2024/11/08
前回の章
無職になった俺は、次にどの職業をしようか迷った。
何一つやりたい事が見つからない。
小説で食えない今、働くのは必須である。
金だって無い。
SFCGの給料のほとんどは、百合子に渡している。
金が入ってこなくなるから、別れるって言ったのか?
いや、やめろ。
俺はあいつに子供をおろさせ、酷い傷つけ方をしているのだ。
家の騒動、そして役員会議。
そこから得たものなど何も無い。
親父からは罵られ、おばさんからは加藤が家に入ってきた原因を俺が作ったと言う。
いっその事、狂いたい。
でも変に頑丈だから今もこう自問自答している。
岩上って書いて、頑丈とも読むからか?
馬鹿か、俺は……。
歌舞伎町の奴らに以前、言われた台詞。
『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』を読んだ上で、俺はこう言われた。
「岩上さん、何で小説の内容を出し惜しみしてるんですか?」
「出し惜しみ?」
「すごいワザと静かに書いてるじゃないですか?」
確かに何も言い返せなかった。
歌舞伎町の連中には、少し物足りないと思われても仕方がない。
意識して、抑えて書いていた部分はある。
でも、エグいものを書くのが、いい事だとは思わない。
その作品のリズムってものがあるし、あまり人にショックを与えてもという気持ちもあった。
だから、賞をとってからでいい。
そう思っていた。
そういう訳で新宿を舞台とした話は、自然と書かなくなっていた。
いずれ、新宿をテーマに書かなきゃいけない事が山ほどある。
でも、自分の中のモラルの問題だ。
すべてをありのまま書けばいいというものではない。
いたずらに悪影響を与えたくはなかった。
どの辺のラインに立って、俺は小説を書けばいいのだろうか……。
いつも読む読者層を考えながら書いているつもりである。
やっぱり自分が可愛いから、出来る限り多くの人に褒められたい。
じゃあ、どうしないといけないのか……。
多分、俺の一生のテーマなんじゃないかなと感じる。
人の評価は十人十色。
そのすべてを同じ意見にさせる事は難しい。
でも、いい意味で影響を与えたいなと思うし、何かしらを考えてもらいたい。
とにかく書き続けよう。
確かに中傷してくる人間の言葉で、傷つく事もある。
でも、応援してくれる人の為に頑張ろう。
今後、そうシンプルに考えたい。
まだまだ発展途上で未熟なのだ。
とにかく色々なジャンルの作品を書こう。
それしかないな……。
少し、楽になってきた。
変に悩まず、ずっと書き続けよう。
それが肘を壊し、リングに上がれなくなった俺を支えるアイデンティディーなのだから……。
とりあえずこれまで書いた小説は、すべてセーブして書いてきた。
セーブといって手抜きではない。
自分の中である程度のリミッターを掛けながら書いているのだ。
これまでの良識など考えず、リミッターを外した作品を……。
背中がゾクッとした。
タイトルが自然と頭に浮かぶ。
『忌み嫌われし子』。
駄目だ…、これを書きたいという気持ちが抑えられない。
二千六年十月十日。
俺はワードを起動し『忌み嫌われし子』の執筆を開始した。
生まれる前から家の目の前は、映画館のホームランがあった。
松本清張原作の「鬼畜」という映画の撮影をすぐ目の前でやっていたのを未だ覚えている。
時期は確か自分が小学一年生の頃。
緒形拳主役で、意地悪な妻が岩下志麻で…、自分の境遇に重なった部分があったから幼心にショックを受けた映画だった。
大竹しのぶが友情出演で、最後のほう婦警さん役で出ていたよな。
自分の遊び場だったところが色々映っているので、たまに今でも見る。
目の前の映画館で、いつも従業員のおじさんたちに可愛がられた。
だから映画を観るのに、一度もお金を払った事が無い。
大きなスクリーンをジッと眺め、番頭の酒井くれたアンパンとコーラを飲み食いしながら、内容も分からず観て育つ。
印象に残っているのが、角川映画全般。
里見八犬伝や幻魔大戦、少年ケニヤなど無我夢中でのめり込んだ。
だけど今年の二月一九日で、ホームランは閉場してしまった……。
この間外を歩いていると、小さい頃可愛がってくれた映画館の酒井さんとバッタリ会う。
もう今じゃすっかりおじいさんになっていた。
俺は笑顔で挨拶をする。
「こんにちわ、ホームラン無くなって寂しいですよ。今、酒井さん、何をされてますか?」
「もう隠居したから、毎日、暇な人生を歩んでいるよ」
そう言って、酒井さんは寂しそうに笑う。
酒井さんの娘さんは昔歌手で、だんご三兄弟の速水けんたろうと結婚している。
