憂多加氏は独身だ。とは言え、好きで独身なわけではない。恋多き憂多加氏だったが、今一つ成就しないのだ。何が悪いのか憂多加氏にも分からない。世の多くの男性同様に、ただ自分の好みの女性を求めているだけだ。女優やアイドルに似た女性でなければダメとか、スリーサイズはプラスマイナス五ミリまででなければダメとか、料理は和洋中どれも上手でしかも栄養バランスを考慮したものでなければダメとか、夜は特別に素敵でなければダメとか、そんな高い理想は一切持ってはいなかった。
女性のタイプを限定し、あれこれと言う輩は憂多加氏から言わせれば下衆の下衆だった。男の風上にも置けない馬鹿野郎だった。そんな男性を憂多加氏は心の底から軽蔑していた。確かに、自分には理想が無いと言うものの、美人を連れている男性を見ると羨ましく思ってしまう。しかし、それは男性の本能だと割り切っている。本能を制御するのが知性なのだ。憂多加氏は知性には自信があった。
さらに自分は許容範囲が広い方だと憂多加氏は自負している。それなのに女性は振り向いてはくれない。自分の容姿のせいなのか? 性格のせいなのか? もしそうならば、女性も理想を持っていると言う事だ。憂多加氏は悲しくなる。
今日も仕事の帰りに近所のスーパーによる。憂多加氏は自炊派だ。外食はほとんどしない。どこの店に行っても、大声で話しているおば様方やら、走り回る子供とそれを注意しない親やら、ずるずるぺちゃぺちゃと下品な音を立てて食べている年寄りやらと言った、あのざわざわした感じが好きではなかった。だから自分で作って食べるほうが良かった。とは言え、作れるものは限られている。肉や魚を焼いたり、野菜を適当に刻んだりが関の山だ。たまに思いつきで新作を作ってみるが、大概は失敗作で、責任感のみで食べることになる。
そのような事を繰り返すうちに、出来合いの惣菜中心の食卓になって行く。
仕事帰りにスーパーによると値引き品が結構あって憂多加氏には有難かった。自分では絶対に作れない「とんかつ」とか「やきとり」とか「てんぷら」とかが半額近くになっている。憂多加氏は率先してそれらを買い求める。「自分はここのスーパーの半額で出来ている」と言うのが最近の憂多加氏の実情だった。
だが、ここのスーパーに寄るのは、近所だったり安い品があるからだけではなかった。二番レジの女性が好みだったからだ。三十路を少し超えたくらいの小柄で大人しめな感じの女性だった。スーパー故か化粧もきついものではない。いつも微笑んでいる。レジ作業はとてもてきぱきとしており、大荷物の客でもすぐに済ませてしまう。隣のレジが一人終えるまでに四、五人は済ませているのではないかと憂多加氏は思っていた。手が空くと自発的にサッカー台を拭いたり、籠を片付けたりと動き回っている。制服の左胸についている年季の入ったプレートには「田口」とあった。憂多加氏はいつしか「二番レジの田口さん」と心の中で呼ぶようになっていた。たまに違うレジにいることのあるが、それでも憂多加氏には「二番レジの田口さん」だった。
今日も半額品で満たした籠を持って「二番レジの田口さん」の所に並ぶ。
「いらっしゃいませ」田口さんはにっこり笑って作業にかかる。憂多加氏はその手際と美しい横顔とに見とれている。「合計で九百三十二円になります」
憂多加氏は我に返って千円札を差し出す。お釣りを手渡ししてくれる。一瞬触れる田口さんの指先の感触が憂多加氏には嬉しかった。もっと話をしたいと思うのだが、後ろに並んでいる人たちの事を思うとそれができず、籠を抱えてさっさとサッカー台へと向かう。買った物を袋に入れながら田口さんを見る。そして、ほうっとため息をつく憂多加氏だった。
ある休みの日の昼時、憂多加氏は散歩に出た。スーパーの前を歩いていると、ばったり田口さんと鉢合わせをした。
「あっ……」心の準備ができていなかった憂多加氏は言葉に詰まる。「ど、どうも……」
「あら、こんにちは」田口さんは微笑んでくれた。「いつも仕事帰りに寄ってくださる方ですね。見違えましたわ」
「ああ、いつもはスーツですからね……」
「普段着も素敵ですわ」
「は、はあ……」憂多加氏はどきどきした。あわてて話題を変える。「これから仕事ですか?」
「ええ、普段は夕方からなんですが、今日は午後からですね」
「大変ですね」
「ありがとうござます。また買い物にいらしてくださいね」
田口さんは言うとスーパーの裏のバックヤードへと消えた。
