元・巨人投手の島野修さんが亡くなっていたことが分かった。
島野さんは68年に武相高からドラフト1位で巨人入団。巨人では1勝に終わり、76年に阪急(現オリックス)へ移籍、78年に引退した。
通算成績は24試合登板、57回1/3で1勝4敗、1完投、防御率5.05。
ドラフト史上最高の当たり年。
山田久志、星野、田淵、山本浩二、東尾、有藤…
巨人は、ドラフト1位に島野を選んだ。
しかし、巨人のドラフト1位の看板は重かった。
結局1勝しかできず、現役を引退。
引退後、彼の元に届いた仕事。
「ブレーブスの球団マスコットをやらないか?」
かつて自分が闘っていたグラウンド…
「ぬいぐるみを被る仕事なんか出来ない」
しかし、メジャーリーグ各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレスの「フェイマスチキン」をビデオ等で見て引き受ける決心をつけた。
人形劇団などで特訓し、1981年4月11日の阪急西宮球場でブレービーはデビューした。
しかし、グラウンドでファンサービスを行う彼の目線の先には、同じ年、阪急にドラフト1位で入団した山田久志投手がいた。
さらに、とある新聞に書かれた心ない記事…
スタンドからはヤジも飛び出すようになった…
島野は悩んだが、ある日球場近くの食堂でブレービーが楽しかったとしゃべる親子の会話を聞き迷いが吹っ切れた。
以後、ファンに楽しんでもらえるようなパフォーマンスを演じ続け、広く愛されるようになった。
1989年には球団が阪急からオリックスに譲渡され(球団名はオリックス・ブレーブスに変更)、1991年には球団愛称がブルーウェーブへ変更された事でマスコットも「ブレービー」から「ネッピー」となったが新しい本拠地のグリーンスタジアム神戸でも引き続きマスコットの中に入った。
1996年6月15日、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1000試合出場を達成した。
ファンからは「ネッピー1000試合出場おめでとう」と大段幕がはられた。
スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で2~3キロ減ることもあるという。
また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、中でも1993年7月21日に神戸で初のオールスター戦が行われた際、バギーカーを運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し肋骨を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返りも打てないほどであったが後半戦ではコルセットを3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた。
98年10月3日、グリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)での近鉄戦で“現役”を引退。マスコットとして通算1175試合に出場した。
1175試合、1試合も欠かさずに演じ続けた。
「がんばろうKOBE」をモットーに挑んだ95年。
オリックスはパ・リーグ制覇。続く96年には日本一に輝いた。
島野は一人、マスコットの中で泣いたという。
マスコットにかけた夢…
彼が選手としてあげた勝利は1勝…
しかし、マスコットとして生きた1175試合は、200勝の輝きがある。
本当にお疲れ様でした。
あなたこそ、本物のプロ野球選手です。
島野さんは68年に武相高からドラフト1位で巨人入団。巨人では1勝に終わり、76年に阪急(現オリックス)へ移籍、78年に引退した。
通算成績は24試合登板、57回1/3で1勝4敗、1完投、防御率5.05。
ドラフト史上最高の当たり年。
山田久志、星野、田淵、山本浩二、東尾、有藤…
巨人は、ドラフト1位に島野を選んだ。
しかし、巨人のドラフト1位の看板は重かった。
結局1勝しかできず、現役を引退。
引退後、彼の元に届いた仕事。
「ブレーブスの球団マスコットをやらないか?」
かつて自分が闘っていたグラウンド…
「ぬいぐるみを被る仕事なんか出来ない」
しかし、メジャーリーグ各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレスの「フェイマスチキン」をビデオ等で見て引き受ける決心をつけた。
人形劇団などで特訓し、1981年4月11日の阪急西宮球場でブレービーはデビューした。
しかし、グラウンドでファンサービスを行う彼の目線の先には、同じ年、阪急にドラフト1位で入団した山田久志投手がいた。
さらに、とある新聞に書かれた心ない記事…
スタンドからはヤジも飛び出すようになった…
島野は悩んだが、ある日球場近くの食堂でブレービーが楽しかったとしゃべる親子の会話を聞き迷いが吹っ切れた。
以後、ファンに楽しんでもらえるようなパフォーマンスを演じ続け、広く愛されるようになった。
1989年には球団が阪急からオリックスに譲渡され(球団名はオリックス・ブレーブスに変更)、1991年には球団愛称がブルーウェーブへ変更された事でマスコットも「ブレービー」から「ネッピー」となったが新しい本拠地のグリーンスタジアム神戸でも引き続きマスコットの中に入った。
1996年6月15日、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1000試合出場を達成した。
ファンからは「ネッピー1000試合出場おめでとう」と大段幕がはられた。
スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で2~3キロ減ることもあるという。
また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、中でも1993年7月21日に神戸で初のオールスター戦が行われた際、バギーカーを運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し肋骨を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返りも打てないほどであったが後半戦ではコルセットを3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた。
98年10月3日、グリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)での近鉄戦で“現役”を引退。マスコットとして通算1175試合に出場した。
1175試合、1試合も欠かさずに演じ続けた。
「がんばろうKOBE」をモットーに挑んだ95年。
オリックスはパ・リーグ制覇。続く96年には日本一に輝いた。
島野は一人、マスコットの中で泣いたという。
マスコットにかけた夢…
彼が選手としてあげた勝利は1勝…
しかし、マスコットとして生きた1175試合は、200勝の輝きがある。
本当にお疲れ様でした。
あなたこそ、本物のプロ野球選手です。