幼子イエスと出会った人たち〜シメオンとアンナ
ルカ 2章21〜39節
いよいよイエスの人としての生活が始まります。
8日目に割礼を受けるために神殿に行き、イエスと命名し、律法で命じられているとおりの献げものをしました。
そのとき神殿には2人の老人がいました。シメオンとアンナです。
2人とも、正しい生活をし、救い主キリストを待ち望むという旧約的な生き方をしていました。
旧約的な生き方を象徴しているような2人が、待ち望んていたキリストと出会ったことにより、歴史家ルカは旧約時代の終結を表していまず。
シメオンの信仰生活
「そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」(26節)"
シメオンはかなり高齢になっていました。
「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」という神様の約束がなかなか実現しなかったので、神様の約束を疑いそうになったこともあったかもしれません。
しかし、シメオンは、それでも忍耐強く持ち続けました。そして約束どおり救い主と出会えたのです。
私たちも、神様の約束、祈りの応えがなかなか実現しないこともあります。
それでも、自暴自棄になったりしないで、またあきらめないで、忍耐強く持ち続けることが大切です。
そしてそのための力になってくださるのが聖霊様です。
聖霊様に力を与え続けていただいて、希望をもって、祈りの生活を継続させていただきましょう。
シメオンの預言
1.「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。」
(34節)
イエス様が神の御子として活動を始めたときから、現代に至るまで、そしてこれからも、
救われる人が起こされるだけでなく、御言葉や十字架につまずいてしまう人も出てきます。
私たちも伝道などで、あるいは家族から反対されることもあります。
受け入れてもらえなくても、そのことでさえも預言されていたことなのです。その人のことは神様に委ねて、引きずらないようにしたいと思います。
また時が来たら、私たちが思いもよらない方法で働いてくださって、その人を、あるいは家族を救いに導いてくださいます。
2.「あなた(=マリア)自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。」(35節)
これは、マリア自身がイエスが十字架に架かって死ぬのを見てしまうことを預言しています。
しかし、私たちもイエスの十字架に出会うとき、自分の罪深さを思い知らされ、心が刺し抜かれるような思いをすることがあります。
しかし、手術を受けたときに痛みを感じるように、それは悪い部分が切り取られて、いやされることを表しています。
罪を素直に認めることは痛みを感じますが、十字架によって罪ゆるされた後は平安が待っています。
いつまでも後悔し続けるのではなく、罪ゆるされたことを確信し、前を向いて歩いていくことも大切です。
アンナ
アンナの幸せな結婚生活は7年間しか続きませんでした。
彼女はこの世的には必ずしも幸せではなかったかもしれません。
しかし、彼女は女預言者になり、一人で、夜も昼も、神殿で祈り、人々に神様の言葉を語っていました。
「ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。」(38節)
アンナは最初のキリスト伝道者になったようです。
それはともかくとして、織田昭氏はここに大切なことは2つあると言っています。
1.「彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ」
=イエス様のところに近寄って行って(近づいて)、イエス様の救いを受け入れ、イエス様が自分の救い主であることを感謝して、喜ぶことです。
自分のその罪を全部引き受けて清めてくださった方を仰ぐことです。
2.「すべての人に、この幼子のことを語った。」
=救いを待ち望む人(必要としている人)に、確信を持って証言できる人になることです。
聖霊様が共にいて助けてくださり、語るべきことを教え導いてくださることを信じて、キリストを証しする人になることです。
私たちはアンナのように専業伝道者でなくても、イエス様に救っていただいたことを感謝し、さらに救いを必要としている人に証しし、イエス様のことを伝えられる人になっていきたいと思います。
感謝と賛美、そして証と伝道、この2つはどちらも人間の力によるものではなく、聖霊様が働いてくださって、聖霊様の力によってできるものです。
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