憂多加氏はその姿を見送りながら、頭の中では「普段着も素敵ですわ」と言う田口さんの言葉が繰り返されていた。晴れ渡った空が更に晴れ晴れと見えた。吹く風は憂多加氏を祝福しているようだ。よし今日は半額ではないものを買おう! 心に決めた憂多加氏だった。
翌日、いつものように仕事帰りにスーパーに寄る。田口さんの姿が無かった。今日はシフトに入ってないのだろう、憂多加氏はそう思った。しかし、次の日も田口さんはいなかった。その次の日も……
辞めたのだろうか? それとも病気になったのだろうか? 他の従業員の人に聞けば分かる話なのだが、まさか「田口さんどうしたんですか?」などとは聞けない。迂闊な事をすればストーカーの疑いをかけられてしまうかもしれないからだ。気になって毎日スーパーに寄った。やはり田口さんはいなかった。やっぱり辞めたのか…… 憂多加氏はため息をついた。明日田口さんが居なければこのスーパーでの買い物は止めよう、憂多加氏はそう決心した。
翌日、全く期待せずにスーパーに寄った。いつものように二番レジを見た。居た! 田口さんが居た! いつもと変わらぬ機敏さで作業をこなしている。憂多加氏の足取りも軽やかのもになった。半額や値引きではないものを次々と籠に入れた。田口さん復帰のお祝いのつもりだった。ずっしりと重くなった籠を持って二番レジに並ぶ。
「いらっしゃいませ」
いつものように笑顔でてきぱきと作業を進める田口さんに見とれている憂多加氏だった。
「城田さん!」三番レジの女性が言う。田口さんがその声に振り返る。「バナナって二束で値段変わってましたっけ?」
「確かそうよ。バンドル組んでたはずだわ」
「ありがとう、城田さん」
え? 城田さん? 憂多加氏は田口さんの左胸のプレートを見た。真新しい「城田」と彫られたプレートがあった。と言う事は……
「結婚なさったんですか?」
憂多加氏はさりげない風を装って田口さんに聞いた。
「ええ、そうなんですよ」田口さん、いや、城田さんは幸せそうに微笑む。「ちょっと新婚旅行に行っていたんです。ご迷惑をお掛けしました」
「いえ、そんな事ないですよ。……おめでとうございます……」
「ありがとうございます。お客様も何か良い事があったんですか? こんなに買い込まれて」
「え? ああ、ちょっとね……」
「そうですか。……五千六百二十七円になります」
大きなレジ袋を両手に提げて、憂多加氏はスーパーを出た。明るい店内が見えた。幸せ一杯な感じの城田さんが、相変わらずてきぱきと作業をこなしていた。
女性のタイプを限定し、あれこれと言う輩は憂多加氏から言わせれば下衆の下衆だった。男の風上にも置けない馬鹿野郎だった。そんな男性を憂多加氏は心の底から軽蔑していた。確かに、自分には理想が無いと言うものの、美人を連れている男性を見ると羨ましく思ってしまう。しかし、それは男性の本能だと割り切っている。本能を制御するのが知性なのだ。憂多加氏は知性には自信があった。
さらに自分は許容範囲が広い方だと憂多加氏は自負している。それなのに女性は振り向いてはくれない。自分の容姿のせいなのか? 性格のせいなのか? もしそうならば、女性も理想を持っていると言う事だ。憂多加氏は悲しくなる。
今日も仕事の帰りに近所のスーパーによる。憂多加氏は自炊派だ。外食はほとんどしない。どこの店に行っても、大声で話しているおば様方やら、走り回る子供とそれを注意しない親やら、ずるずるぺちゃぺちゃと下品な音を立てて食べている年寄りやらと言った、あのざわざわした感じが好きではなかった。だから自分で作って食べるほうが良かった。とは言え、作れるものは限られている。肉や魚を焼いたり、野菜を適当に刻んだりが関の山だ。たまに思いつきで新作を作ってみるが、大概は失敗作で、責任感のみで食べることになる。
そのような事を繰り返すうちに、出来合いの惣菜中心の食卓になって行く。
仕事帰りにスーパーによると値引き品が結構あって憂多加氏には有難かった。自分では絶対に作れない「とんかつ」とか「やきとり」とか「てんぷら」とかが半額近くになっている。憂多加氏は率先してそれらを買い求める。「自分はここのスーパーの半額で出来ている」と言うのが最近の憂多加氏の実情だった。
