2024/11/09 sta
前回の章
神田のパイナポーの名義をしていた石黒から、久しぶりに連絡があった。
「すみません、連絡するの遅くなっちゃって」
「全然問題ないよ、今はどうしているんだ?」
「弁当付いているんで、風俗の電話受付をしていますよ」
彼の執行猶予も、俺が長谷川の組織へ紹介したばっかりに……。
「そっか。たまにはご飯でも行くかい? 何かご馳走するよ」
俺は石黒と会いに久しぶりの新宿へ。
お互いの近況を話し合い、笑顔で別れる。
有路の店にも寄り、最終電車手前まで飲む。
「おいおい岩上、せっかく顔出したのに、もう帰るのかよ?」
これから百合子と会う約束があるので最終電車で川越へ戻る事にした。
西武新宿線の最終に乗り本川越駅まで帰る。
駅につく頃には、もちろん上りの電車は無い。
改札を通ろうとした時、ガラス張りの駅長室(特急券や定期を売っている場所)で、一人のサラリーマンが、ガラスの壁をガンガンと何度も蹴っていた。
西武新宿線には前に縁もあるしな。
百合子も待たせているし、本来なら放っておいて帰ればよかったが、俺はわざわざ近くの改札を通る。
すると、そのサラリーマンは俺の顔を睨みながら、ガラスの壁を蹴っていた。
改札を出て、駅長室へ入る。
そのサラリーマンはもの凄く酔っ払っていて、駅員も困り果てた様子。
「おい、小僧。誰を睨んでんだ?」
「うるせー、ぶっ殺すぞ」
何か久しぶりに「殺すぞ」なんて、言われたな。
俺は酔っ払いの髪の毛を鷲掴みにして「どうっやたらおまえのようなちんちくりんが人を殺せるんだ?」と質問すると、「うるせー、ぶっ殺すぞ」と同じ台詞を吐く。
自然と頭突きをぶちかましヘッドロックをした態勢で、百合子へ電話を掛けた。
「どうしたの? 電車着いてるのに来るの遅いから…。何だか駅の改札の前、人が一杯いるね」
「ああ、酔っ払いが絡んできやがってよ。ちょっとそっち行くの遅れるわ」
電話を切り、その態勢のまま酔っ払いを駅長室から外へ連れ出す。
悲鳴をあげながらジタバタする酔っ払い。
当たり前だ、わざと痛くしているんだから。
すると警察官が十人ほど、こちらに走ってきているのが見えた。
ヘッドロックをしている俺に、警察官は大勢で襲い掛かってくる。
八人の警察官が俺に組み付き、酔っ払いと離された。
「離せって…、何も手を出しちゃいねーだろが……」
「落ち着いて下さい!」
「充分、冷静になってんだろ。離せって……」
駅の中は野次馬で、大勢集まってきている。
酔っ払いは図に乗り、俺に対して何か怒鳴っていた。
俺は一人の警官の肩を掴む。
親指を肩の骨の隙間に入れて、力を入れた。
「あー、いててて……」
「何も手を出してねえって、さっきから言ってるだろ。離さねえと、肩壊すぞ」
警官たちは、そこでようやく俺から離れる。
酔っ払いはまだ吠えていた。
「おい、警察来たからって、安心して余裕こいてんじゃねえぞ」
挑発すると、酔っ払いは大振りのテレフォンパンチで殴り掛かってくる。
ここは警官の前でワザと一発食らっておこう……。
顔面にパンチを受けながら拳をキャッチし、警官に振り向いて静かに言う。
「おい、今こいつ…、何をしたんだ?」
「え、何をって……」
警察官は困った顔をしています。
「おまえら、いつも容疑者捕まえる時、尋問して供述させるだろ。逆にこっちが聞いてんだよ」
「も、揉めています……」
「おいおい…、日本語は正しく使わないと駄目だろ。何をしたんだ?」
「な、殴りましたね……」
俺は頷いて、警官に笑顔で口を開く。
「よし、じゃあ、何かあったら証人になれよ」
「離せよ、テメー……」
酔っ払いは拳を掴まれたまま、暴れている。
「いいか? 無抵抗の人間を殴っちゃいけねえだろ。あ、今頃になって痛みが来た。いてーっ!」
その状態で酔っ払いを派手にぶん投げる。
警察連中は、また俺を抑えだす。
「おいおい、いきなり殴られたら、つい相手を突き飛ばすだろ? 今のは正当防衛だ。おまえらも、大袈裟に騒ぐなよ。俺は恐竜波に神経の伝達が遅いんだよ」
警察官に説教していると、さらにパトカーが二台停まり数人の警官が駆けつけてきた。
「本当、おまえらって暇だな…。こんなちんけな事で、こんなに大勢呼ぶなよ。情けねえな」
警察の親玉らしき人間が俺の前に来る。
「今日は私の顔に免じて引いてもらえないか」
「はぁ、馬鹿かって? 顔に免じてって抜かすなら、自分の名前と役職を言うのが筋だろが。都合いい事、抜かしてんなよ」
「本川越駅前派出所の責任者の小泉です」