「俺、今、小説を書いているんですよ。小さい頃から、目の前の映画館で角川映画を見て育ちました。その俺の小説がもしですよ? もし角川文庫で賞を取り、それが映画館で映画化したら、嬉しいですか?」
酒井さんは目を細めて口を開く。
「何だよ、それじゃ、まだまだ死ねねぇなぁ~」
俺は色々な人の想いを背負っていこう。
それを情熱に変えて、小説に魂を入れながら書く。
また一つ、勝手に背負いました。
百合子が言い過ぎたと謝ってきた。
余裕が無かったのは俺だけでない。
彼女も子育てに追われ、先々不安に駆られていたのだ。
俺からの提案でまた群馬の先生のところへ行く。
群馬の先生は俺に雷神がついていると言う。
自分じゃ、そんなものは分からない。
去年の五月始めに、初めて群馬の家に行き、不思議な体験をした。
実際、その頃までは裏稼業の世界にどっぷりと浸かっていたような気がする。
初めての群馬は因縁のあった當間の生霊が憑いていると指摘し、俺の前世が雷伝為衛門だと言う。
俺の処女作『新宿クレッシェンド』は数年後面白いとも言ってくれた。
但し『ブランコで首を吊った男』については俺があえて書かされた本物のホラーだと指摘。
先生が言うには守護神が雷神。
守護霊として雷電がついていると言う。
もちろんデュークも……。
このデュークとは結核を患った凄腕のピアニストで、若くして命を失う。
俺が二千三年に行ったピアノ発表会。
奇跡的に、今までで一番上手く演奏できた。
先生が言うにはデュークが力を貸してくれたと説明する。
「ほら、ごらんなさい。あなたの発表会の写真の頭のところ。分かりますか、この光。デュークはちゃんとあなたを見守っていますよ」
そんな感じで鋭く、また行く度新しい何かを気付かせてもらっていた。
その先生が俺には雷神がいると?
雷神を調べてみた。
雷を神格化したもの。
小太鼓を輪にめぐらせ両手にばちを持つ。
足の指は二本ずつだが、手の指は三本ずつの赤鬼。
肩布を首に巻き上半身は裸、下半身に裳(も)を着る。
雲を配した岩座に乗る。
ちなみに風を神格化したのは風神。
どこかで、風神と出逢う。
群馬の先生は「あなたが本当の意味で自立した時、初めて出逢うでしょう」と言ってくれた。
マネージャー的な…、または経理担当で、俺とは正反対の性格。
その人が風神の守護がついている人だと言う。
自然に…、あくまでも自然に現れると……。
本当の意味での自立。
俺が川越から出たらという事なのだろうか?
群馬の先生の言う事だ。
少なからずとも期待してしまう自分がいる。
それと百合子の住む家がいまいち良くないようだ。
ただ群馬の先生はこの場所から離れるわけにはいかない。
そこで群馬の先生の紹介で、他の先生とも会う事になった。
名を斎藤龍顕先生。
川越駅まで迎えに行き、龍顕先生を見た瞬間すぐにこの人だと感じた。
見掛けは普通の疲れたその辺にいるおじさん。
それなのに普通じゃないなっていうオーラを感じる。
俺と会った瞬間、その先生はジッと見ながら「へえ、あなた…、凄いパワー持った人ですね~」と大きな声で言った。
ジッと俺を見て、静かに話し出しました。
「あなた、本当に色々とやってきたんですね~…。色々やり過ぎですよ。ほんと、よくご無事でと。今までよく生きていられたなってぐらいですって…。う~ん、裏社会っていうのかな…、随分と染まっていたようですね。それ以外にも、たくさん色々な事をしてきましたね。もちろん悪い事も、あと非常に乱れていた時期もありますね。でも、今はいいじゃないですか。過去の経験をすべて跳ね返そうとしている。ただあなたには、光が足りません。もっと力があるのに、それがかなり燻っています。文章をもっともっと書いて下さい。書いて自分自身を浄化して下さい。非常に優しい人だ。そしてユーモアもある。背後に大きな存在もありますね。ああ、なるほど…。とにかく日本を変えるなんて、デカい事を言わないでいいです。今、自分が出来る事を今までのようにやって下さい。それでいいです。どんどん書いて、自分をそれで浄化して下さい」
龍顕先生は百合子の家を隅から隅まで見て回り、普段入らない一階居間の奥にある親の寝室まで行く。
さすがに俺は入るのを遠慮したが、「いや、岩上さんはそこにそう普通にリラックスして立っていて下さい」と中へ通される。
その時一枚の大きな写真が目に付く。
百合子と別れた旦那、そしてまだ幼い幼少期の里穂と早紀。
貼ってあるのは百合子の親の寝室だ。
それでも何とも言えない複雑なものを感じた。
俺は自分でも馬鹿だと自覚していた。
だからよく騙されるし、利用だってされる。
それでも俺はそう変わらないのだろう。
根底に流れる芯を何より大切にしたいからだ。
小説ではないが、ふと様々な言葉が浮かんでくる。
詩なのか?
