2024/11/08
前回の章
俺は役員の委任状をもらい、家業の役員会議へ出席した。
当然の事ながら、親父の妻加藤は出席できない。
しかし席に堂々と座っていたので、退場してもらう事にした。
ずっとブツブツ言いながら粘っていたが、役員会議なのだ。
「私は社長夫人なのよ!」
「はいはい、役員…、または委任状持ってない人はとっとと出て行ってくれ」
加藤を追い出し会議が始まる。
今回の議題は、支店で独立したいという土地をどうするかというものだった。
その支店は親父ら五兄弟の長女である親戚が経営をしている。
問題なのが土地で、独立を認める代わりに賃貸契約し、月々家賃を支払えと言うのが親父側の要求。
加藤の娘婿の大室が山のような書類を用意し、今後どのようにこの会社を運営していくかを語った。
会計事務所へいたらしく、親父が前の会計士との契約を切って新しく娘婿を入れたのだ。
逆に支店側からは、親父の姉である悦子おばさんが会議に出席していた。
こちらの希望は今後独立するので家賃などでなく、土地を買い取りたいというものである。
馬鹿親父は頼もしそうに加藤の娘婿を見て、彼が書類を見ながら説明するのを嬉しそうに頷いていた。
「まずはですね。こちらに去年の決算の書類を用意しました。で、今後のプランですが、支店に対しては月々の家賃収入として……」
「ごめんなさい…、ちょっと待った。向こうは無関係でいたいから土地を買うって言っているのに、何故家賃収入云々って言っているんですか?」
「おまえは会社と関係ないんだから、向こう行け。消えろ」
親父が俺に怒鳴りつけてくる。
「あのさ、委任の意味分かる? 俺は二人の役員から委任され、ここにいる訳ね」
「そんなの関係ねえ。消えろ」
「え~と吉田さんって言いましたっけ?」
俺は加藤娘婿に名前を聞いた。
「いえ、大室…、大室です」
「あ、全然違ってましたね。すみません。大室さん、うちの親父はこう言っていますが、これは役員会議ですよね? 親父の発言どう思われますか?」
「あ、はい。これは役員会議です。智一郎さんの言い分が正しいですね。二人の委任状を受けてこの場にいるのですから」
「そういう訳で親父、つまらない発言は控えてくれ。ガキの話し合いじゃないんだ」
悔しそうに親父は俺を睨みつけていた。
「…で、支店の問題ですが、これは支店とうちのおじいちゃんの間で、どうすべきか考える問題だと思うんです。何故なら親父はまだ正式に社長就任した訳じゃないし、何故反対する人が多いかと言えば、当時ずっと会社の金を遣い遊び呆けていたからです。それをいきなり家賃収入とか都合が良過ぎます。そう思いませんか、大室さん」
親父では話にならない。俺はターゲットを大室に決めた。
「そ、そうですね……」
「では悦子おばさん、おじいちゃん。土地を売り買いすると言う事ですが、お互いの希望額を言って下さい」
「財産分けと言う訳じゃないけど、二千万で」
「それはさすがに無理だ。あの駅前の土地でどれだけあると思う?」
「俺からのアイデアですけど、譲渡税の掛からない金額で収めるのが無難だと思います。おじいちゃん的には自分の娘なんだから安く売りたいはずです。でもあまりにも安くすると譲渡税で国に持っていかれるだけ。その辺のバランスを考えて答えを出したらどうでしょうか?」
「智一郎! おまえさっきから余計な口を挟んでんじゃねえ!」
「おまえこそ、黙れ!この件だと部外者だろうが。社長になるからって図に乗ってんじゃねえよ」
「貴様…、今言った台詞、覚えてやがれ」
「それはこっちの台詞だ。このクズ野郎」
役員会議一回目で、俺と親父の溝がさらに深くなった。
役員会議の最中、携帯が何度も鳴っていたので、終わったあと見てみる。
会社の上司である佐久間からだった。
五回も着信があるので、何かあったのかもしれない。
電話をすると、「岩上さん、ちょっと愚痴を聞いてもらえますか?」といきなり切り出してきた。
「ええ、構いませんが」と答えると、よほど鬱憤が溜まっていたのか佐久間は一気に話し出した。
所沢から来た店長とその部下、三人で飲みに行ったらしい。
店長は散々飲み食いをして会計が一万円を超える。
会計時、「俺、結婚してて金ないから」と千円だけ出し、とっとと帰ったそうだ。
酷い話だが、この人も俺と飲んだ際金を出していないのである。
俺は「酷いですね」とだけ言っておいた。
現実に迫る問題と上司の愚痴を比較すると、とてもじゃないが比較にならない。
俺は適当に相槌を打って電話を切った。
会議が完全に終わり、悦子おばさんがこれから電車に乗って帰ると言っていたので、俺は「車で送ります」と言う。
会議で疲れ果てたのか顔色も優れないように見えた。
