今頃起きた
数種類の虫の音がランダムに混じり合い
それらは不協和音にならずに独立している。
意識して聴けばコオロギの鳴き声もある。
秋の気配が増す
今日はもう猛暑ではないらしい
夏も終わった感じだ
いつもこの頃にそう思う。
甲子園では決勝を迎える辺りに
秋の気配に気付く。
木工で面白いデザインが複数浮かんだが
それも立ち消えになりつつある
まあそれも仕方なかろう。
ウォーターハウスの画集を観ていると
ボスなどの奇怪な絵よりずっと幻想的だ。
絵筆の使い方や何をどう描きたかったのかも
よく解る様な感じがする。
ミレイなどのラファエル前派に近い画風だが
その一団と思って良いのだろうか?
まあカテゴリーはどうでも良いのだが
描かれている女性がセイレーンになったりして
男が襲われようとしている様を観て
いつの世も女の怖さは変わらぬと感じ取ってしまう。
女は天使にも悪魔にもなり
私には悪魔の顔しか見せてくれなかったと思う。
それはそれで仕方ないと思うが
この絵の中の現実的な顔立ちの女の中に
安らぎを見出すことは私には微塵もない。
それでも絵の中では違う自分を演出することが出来る。
それは映画やアニメに感情移入するような
また別の自分を物語に投影させてくれる。
でもそれは幾多に存在するパラレルワールドの一つ、
別の自分の現実的姿だろうか。
いや、やはり違う
空想の中に自分を置くことは
一種の願望であり、それは為し得なかった事への
郷愁と恨みと憧れと哀れみと癒しから為る。
それだけ複雑な感情を持って
絵の中を旅できるから絵は楽しいのだと思う。
それにしてもウォーターハウスなどは
幻想的でありながら宗教的にも
史実的にも流れを外さないしっかりとした土台がある。
絵は自由が故に奔放になりがちだが
残る絵というのは、歴史や流れををしっかりと踏まえた
物だけのような気がする。
自由であるはずの絵が、歴史を踏まえたり忖度で描かれたり
そしてそれが後の世に長く評価されるなんて意外だが
安心成されよ、観る方の自由は確保されている。
それどころか観ない自由もあるのだ。
でも私には絵は楽しくて仕方ない。
これからラファエル前派の絵を堪能しよう
眠くなるまで。
数種類の虫の音がランダムに混じり合い
それらは不協和音にならずに独立している。
意識して聴けばコオロギの鳴き声もある。
秋の気配が増す
今日はもう猛暑ではないらしい
夏も終わった感じだ
いつもこの頃にそう思う。
甲子園では決勝を迎える辺りに
秋の気配に気付く。
木工で面白いデザインが複数浮かんだが
それも立ち消えになりつつある
まあそれも仕方なかろう。
ウォーターハウスの画集を観ていると
ボスなどの奇怪な絵よりずっと幻想的だ。
絵筆の使い方や何をどう描きたかったのかも
よく解る様な感じがする。
ミレイなどのラファエル前派に近い画風だが
その一団と思って良いのだろうか?
まあカテゴリーはどうでも良いのだが
描かれている女性がセイレーンになったりして
男が襲われようとしている様を観て
いつの世も女の怖さは変わらぬと感じ取ってしまう。
女は天使にも悪魔にもなり
私には悪魔の顔しか見せてくれなかったと思う。
それはそれで仕方ないと思うが
この絵の中の現実的な顔立ちの女の中に
安らぎを見出すことは私には微塵もない。
それでも絵の中では違う自分を演出することが出来る。
それは映画やアニメに感情移入するような
また別の自分を物語に投影させてくれる。
でもそれは幾多に存在するパラレルワールドの一つ、
別の自分の現実的姿だろうか。
いや、やはり違う
空想の中に自分を置くことは
一種の願望であり、それは為し得なかった事への
郷愁と恨みと憧れと哀れみと癒しから為る。
それだけ複雑な感情を持って
絵の中を旅できるから絵は楽しいのだと思う。
それにしてもウォーターハウスなどは
幻想的でありながら宗教的にも
史実的にも流れを外さないしっかりとした土台がある。
絵は自由が故に奔放になりがちだが
残る絵というのは、歴史や流れををしっかりと踏まえた
物だけのような気がする。
自由であるはずの絵が、歴史を踏まえたり忖度で描かれたり
そしてそれが後の世に長く評価されるなんて意外だが
安心成されよ、観る方の自由は確保されている。
それどころか観ない自由もあるのだ。
でも私には絵は楽しくて仕方ない。
これからラファエル前派の絵を堪能しよう
眠くなるまで。