そんな柄じゃないけどな……。
俺は『新宿の部屋』に浮かんだものを書いてみた。
強者
我、未熟なり。
我を産みし、憎き親……。
いくらその血が流れていても、我、我なり。
自己を惑わす者、四苦八苦に追い込まれようと、我、生きるべき。
喜怒哀楽、哀、強くなりいても、我に与えられた試練なり。
憎しみは、憎しみしか生まない。
報復は己に返ってくる。
ならば、自分を磨こう。
試練与えた者へ、我、感謝の心持つ。
苦しければ泣き、泣きはらそう。
試練と思って、すべて受け入れよう、己の運命として。
苦しければ、休もう。
また、立ち上がればいい。
人との約束、口に出すは絶対に果たせねばならぬ。
頑張り、疲れたら、休もう。
傷が癒えたら、また、前に進もう。
我、まだ未熟ゆえ、試練の時。
日々、修行と思い、明日も頑張ろう。
限界なら、まわりを見よう。
たくさんの仲間がいる。
暖かい心に囲まれている。
ほら、傷が癒えた。
疲れもとれた。
また、これで頑張れる。
未熟な我、進歩したら背中で伝えよう。
いつでも感謝の心を持とう。
我、惑わす者も、また未熟なり。
心、分からずして当然なり。
我、受けて背中で見せよう。
憎き親ありて、今の我あり。
我、感謝する。
成功すべき者、多数の試練、挫折あり。
家族養いつつ、大成すべし。
幾多の試練よ、望むとこだ。
世の中、公平な事ばかりではない。
しかし、家族の為。
小説の為。
みんなの為に、甘んじて受けよう。
我、未熟なれど、明日見て、強者となろう。
敵は我自身にあり。
我こそは、岩上智一郎なり。
新宿トモ
この強者という詩とも呼べないものに、多くの人が色々なコメントをくれた。
俺は一人ひとり全員へお礼のコメントを返す。
横でその作業を見ていた百合子は、俺が話し掛けてもいまいち淡々とした対応を見せる。
最近感じたのが俺がブログ上で他の人…、特に女性陣と言葉のやり取りをして関わるのが嫌そうだった。
風俗のガールズコレクションの時も、百合子は強烈なヤキモチ焼きを出したのだ。
あの時はまだ理解できた。
ただ、ブログ上の事に関していえば、ほとんどの人が俺の小説が早く世に出て欲しいと応援してくれるのだ。
年齢男女問わず俺はみんなに感謝をし、その気持ちを素直にコメントで表しているだけ。
百合子の実家の親の寝室に今でも貼ってある前の旦那との家族写真。
それがどうも俺の中で、ずっと手の届かない場所に刺さる棘のように歯痒い。
一度夜中の四時に百合子が電話を掛けてきて、起こされた事がある。
「智ちん…、あなたのあの記事の四番目にコメントをくれた子」
「ああ、海さんって子ね。それがどうかした?」
そのコメントをくれた子は「トモさん、頑張って早く世に出てー!」というものだけ。
それに対し俺は「ありがとうございます。力になります」とだけ返信したのだ。
「あの子のブログのリンクが貼ってあったから最初から読んでいたら、こんな時間になっちゃったんだけどね…。私が思うにああいう人って、私が一番嫌いなタイプで、何故あんな人に智ちんがわざわざ相手をするのかなって……」
「あんな人って別に単純に俺を応援してくれているだけじゃん。だからありがとうって返しただけでしょ?」
「だから、何であの人にわざわざそういう事するかなと思ってね」
「じゃあ、あの子だけ俺はコメントしなきゃいいの? おかしいでしょ、そんなの。ちょっと百合子の言いたい意味が俺には分からない」
「そう…、じゃあいいよ」
電話を切る百合子。
ブログの事になると百合子のヤキモチは、異常なほど酷くなっている。
こんな朝の四時まで嫌いだという相手のブログを見ていて、俺に文句の電話をしてくる神経。
俺はフォローする気にもならなかった。
二千六年十一月六日。
初めてリミットを外して書いた『忌み嫌われし子』が完成。
百合子は俺がこの作品の扉絵をデザインしているのを見て、いきなり吐き気を催す。
「何だよ、どうした? 大丈夫なの?」
「よく分からないんだけど、この絵を見たら急に吐き気がして……」
それでも百合子はこの作品をいの一番に読みたがる。
自分でプリントして一冊の本を作るとなると、どうしても五、六時間は掛かる。
そのほとんどが印刷の時間と、糊が乾くまでの時間だ。
「百合子、明日も仕事だろ? 作っておくから明日渡すよ」
「ううん、智ちんの作ったできたての本をすぐ読みたいの」
印刷した紙を奇麗に並べ、光沢紙で表紙の扉絵をプリントする。
本の形に整え、糊付けをした。
大型クリップを三つ挟み、動かぬよう固定する。
まだ糊は乾いていないが、本としての形にはできあがった。
本の長さに大学のーろテープを切り、百合子へ渡す。
「糊が完全に乾いてから、これを貼れば本になるよ」
「ありがとう、智ちん」
「いいか? おまえは明日も仕事があるんだし、そんな無理して一気に読んだりするなよな」
手渡せたのは、二千六年十一月六日の夜十一時過ぎ。
この作品が完成した日だった。
日にちが変わって明け方の四時頃になった頃、俺の携帯電話が何度も鳴り、それで目を覚ました。
着信音は彼女から。
こんな朝方に電話なんかしやがって……。
そう思いつつも、嫌な予感はしていた。
作中の木島とみゆきのやり取りは、そのままリアルな俺たちの会話でもあったのだから。
「私はこの作品を読んで、あなたの人間性が本当に嫌になりました。あなたが世に出るまで逢うのはやめましょう……」
電話に出た途端、俺そう彼女に言われた。
一つの作品を完成させるのには、とてつもない労力が掛かる。
いくら好きでやっているという事でも、自身の魂を削りながら一語一句を書いているのだ。
必死になって書いた作品。
読みたいというから、俺は面倒なのを承知で本にして渡した。
それがこの言われよう。
さすがに感情的になっていた。
電話口で怒鳴りつけると、「何であなたは私の言い分をすべて聞いてくれないの?」と言われる。
産み出したばかりの作品を読んだ上で、いきなりこんな朝っぱらから起こされ貶されたのだ。
感情的にはどうしたってなってしまう。
そんな読んで嫌な気持ちになるぐらいなら、作品など読まなければいいだけなのだから。
まだ彼女は何かを言っていたが、その場は感情的になるので俺は強引に電話を切った。
翌日、地元川越の雀會の栗原名誉会長の家で、俺が全日本プロレス時代のちゃんこ鍋を作る約束をしていた。
その為多くの人たちが集まり、二十名分のちゃんこ鍋を作るようだ。
隣で和菓子屋を営む先輩の始さんも、色々手伝ってくれる。
川越にある大きな楽器店の名誉会長宅の中、集まった面子は大物が多い。
中には全日空の中川機長までいた。
みな、俺の作ったちゃんこをおいしそうに食べ、楽しい宴は続く。
しかしそんな中、百合子から電話が掛かってきた。
予想通り、電話を強引に切った俺に対する罵倒を散々言ってきた。
「悪いけどさ、今栗原会長の家にいるんだよ。周りに人がたくさんいる。この事は前から伝えてあったろ? 場の空気ぐらい読んでくれよ」
それでも感情的になった百合子には通じない。
こちらが聞いているだけで、げんなりするような台詞を何度も連発してくる始末である。
せっかく多くの人間が楽しい酒とちゃんこを食べながらいるのだ。
俺が怒鳴ってその空間を壊す訳にはいかない。
なので電話を切り、電源を落とした。
あとでまたひと悶着なるのを承知でも、そうするしか方法は考えられなかった。
何故作品を読んだだけで、彼女はああまで怒り、酷い罵倒をしてくるのだろう……。
この頃から、俺は激しい嫉妬をぶつけてくる百合子に対し、少し疎ましさを覚えるようになったと思う……。
朝まで掛かって嫌な人間の書いた文章を読み続けるなんて神経が、俺には到底理解できない。
そして数時間掛けて作った『忌み嫌われし子』の本。
あれだって付き合っている百合子が俺の作品をすぐに読みたいと希望するからこそ、その作業に取り掛かったのだ。
自身の作品を読んで、あのような言われよう……。
さすがにそれを笑顔で対応できるほど、俺は人間ができていない。
この作品を読んだネット上の人たちからは、暖かい感想をたくさんもらえた。
それで自身が作家として、今後もやっていけるのか、その大きな自信と原動力にもなっていたのだ。
またこの頃、家ではうんざりするような家族間のトラブルの連続もあり、本当に苛立っていた時期でもあった。
家でもうまくいかず百合子からは罵倒されるなんて、現状に対し生きる希望をまるで見出せない状況だった。
夕方になり、再び彼女から電話が掛かってくる。
少しは時間を置いたから、向こうも冷静さを取り戻しただろう。
そう思った俺は、電話に出た。
しかし考えが甘かった。
百合子は前と変わらぬテンションで『忌み嫌われし子』を罵倒しだす。
「あんな三流お笑い芸人がパクったような小説…、よくもあんなものを私に読ませてくれたわね」
パクる?
何を?
自身の経験を作品に活かす事は、パクりとは全然違う。
よくも読ませたなんて、完成した当日無理を言って本を作れと言ったのはそっちだろう?
「みんなが丁重にトモさんトモさんってくれたコメントとかまで、パクっちゃってさ」
だからこそ、登場させる人物全員に俺は許可を取ってあるのだ。
何がいけない?
聞いているのが辛くなり、俺は静かに言った。
「俺さ…、家でもああで、おまえからもそんな風に言われたら、生きていくの、本当に嫌になってきちゃうよ……」
同情を買わせるつもりで言ったのではない。
作品に対する罵倒をやめてもらいたかったのだ。
俺の分身でもあるのだ、これまで執筆してきた作品たちは……。
それでも彼女は酷い言葉を容赦なく浴びせてきた。
目の前が暗くなり、心にグサグサと突き刺さる。
力なく呟くように「もう…、いいよ…。もう、やめてくれ」と何度も懇願するように伝えた。
しかし百合子はあんな作品を読ませたわねと、何度も罵倒を続けた。
聞いている内に、根底に幼い頃から眠っている激しい憎悪が出てくる。
「分かった…、よく分かったよ……。結局、俺の人生…、こうまで滅茶苦茶にしてくれた本当の元凶は親父だ……。好き勝手に生き、みんなに迷惑を掛けてまで、あんな女を家に入れ、のさばらせやがって……。毎日が本当に嫌だった。おまえにそう言われ、生きていくのも嫌になったけど…、自殺する前に、あの元凶の命を摘んでやる」
「どうせ、口先だけでしょ? お父さんを殺せる訳ないじゃない」
「おい…、こっちはプロのリングにも上がり、死ぬほど体を鍛え抜いてきたんだ。人間を素手で壊すなんて容易い事だ。俺が口先だけ? できる訳ない? 三十になってから始めたピアノ…。発表会まで出場できる腕前になった。プロのリングの上にだって、上がり戦ってきた。すべて、俺の信念だけで貫き通してきた……」
「ふん、だから何よ? 今は何なの? しょせん昔の事でしょ」
目の前が段々暗くなっていく。
一度は根底に封じた静かな青い炎が、再びメラメラと大きくなっていった。
隣の親父の部屋から、加藤の甲高い笑い声が聞こえる。
「分かった…、電話を切るなよ…。今…、隣に親父がいるはずだ。目の前で殺すところを…、人間の断末魔を聞かせてやる。分かったな……」
過去のトラウマでもある部分に触れられ、それを簡単に言われ、俺は完全に自分を見失っていた。
その時あったのは激しい憎悪による怒りの感情だけであった。
小学二年生で母親は家を出て行った。
親父は遊び呆け、子供の学費すら出してくれなかった。
そして浮気を繰り返し、遊ばれた女共が、何度だってこの家に文句を言いにやってきた。
二十九歳の総合格闘技復帰戦の前日……。
ほとんどの時間をひたすらトレーニングのみに没頭し、最高のコンディションを作って臨もうとしたあの日。
親父にしつこくつきまとっていた加藤が、夜中に俺の部屋まで勝手に上がり込み、大きな騒動を巻き起こされた。
俺は寝ずに、試合へ臨まなきゃいけなかった……。
鶴田師匠が亡くなり、リングの上で恩返しする機会を失った。
でも、少しでも俺はその意思を受け継いで、戦って、あの人の偉大さを多くの人間に伝えたいと、ずっとそれだけを思いながら、日々の鍛錬に堪えてきたのに……。
親父とその加藤のせいで、すべてぶち壊しにされてしまった……。
時が経った今、その忌々しい女は図々しくも、戸籍上俺の母親になっている。
おじいちゃんだって、私ら三兄弟を育ててくれたおばさんだって…、親戚だって、近所のみんなだって、すべてが反対し、嫌ったあの加藤が家に入り込んできた。
巻き起こった家のトラブル……。
すべてあいつらのせいじゃないか……。
何度も殺意を覚えた。
でも、おじいちゃんがそんな事を望んでいない。
だから、いつだって感情を押し殺し、ずっと我慢してきたんだ……。
彼女は俺と籍を入れたがっていた。
もちろん俺だって、まだ先の話だけどそれに応えるつもりだった。
でも、いつだって親父はそんな想いを平気でぶち壊してきた。
玄関で挨拶する百合子を睨みつけ、無視して行ってしまう親父。
そんな事を何度も繰り返しされたら、彼女だって俺に言いたくなるだろう。
一度じゃ伝えきれない数々の怨念。
それが百合子からの罵倒により、一気に爆発した瞬間だった。
「ちゃんと聞いておけよ、人が死ぬ断末魔ってやつを聞かせてやるから」
そこまで腹を括ると彼女は焦ったのか、急に俺を止め出した。
「今さら遅いんだよ…。おまえの言葉が、俺をこうさせた。あとで死ぬほど後悔しろ」
今振り返れば、完全に自棄になっていたのだろう。
もう、俺は自分を止める事ができなかった。
親父の部屋のドアノブに手を掛けた時、持っていた携帯電話が鳴る。
キャッチホンにしていたので、別の誰かから電話が掛かってきたのだ。
電話になど出るつもりなど毛頭もない。
これから俺は親父をこの手で殺そうとしているのだから……。
電話口の向こうで泣き叫びながら私を止める彼女。
何も気にならなかった。
ここまでそう追い詰めたのは、コイツなのだから。
こんなタイミングで掛けたきた着信主を確認する。
「……」
画面を見て、俺は動きを止めた。
以前彼女と何度か行った群馬に住む不思議な先生だったからだ。
まさか…、この展開があの人には見えて、連絡をしてきたというのだろうか……。
先生からの電話なんて、これまでにない。
初めてだった。
不思議な先生で、俺の過去をズバリ何度も言い当てた事がある。
気が付けば俺は部屋に戻り、電話に出ていた。
「一体何があったのですか?」
開口一番先生はそう聞いてきた。
やはり何かを感じて電話をしてきたのだろう……。
先生には一体何が見えているのだ?
俺はこれまでの展開を詳しく伝えた。
「怒る気持ちは分かります。でも、それをしてあなたは何になりますか」
そう…、何もならない。
残った人間がいい迷惑をこうむるだけに過ぎない。
先生は俺に話し掛け怒りを吐き出させた時点で、冷静になるよう誘導していたのだろう。
膝を抱えたまま、嗚咽を漏らしながら俺はしばらく泣いた。
あとになって百合子が部屋までやってきた。
俺の顔を見るなり抱きついてきて「良かった…、生きていて本当に良かった」と泣いていた。
では、何故あんな風に俺の作品をけなしたのだ……。
俺はとても冷めた感情で、百合子の行為を眺める。
もう争うのは嫌だったから、普通に話をするように努めた。
しかし、彼女に対する見方がこれで変わってしまったのは事実である。
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