半ば強引に車の助手席へ乗せ、支店まで送っていく。
途中、俺は静かに言った。
「いいですか、悦子おばさん。俺を始め、心情的には親父なんかより、みんな悦子おばさんの味方なんです。それを忘れないで下さい」
すると悦子おばさんは黙ったままハンカチを取り出し、目頭を押さえた。
今まで辛かったのだろう。
うちとは本当の意味で悦子おばさんだけが身内である。
実の兄弟である親父から罵詈雑言を浴びせられ、家では代表で役員会議に行ってこいと言われている現実。
どのような悲しみなのかは俺には分からない。
しかし今までの辛さがその涙を物語っていた。
母親のいなかった俺ら三兄弟を幼い頃、茨城の海へ連れていってもらった思い出もある。
よく従兄弟である支店には泊まりに行った。
様々な恩が俺にはあった。
親父はどうでもいい。
それ以外の人が出来る限り笑顔でいられるような結末を迎えさせたい。
今の会社SFCGはどっちみちずっと続けるつもりはなかった。
すでに辞めると伝えてある。
上司が中々それに対し、動いてくれないだけだ。
では、そのあとどうする?
まだ何も考えていなかった。
また一から就職活動をして会社を見つけるしかないのか。
こんな俺にサラリーマンなど勤まるのだろうか?
色々考えた。
どうしたらいい……。
肝心の自分の進むべき道が何も見えなかった。
俺が一番彷徨い続けているのかもしれない。
自衛隊からプロレスラーまでの道のり。
肘を故障してから、ホテルでバーテンダー。
そして歌舞伎町裏稼業時代。
やってきた事は派手かもしれない。
しかし何一つ俺には残っていない。
インターネットでブログ『新宿の部屋』を書くにしても、どんな事を書いていいか分からなくなった。
そんな時期、ブログでやり取りしていた子『ちゃち』から「智さん、ここに小説出してみたら?」というコメントと共にアドレスが貼ってあった。
クリックすると、『第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ』という小説の賞のサイトである。
原稿をプリントアウトする訳じゃなく、この会社へワードデータをメールで添付すればいいだけ。
泣きたいか……。
果たして俺の処女作『新宿クレッシェンド』は泣けるのか?
中には泣けたと言ってくれる人もいる。
駄目元で出してみよう。
俺は梗概を書き、メールで応募してみた。
幼少時代のピアノの敦子先生と、飲みに行く。
場所は俺の行きつけであるJAZZ BARスイートキャデラック。
お袋のとの決別の話した。
先生は俺の現状を何一つ知らないのだ。
そして前に電話した時話が噛み合っていなかったので、その辺を聞いてみる事にする。
「先生、そういえば俺が六年生まで通っていたって言うのに、先生は二年生までだって、電話で言ってたじゃないですか?」
「うん、そうね。智君は二年生の冬までだったかな」
小学二年生の冬……。
お袋が家を出て行った時期でもある。
「え、だって俺はちゃんと六年生までピアノへ行った記憶ありますよ? ちゃんとレッスンなど受けず、ピアノをまったくしない生徒でしたけど」
「うん、確かに智君はいくら言ってもピアノを弾かず、お話ばかりしてたなあ。『ねえ、先生聞いて』って感じでね。でも智君が私のところに来てたのは二年生までだよ」
「……」
おかしい……。
俺の記憶違い?
いや小学六年生までハッキリ覚えているのだ。
そんなはずはない。
だけど何故先生とこうまで記憶が食い違うのだろう?
「よくお母さんが自転車の後ろに智君を乗せて、うちまで送り迎えしてね」
「え、先生。帰り道、俺を送ってくれて、喫茶店連れてってくれたじゃないですか?」
「う~ん、悪いけど私は一度もあなたを送った事はないわよ? お母さんが迎えに来ていたしね。だから喫茶店も行った事ないし」
「え、だって俺、ちゃんと覚えていますよ? ピザトーストの味だって、ペンゴだって、クリームソーダだって……」
「う~ん」
「実は高校卒業した時、先生の家も一度行ったんです。ほら、市役所の近くの家」
あまりにも先生が覚えていないので、俺はこの事を言い出した。
「え? あのさ…、智君、絶対何か勘違いしているでしょ?」
「何でです? ハッキリ覚えていますよ。今だって……」
「だって私の家はサンロードだから、市役所のほうに家はないよ?」
「え……」
その時、薄っすらと昔の記憶が蘇ってきた。
お袋の乗る自転車の後ろに乗り、先生のところへ行く俺。
確かに市役所のほうへは行っていない。
サンロード、今ではクレアモールと呼ばれるレンガのお洒落な道を通りながら、敦子先生のところへ通っていた。
すると、小学三年から六年まで通ったピアノの先生はまた別の人だったのか?
