昼下がりの中山道を江戸へと帰る荒木田みつの姿があった。相変わらず袴姿で左腰には大小を手挟み、深編笠を被り、大股で歩いていた。編笠から見える束ねて垂らした黒髪がその背で忙しなく左右に揺れている。
みつは、父三衛門の代理として、上州の近くまで足を運んだ。訪れたのは坂田家だった。相手は三衛門の亡き妻であり、みつの母でもあったしのの実家筋に当たり、その土地では古くからの家柄で、財力も豊富、当主も代々、江戸の方面にも顔が利いた。
本来は三衛門が行くべきであったのだが、三衛門は苦手としていた。
坂田家は、妻生前から、何かと三衛門に風当たりが強く、事ある毎に文句をつけて来ていた。元々格式の違いを気にしていた坂田家だったが、仲人に立った剣術の師範の手前、断り切れなかったのだった。それ故に、妻が亡くなった際には、三衛門を「妻も守れぬ鬼畜」「格式の違いが死を早めた」だのと罵った。
その坂田家にどうしても行かねばならぬ用事が出来た。当主の代替わりの祝いだ。のこのこと行けば、格好の的となるのは火を見るより明らかだ。だからと言って行かねば、影で罵詈雑言を吐かれるに決まっている。なので、本人は病に伏している事にし、娘のみつを代理で行かせる事にしたのだ。
「父上、嘘偽りはいかんと常々おっしゃっておいででは無かったのですか?」
父の代理を告げられた時、みつは言い返した。
「嘘ではないぞ」三衛門は平然と言う。「坂田の家からの話が無ければ、わしはすこぶる壮健であった。話を聞いた途端、具合が悪くなってしまったのだ」
「お戯れも大概になさりませ」
「戯れではない。具合が悪くなった故、道元先生から薬を頂戴しておるのだぞ」三衛門は言うと、薬の袋を顎で示す。「道元先生も、しばらくは安静に、特に遠出はいかんとおっしゃっておる」
「はてさて、囲碁仲間と言うものは結束が強いようですね」
みつは冷笑する。
「それにだ、お前も、坂田の家に顔を出すのは久しかろう? 坂田の家でも、わしのような年寄りよりも、若い娘の方が見ていて楽しかろう」
「人より『女侍』と仇名されておりますわたくしでございますれば、如何なものでしょうか?」
「ならば、普通の娘の格好をすれば良かろう……」そう言った時、みつから物凄い殺気が三衛門に向かって放たれた。三衛門は慌てて咳払いをし、その場を誤魔化す。「まあ、とにかく、お前が代理で行ってくれ。路銀は少しはずむ故、帰りはのんびりとして来るが良かろう」
それで、結局はみつが出掛ける事になった。三衛門は早飛脚を仕立てて、此度は娘のみつが参ると知らせた。
みつの噂は彼の地まで伝わっており、美貌の女剣豪を一目見ようと、はるか遠い筋の親類までが集っていた。三衛門とは別の意味で格好の的になっていたようだ。
代替わりの儀礼は、田舎特有の七面倒くさい仕来たりの連続だった。退屈な物であったが、みつは、これも精神鍛錬の修行と割り切り、応じていた。
その夜は宴会となり、老若男女問わず、みつに話しかけてきた。もちろん、剣談議ではない。「嫁に行かないのか」とか「三衛門は相変わらず鬼畜か」とか、田舎特有の与太話ばかりだった。さらには熱っぽい視線を送ってくる者も(男女問わず)にいた。適当に相手をして凌ぎ、もう絶対にここへは来ないと心に誓って、翌朝早めに出立した。
つづく
みつは、父三衛門の代理として、上州の近くまで足を運んだ。訪れたのは坂田家だった。相手は三衛門の亡き妻であり、みつの母でもあったしのの実家筋に当たり、その土地では古くからの家柄で、財力も豊富、当主も代々、江戸の方面にも顔が利いた。
本来は三衛門が行くべきであったのだが、三衛門は苦手としていた。
坂田家は、妻生前から、何かと三衛門に風当たりが強く、事ある毎に文句をつけて来ていた。元々格式の違いを気にしていた坂田家だったが、仲人に立った剣術の師範の手前、断り切れなかったのだった。それ故に、妻が亡くなった際には、三衛門を「妻も守れぬ鬼畜」「格式の違いが死を早めた」だのと罵った。
その坂田家にどうしても行かねばならぬ用事が出来た。当主の代替わりの祝いだ。のこのこと行けば、格好の的となるのは火を見るより明らかだ。だからと言って行かねば、影で罵詈雑言を吐かれるに決まっている。なので、本人は病に伏している事にし、娘のみつを代理で行かせる事にしたのだ。
「父上、嘘偽りはいかんと常々おっしゃっておいででは無かったのですか?」
父の代理を告げられた時、みつは言い返した。
「嘘ではないぞ」三衛門は平然と言う。「坂田の家からの話が無ければ、わしはすこぶる壮健であった。話を聞いた途端、具合が悪くなってしまったのだ」
「お戯れも大概になさりませ」
「戯れではない。具合が悪くなった故、道元先生から薬を頂戴しておるのだぞ」三衛門は言うと、薬の袋を顎で示す。「道元先生も、しばらくは安静に、特に遠出はいかんとおっしゃっておる」
「はてさて、囲碁仲間と言うものは結束が強いようですね」
みつは冷笑する。
「それにだ、お前も、坂田の家に顔を出すのは久しかろう? 坂田の家でも、わしのような年寄りよりも、若い娘の方が見ていて楽しかろう」
「人より『女侍』と仇名されておりますわたくしでございますれば、如何なものでしょうか?」
「ならば、普通の娘の格好をすれば良かろう……」そう言った時、みつから物凄い殺気が三衛門に向かって放たれた。三衛門は慌てて咳払いをし、その場を誤魔化す。「まあ、とにかく、お前が代理で行ってくれ。路銀は少しはずむ故、帰りはのんびりとして来るが良かろう」
それで、結局はみつが出掛ける事になった。三衛門は早飛脚を仕立てて、此度は娘のみつが参ると知らせた。
みつの噂は彼の地まで伝わっており、美貌の女剣豪を一目見ようと、はるか遠い筋の親類までが集っていた。三衛門とは別の意味で格好の的になっていたようだ。
代替わりの儀礼は、田舎特有の七面倒くさい仕来たりの連続だった。退屈な物であったが、みつは、これも精神鍛錬の修行と割り切り、応じていた。
その夜は宴会となり、老若男女問わず、みつに話しかけてきた。もちろん、剣談議ではない。「嫁に行かないのか」とか「三衛門は相変わらず鬼畜か」とか、田舎特有の与太話ばかりだった。さらには熱っぽい視線を送ってくる者も(男女問わず)にいた。適当に相手をして凌ぎ、もう絶対にここへは来ないと心に誓って、翌朝早めに出立した。
つづく
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