっていくことだ」
と言っていました。
しかし、私たちは時には「自分が、自分が」と自分が大きくなってしまうことがあります。
「自分はこれだけ頑張っているのに・・・」と不平不満が大きくなって、神様が小さくなってしまっていることもあります。
私たちはそのような思いを捨てて、あるいは神様に明け渡して、
神様に委ねるべきことは神様に委ねて、
自分を小さくして、神様を大きくして、成長していくクリスチャンでありたいと思います。
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