「よくね、智君は私のところに来ると、『今日はね、パパとママが喧嘩したの』とか『今日はパパがママを殴ったの』とかいつも言ってきていたから、こんな時間経ったけど、ずっと気になっていたんだ……」
親父がお袋を殴った?
昔の記憶は鮮明に覚えているはずだが、そんなシーンは覚えていない。
でも先生の口から聞かされる当時の事実を聞く内、徐々に過去のシーンがゆっくり映像化して思い出してくる。
「私はあの素敵なお父さんがそんな事をするなんてと思ったけど、迎えに来たお母さんの目にアザがあるのを何度も見て、ビックリしてね」
家族とうまくいかないだけじゃない。
お袋は親父に殴られ、やり場のない怒りが俺への虐待という形で出たのだ。
親父がお袋を殴るシーンを思い出す。
親父は金を持ち出して、家を出て行く。
残されたお袋はシクシク泣いていた。
「ママ……」
幼い俺がお袋へ近づく。
「近づくんじゃないよ」
お袋の八つ当たりが始まった。
左目の傷が疼く。
そう…、あまりの凄惨な過去に、俺は自らこれまでその記憶を勝手に封印していたのだ。
ちょうどその時が、お袋が出て行くまでの頃に当たる。
敦子先生とはその時期に会っていた。
思い出したくなかった過去。
それが二番目のピアノの先生といつの間にか同化していたのだ。
「先生、今…、ハッキリと思い出しました……」
「辛かったから、きっと今まで忘れていたかったんだよ。そうだよね、智君」
俺は目に両手を当てながらも、泣くのを堪えた。
行きつけのジャズバーで泣く訳にはいかない。
先生との再会は二十一年ではなかった。二十五年ぶりなのだ。
親父と関係があったと思われるピアノの先生と、敦子先生はまったくの別人。
ジグソーパズルで欠けていたワンピースが、今ここでピッタリとはまった気分だった。
たった二年間、いや二年も習っていなかったかもしれない。
しかも二十五年前の話だ。
それなのに先生は、俺の事をずっと心に留めていてくれた。
だからおじいちゃんと法人会で会った際、俺に名刺を渡してくれるよう頼んでくれたのだ。
今度は敦子先生のこれまでの生活を聞く。
先生は五十五歳になっていた。
当たり前だがその間に結婚し、子供を二人産んだ。
男の子と女の子。
二年前、先生の旦那さんは病気で亡くなったらしい。
俺と会わない期間に、先生は先生のドラマがあったのだ。
亡くなった旦那さんを語る先生の表情は、何て表現したらいいのか分からない。
悲しみを乗り越えた顔。
ちょっと違う。
先生の心の中で仲良く一緒に生きている。
そんな感じに思えた。
息子さんは家業を継ぐ為大学を卒業後、大手企業に入り頑張っているらしい。
娘さんはバトントワリングの日本代表選手として活躍中。
先生は娘の写真を持ち歩き、嬉しそうに「可愛いでしょう」と親馬鹿ぶりを発揮した。
こんな親馬鹿ぶりなら、大いに結構である。
ジャズバーのマスターにお願いして、音楽をとめてもらう。
「敦子先生、俺のピアノ聴いてもらえませんか? 昔はちゃんと弾かなかった。でも、三十を超えた頃、好きな女できて、その子の為にピアノを覚えたんですよ。結局俺、わがままだから嫌われちゃって、市民会館で発表会までやったのに、その子、来てくれなかったですけどね……」
「そう…、智君のピアノ、聴かせてくれる?」
「はい……」
俺はドビュッシー作曲の『月の光』を弾いた。
先生の為じゃない。
自分の為に弾いた。
「小さい頃さ、私が基本だけ教えたの。弾く時は手を真っ直ぐ伸ばして弾きなさいって。智君、それだけはしっかり覚えてくれていたんだね。素晴らしい演奏ありがとう」
先生は優しくそう言ってくれる。
「いえ、こちらこそ……」
俺は席に戻り、頭を下げた。
「何であなたはそんな優しい音を奏でる事ができるのに、結婚して新しい家庭を築こうとしないの?」
「たくさんの女とつき合い、時には泣かせてきました」
