社会不安障害:SAD、ボランティアとセカンドライフ

SADで会社を休職したが、一年で復帰し、無事定年を務めて、その後の生活とボランティアについて気ままに掲載中

2回目の転職で当社に入社し、飛んでもないシステムの開発を目指した

2011-10-23 07:16:02 | 会社の仕事

ジョブズ氏の死亡で自分の仕事を見直す(2回目の転職)と言うか昔の仕事をまた思い出した。3つめの仕事つまり2回目の転職で親会社に入社した。32才の時だった。実はこの2回目の転職の時は、親友からの要望で入社前から親会社の仕事をしていた。つまりお互いの要求が合わなかった為、お互いに妥協したと言う事になる。親会社の人事担当者と会った時、会社の紹介・私の紹介や私の意思、つまり入社意志も確認する事もなく、なかば当然的に「1か月後の入社をお願いします」と要求された。まだ入社するとも言っていないし、給料の話もしていないし・・・。最も給料の話はする気はなかった。この2年間の仕事で、自分に自信があったからだ。最も少し後で後悔する事になったが。

そんな馬鹿なと少し険悪になりながらも、上記の方法でお互いに妥協して進める事にした。本当はこれはまずいと思うが・・・。人事担当者と会ったのは前年の11月だったと思う。12月から入社までの約2か月両方の仕事をした。前の会社を定時で退社して、親会社に言って、打ち合わせや、先に外注先に言って打ち合わせをしていた。まだ名刺もなかったが・・・。

かなり変則的だったのには理由がある。当時のその新しい部署では、ノウハウのある技術者がほとんどいなかった。私を呼んだ親友ぐらいしかC言語でプログラムを組めなかった。他の社員は殆ど新入だった。他の部署から来てもらった社員もいたが、コンピュータシステムについて知識も技術もなかった。しかしその部署は親会社にとってはまったく新しいビジネスをやろうとしていた。開発する製品の用途は決まっていたが、それをどう開発するかの大半は親友の力次第だった。

目的の一つに親会社の商品で使用される技術資料の処理があった。毎年新商品の発売と古い機種の廃棄で、3割が修正して、大量に印刷され販売店へ配られるが、この技術資料の管理を効率的に行う事ができないか?と言うのがこの商品開発の目的だった。この技術資料の毎年の出版だけでも何億ものお金がかかっていたからだ。

今で言う所のDTP(Disk Top Publishing)だが、これだけでなく、自動化する仕組みを入れて、且、電算写植器へのデータコンバートもしなければならなかった。しかもうまくいったらこれをシステム毎売り出す予定だった。しかし当初計画したスケジュールが既に大きく遅れていた。と言うか誰も分からなかったと言うのが正解だった。

技術資料には、CADからの図面データと表がたくさん掲載されていた。もちろんグラフ等や一般の文章もあるが。これらのデータをどうやって入力するかは別にして必要とされるであろう機能は、

  • 図面作成・編集機能:元データの大半はCADや紙から。つまり普通のお絵かきの図形ツールと言うより、CAD的な機能が特徴となりそうだった。
  • 文章作成・編集機能:作表機能中心のスプレッドシート的な表より組版的な機能(当時はLotus123全盛だった)
  • イメージ編集機能:簡単なイメージ取り込みと編集機能:モノクロでの処理を考えた為、出力を考えて何と網点の処理まで考えてた。
  • 電算写植器への出力:LBPへの出力だけでも大変だったが、写研に加えて、モリサワの電算写植器への出力が必要だった。
  • 上記のドキュメントを管理できるファイル(フォルダーやファイリング)機能

と言うような個々の機能と共通で使える日本語入力機能(FEPやIMEと言う物がなかった)、且マルチユーザーでマルチウィンドーで処理できる事を目指した。開発環境はもちろんUNIXが稼働するワークステーションであり、ターゲットの実行環境も複数用意した。その一つがIBMのワークステーションだった。

と言う事で、今思えば、飛んでもない無茶をしたと言うか無謀だったと言う気がする。しかしこれを実現できるだけのノウハウを私も親友も持っていた。だからおかしくなったと言う気がする。なんでも要求される物を作り上げる事が出来てしまった。従って、かなり特殊なシステムが出来上がった。

そう、CADライクな図研編集機能。もちろん社内CADからのデータ読み込み機能も持っていた。そして電算写植機(最初はモリサワ)へのデータコンバートも可能だった。文書編集機能は、当時の一太郎や富士通のワープOASYSのような自由な所に文字が入力できると言うより、DTPの様にレイアウトされた枠への流し込みを主とした編集機能で、もちろん作表機能も持っていた。この作表への自動流し込みもできた。そして写真等のスキャニングと出力は網点分解して出力もできた。

さて、こんなシステムやソフトをイメージできるだろうか?

