ニキ・リンコさんの本を読んでいて
全ての物事はシナリオで書かれているという世界に
とても興味を惹かれた。
クラスメイトでさえ教室の備品の一つだと思っていたことに
自閉症という非定型発達の顕著な例として
興味深く読ませて頂いた。
自閉症の方々と日々接していて
相手の顔が解りにくいという感じを受ける。
相貌失認という事になろう。
生まれながらの場合は先天性相貌失認ということになる。
ただし全く解らないわけではなく
私の接している大人の自閉症の方々は
私の顔を見た場合に、私だと気付いてくれるまでに
一般より少し時間が掛かる程度だ。
自閉症の方は母親と他の人との区別が付きにくい
という話を良く目にする。
生まれながらに母親を認識できないと
コミュニケーションの根幹を学習できない事になり
それは共感性の未発達という結果を生む。
生涯にわたって、相手の気持ちを酌むのが不得意になり
起こった出来事をシナリオとして書かれている物と認識し
いちいち学習しなくては他者との食い違いを生んでしまい
軋轢を生じないためにそれを続ける環境になる。
ニキ・リンコさんがシナリオと言っていたのは
その部分を指していると思う。
母親が認識できないとなぜ共感性が育まれないか?
人は生まれて初めて多くの接触をするのは母親である。
目が開かない内は声や臭いで判断し、目が開くようになってからは
母親の顔を憶えて他者と区別するようになる。
母親が居るとお腹が一杯になる。
失禁してもオムツを替えてもらえる。
優しく語りかけられて
気持ちよく揺らしてもらえる。
寒暖の変化にも対処してもらえる。
母親が居ると安心できる。
母親が笑うと自分も嬉しくなる。
母親に全幅の信頼を寄せるようになり
他者との区別をするようになる。
そしてその母親が居ないと不安になる。
1分、10分、30分、
居なくなる時間が長ければ長いほど不安になり
母親がそばにいてくれるにはどうしたらいいか考えるようになる。
それが相手の気持ちを汲もうとする行為になり
相手と同じ気持ちを共有しようとする共感性を育んでいく。
赤ちゃんの頃の この習慣は確実に脳に刷り込まれる。
母親と赤ちゃんのこの時期のコミュニケーションは
その人の一生の共感性の根幹をなすと言っても過言ではない。
その時期にもし母親の顔が認識できないとしたらどうだろう。
先天性相貌失認により母親と他者の区別が付きにくかったら。
たった一人の大切な人という認識は出来にくくなり
相手の気持ちを汲む作業というのが必要とは思えず
自分本位の考えでしか物事を判断できにくくする。
その結果が自分本位だと思われる事に繋がり
他者とのズレを生み、それが軋轢の原因になる。
何が軋轢の原因だかは解らないままだが
それを回避するために、起こった事をバラバラに記憶する。
自分の廻りで起こっているズレを統合した何かに
まとめることが出来ず、バラバラに記憶し続けなければならず
ニキ・リンコさんが書いているように
シナリオとして書かれている物として受け止めざる終えなくなる。
そして心と体のバランスが悪い事。
それは先天性相貌失認と同じように、生まれながらに持つ
感覚の過敏や鈍磨が影響しているか
あるいは共感性の未発達に伴う相手の気持ちへの
配慮を欠く行為がもたらす軋轢を回避するために
神経ネットワークを独特に張り巡らせてしまった結果ではないかと思う。
その定型発達と違う神経ネットワークが
同じ様な軋轢に対して同じ様な形のネットワークを構築した
自閉症という同じ様な個性を生み出しているのではないか。
それに知的障害が有ったとしても、大きな括りとしては
同じ様な傾向を示しているのではないか。
他者との違いはシナリオ通りに進まないと不安になる要素を生み。
それが「こだわり」として顕現している物であり
それを修復したり、別の楽な世界に浸って気持ちを落ち着かせたり
納得させたりする行為が反復行動や常同行動になる。
自閉症の彼らや彼女らは、同じ行動にこだわることで
自分自身の精神を安定させたり他者との軋轢を回避しようとしている。
そう思えば私たち一般と違って見える姿も
私たちに合わせようと必死に対応している姿に
見えるのではないだろうか?
