「なっ……!」
驚愕の声を上げた女は、素早くみつから離れた。切っ先の折れた懐剣を手にし、呆然とした表情で立っている。折れ飛んだ切っ先は床板に突き刺さっている。
「何も驚く事はない」みつは言うと、木刀を持たぬ左手で己が胸元を広げて見せた。腹から胸へときっちりと晒が幾重にも巻かれている。「今日は出稽古だった。そのような時には得に晒をきつく巻く。どうも胸が揺れて落ち着かんのでな。それでもまだ胸元は女の弱点。なので、腹から胸へと特に誂えた鉄の板を着けているのだ」
みつは言うと、木刀で胸元を叩いて見せた。こんこんと金属を打つ音がする。
女はがくりとその場に膝を突く。完敗を認めたのだ。
「お前、名は?」みつが木刀の切っ先を女に向けて訊く。女は顔をそむける。「わたしは負けを認めた者に追い打ちを掛けるような事はしない。ただ、名を知りたいだけだ」
女は顔を上げ、みつを見る。先程までの敵意は無くなっていた。負けを素直に認めた潔さがあった。
「……ゆめ……」女、ゆめは言う。「あなたが言うように、くノ一崩れだ……」
「ゆめと申すか……」みつはつぶやき切っ先を下げる。くノ一の事は不問にしている。「さ、ここを出て行くがよい。もうお前に出来る事はない。追っ付け父上が戻って来よう。そうすれば、全ては明らかとなろう。お前を雇ったあの藩は何らかの処罰を受けるはずだ。そんな奴らにお前をどうこうする余裕はない。このまま何処かへ逐電致せ」
「そうはいかない」ゆめが言う。「受けた仕事は必ず果たす。それが、我らの掟」
「我ら……?」みつはゆめに、下げた木刀の切っ先を向け直す。「お前一人ではないと言うのか?」
「さあね……」
ゆめはにやりと笑うと、唇の端から血を流し、そのまま床に倒れ込んだ。舌を噛み切っての自害だった。
「何と言う……」
みつは眉間に皺を寄せる。
「おい、帰ったぞ!」
玄関の方から父三衛門の声がした。みつは倒れたゆめを見ていたが、その場を離れ、父の出迎えに向かった。三衛門は一人だった。みおとおためは、事情を聞き知った篠田の屋敷で預かってもらう事になったようだ。
「……どうした? 何かあったようじゃな?」
迎えに出て来たみつの顔を見て三衛門が訊く。みつは事の経緯を話す。三衛門はうなずきながら聞いていた。
「その様な事があったのか……」三衛門は上がると道場へと進む。「篠田様はさすがじゃ。みおが覚えていた囚われた屋敷の庭の様子から、藩を見極めてな、すぐにあれこれと手配なすったよ。今頃は一網打尽じゃろう」
「それは上首尾」
「なんでも、そこの江戸家老の息子、以前より女癖が悪いとの噂があってな。何処ぞでみおさんを見染めたのだろうさ。それを藩の者を使ってさらったのだ」
「何と、恥知らずな……」
みつは嫌悪感を隠さない。
「……で、そのゆめとか申すくノ一崩れ、まだ道場か?」
「舌を噛み切っておりました故……」
「死せば仏じゃ、一応弔いをしてやらねばな」三衛門はため息をつく。「……これで何度目じゃろうのう……」
みつと三衛門と道場へと入った。
「……弔いの手間は省けたの」
三衛門が言う。道場内に、ゆめの姿が無かったからだ。床に散った鉄の棒も折れた懐剣の切っ先も無くなっている。床に残る血の跡を三衛門が調べる。
「これは血糊だ」三衛門は言うと自らの額を叩く。「死んだ振りをしたようじゃな。油断して近付けば一命を取られたやも知れん。お前、見抜けなかったのか?」
「折悪しく、父上が御帰宅なさいまして、呼ばわりましたものですから、後で検分しようと放置したのです」
「ふん!」三衛門は鼻を鳴らす。「折悪しくとは、父に向かって何と言う言い草じゃ! ……まあ、これだけの小細工を施すとは、確かに相手は忍びの出のようじゃな」
「女の言いっぷりから、まだ仲間もいるようです。それに、受けた仕事は必ず果たすとか」
「埒も無い!」三衛門が吐き捨てる。それからみつを見てにやりと笑う。「まあ、せいぜい気をつけることだな」
「父上にも累が及ぶかもしれませんぞ」
「いやいや、それは無かろうさ」三衛門は平然と言い放つ。「奴らの受けた仕事はお前の始末だ。わしは入っておらんよ。なので、わしはほとぼりの冷めるまで、おふみの所に居る」
おふみは三衛門が繁く通う小料理屋の女将の名だ。三衛門はその容姿もさることながら、気風の良さに惚れ込んでいる。みつは自分に似ていると言う噂を聞いた事があるが、会った事が無いので分からない。
「左様ですか。で、何時行かれるのです?」みつは訊く。「出来れば早急にお行き下さいませ」
「おいおい、邪魔者扱いをするでない」三衛門が不服そうに言う。「お前も娘なら、『父上様、そのような所に行かないで下さいまし』くらい言ってみてはどうだ?」
「そう申し上げたら、行くのはおやめになりますか?」
「……いや、ならんな」
三衛門は言うと、再び出掛ける用意を始めるため奥へと向かう。
つづく