親玉は役職と自分の名を名乗る。
「分かった。じゃあ、今日のとこは小泉さんの顔に免じて引くことにするわ。きっちりこのガキの連絡先とか聞いといてくれよ。あとで詫び入れさせるから。今までヤクザにだって絡まれた事ねえのに、こんなゴミみてえな奴に絡まれたら、恥ずかしくて堂々と天下の往来を歩けねえだろ? きっちり教育しといてや。酔えば何をしてもいいなんて駄目なんだって事を……」
「ああ、よく説教しとくよ」
「あんたらが駄目なら、俺がきっちりと教育してやるから」
「ところで、あなた、仕事は何を?」
会社名出すのも後々面倒だな……。
小説を実際に書いているので、物書きだと答えておく。
酔っ払いが暴れていた原因を聞くと、上がりの電車が無いのに今から出せと無茶な要求をして、駅長室の壁を蹴っていたらしい。
そこへ俺が通り掛かり、ご覧の騒動になったと小泉は説明する。
俺はプライベート用の名刺を渡し、酔っ払いはパトカーに連行された。
それから十日余り経つ。
警察からは何の連絡も無し。
俺は仕事中、抜け出して本川越の交番に乗り込む。
「おいおい、小泉さんよ…。あんたが顔を立てるって言ったの、こういう事かよ?」
「いや、落ち着いて。実は一度、酔っ払いへ連絡したらね、仕事中だったから夜に掛けてほしいって言うんだよ。それで夜連絡したんだけど、またあいつ酔っ払っていて話にならないんだ。だから、ああいう馬鹿は放っておいたほうがいい。そのあと、何度も携帯に連絡したけど出ないんだよ」
「はぁ? 何を抜かしてんです? 俺はあなたの顔を立てて、あの場は引いただけですよ。連絡したけど出ない? 一度あいつを連行したって事は、調書とってるはずですよね? それで携帯しか連絡先知らないなんて言わせないですよ。携帯で出ないなら、自宅や会社にすればいいじゃないですか」
「うーん、そうだけど…。まあああいう馬鹿は相手にしないほうがいいって」
「とことんぬるま湯にどっぷりと浸かってますね…。分かりました。五右衛門風呂って知ってます?」
「五右衛門風呂?」
「ぬるま湯に浸かってるんで、今から五右衛門風呂入った気分になってもらいますね」
「え、意味が分からないんだけど?」
「たった今から被害届け出す事にします」
「おいおい、何でまた…。別に殴られたりしてないだろ?」
「おたくの警官の一人が証人になってくれますよ。それで、あなたが顔に免じて引いてくれと言ったのに、こういう応対をされたから被害届けを出すに至ったと、供述させてもらいますわ。じゃ、失礼します」
俺は交番を出ると、すぐに小泉はあとを追いかけてきた。
「ちょっと待って、分かった、分かったから! 今日一日だけ時間ちょうだいよ。な? 頼むよ」
「今日だけですよ」
それから一時間もしない内に、交番から着信があった。
「あ、岩上さん。この間の酔っ払い、今、交番に来させたんです。ぜひ、岩上さんに数々の非礼をお詫びしたいと……」
一時間も経っていないのに迅速な行動だった。
「こういう風に出来るんなら、もっと早くからちゃんとしろよ」
俺は酔っ払いに、酒を飲んであんな風に暴れるなと説教をする。
それと駅に迷惑をかけたのだから、ちゃんと謝りに行けと促す。
「お巡りさん、これですべて水に流しますわ」
「ありがとうございます。ところで岩上さんって、どんな小説を書いているんです?」
「ああ…、俺が世に出たら、嫌ってほど見れますよ。それまで楽しみにしといて下さい」
小泉はそれから俺が派出所の前を通り掛かると、笑顔で会釈するようになった。
町の片隅でひっそりとトイレのどこかの小さなフタを作る工場があった。
経営者は左足を悪くした六十五歳の男性。
うちで金を貸している契約者でもある。
経営が思わしくなく、債権回収をする事になっていた。
電話を掛ける佐久間。
俺はその様子を横で聞いていた。
「あのですね。これ以上入金が滞ってしまいますとですね…。いえ、ですから、金利もうちは下げていますし。ええ、そうですが、決まりは決まりでしょうが。駄目なら別の保証人を用意して下さい。それで穴埋めするしかないじゃないですか?」
どうやら金が返せないから、他の保証人を用意して一度金をまた借りる。
それで不足分を一時的に埋めようとしている訳か。
どう見てもただの悪循環だ。
借りた本人に支払い能力が無いから、他の保証人をつけ取り立てる。
会社はマイナスにならないが、巻き込まれる人が増えていくだけ。
こんな事をするなら、何故最初の時点でそんなに貸付をするのだろうか?