「結婚したいと思った子は?」
「いません……」
「何で?」
「俺の身体には呪われた両親の血が流れています。そんな俺が結婚して子供? 不幸になるだけです」
現在の家の環境を話した。
敦子先生は黙って聞いてくれる。
全部聞いたあと静かに口を開いた。
「そんなの分からないじゃない? あなたは優しい子よ。昔と変わってない」
「よくつき合っていた女たちと別れる時、どうしても許せない事があったんです」
「何を言われたの?」
「俺の過去をひと通り話します。それなのに、『お母さんを許してあげて』と簡単に言う。だからたくさんの女と別れてきました……」
「そうだね。そんな簡単な事じゃないよね」
俺は堪えきれず、その場に突っ伏し泣いてしまった。
SFCGを家の事業の件で辞めると百合子へ伝えた。
大反対される。
「次の決まっていないし、仮に別のところで働いたところで、今以上の給料もらえるの?」
お家騒動で精神が疲労しきっていた。
今の会社がどれほどエグく、色々な人たちを困らせ金を奪ってきたのか。
事克明に説明したが、百合子は頑として続けろと言う。
俺が動く事で路頭に迷う人がたくさん出るとも言った。
「あんな手取りで出してくれる企業なんて、他に無いよ? せっかく裏稼業で散々利用され捨てられて、やっとまともな職で働けているのに」
東証一部上場企業…、そして給料だけ見たら百合子の言う通りだ。
実態は地獄の所業である。
悪魔の手先となって、まだあそこで働けと言うのか?
家の事は何回も百合子には伝えていた。
俺が長男として動かなければ、本当に駄目になる。
だから俺はそう動いているつもりだ。
「もちろん百合子を始め、里帆や早紀の事を考えてないわけじゃない」
俺が何を言っても百合子は怒った表情で睨んでいる。
「会社をまだ辞めるつもり?」
「だから何度も言ったじゃん。それに家の事だってあるし。本当に今、土壇場というか大変なんだよ」
「……」
「落ち着いたらさ…、里帆と早紀連れて遊園地とか行って……」
「うちの子たちを巻き込まないで!」
百合子の一言は完全な冷たい壁を感じさせた。
「会社辞めるって言うなら、もう別れる」
そう言うと百合子は俺の前から消えた。
ブログ『新宿の部屋』。
当初は小説の執筆記録用に始めただけのブログだった。
最初の変化は群馬に行った時に出会った不思議な先生。
誰もこんなブログなど見ていないだろうけど、群馬の先生の件は記録に残しておきたかった。
本当に少しずつだけど、ブログ間を通してやり取りする人が増えていく。
こんな人間同士の出会い方もあるのだなと、妙に感心した。
俺は処女作の『新宿クレッシェンド』をアップしてみる。
様々な反響、そして励ましの言葉をもらえ、そのすべてが実になった。
気づけば日常の事も仕事も、すべて新宿の部屋でぶち巻けるようになる。
百合子との確執。
会社は辞めるなと言い、家の騒動を話しても、うちの子たちを関わらせるな……。
心が痛い。
俺はどうすればいいんだ?
四面楚歌の中、俺は『新宿の部屋』に逃げ込むしか術は無かった。
すべてを赤裸々には書けない。
でも何故いつもこんなにも、俺は苦しまなばならぬのだ。
【新宿の部屋】2006/06/05
あったま、きたぞ!
まず、うちの親父…、最近、家に関係ねえ女が通い妻状態で来てるけど、近所の人から聞いて初めて知ったよ。
二年以上前に、勝手に再婚してたらしいな。
おまえが、誰と結婚しようがかまわねえよ。
それは自由だ。
但し俺のお袋とずっと別居状態で、十年間何もしなかったじゃねえか。
俺はお袋なんていらない。
ただ、自分のケツぐらい自分で拭けよ。
何で俺が、親父とお袋を離婚させる役目をしなきゃならなかったんだよ。
いつも色々な女に手を出しては、テメーでケツ拭かないで逃げてたよな?
俺が高校生の頃、人妻が三人同時に家まで来た事あったよな?