上記の大半のソフトを私と親友が、部下たちを使ってUNIXワークステーション上に、構築した。そしてある程度完成した時に社内で試験的に使ってもらう事になった。しかしこれが間違いの元だった。

そう、工場の技術者たちは当時なんとMacを使っていた。そのソフトはMac Drawだった(その後クラリスDraw2なるが)。これとの比較となった。そう誰もがその趣旨を理解しなかったのだ。どっちも。当時の部門トップでさえも・・・。とことん自分の力を試させてもらえたのは確かだが、私と友人は遂に、このシステムの開発を打ち切る事にした。当然会社もそうした。

私と友人がこのシステムを打ち切った理由の一つが、国内の独自システムでは近い将来、米国製のソフトにやられてしまうと言う予測をしたからだ。もちろん当時の協力ソフトハウスさんとも何回か議論した結果同じような答えが返ってきた。そうMicrosoftや米国の先進的な考えのソフトやシステムが次々と発表されており、米国の会社と同じ土俵では戦っても意味がないと考えた。

これはその後結果的にあたる事になる。それが本当に日本人にとって良かったかは別にして日本人その物が、そう言う選択をしたからだが・・・。

当時シェアダントツだったパソコン用のワープロソフト一太郎や日本のCADソフトは大半消えていく事になった。ビジネスで使う汎用的なソフトで数が多くでるソフトは大半が消えて行った。余りにも予想が当たってしまい、不便なパソコンソフト環境となったがこれも仕方がない。市場の原理がそうさせてしまったのだから・・・。

日本の代表的ワープロソフト一太郎は結局MicrosoftのWordによってシェアを奪われ、ほとんどビジネスで使われる事はなくなった。そしてビジネス市場ではこのワープロソフトの市場がなくなりつつある。なぜか?上記で、私たちが開発した文章編集機能は、大変Wordと似ており、流し込みを基本としていた。これは簡単ではなかった。一太郎やOASYSの様に紙に書くように簡単に文字を入力できなかったからだ。Mac Drawの様に、まるで紙に書くように自由に線や文字を書けない。従って、ビジネスではWordが使われる頻度は非常に少なく、大半がExcelだ。ExcelがWordの代わりをしている。そうでなければPowerPointだ。と言う悲しき状態となっている。

所で、上記のシステムを正式に打ち切った事で、親友も私も仕事がなくなった。私たちの部下達も何人かは同様となった。結局親友は親会社を退職した。もっともこの仕事がなくなった事が理由と言うより、上司と合わなかった事が一番の理由の様だった。結局、親友が私たちを見捨てたのか?会社が親友を見捨てたのか?これはわからない。

後に残された私は、東京から、大阪へ転勤となり、全く分野も仕事も異なる部署へ移動となった。それ以降このコンピュータ分野からは完全に離れ、技術でもなく、営業でもない、企画系の仕事をやる事になったのだが・・・。

上記の東京から大阪への転勤だが、実は会社が勝手に動かしたと言うより、私の希望だった。理由は、奥様の実家が大阪で、既にお義父さんが亡くなられていたからだった。そう奥様が望んだからだし、それが奥様と結婚する時の唯一の条件だったからだ。

実は、この親友だが、転職した直後今度はその新しい転職先から、私を誘ってくれた。新しい会社に来ないかと。彼が転職したのは日本最大の通信会社だった。思わず考えた。が結局断った。理由は、既に私は高血圧等でいくつか引っ掛かる項目があり、これは転職する上で一番ネックになると予想したからだ。そしてその後、何回か外部からのヘッドハンティングがあるも全て同じ理由で断った。流石に自分の能力には自信があったが、健康上は不安だった為、このリスクをおく事は出来なかったと言う事になる。


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