朝早くから本を読んでいて
そんな風に思ってしまった。
今日は調子が良いので、あれこれ片付けようと思う。
寝る前にデザインできる余裕が有ればいいんだけど。
全ての物事はシナリオで書かれているという世界に
とても興味を惹かれた。
クラスメイトでさえ教室の備品の一つだと思っていたことに
自閉症という非定型発達の顕著な例として
興味深く読ませて頂いた。
自閉症の方々と日々接していて
相手の顔が解りにくいという感じを受ける。
相貌失認という事になろう。
生まれながらの場合は先天性相貌失認ということになる。
ただし全く解らないわけではなく
私の接している大人の自閉症の方々は
私の顔を見た場合に、私だと気付いてくれるまでに
一般より少し時間が掛かる程度だ。
自閉症の方は母親と他の人との区別が付きにくい
という話を良く目にする。
生まれながらに母親を認識できないと
コミュニケーションの根幹を学習できない事になり
それは共感性の未発達という結果を生む。
生涯にわたって、相手の気持ちを酌むのが不得意になり
起こった出来事をシナリオとして書かれている物と認識し
いちいち学習しなくては他者との食い違いを生んでしまい
軋轢を生じないためにそれを続ける環境になる。
ニキ・リンコさんがシナリオと言っていたのは
その部分を指していると思う。
母親が認識できないとなぜ共感性が育まれないか?
人は生まれて初めて多くの接触をするのは母親である。
目が開かない内は声や臭いで判断し、目が開くようになってからは
母親の顔を憶えて他者と区別するようになる。
母親が居るとお腹が一杯になる。
失禁してもオムツを替えてもらえる。
優しく語りかけられて
気持ちよく揺らしてもらえる。
寒暖の変化にも対処してもらえる。
母親が居ると安心できる。
母親が笑うと自分も嬉しくなる。
母親に全幅の信頼を寄せるようになり
他者との区別をするようになる。
そしてその母親が居ないと不安になる。
1分、10分、30分、
居なくなる時間が長ければ長いほど不安になり
母親がそばにいてくれるにはどうしたらいいか考えるようになる。
それが相手の気持ちを汲もうとする行為になり
相手と同じ気持ちを共有しようとする共感性を育んでいく。
赤ちゃんの頃の この習慣は確実に脳に刷り込まれる。
母親と赤ちゃんのこの時期のコミュニケーションは
その人の一生の共感性の根幹をなすと言っても過言ではない。
その時期にもし母親の顔が認識できないとしたらどうだろう。
先天性相貌失認により母親と他者の区別が付きにくかったら。
たった一人の大切な人という認識は出来にくくなり
相手の気持ちを汲む作業というのが必要とは思えず
自分本位の考えでしか物事を判断できにくくする。
その結果が自分本位だと思われる事に繋がり
他者とのズレを生み、それが軋轢の原因になる。
何が軋轢の原因だかは解らないままだが
それを回避するために、起こった事をバラバラに記憶する。
自分の廻りで起こっているズレを統合した何かに
まとめることが出来ず、バラバラに記憶し続けなければならず
ニキ・リンコさんが書いているように
シナリオとして書かれている物として受け止めざる終えなくなる。
そして心と体のバランスが悪い事。
それは先天性相貌失認と同じように、生まれながらに持つ
感覚の過敏や鈍磨が影響しているか
あるいは共感性の未発達に伴う相手の気持ちへの
配慮を欠く行為がもたらす軋轢を回避するために
神経ネットワークを独特に張り巡らせてしまった結果ではないかと思う。
その定型発達と違う神経ネットワークが
同じ様な軋轢に対して同じ様な形のネットワークを構築した
自閉症という同じ様な個性を生み出しているのではないか。
それに知的障害が有ったとしても、大きな括りとしては
同じ様な傾向を示しているのではないか。
他者との違いはシナリオ通りに進まないと不安になる要素を生み。
それが「こだわり」として顕現している物であり
それを修復したり、別の楽な世界に浸って気持ちを落ち着かせたり
納得させたりする行為が反復行動や常同行動になる。
自閉症の彼らや彼女らは、同じ行動にこだわることで
自分自身の精神を安定させたり他者との軋轢を回避しようとしている。
そう思えば私たち一般と違って見える姿も
私たちに合わせようと必死に対応している姿に
見えるのではないだろうか?
朝早くから本を読んでいて
そんな風に思ってしまった。
今日は調子が良いので、あれこれ片付けようと思う。
寝る前にデザインできる余裕が有ればいいんだけど。