でも、逃げたじゃねえか。
結局、俺が馬鹿な三人の人妻と話し合いをしたんだぞ。
俺の親って、定義を教えてやる。
お袋の事を他人が悪く言っても、俺はなんとも思わない。
親父の事好きではなかったけど、他人が俺の目の前で悪口なんて、一度も言わせなかったぞ。
俺は、それが最低限の親子の絆だと思ってたよ。
俺だけが親父の事を悪く言ってもいいんだ。
ずっとそう思って、他人から守り続けてきた。
でも、もういいわ。
勝手に生きて、勝手にしろ。
父親らしい事なんて、何一つしてくれなかったけど、俺は全然、恨んでいなかったんだぜ。
でも、もういいや……。
次は親父の妹であるおばさん……。
お袋が出てってから、中学まで育ててくれた事は感謝してる。
「おまえのお母さんは、うちの財産が目当てで離婚しないんだよ」
ずっとそう言われながら、俺は大きく育った。
だから高校卒業したら、大学に行かず働いて、そしたらお袋のところへ行って、離婚させよう……。
小学生の時から、ずっとそんな事ばかり考えてたんだからな。
幼い頃、俺が虐待に合ってる時、守ってくれなかったじゃないかよ……。
小さい時俺は可愛い顔をしてたのに、傷ついたって怪我したって、隅っこで震えてただけじゃないかよ。
「私は、おまえのお母さんを見て、人間ってこんなに強くなってもいいって学んだよ。あれは勉強になった」
それなのに、何でそんな事ばっかり言うんだよ。
レストランでご馳走になったクリームソーダ……。
すごい旨くて、本当に感謝してたんだからな……。
高校生になってから、おばさんのご飯は一切食べてない。
俺の分だけ、いつの間にか作ってくれなくなったよな。
俺が生意気で悪かったのかもしれない。
でも、自分で腹減って、お米を研いでいる時……。
「何、勝手にうちの米を使ってんだ。この泥棒が……」
「本当におまえは、ゴキブリ以下だな」
俺は、その言葉を絶対に忘れない。
反骨心を俺の力に変えてやるよ。
あとになって吠え面かくなよな。
それから最近になって『昭和の僕と平成の俺 ママの章』を書いた。
力なき幼い頃、おばさんが面倒よくみてくれたなという感謝の念を改めて認識した。
おばさんに、この小説だけは読んでもらいたい。
俺はそう思った。
「あのさ…、俺の書いた小説…、これだけでいい。お願いだから、これだけでいいから読んでくれないか?」
「おまえさ……」
「何?」
「これは趣味だろ?」
その言い方にムカッときたが、落ち着いて俺は言った。
「趣味じゃないって、今は大賞とかちゃんと応募するようになったし、そんな事よりこれだけは読んでほしいんだよ。ね?」
「隠居したらな」
「……。分かったよ。隠居したら、読んでくれるって約束してくれるかい?」
「あたしは隠居してから忙しいからな。そんな事より、おまえはもっと世間に出て、揉まれたほうがいいよ」
ああ、この人はもう否定からの視点じゃないと入れないんだな……。
そう感じた瞬間、寂しくなった。
今年のゴールデンウィークに群馬の家の先生のところへ行った時、俺はおばさんの名前だけを言って、何が見えますかと聞いてみた。
「お母さん?」
「いえ、違います。それだけで見て下さい。お願いします」
「分かりました」
先生は目を閉じて、おばさんの名前を呟きだした。
名前以外の予備知識は何も言わなかった。
「なにかこう…、なんて言うのでしょうね…。おばさんの右側にカミソリ…、しかも相手に刃の部分を向けて五本。自分を守るのに一生懸命で、近づく相手にそのカミソリを上から下にギィッとおろす…。凄い嫌なイメージが見えました。あなたの親戚関係なの?」
先生の言う事は、間違っていなかった。
「ええ…。どうすれば、いいですか?血の繋がった家族です。何かいい方法があれば教えて下さい」
「お金が非常に大事みたい……」
「貯金だけなら、一億円以上、ありますよ」
「そうじゃなくてね、お金を集めるのが大事な事みたい。言い方を代えれば、それしか信用が出来ないといったほうがいいかしら……」
「では、和解するのは無理ですか?」
「辛いでしょうけど…、あなたが傷つくだけです……」
「そうですか……」
「早く世に出なさい。あなたは世に出ないと駄目ですよ。そして自分の気持ちを本に込めて、どんどん浄化しなさい」
それから俺は一日の限られた時間の内ほとんどを費やし、小説をさらに書くようになった。
でも、俺はコージコーナーのケーキをおばさんに持って帰ったりした。
確かに、先生の言葉にはショックを受けた。