驚愕の声を上げた女は、素早くみつから離れた。切っ先の折れた懐剣を手にし、呆然とした表情で立っている。折れ飛んだ切っ先は床板に突き刺さっている。
「何も驚く事はない」みつは言うと、木刀を持たぬ左手で己が胸元を広げて見せた。腹から胸へときっちりと晒が幾重にも巻かれている。「今日は出稽古だった。そのような時には得に晒をきつく巻く。どうも胸が揺れて落ち着かんのでな。それでもまだ胸元は女の弱点。なので、腹から胸へと特に誂えた鉄の板を着けているのだ」
みつは言うと、木刀で胸元を叩いて見せた。こんこんと金属を打つ音がする。
女はがくりとその場に膝を突く。完敗を認めたのだ。
「お前、名は?」みつが木刀の切っ先を女に向けて訊く。女は顔をそむける。「わたしは負けを認めた者に追い打ちを掛けるような事はしない。ただ、名を知りたいだけだ」
女は顔を上げ、みつを見る。先程までの敵意は無くなっていた。負けを素直に認めた潔さがあった。
「……ゆめ……」女、ゆめは言う。「あなたが言うように、くノ一崩れだ……」
「ゆめと申すか……」みつはつぶやき切っ先を下げる。くノ一の事は不問にしている。「さ、ここを出て行くがよい。もうお前に出来る事はない。追っ付け父上が戻って来よう。そうすれば、全ては明らかとなろう。お前を雇ったあの藩は何らかの処罰を受けるはずだ。そんな奴らにお前をどうこうする余裕はない。このまま何処かへ逐電致せ」
「そうはいかない」ゆめが言う。「受けた仕事は必ず果たす。それが、我らの掟」
「我ら……?」みつはゆめに、下げた木刀の切っ先を向け直す。「お前一人ではないと言うのか?」
「さあね……」
ゆめはにやりと笑うと、唇の端から血を流し、そのまま床に倒れ込んだ。舌を噛み切っての自害だった。
「何と言う……」
みつは眉間に皺を寄せる。
「おい、帰ったぞ!」
玄関の方から父三衛門の声がした。みつは倒れたゆめを見ていたが、その場を離れ、父の出迎えに向かった。三衛門は一人だった。みおとおためは、事情を聞き知った篠田の屋敷で預かってもらう事になったようだ。
「……どうした? 何かあったようじゃな?」
迎えに出て来たみつの顔を見て三衛門が訊く。みつは事の経緯を話す。三衛門はうなずきながら聞いていた。
「その様な事があったのか……」三衛門は上がると道場へと進む。「篠田様はさすがじゃ。みおが覚えていた囚われた屋敷の庭の様子から、藩を見極めてな、すぐにあれこれと手配なすったよ。今頃は一網打尽じゃろう」
「それは上首尾」
「なんでも、そこの江戸家老の息子、以前より女癖が悪いとの噂があってな。何処ぞでみおさんを見染めたのだろうさ。それを藩の者を使ってさらったのだ」
「何と、恥知らずな……」
みつは嫌悪感を隠さない。
「……で、そのゆめとか申すくノ一崩れ、まだ道場か?」
「舌を噛み切っておりました故……」
「死せば仏じゃ、一応弔いをしてやらねばな」三衛門はため息をつく。「……これで何度目じゃろうのう……」
みつと三衛門と道場へと入った。
「……弔いの手間は省けたの」
三衛門が言う。道場内に、ゆめの姿が無かったからだ。床に散った鉄の棒も折れた懐剣の切っ先も無くなっている。床に残る血の跡を三衛門が調べる。
「これは血糊だ」三衛門は言うと自らの額を叩く。「死んだ振りをしたようじゃな。油断して近付けば一命を取られたやも知れん。お前、見抜けなかったのか?」
「折悪しく、父上が御帰宅なさいまして、呼ばわりましたものですから、後で検分しようと放置したのです」
「ふん!」三衛門は鼻を鳴らす。「折悪しくとは、父に向かって何と言う言い草じゃ! ……まあ、これだけの小細工を施すとは、確かに相手は忍びの出のようじゃな」
「女の言いっぷりから、まだ仲間もいるようです。それに、受けた仕事は必ず果たすとか」
「埒も無い!」三衛門が吐き捨てる。それからみつを見てにやりと笑う。「まあ、せいぜい気をつけることだな」
「父上にも累が及ぶかもしれませんぞ」
「いやいや、それは無かろうさ」三衛門は平然と言い放つ。「奴らの受けた仕事はお前の始末だ。わしは入っておらんよ。なので、わしはほとぼりの冷めるまで、おふみの所に居る」
おふみは三衛門が繁く通う小料理屋の女将の名だ。三衛門はその容姿もさることながら、気風の良さに惚れ込んでいる。みつは自分に似ていると言う噂を聞いた事があるが、会った事が無いので分からない。
「左様ですか。で、何時行かれるのです?」みつは訊く。「出来れば早急にお行き下さいませ」
「おいおい、邪魔者扱いをするでない」三衛門が不服そうに言う。「お前も娘なら、『父上様、そのような所に行かないで下さいまし』くらい言ってみてはどうだ?」
「そう申し上げたら、行くのはおやめになりますか?」
「……いや、ならんな」
三衛門は言うと、再び出掛ける用意を始めるため奥へと向かう。
つづく
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