だが、ここのスーパーに寄るのは、近所だったり安い品があるからだけではなかった。二番レジの女性が好みだったからだ。三十路を少し超えたくらいの小柄で大人しめな感じの女性だった。スーパー故か化粧もきついものではない。いつも微笑んでいる。レジ作業はとてもてきぱきとしており、大荷物の客でもすぐに済ませてしまう。隣のレジが一人終えるまでに四、五人は済ませているのではないかと憂多加氏は思っていた。手が空くと自発的にサッカー台を拭いたり、籠を片付けたりと動き回っている。制服の左胸についている年季の入ったプレートには「田口」とあった。憂多加氏はいつしか「二番レジの田口さん」と心の中で呼ぶようになっていた。たまに違うレジにいることのあるが、それでも憂多加氏には「二番レジの田口さん」だった。
今日も半額品で満たした籠を持って「二番レジの田口さん」の所に並ぶ。
「いらっしゃいませ」田口さんはにっこり笑って作業にかかる。憂多加氏はその手際と美しい横顔とに見とれている。「合計で九百三十二円になります」
憂多加氏は我に返って千円札を差し出す。お釣りを手渡ししてくれる。一瞬触れる田口さんの指先の感触が憂多加氏には嬉しかった。もっと話をしたいと思うのだが、後ろに並んでいる人たちの事を思うとそれができず、籠を抱えてさっさとサッカー台へと向かう。買った物を袋に入れながら田口さんを見る。そして、ほうっとため息をつく憂多加氏だった。
ある休みの日の昼時、憂多加氏は散歩に出た。スーパーの前を歩いていると、ばったり田口さんと鉢合わせをした。
「あっ……」心の準備ができていなかった憂多加氏は言葉に詰まる。「ど、どうも……」
「あら、こんにちは」田口さんは微笑んでくれた。「いつも仕事帰りに寄ってくださる方ですね。見違えましたわ」
「ああ、いつもはスーツですからね……」
「普段着も素敵ですわ」
「は、はあ……」憂多加氏はどきどきした。あわてて話題を変える。「これから仕事ですか?」
「ええ、普段は夕方からなんですが、今日は午後からですね」
「大変ですね」
「ありがとうござます。また買い物にいらしてくださいね」
田口さんは言うとスーパーの裏のバックヤードへと消えた。
憂多加氏はその姿を見送りながら、頭の中では「普段着も素敵ですわ」と言う田口さんの言葉が繰り返されていた。晴れ渡った空が更に晴れ晴れと見えた。吹く風は憂多加氏を祝福しているようだ。よし今日は半額ではないものを買おう! 心に決めた憂多加氏だった。
翌日、いつものように仕事帰りにスーパーに寄る。田口さんの姿が無かった。今日はシフトに入ってないのだろう、憂多加氏はそう思った。しかし、次の日も田口さんはいなかった。その次の日も……
辞めたのだろうか? それとも病気になったのだろうか? 他の従業員の人に聞けば分かる話なのだが、まさか「田口さんどうしたんですか?」などとは聞けない。迂闊な事をすればストーカーの疑いをかけられてしまうかもしれないからだ。気になって毎日スーパーに寄った。やはり田口さんはいなかった。やっぱり辞めたのか…… 憂多加氏はため息をついた。明日田口さんが居なければこのスーパーでの買い物は止めよう、憂多加氏はそう決心した。
翌日、全く期待せずにスーパーに寄った。いつものように二番レジを見た。居た! 田口さんが居た! いつもと変わらぬ機敏さで作業をこなしている。憂多加氏の足取りも軽やかのもになった。半額や値引きではないものを次々と籠に入れた。田口さん復帰のお祝いのつもりだった。ずっしりと重くなった籠を持って二番レジに並ぶ。
「いらっしゃいませ」
いつものように笑顔でてきぱきと作業を進める田口さんに見とれている憂多加氏だった。
「城田さん!」三番レジの女性が言う。田口さんがその声に振り返る。「バナナって二束で値段変わってましたっけ?」
「確かそうよ。バンドル組んでたはずだわ」
「ありがとう、城田さん」
え? 城田さん? 憂多加氏は田口さんの左胸のプレートを見た。真新しい「城田」と彫られたプレートがあった。と言う事は……
「結婚なさったんですか?」
憂多加氏はさりげない風を装って田口さんに聞いた。
「ええ、そうなんですよ」田口さん、いや、城田さんは幸せそうに微笑む。「ちょっと新婚旅行に行っていたんです。ご迷惑をお掛けしました」
「いえ、そんな事ないですよ。……おめでとうございます……」
「ありがとうございます。お客様も何か良い事があったんですか? こんなに買い込まれて」
「え? ああ、ちょっとね……」
「そうですか。……五千六百二十七円になります」
大きなレジ袋を両手に提げて、憂多加氏はスーパーを出た。明るい店内が見えた。幸せ一杯な感じの城田さんが、相変わらずてきぱきと作業をこなしていた。
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