しかし、俺もおばさんも生きている人間なのだから……。
「これ、いくらしたの?」
「けっこうするほうじゃない?一つ五百円のケーキ」
「だったら、二百五百円の二つ買ってくりゃあいいのに、馬鹿だね、おまえは…。だから金がいつまでたっても貯まらないんだよ」
仕事の帰り電話して、「駅にいるけど、地下のスーパーで何かいるものある?」と聞いた。
できれば仲良く昔みたいに戻りたかった。
「ああ、じゃあ卵一パック」
俺は男なのでスーパーへ行って、卵一パックだけを買えない変なプライドがあった。
だから、適当に肉や野菜も買っていく事にした。
「なんだよ、そんなに買ってきて……」
「いやあ、俺は男だから卵だけなんて買えないよ。ついでに野菜とかも買っといたよ」
もちろん、俺は一円だって請求しない。
よかれと思ってしただけなのだから。
「だからおまえは頭が悪いんだ。ほかのものなんか頼んでないじゃんかよ。余計な金を使っても、そういうのはありがた迷惑って言うんだ」
ありがた迷惑か……。
俺は何も言うことがなかった……。
群馬の先生って、凄いな……。
改めてそう思った。
新宿トモ
うちの二回目の役員会議。
またしても埒があかない。
親父側の主張とこちらの主張では鏡のように正反対なのだ。
今回平日だったので、会社は休む事にした。
俺はまず支店の土地の登記を済ませないと、法的にこじれると感じる。
親父の弟である修おじさんに相談し、間に入ってもらう。
うまい事親父を言いくるめた修おじさんは判子をもらい、支店の悦子おばさんのところまで一緒に行く。
土地の売買の契約さえ済ませてしまえば、こちらのものだ。
譲渡税の掛からないギリギリの金額三千万で、登記も無事終わる。
おばさんのピーちゃんは、「私だったらもっとうまくできた」と疲れ切って帰ってきた俺と修おじさんに偉そうな口を開く。
「いつも口先だけで、偉そうな事言いやがって! もういい、じゃああんたが勝手にやって下さいよ」
姉であるピーちゃんを怒鳴りつけ、修おじさんは怒りながら帰ってしまう。
「言い過ぎだよ、修おじさんに……」
「だいたいおまえが勝手な事をするから、ああいう女が家に入ってきたんだ!」
「……」
言葉が出なかった。
おばさんは加藤が家に来た原因は、俺のせいと言う。
高校を卒業してすぐ自衛隊へ。
社会人になり、出て行ったお袋の元へ行き、離婚を成立させただけ。
そこまで遡り、親父と加藤のしでかした事を俺のせいにするのか?
精神が崩壊しそうだった。
「おい、この手先め! 二束三文で土地を売りやがって」
俺と修おじさんがした結果をあとで知った親父は、もの凄く怒り狂った。
しかし何を言おうとあとの祭りである。
したたかなのは加藤だ。
会計士代わりに自分の娘婿を家に入れ、経理全般を任せた。
当然支店の土地の売買で得た金は、会社名義である。
加藤は通帳と印鑑を隠し、おじいちゃんやおばさんのピーちゃんがいくら言っても目の前に出す事はなかった。
親父や加藤の生活が派手になる。
支店の三千万円の金を遣いだしたのだ。
いくら何でもありといっても、さすがにふざけるなと感じた。
当たり前だが、俺はこの件で一円の利益さえ得ていない。
しかし親父はそんな俺に対し、何度も「貴様は向こうの手先だ。二束三文で勝手に売りやがって」と罵倒してきた。
自分たちで通帳を隠し遣っておきながら、よくもまあこんな台詞を堂々と吐けたものである。
気がつけば、俺は親父の首を喉輪の体勢で掴み、黒板へ叩きつけていた。
両手で俺の右手を振りほどこうともがく親父。
今や完全に力は俺のほうが上だった。
幼き頃「面が情けない」と言っては殴り、台所で料理をしていると「女みてえな事をしやがって」と蹴られ、家の手伝いをしないとゴルフクラブで叩かれた。
何か気に食わない事があると、いつも暴力で解決をしようとしたのだ。
これまで親父に手を出した事は一度もない。
人妻が家に怒鳴り込んでこようと、加藤が滅茶苦茶な行動を取ろうと、勝手に籍を入れようと、俺はずっと手を上げず我慢してきたのだ。
親だから殴れなかった訳ではない。
一度でも手をあげたら、今までの憎しみのあまり、殺すまで止まらないと思ったからだ。
ずっと理不尽な行為を繰り返し、家族を困らせてきた。
それで社長になり、まだ己のエゴを通そうとしている。
許せなかった。
あと少し首を捻れば、こいつは死ぬ。
それをリアルに感じた。
俺の根底にあるのは間違いなく両親に対する憎悪である。
こんな奴、生きている価値があるのか?
