「ここは・・・」
正部川は車を降り周囲を見回して呟いた。
部長の伊藤進の住む下宿に行く時に通る商店街だった。「部長命令だ!」と言われて無理矢理呼び出され片道一時間、行ったら必ず推理小説談義を延々と一方的にされ、喋るだけ喋ると「もう寝るから帰れ」と追い出される。
呼び出される時はまだ陽が高く、肉屋魚屋八百屋豆腐屋薬局ラーメン屋などなどが軒を連ね商売を競っているのだが、追い出される時には商店街は全てシャッターが下りていた。おぼろな街灯の下をとぼとぼと歩いて帰った事が何度もあった。
「こんな近くに、こんな所に洋服屋があったんだ・・・ 全然気がつかなかった」
ガラス戸に金文字で「テーラー大沢」とあるだけの相当に年季の入った構えの店だった。間取りは周りの店と大差ない。
「それはあなたがボンクラだからよ。それに洋服屋なんて言い方は失礼よ」
店全体をしげしげと見ている正部川に冴子が冷たい声で言う。むっとして冴子を睨むが、逆に両脇に立っている大男たちに睨まれた。
「なにも一等地に大きな店を持っているのが一流店と言うわけじゃないの。本物は本物がわかる人にだけわかれば良いの。つまらない粉飾はいらないの」
正部川はそれを聞いて胸を反らした。
「じゃ、僕もこの格好で良いじゃないか。つまらない粉飾はいらないんだろう?」
「あなたは元がつまらないから、飾らなきゃ、どうしようもないの。それに先方様に失礼すぎるし・・・」
「だったら僕はここで帰る! そこまで言われちゃ、不愉快だ!」
「何言ってんのよ。もうあなたが行くことは先方様に伝えてあるのよ。ここであなたがわがまま言ったら紫籐家は恥をかくのよ」
「そんなこと知るか!」
その時、店のガラス戸が横へするするっと開いた。中から白髪をきちんと撫で付け、ワイシャツのボタンをしっかりと締め、赤い蝶ネクタイをし、黒のスラックスに黒の革靴姿のかくしゃくとした老人が現われた。店主の大沢だ。
「これはこれは紫籐様」滑らかな若々しい声が老人から発せられた。「外で声がしたものですから、ひょっとしてと思いまして・・・ お取り込み中でしたか?」
冴子と正部川を見比べながら大沢が言う。
「いいえ、そんな事ありませんわ」冴子が微笑みながら品の良い声を出した。「それに、こんな朝早くから勝手なお話で申し訳なく思っています」
「いえいえ、紫籐様、お心遣い痛み入ります。お気になさらずに、何なりとお申し付けくださいませ」
「ありがとう」
正部川は呆れた表情で冴子を見た。なんて変わり身が早いんだ。それにこの老人の慇懃さと来たら・・・ これだから上流階級とか言う連中は・・・
「正部川君、そんな所でぼうっと立って何やってんのよ」
いつもの冴子の声で我に返った正部川はきょろきょろと周りを見回した。車はいつの間にかいなくなっていた。入り口の左右に大男が門番よろしく立っていた。冴子は店の中から意地悪そうな顔を出していた。
「今はまだ六時なのよ。ご近所に迷惑だわ。早く入んなさいよ!」
「散々大声出してご近所迷惑してんのはどっちだよ、まったく・・・」
ぶつぶつ言いながら正部川は店の中へ入って行った。
続く
正部川は車を降り周囲を見回して呟いた。
部長の伊藤進の住む下宿に行く時に通る商店街だった。「部長命令だ!」と言われて無理矢理呼び出され片道一時間、行ったら必ず推理小説談義を延々と一方的にされ、喋るだけ喋ると「もう寝るから帰れ」と追い出される。
呼び出される時はまだ陽が高く、肉屋魚屋八百屋豆腐屋薬局ラーメン屋などなどが軒を連ね商売を競っているのだが、追い出される時には商店街は全てシャッターが下りていた。おぼろな街灯の下をとぼとぼと歩いて帰った事が何度もあった。
「こんな近くに、こんな所に洋服屋があったんだ・・・ 全然気がつかなかった」
ガラス戸に金文字で「テーラー大沢」とあるだけの相当に年季の入った構えの店だった。間取りは周りの店と大差ない。
「それはあなたがボンクラだからよ。それに洋服屋なんて言い方は失礼よ」
店全体をしげしげと見ている正部川に冴子が冷たい声で言う。むっとして冴子を睨むが、逆に両脇に立っている大男たちに睨まれた。
「なにも一等地に大きな店を持っているのが一流店と言うわけじゃないの。本物は本物がわかる人にだけわかれば良いの。つまらない粉飾はいらないの」
正部川はそれを聞いて胸を反らした。
「じゃ、僕もこの格好で良いじゃないか。つまらない粉飾はいらないんだろう?」
「あなたは元がつまらないから、飾らなきゃ、どうしようもないの。それに先方様に失礼すぎるし・・・」
「だったら僕はここで帰る! そこまで言われちゃ、不愉快だ!」
「何言ってんのよ。もうあなたが行くことは先方様に伝えてあるのよ。ここであなたがわがまま言ったら紫籐家は恥をかくのよ」
「そんなこと知るか!」
その時、店のガラス戸が横へするするっと開いた。中から白髪をきちんと撫で付け、ワイシャツのボタンをしっかりと締め、赤い蝶ネクタイをし、黒のスラックスに黒の革靴姿のかくしゃくとした老人が現われた。店主の大沢だ。
「これはこれは紫籐様」滑らかな若々しい声が老人から発せられた。「外で声がしたものですから、ひょっとしてと思いまして・・・ お取り込み中でしたか?」
冴子と正部川を見比べながら大沢が言う。
「いいえ、そんな事ありませんわ」冴子が微笑みながら品の良い声を出した。「それに、こんな朝早くから勝手なお話で申し訳なく思っています」
「いえいえ、紫籐様、お心遣い痛み入ります。お気になさらずに、何なりとお申し付けくださいませ」
「ありがとう」
正部川は呆れた表情で冴子を見た。なんて変わり身が早いんだ。それにこの老人の慇懃さと来たら・・・ これだから上流階級とか言う連中は・・・
「正部川君、そんな所でぼうっと立って何やってんのよ」
いつもの冴子の声で我に返った正部川はきょろきょろと周りを見回した。車はいつの間にかいなくなっていた。入り口の左右に大男が門番よろしく立っていた。冴子は店の中から意地悪そうな顔を出していた。
「今はまだ六時なのよ。ご近所に迷惑だわ。早く入んなさいよ!」
「散々大声出してご近所迷惑してんのはどっちだよ、まったく・・・」
ぶつぶつ言いながら正部川は店の中へ入って行った。
続く
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