「ですから、当社まで来て契約をして下さい。足が悪いなんて言い訳にならないですよ。え、無理? 何故ですか? こちらはですね……」
佐久間の声が荒くなる。
俺はメモ用紙に『自分が契約に行きましょうか?』と書いて見せた。
佐久間は受話器に手を当て、「え、行ってくれるのですか?」と驚いている。
これ以上責めるのを見ていられなかったのだ。
詳しく話を聞くと、思った通り借金を返せず、保証人をつけて何とかしようとしているところだった。
俺は佐久間に言った。
「それじゃ悪循環になるだけです」と。
しかし佐久間も仕事でやっているので、折れる訳にはいかないのだ。
ならば俺が間に入り、少しでも相手の気持ちを緩和したい。
そんな気持ちだった。
新規契約書を持ち、その工場へ向かう。
実際に契約する本人と会うと、非常にくたびれた感じのする初老だった。
「まったく頭が固いと言うかね、あなたの上司。こっちは足が悪くていつもこうやってビッコを引いているんだ。それを会社まで契約に来いだなんてさ、酷いよ」
「おっしゃる通りだと思います。ですから私がこうやって来る事にしました。お気持ちは分かります」
この人の借金総額は一千五百万を超えていた。
こんな状態でいつまで続けるのだろうか?
二百万、三百万といった借金をする度に変わる保証人。
会社は支払い能力がない契約者じゃなく、その小分けに分けた金額を各保証人から取り立ててればいい。
嫌な仕事だと本当に思う。
やりきれない思いを抱えながら、俺は会社へ一度戻った。
帰り道の途中で七枚に及ぶ契約書の内の一枚をライターで火をつけて燃やした。
何を言われても、「え、何ですか?」でトボければいいだけだ。
残業時間を過ぎているので社内へ入っても、不機嫌そうに書類をドカッと置き「あとは明日やりますから」と逃げるように帰った。
因果な商売。
俺はハンバーグやステーキを食べ、エネルギーを補充しておく。
先日取立てに行った保証人のところへ、再び向かう事になる。
以前行った時は姿を見ただけで怒鳴りつけてきた保証人が、俺の顔を見ると笑顔で「おお、あんたが来てくれたんだ」と嬉しそうに言ってくれた。
そして契約者が支払えない代金を素直に肩代わりしてくれる。
非常にありがたい話である。
「自分、実はこう見えて小説を書いているんです。いずれこの事は、作品として書きたいと思っています」
このぐらいしか俺には言えなかった。
保証人は嬉しそうに頷き握手を求めてくる。
心の底から礼を言い、その場をあとにした。
上司の佐久間から「岩上さん、書類が一枚足りないですよ?」と言われたが、「え、ちゃんと佐久間さんが揃えて確認してくれた書類にはすべてサインさせましたよ? 不手際あるようなら、あとは自分の顧客ですし、ご自分でお願いします。それではお疲れさまです」と笑顔で帰った。
日曜日、会社は休みだが家の家族会議だった。
のちにある役員会議の前に話し合ったほうがいいという事で決まったようだ。
これに俺も出席をする。
集まった面子は、俺と真ん中の弟の徹也に、おじいちゃん、おばさん。
それと親父、いつの間にか妻になった加藤皐月。
それと加藤の長女の娘婿大室。
家業を辞めた弟の貴彦は出席しなかった。
親父が社長になるという件はほとんど確定である。
何故なら他の候補者を加藤が嫌がらせし、すべて辞めさせてしまったのだから。
弟の貴彦さえも……。
俺や徹也は反対した。
親父が社長になったら崩壊は目に見えて分かるからである。
加藤は必死に「この人は才能がある方ですから」と親父をかばっていた。
五十後半になって、才能もクソもないだろう。
こうやって親父をただ甘やかし、かばう奴がいるから増長する。
非常に傍迷惑な女だ。
「私は岩上智の妻、社長夫人として言わせてもらいますが……」
加藤が偉そうに発言をしてくる。
俺は途中で遮った。
「おい、加藤さんよ。あんた、いつから『岩上』の性を名乗っているんだ? うちら子供に何も言わず籍だけ入れて、何が社長婦人だ? 何を勘違いしてやがる。ふざけた事を抜かすなよ」
面の皮が厚い加藤皐月はまったく動じない。
いつもやってしまった者勝ちだと思っているのだろう。
「前に俺は言ったはずだ。この家に入るなと。何をあんたは偉そうに言えるんだ? 不思議でしょうがない。こうやってみんなが迷惑しているのに家に勝手に棲みつき、どんどん家の中を滅茶苦茶に引っ掻き回している。何が目的なんだ? ハッキリ言ってみろ?」
「私はそんな事聞いてない。あなたはあの時、『俺とは関係ない』って知らん顔しただけでしょ?」
「おい、ふざけんな! それを言ったのは俺の総合の試合前日の夜中だろうが? おまえがお父さんに捨てられちゃうって不法侵入してきた時だろう!」
「そんな事は知らない。あなたは関係ないって言っただけ」
自分にとって都合悪い事はこうやって誤魔化す女。
よくもまあ恥も外聞もなくこうして話をすり返られるものだ。
俺は親父を睨みつけ、ハッキリと言ってやった。
「おい、親父! 何でこんな女と結婚した? 何故、家にこんなのを棲ませたんだ?」
親父は俺を一別しただけで何一つ口を開かない。
「いつも俺の腕は一流だとか自慢してたよな? それなら一辺よそに行って、通用するかどうかやってこい。この馬鹿親父が!」
「ああ、通用するに決まってんじゃねえか」
ようやく口を開く親父。
俺の挑発に乗ってきた。
「なら実際に証明してみろ。但し言った言わないじゃないぞ。ちゃんとこの場で誓約書を書け。どうせできないだろうが?」
「書いてやらー」
親父は紙に書き出した。
よし、これさえあれば……。
その時だった。
劣化の如く加藤がもの凄い勢いで席を立ち、親父が書き途中の誓約書を奪い、グシャグシャに丸めてしまった。
「何をしてるの、さ、智さん!」
いいところで邪魔しやがって……。
最悪俺が継ぐ事にして辞めていく従業員に頭を下げるしかないか。
俺はおじいちゃんに言った。
「おじいちゃん、俺が継いでもいい。こんな馬鹿に継がせたら、どんな目に遭うか分かるでしょ?」
「智一郎、もう遅いんだよ……。すべてみんな決まった事なんだから」
おばさんのピーちゃんが口を開く。
おばさんも辞める人間の一人である。
十八歳の時から五十後半になるまでずっと家で頑張ってきた。
それでも親父にはついていけないらしい。
「何でもっと早く言ってくれなかったんだ!」
親父らを除く、家族全員に言った。
「兄貴は、前に今度の日曜日空けといてと言っても、新宿で仕事だからと全然会議に顔を出さなかったじゃないかよ」
徹也は静かにそう告げる。
「……」
ちょうどその時は都知事が実行した歌舞伎町浄化作戦の真っ只中にいて、それどころじゃなかったのだ。
しかしそんな事は言い訳にもならない。
俺は言葉が出なかった。
この日、親父が社長に就任する事がほぼ確定的になった。
近所にうまい定食屋があった。
おばあさんが一人で細々とやっているお店だった。
お袋の味を知らない俺は、今年の三月頃に、その店を発見し、週に三、四回は行くようになった。
できる限り俺の知り合いに声を掛け、そこを紹介した。
立地条件が恵まれてないせいか、おばあさんの店は本当に暇だった。
店は目立たない五階にあり、三階には、おさわりパブが入っている。
なので当然そこへ行く以外の人間は嫌がるし、女性などそのビル自体入りたくないだろう。
ビル前には、客引きの男どもが、通行人に誰かれ構わず声を掛けていた。
俺が家へ帰る途中、電話をしながら通り掛かると、客引きの一人が声を掛けてくる。
「おっぱい、どうっすか? さわり放題ですよー。」
俺は携帯を切った。
その場に立ち止まり、そいつを睨みつける。
「おい、小僧。人が電話で話してるところ、何だオメーは? いつから俺のいる地元が、こんな腐った連中がいるようになったんだ?」
「す、すんません……」
「おい、謝り方もしれねえのか? この辺りで、人数いるからって馬鹿みたいにはしゃいでんじゃねえよ。次、くだらねえ事したら、虐めるぞ」
「は、はい……」
確かにここを通る時、近所の人たちから、ガラが急に悪くなったという話は聞いていた。
「おい、おまえらもだよ。そんなとこで、偉そうに何人もだらしなく突っ立てんじゃねえよ」
俺は他の客引きにも、注意をしとく。
こういうもんはもっと繁華街でやりゃあいいのにな……。
少し苛立ちを覚えながら帰った。
しばらくして俺がおばあさんの定食屋へ行こうと、エレベーターに乗り込むと、後ろから強引にドアを開けて、俺に声を掛けてきた客引きがいた。
「お客さん、何階へいくんすか?」
「おい、何でいちいちテメーみてえな小僧に、行き先告げなきゃいけねえんだ? ここはおまえら店だけビルか? あんまり舐めてると、おまえらのケツもちごと虐めるぞ?」
「は、はい……」
「おまえら、地元にいて、俺の顔を知らんねえのか? 金で女の身体を触らせるような商売で、てめえらが粋がってんじゃねえよ」
確かにこれじゃ、五階へ行く客なんていない訳だ。
俺はいつもより必要以上に怒っておいた。
定食屋に行くと、おばあさんは笑顔で出迎えてくれる。
俺はいつものしょうが焼き定食を注文した。
本当にうまい!
今度百合子や里帆、早紀も一緒に連れてこよう。
退職が決まった家の従業員に、俺は翌日頭を下げに行く。
「あの、俺が家を継ぐって言えば、残ってくれますか?」
「何だよ、智ちゃん。急に……」
「俺、今まで新宿へずっと行ってたから家がこんな状況になっているなんて、何も気づかなかったんです。だから今、何とかしたいなと色々考えました」
従業員は俺の頭にポンと手を置き、「小さい頃から見ているけど、智ちゃんは全然変わらないなあ。でもね、もう俺も次の職場決まっちゃったんだよ。智ちゃんが悪い訳じゃない。そんな気にしないで」と優しく言ってくれた。
もう俺一人じゃ、この現状を何もできないのだ。
それを実感した。
昔からずっと家で働き家業を支えてくれた人たちが、どんどん消えていく。
「さすがに智ちゃんのお父さんとあの女とは、一緒に仕事できないよ。悪いけどね」
みんな、そう言って消えていく。
もっと早く動いていればと、俺は自己嫌悪に陥った。
会社に行っても、当然の事ながら身が入らない。
上司の言われるように不備是正や債権回収の仕事をした。
三つの市を回り、不備是正をこなす。
会社でもすっかり浮いた存在になっている俺。
今後の目的の何も見えなかった。
そんな時期、『新風舎』に応募した出版小説大賞の一次選考合格通知が届く。
暗く塞ぎ込んでいたので、俺は飛び上がって喜んだ。
手紙も添えてあり、青山にある本社へ一度来てほしい。
そして実際に会って話したい。
そう書いてあった。
会社を休み、早速俺は『新風舎』へ向かう。
このまま作家生活に入れれば、自由に時間を使う事も可能である。
そして自分の書いた作品が世に出回る。
これほど嬉しい事などない。
希望に胸を膨らませた。
青山の『新風舎』へ行き、編集プロデューサーと名乗る村田彩という女性と話した。
ここはそこそこいい女が多い。
しかしどうも話の内容がおかしい。
「岩上さんの作品を世に出しましょう。共同出版という形で。それでまず金額のほうなんですが……」
「ちょっと待って下さい。俺は悪いけど、自費出版などするつもりまったくありませんよ。本当にいい作品なら、何も作者が金を出す必要などどこにもないじゃないですか」
「ええ、それはおっしゃる通りだと思います。しかしこのタイミングでなら、お安く経費も済みます。とりあえず見てもらえませんか?」
そう言って出版プロデューサー村田彩は、分厚い書類をテーブルの上に置く。
言われた通り目を通してみた。
「……」
五百部の本を作るのに、俺が二百三十万の費用をまかなうと明記してある。
普通に考えて、本一冊の値段など、千円から二千円ぐらいが相場だ。
それを何故一冊辺り俺が四千六百円も出さなければいけないのだろう。
「あのさ、俺からも実は提案あってね。君、こういう仕事をしているぐらいだから、小説の一つや二つ書いた事あるでしょ?」
「ええ、あります。だから作者の気持ちはよく分かりますよ」
「そう。じゃあ俺がそれを本にして世に出してあげるから、今二百三十万出してくれないかな? ちゃんと本にして世に出すからさ」
「いえ、私は……」
「おい、姉ちゃん。自分でできない事を何故、俺に押しつけようとするんだ?」
「え、あの……」
「ちょっと立ってみ?」
「え、はあ…。これでいいんですか?」
その女が立ち上がったので、俺は近づきいきなり肩に担ぎ上げた。
「ちょっと、何をするんですか?」
女は持ち上げられたまま、俺の背中を両手でポカポカ叩く。
「ん? おまえ舐めてっから、これからホテル連れて行ってお仕置きする」
「やめて下さい!」
「おまえさ、自分たちのしている事について、恥を知れ」
この騒ぎで奥からお偉いさん連中が出てきた。
俺は「作家の魂をくだらないトークやマニュアルで切り売りしてんじゃねえよ、ボケ」と言い残し、『新風舎』を去った。
当然の事ながら俺の作品は、二次選考で落ちていた。
外回りの仕事をしていると、途中で道に迷った。
ちょうど警官がいたので道を聞く事にする。
信号で停車していると、いきなり助手席の窓をコンコンと叩くおばちゃんがいた。
何だろう?
俺が窓を開けると、いきなりビニール袋を強引に渡された。
中を見ると、ガム一枚に梨が一つ、ポケットティッシュが一つ入っている。
不思議そうに眺めていると、「車は安全運転でね」と言い、去っていく。
しばらくそのおばちゃんの後ろ姿を眺めていると、背後からクラクションを鳴らされ、車を発進させた。
辞めると言ったのに、中々辞められない会社。
嫌々業務をこなすが、こんな時に限って新規契約が獲れたりするのだから、皮肉なものである。
社内へ戻ると、社員が集まり何やら相談事をしていた。
普段なら無視をしている社員たちが、俺の姿を見るなり「岩上さーん」と声を掛けてくる。
嫌な予感がした。
案の定、面倒な仕事だった。
契約者は女性。
以前書類の不備で向かったところ、ヤクザ者みたいな連中に囲まれ、何もできなかったらしい。
「岩上さんみたいな身体をした連中が、五人も六人も取り囲んでくるんですよ。しかも無言で……」
「あのですね。悪いけど俺をそういう連中と同じ扱いにするの、やめてもらえません?」
「ま、まあそうですけど…。でも、おっかない連中がすぐ取り囲むんですよ」
「俺がそこへ行って不備是正してくればいいんでしょ? 分かりました。行きますよ」
「え、行ってくれるんですか?」
「そう仕向けてるじゃないですか」
普段はエリート面しているくせに、こういう時は尻込みする奴らばかり。
何の意味もない。
情けない奴らだ。
俺は書類をまとめ、また出掛けた。
場所は草加市。
昼間なので道も混み、片道だけで三時間掛かる。
問題の契約者のマンションへ到着。
電話を入れ、オートロックを開けてもらう。
部屋の中へ入れてもらうと、顧客は上着を脱ぎ、肩口の刺青をさり気なく見せた。
完全にヤクザの女だとアピールしたいのだろう。
「いいですね~。ちゃんとした刺青」
「はあ?」
「いえ、私こう見えてちょっと前まで歌舞伎町で商売していたんですよ。その時部下で元彫り士がいましてね。結構有名な師匠の下でしていたんですが、勤まらなかったようでして。たまに風俗行っては女の子にワンポイントでタトゥー入れてあげるから、本番やらせてなんて言うチンケな野郎でしてね。そんな奴が彫ったような刺青と違うの分かるから、いいなあと言ったまでです」
「へ~、あんた、面白いわね。本当にあの会社のサラリーマンなの?」
「そうですよ。私の名刺だって渡したじゃないですか。それに正直な感想を言ったまででして」
女は俺のすぐそばに擦り寄ってきた。
「ねえ、今なら誰もここにいないからさ。ちょっと奥で楽しい事しない?」
中々いい女である。
おっぱいもロケットのように尖がっている。
俺はこの女の仇名を『とんがりコーン』と決めた。
しかしヤクザ者の女なのだ。
しかも仕事中。
俺は涼しい顔をしながら断る事にした。
「それよりも先に書類の訂正をお願いしたいんですよ」
「まったく…、変な人。変わっているって、よく言われるでしょ?」
「ええ、それなりですけど。あ、ここに訂正印押してもらえますか?」
「変な返事。面白からいいけど」
気に入られたのか女は訂正印を素直に押し、書類の手直しに協力してくれた。
「また何か機会あれば、色々お話しましょう」
「あんた、サラリーマン向いてないから、こっちの世界に早く来たほうがいいわよ」
「いやー、それをしてしまうと、悲しむ人間多いんで…。じゃあそろそろ帰りますね」
仕事じゃなきゃ、こんなおいしい状態ないのにな……。
会社に無事書類を持って帰ると、みんな驚いた顔で俺を見ていた。
この頃インターネットを通じ、仲良くなっていたらんさんが、『一大決心』というタイトルで最後の記事を書いていた。
― 一大決心 ―
みなさん、いつもありがとうございます。
この頃よくサボっていると思っていますよね?
実は、しばらくお休みしようと考えていました。
目に後遺症が残ったとは、書いてますが…、それも少しずつ悪化してきていました。
一応気をつけて、パソコンをする時にはサングラス装着です。
また酷くなったので今では二つ重ねて掛けています。
パソコン開くとなかなか終われないんですよね~。
どうしても、長時間やっちゃいます。
ブログは、生活の一部にもなっていたんですが……。
すごく支えてもらえているし。
でも、これ以上悪化させたくないと思ったので……。
眉やアイラインを書くのも難しくなってきました。
今くらいで抑えとかないと……。
めっちゃ、めっちゃ迷いましたが、こんな理由から、「ランの気まぐれな日々」は休止する事にしました。
いつかまた再開したいと思っています。
ほんまに、みなさんには感謝しています。
辛い時、苦しい時、すごく助けられていました。
ありがとうございました。
たまには、みなさんの所へ遊びに行きたいと思っています。
「誰?」とか、なしですよ~。
ほんまにありがとうございました……。
気まぐれなので三日くらいで帰って来たらごめんなさい。
メールも大歓迎ですよ。
ただ、返信は遅いと思われます。
ありがとうございました。
― らん ―
不定期で何度か更新はしていたが、ここまで悪くなっていたとは……。
俺はできる限り明るくコメントを残した。
それに対し、らんさんはすぐにコメントをくれた。
『智さん、入れ替わりで休止しちゃってごめんなさい。智さんの本が、世に出る事はもう私の夢でもあります。勝手な思いですが…。これからも素晴らしい作品を生み出して下さいね。 らん』
確かにパソコンは目に負担が非常に掛かる。
らんさんがどんな思いでネット上にアップされた俺の小説を読んでくれたのか。
考えると目頭が熱くなった。
実際に本という形にすれば、彼女の目の負担は減る。
ならば絶対に俺は、世に出さなきゃ駄目だろうが……。
誹謗中傷も色々受ける。
しかし暖かい言葉をくれるらんさんみたいな人もいる。
絶対に俺はこの子の為に、小説を世に出したい……。
ブログのやり取りでらんさんが消えるのは寂しい事だ。
しかしそれ以上に彼女には良くなってほしい。
頑張って小説を書き続け、いつか世に出してやる。
その時彼女にまた俺から連絡しよう。
らんさん、たくさんの勇気をありがとう。
岩上智一郎、頑張ります。
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