親父、いや…、もう父親などではない。
どれだけみんなに迷惑を掛けてきたのだ。
迷惑を掛けたのはまだいい。
それを何一つ反省もせず、常に自分が正しいと主張しているのだ。
力無き頃、親父やお袋の暴力にいつも怯えていた。
勉強がいくらできても、暴力からは守ってくれない。
だから俺は強くなりたかった。
だから二十歳の時、急にプロレスラーを目指した。
あそこへ行けば強くなれる。
そう思ったからだ。
六十五キロしかない体重を必死に鍛え、寝ゲロをするまで飯を詰め込み、ようやく九十六キロまで持っていった。
地獄のような日々だった。
始めは回りに嘲笑された。
百人が百人とも俺を指差して笑った。
当時親父は自分の仲間達の前で俺を捕まえ、笑い者にした。
初挑戦のプロテスト。
俺は何とか合格する事ができた。
笑い者にしてきた連中を見返した瞬間でもある。
地元の同級生たちが祝賀会を開いてくれた。
楽しいひと時を過ごす中、同級生の一人が酒乱で大騒ぎをし、チンピラ十五名と喧嘩になる。
俺は止めに行き、警察へ捕まってしまった。
全日本プロレスの社長であるジャイアント馬場に連絡され、入団は取り消し処分となる。
夢も希望も無くなり、自殺を考えた。
しかし仲のいい先輩の坊主さんが家まで来てくれ、「おまえは生きなきゃ駄目だ」と説得。
俺は泣きながら生きる事を選択した。
ヤケクソで全日本プロレスの合宿へ強引に押し掛け、たった一日だけだがレスラーたちと共にトレーニングをする。
その時、ジャンボ鶴田さんが「まだ身体の線が細いけど、センスはいい。これから一年、頑張って身体を大きくして、またおいで」と言ってくれた。
その言葉だけを頼りに俺は苦渋の一年を過ごす。
翌年二度目のプロテストに受かりながら左肘を壊し、夢は断念。
再度自殺を考えたが、死ねなかった。
生きるほうが苦しいと分かりながらも、俺はそっちを選択した。
浅草ビューホテルでバーテンダーの仕事をしていたが、「プロレスは八百長だ」と年中からかわれ、ずっと我慢をする。
居場所がなく、新宿歌舞伎町へ流れた。
裏稼業は俺にとって非常に居心地が良かった。
何故ならみんな、俺を怒らせるような馬鹿な真似をしなかったからだ。
水を得た魚のように俺は様々な経験をし、数年を迎える。
総合格闘技の試合にも、その七年後出場した。『試合中に命を落としても主催者側に一切の責任を追及しない』という誓約書にもサインした。
何故自分が闘おうと思ったのか。
今、その理由がハッキリした。
両親の呪われた血が流れるこの身体。
何度でも血を吐き出し、すべてを捨てたかったのだ。
自分が忌み嫌われる存在だと思う事があった。
血筋という因縁。
自分の運命を何度も呪った。
こんな両親から生まれた事を後悔した。
よくも俺をおまえたちの間で産みやがったな!
何故強さを求めたのか?
今目の前にいるコイツを殺す為だ。
もう死ねよ……。
「やめろ、智一郎!」
おじいちゃんが俺の腕にしがみついてくる。
その時思った。
いや違う。
呪われていただけじゃないだろう?
俺はおじいちゃんが一生懸命育ててくれたんだ。
亡くなってしまっているおばあちゃんも。
おじいちゃんが悲しむような事をしてはいけない……。
それに二十五年ぶりに再会した敦子先生は、どんなに悲しむ。
ネット上で知り合ったらんさんに、絶対世に出てやると誓ったんじゃないのか?
まだ俺は自分の小説を世に出していない。
それだけじゃない。
どれだけ多くの人が悲しみ、苦しむのだ。
今まで出会ったたくさんの人の顔が、走馬灯のように頭の中で流れていく。
親父を殺しても、何の解決にならない事ぐらい頭で理解していた。
俺は親父の喉から手を離し、自分の部屋へ駆け込んだ。
そして静かに泣いた。
これまでの人生を何度も考えていた。
何故俺は生まれたのだろうか。
片方の親だけならまだ分かる。
両親揃って何故あんなに滅茶苦茶なのだろうか。
しかも、戸籍上では加藤が現在の母親となっている。
世の中で一番そうなってほしくない女が母親なのだ。
知り合いから「おまえはよくグレず、ヤクザ者にならなかったなあ」と言われた。
当たり前だ。
俺がなったら、おじいちゃんが悲しむ。
そんな事はできなかった。
裏稼業に身を落としたが、自分の中の義は捨てていない。
自殺をしようと何度も考えた。
遺書だって書いた事がある。
だけど俺には死ぬ勇気などなかった。
生前おばあちゃんがよく言っていた言葉。
『成せば成る。成さねば成らぬ何事も。成さぬは人の成さぬなりけり』
俺に向かって、おばあちゃんはそう言っていた。
成せばとは、行動するという意味。
成るとは、結果として得られる状態。
願いの成就とは勝手に訪れるものではなく、自らの力で作り上げるもの。
思い通りの結果が得られないのは、自分が実現に向けた努力をしないからだ。
そういう意味合いだと、俺は今でも思っている。
内弁慶という言葉があるが、親父はそれより酷い。
家では残酷な限りを尽くし、外では金をばら撒きいい人ぶっている。
ジキルとハイドみたいな変わり身だ。
近所の評判は滅法いい。
いつもニコニコで金払いもいい。
明るく周囲を照らし、祭り事では先陣を切って張り切る。
好かれる訳だ。
しかしその背景には、家の金を自由に持ち出し、無ければおばさんの金まで盗む極悪非道ぶり。
気に食わなければ暴力に訴え、やりたい放題なのだ。
お袋にも当然恨みはあったが、処女作『新宿クレッシェンド』を書き、主人公赤崎には俺の虐待されたシーンをプレゼントした。
作品が完成した時、少しスッキリし浄化されている自分に気づいた。
それから現在まで俺は、暇さえあれば小説を書くようになっていた。
一度『天使の羽を持つ子』という小説を書いた事がある。
内容は俺の今までの自伝である。
お袋の虐待から始まり、親父の傍若無人さなどを書き綴った嫌な作品だった。
原稿用紙で千六百十枚まで書いたが、自分自身が嫌になり執筆途中でやめてしまう。
作品を披露する小説サイトで、この『天使の羽を持つ子』は半年ほど掲載した。
当時二万作品ぐらいある中で、文学部門連続一位だった作品でもある。
こんな事をしても世に出た訳じゃない……。
そう感じた俺は作品を削除した。
あまり自分の身内のゴダゴダを見せるのはよくない事だと思った。
それに千六百十枚になった作品など、どの出版社も扱ってくれない。
お袋は過去の話……。
小説を書いた事によって、トラウマだった過去を浄化できた。
それまでをまとめ『鬼畜道』という作品を書いた。
親父は現在進行形……。
小説を書いても、未だ浄化できない。
それは現在もその因縁が、ずっと続いているからなのだ。
平行したように世の中もどんどんおかしくなっている。
ありえない事件の多発。
異常気象。
様々な変化が徐々に押し寄せているのだ。
頭の中で色々なアイデアが思い浮かんでくる。
思った事を作品に投影し、とにかく書こう。
もういいやってなるまで必死に書こう。
こうして俺は三十四歳の誕生日を迎える。
一心不乱に俺は小説を書き出した。
様々なジャンルの作品を好きなように書けばいい。
上司の佐久間から電話が入る。
「何でしょうか?」
「ちょっと岩上さん、愚痴なんだけど聞いてくれないかな?」
「すみません。今、立て込んでいますので…。それより俺、何度も辞めたいと会社に言いましたが、いつ頃辞められますかね?」
「う~ん、店長もまだ上に報告していないみたいだしね……」
「そうですか」
辞めると伝えてから、二ヶ月が経っていた。
要は何の進展もその間ないという事だ。
「あのさ、実は店長が病気で入院してね。それで勝手に社員同士で花束を買おうってなったみたいでさ。私はそんな事知らないのに、あとで金だけ請求されてさ」
佐久間の話などどうでも良かった。
今の俺には笑顔で聞けるだけの余裕がない。
「佐久間さん、すみません。今、立て込んでいるんです。それと俺、明日から会社行きません。ちゃんと報告しても駄目なら、こっちも勝手にします」
「え、ちょっと待ってよ、岩上さん」
俺は電話を切り、電源を落とした。
百合子がこれで別れると言うのなら、そらはそれで仕方がない。
彼女には去られようとしている。
親父には罵倒される。
おばさんからは加藤が家に入った原因にされる。
仕事ももうこれで終わり。
何だか本当に疲れた。
何故俺はこんな状況なのに、精神が崩壊し頭が狂わないのだろう?
何故無駄に頑丈なんだ?
これで職も無くし、八方塞がり。
いや、そうじゃない。
俺にはまだ小説というものが残っている……。
多分まだ通常の意識を保っているのも理由があるのだ。
俺は何があろうとも、小説を書かなきゃならない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます