杏と和子に挟まれ、楽しい時間を過ごしながら、いつの間にか深沢の事などすっかり忘れていた。たまにゴッホのほうを盗み見ると、宗岡さくらと仲良く酒を飲んでいる。宮路と文江さんのカップルは真剣に何か話し合っていた。
数杯酒を飲み、いい感じで酔いが回ってきた頃だった。私たちの目の前に、ヤンキーちっくなパンチパーマの男が向かってくるのが見える。どう見てもこちらを睨んでいるようだ。
「おい、おまえらよ~」
パンチ男が、いきなり怒鳴りつけてきた。何をトチ狂っているのだろうか? すると、あとから深沢が、パンチ男の仲間らしき人間に腕を掴まれた状態でこちらに歩いてくる。
「こいつの連れかよ、おい?」
アゴをしゃくりながら偉そうな態度のパンチ男。深沢がまた何かやらかしたのか……。
「何だよ、一体?」
仕方なく私は立ち上がり、パンチ男に近づく。
「この野郎がよ、俺たちの連れの女の乳首を『ワンプッシュ』とか抜かしながら、いきなり触りやがったんだよ。どう落とし前つけんだよ、あっ?」
「……」
確かに言い返す言葉がなかった。深沢の馬鹿め…。とりあえず女の子だけは逃がさないとまずい。私は、文江さんに小声で「女の子、連れて逃げてくれ」と囁く。奥からパンチ男の連れがゾロゾロとこちらに向かってきた。こんな事態を巻き起こした深沢本人は、酔っているので涼しい顔をしている。文江さんが杏たちと一緒に逃げるのを確認してから、私はパンチ男に話し掛けた。
「すまない。こいつ、ベロベロに酔っていて迷惑を掛けたみたいで……」
「おいおい、何だその謝り方はよ?」
気付けば、私たちは二十名以上の集団に囲まれていた。どう見ても暴走族の集まりのようだ。こちらの面子はゴッホと宮路、それに酔っ払った深沢。かなりまずい状況である。
「ゴッホ…、俺が連中をどかすから、一気に走って逃げろ。いいな?」
すぐ後ろにいたゴッホにしか聞こえない声で言う。
「ん…、ああ……」
チャンスは一度しかない。
「おら、何をゴチャゴチャ抜かしてんだ、おい」
パンチ男が、私の胸倉を掴んだ瞬間だった。左腕でパンチの頭を押さえ下に押し、右腕で思い切り背中をぶっ叩く。相手の胴体に両腕を回し、両手でガッチリとクラッチを組むと、一気に持ち上げた。プロレス技でいうパワーボムの体勢である。遠慮せず、畳の上目掛けて叩きつけた。もちろん背中からちゃんと受身が取れるようにであるが……。
自分のした行為がどれだけ理不尽か理解している。自分たちが連れている女の乳首をいきなり触られたのだ。怒りは相当なものである。逆の立場でも同様に怒るだろう。深沢のした行為はそれほど洒落にならないものなのだ。しかしまずはこの窮地を脱しなければいけない。
周りの人間が怯んだのを確認すると、私は一歩前に出てでかい声で言った。
「次にやられてえ奴はどいつだ」
普通じゃあんな事をやらないというような大技をワザと目の前で見せたのだ。当然、相手は後ずさりする。その隙にゴッホと宮路、深沢を外へ逃がした。
あとは私がいつ逃げるタイミングを掴むかである。目を剥き出しながら、相手を威嚇した。あとちょっとで階段だ。私は方向転換し、一気に階段を駆け下りた。
「コラッ! ちょっと待てや、おいっ!」
「ふざけやがって!」
「殺してやるよ。おらっ!」
様々な罵声が背後から聞こえるが、一目散に階段を駆け下りる。向こうも何をされるか分からないから、すぐに飛び掛っては来られないのだろう。
外へ出ると、先ほど逃がした杏たちがいて、「タクシー捕まえといたから早く乗って!」と大声で近づいてきた。
すぐそばでタクシーが停まっていて、後部座席にゴッホと宮路の姿が見える。深沢は?慌てて窓から中を覗き込むと、二人の膝枕の上で横になって寝ていた。あれだけの騒ぎを起こしておいて、呑気なものだ。
「君たちは……?」
「私たちは大丈夫。早く乗って! みんな、先に乗ってるから」
私は手帳を破り、乱暴に電話番号を書くと、「ありがとう。あとで連絡する」と言い残してタクシーの助手席へ乗り込んだ。
徹夜しながら酒を飲み、馬鹿な女連中に怒ってテーブルのちゃぶ台返しをして、店を出入禁止。また飲み直して今度は乱闘騒ぎ。さすがに体力も限界に来ていた。そこへタクシーの揺れが加わる。
私は一気に吐き気を覚えた。
「あ、あの~……」
一旦車を停めてもらおうと声を掛けたが、運転手は不機嫌そうな表情で黙ったまま、運転をしている。
「す、すみません……」
もう一度声を掛けても、運転手は返事をしない。嫌な客を乗せてしまったものだと思っているのだろう。それにしても態度のなっていない運転手である。そんなに嫌なら客として乗せなければいいのに……。
つまらない事を考えている内に、そろそろ限界がきた。私は咄嗟に窓を開け、外に向かって静かにゲロを吐く。
吐きながら、すごく楽に感じる自分がいた。あの子たちはうまく逃げられただろうか?宮路の彼女である文江さんも。その辺が気掛かりである。非常に気の利く子たちだ。あんな乱闘騒ぎの中、外でタクシーを捕まえて待っていてくれたのだから。
今度、キチンとお礼をしなきゃいけないな……。
私はゲロを吐きながらそんな事を考えていた。
ちょっとして後ろから、「うわっ!」というゴッホの声が聞こえてきた。私は極度の眠気から目を閉じると、深い眠りへ一気に引きずり込まれた。
目を覚ますと昼近くになっていた。頭がガンガンする。そういえばタクシーの助手席からゲロを吐いてからの記憶がまったくない。みんなはどうしたのだろう……。
女性陣の事が気に掛かっていたので、宮路に電話をしてみた。
「おはよう。昨日は大変だったね~」
思ったより宮路は元気である。自分とその彼女が組んだ飲み会が、あんなハメになったというのに、ひと言も私を責めようとしない。
「宮路の彼女の文江さんとか、大丈夫だった?」
「ああ、文江はあの三人の子たちと、あれから別のタクシーを捕まえて逃げたから問題ないよ」
「それは良かった……」
「あ、そうそう。あの三人組がまた僕たちと逢いたいって、文江に言ってたみたい。電話番号教えてもらったみたいだから、今度聞いて、神威に教えるね」
「何だかホッとしたよ。あのまま何のお礼もできないっていうのが一番嫌だからね」
「今日、文江は仕事だから、夜か明日ぐらいにまた聞いとくよ」
「悪いけど頼む。それと本当にすみませんでしたって伝えておいて」
「そんな気にしないで」
宮路は笑いながら言う。
「そういえば、昨日タクシーに乗っている途中で寝ちゃったから、記憶がないんだけどさ。宮路、状況覚えてる?」
「う~ん、僕も家に着く間に寝ちゃったからなぁ。よく覚えていないんだよね」
「そっか…。じゃあ、ゴッホにでも聞いてみるよ。文江さんに本当ごめんなさいって言っといてね」
宮路との電話を切り、次はゴッホに掛けてみた。
「おう神威か。昨日は参ったよ」
電話に出るなりゴッホは、いきなりマシンガンのように喋りだした。
「俺と宮路が後ろで深沢を乗せていて、暑かったから窓を開けたんだ。夜風が頬に当たって気持ち良くてさ。つい、俺も寝ちゃったんだよ。そしたら頬に水滴がついたから、『ん、雨か……』って目を開けたら、おまえが窓からゲロを吐いているじゃねえかよ。俺、慌てて『うわっ!』って窓閉めたけどさ」
「ははは、悪い悪い」
私のやった行為はとても酷いものだ。しかし、ゲロを掛けた相手がゴッホというのもあって、あまり罪の意識を感じなかった。前回、私がゴッホのを掛けられているし……。
「悪いじゃねえよ、まったく」
「いいじゃねえかよ。前におまえだって俺にゲロ掛けたんだし」
「そういえば昨日、俺が話していた宗岡さくらって子いたじゃん」
「ああ、彼女がどうした?」
「いや、ああいう子いいなあと思ってさ」
ゴッホと宗岡さくら……。
ハッキリ言ってつり合わない気がしたが、好きだという気持ちが芽生えるのは悪い事じゃない。それに『CPL』当初の目的であるゴッホに彼女を作ろうという目的意識にも繋がる。
あの三人組の中で、私自身も宗岡さくらを気に入っていた。ゴッホと話をしていなければ、私が口説きたかったぐらいである。しかし、ゴッホが気に入っているのだ。ここは潔く身を引こうじゃないか。それが『CPL』会長としての役目でもある。
「うん、あの子、気遣いもできて本当にいい子だよな。ああいう子、彼女にできたらすげー幸せだぜ」
ゴッホのテンションを上げようと、私も必死に自分の気持ちを隠しながらフォローした。
「そうだよなあ」
「あ、そういえばさっき宮路に電話したらさ。彼女の文江さんに、俺らとあの三人組がまた一緒に飲みたいって言ってたらしいよ?」
「え、ほんと?」
「連絡先は文江さんが知っているから、宮路があとで聞いとくって」
「またあの子と逢えるのか~」
「いいチャンスじゃないか。ゴッホ、気合い入れろよ!」
「いくつくらいなんだろ」
「俺らの三つ上って言ってたから、二十三歳でしょ」
「えっ?」
驚いた声を上げるゴッホ。
「どうした?」
「三つ上? じゃあ、いいや……」
「おまえさ……」
「だって俺、年上好きじゃねえもん」
「……」
さっきまでいいって絶賛していたのは誰だ。この男の理不尽ぶりには、ほとほと愛想が尽きる。
「おまえさ~……」
「しょうがねえじゃん。俺、年上好きじゃねえもん」
一度も彼女ができた事がないくせに、何をこの男は自惚れているのだろうか? 頭の構造がまったく理解できない。出されたおかずを素直に食ってろと言いたい。
「三つしか変わらないだろうが! それにまだ付き合うとかそんな段階でもないのに……」
「俺はあの三人組との飲み会はいいや。年下のほうが好きだから」
「勝手にしろ、馬鹿!」
こうして『CPL』は私の独断により、潰す事が決定した。
先日の電話での口論により、ゴッホとしばらく会う機会はなかった。
私は私の道を行けばいい。
プロテストに受かった私に、合宿の日が近づきつつあった。あんな奴の彼女を作る為に時間を割くぐらいなら、トレーニングに没頭しないと……。
それからの私は、コンディション作りに励み、日々ストイックな生活を送っていた。
所沢乱闘事件の張本人である深沢から、何度も謝りの電話があり、最初は怒っていたが仕方なく許してあげる事にした。
合宿前日に、深沢から電話があり、「この間のお詫びも込めて、明日から合宿に行く神威の祝賀会をしたい」と申し出があった。気持ちは嬉しいが、明日からプロの合宿である。そんな甘い世界ではない。日々鍛錬しているトレーニングが、まるで通用しないかもしれないのだ。
「悪いけど、さすがに時期が悪いよ」と断ると、深沢は「ちょっとの時間でいい。そうじゃないと俺の気持ちが済まないよ」と懇願してくる。「明日から大変な世界に行くんだし、地元の人間で華やかに送り出したいじゃん」とも言ってきた。
ここ最近ストイックな生活をしているせいで、酒など飲んでいない。それで深沢の気持ちが納まるのならちょっとぐらいいいかと感じた。
「じゃあ、ちょっとの時間ならいいよ。面子は誰が来るの?」
「まだ宮路ぐらいにしか声を掛けてないけど…。あ、ゴッホにも声掛けとくよ。とりあえず駅前のいつもの居酒屋に七時集合でいいでしょ?」
「まったく…。明日があるから俺はすぐに帰るからね」
「分かってるって。形だけお祝いしたいだけなんだから」
中学時代から一緒につるんできた仲間である。内心、深沢の心遣いが嬉しかった。明日に響くといけないから、酒の量は考えないとな……。
時間が来て、私は駅前の居酒屋へ向かう。深沢と宮路は先に到着して中で待っていた。
「あれ、ゴッホは?」
「あいつ、冷たいんだよ」
「何で?」
「神威の祝賀会だからって言っているのに、『俺は眠いからいいよ』って電話切りやがった」
あの野郎…。イライラしたが、明日から地獄のような場所へ行くのである。今は出来る限りニコニコしていたい。
「神威からゴッホに電話してみれば違うんじゃない?」
「えー、いいよ。来たくないんなら、来なきゃいいよ」
「まあまあ、そんな事言わないでさ。僕も一緒に誘ってみるから」
宮路と二人で電話ボックスへ行き、ゴッホの家に電話を掛けてみた。
「あーもしもし」
ゴッホ独特のダミ声が聞こえる。本人が出たようだ。
「おまえさ、今日は俺の祝賀会なんだよ。ちょっとぐらい顔出せよ」
「仕事終わって眠いんだよ」
「それは分かるけど、俺、明日から地元をしばらく離れるんだぞ?」
「そうかもしれないけど、眠いんだよ」
「眠いってまだ七時じゃねえかよ」
「今日は疲れているんだよ」
この男に友情などひと欠片もないのだろうか?
「おまえさー……」
「眠いもんは眠いんだよ。じゃあな」
ガチャン……。
ゴッホの電話を切る音が無情に鳴り響く。あのクソ野郎が……。
イライラしながら席へ戻り、仕方なく野郎三人で寂しく乾杯をした。
しばらくみんな、ゴッホの愚痴ばかり言っていた。
「だいたいあいつはさ、感謝ってもんが足りないんだよ」
「いや、感謝というよりも、誠意ってもんがない」
「う~ん、誠意というより、頭が悪いだけなんだよ」
「でもさ、俺にひと言、『明日頑張れよ』ぐらい言っても罰当たらねえぞ」
「そりゃそうだ」
「ゴッホのあの妙な自信は、一体どこから来るのかね?」
「あいつ、今までに何人の女にふられてきた?」
「う~ん、何人ぐらいだろ」
「ちょっと整理してみるか」
私たちはゴッホのふられた歴史を振り返ってみた。
まず、彼の伝説が始まったのが、社会人になった十八歳の寒い冬の日だった。
私とゴッホが、近くのファミリーレストランで食事をしていた時の話である。
「なあ、か、神威……」
私が大好物のハンバーグを口一杯に頬張っている時に、タイミングも見計らず自分勝手にゴッホは声を掛けてくる。知らない人が聞いたら、すごいダミ声に聞こえるだろう。
「何だよ、ゴッホ。いつもいつも間の悪い時にばっかり、話し掛けてきやがんなあ」
「ああ、わりーわりー」
本当に格好というかポーズだけ謝るゴッホ。左手で頭をポリポリ掻きながら不満そうな顔をしている。
「…で、どうしたんだよ?」
「そ、そろそろさー…。今、働いている所を辞めようと思ってさ」
「いきなり何だよ。何かあったのか? それとも不満でも?」
ゴッホは食事中にも構わず、キャビンマイルドを口にくわえて火を点けだす。すごい勢いで鼻から真っ白の煙を吐き出し、続け様に二本続けて吸う。
私が不思議そうに見ていると優越感を感じたのか、何故か、いやらしい笑みを薄っすら浮かべ、得意気な表情になる。
「俺らがよー、お互い就職してから、半年以上経つだろ?」
「そうだな…、ひょっとしてゴッホ、もう今の仕事飽きたのか?」
「違うよ。そーじゃねーよ。ただ俺が今の会社入った時、『大型ルーキー』だって散々もてはやされたろ?」
確か、こいつが今の印刷会社に入社した当時、私と会う度、「俺は大型ルーキーと呼ばれている」とか、よく自慢していたっけな。まあ昔からの付き合いだから、うまい具合におだてられているか、勝手に都合良くそう解釈しているだけかもしれないとは思ってはいたが……。
「半年経って、もうルーキーじゃなくなったから辞めるとか言うんじゃないだろうな?」
「そんなんじゃないよ。今の帝国印刷での俺のやるべき事は終わったと感じてね。次に俺を必要とする会社に行くのもいいんじゃないかなと思ってるんだ」
「その新しい所から誘いか何かきたのか? うちに働きに来て欲しいとか?」
「違うよ」
「じゃあ、何で?」
「自分を試してみたいんだ」
明らかにゴッホの台詞には嘘が混じっていた。本来の気持ちを堂々と言っている訳ではないぐらい、こいつと長い付き合いの私にはすぐ理解できた。一体、今の会社を辞めたいと言っている原因は何なのだろう。
「もう少し考えてみたら? 急いで会社を辞める必要性は何もないと俺は思うけどな」
「いや、このままでいいのかと自分自身、色々考えたんだ」
「じゃー、いちいち俺に相談する意味無いじゃん」
「相談じゃない」
「じゃー、何だよ?」
「報告だ」
ドッと全身に気だるさを覚えた。
ゴッホと話す時は、よほどの忍耐力と辛抱強さが必要になってくる。
何故、彼はゴッホと呼ばれ、こうも理不尽なのだろうか。彼を理解するには膨大なエネルギーがいる。
「多分、今の会社の歯車の一部分になるのが嫌なんだろうな」
ゴッホが、歯車という言葉を使うのは、間違っているような気がした。
「じゃあ勝手にすればいいじゃん」
「まあそう言うなって。今日はさ、ある話があるんだよ」
彼は昔からそのような時、必ずといっていいほど私に協力を求めてきた。
「いいよ、別に聞きたくない」
「いいから聞けって、神威」
ゴッホのアクセント一つで、私にはだいたい何を言いたいか予想がつく。
「だいたい何を言いたいか当ててやるよ。女関係で何かあったんだろ?」
「ん…、ああ…、やっぱ分かるか?」
図星をつかれた時のゴッホはすぐに「ん…、ああ…」と話す前に必ずといっていいほど切り出す。基本的に全部女がらみだと思っても間違いない。
「あー、これでもおまえとは、長い付き合いだからな」
「おまえには叶わないな」
「とりあえずいいから、話してみなよ」
しばらくゴッホは黙っていた。こういう時は大抵これから話す話を出来る限り頭の中で一生懸命に美化させているはずだ。自分なりの間をとって静かにゴッホは話し始める。
「俺の今の仕事のシフトは知ってるだろ?」
「隔週おきの日勤夜勤の繰り返しだろ。もちろんそのぐらいは把握してるよ」
「ああ、それで一週間ごとに俺が朝六時の電車に乗って会社に行くんだけどさ。日勤の時は乗る時間帯から車両からいつも同じ訳よ」
「…で?」
「いつも所沢から田無まで行くんだけど、途中の駅、小平の駅で俺と同じように同じ時間で同じ車両に乗ってくる女がいるんだ」
もう話が全部見えたようなものだった。ゴッホは通勤途中で一週間おきにいつも会うその女に恋をしてしまったのだろう。
「俺がチラッと見ると、向こうも俺を見てんだよな…。それで目が合うと向こうは視線を逸らすんだよ」
ん…、何やら面白い展開になってきそうだ。俺の予想を裏切る面白そうな出来事の匂いがプンプンしてきた。ここは出来る限りゴッホを乗せて気分良く喋らせるに限る。
「へー、どういうつもりだろうね、その子」
「いや…、多分だけどさ…。いいや、やっぱやめとこう……」
「おいおい何だよ、そこまで話してもったいぶるなよ」
「ひょっとして、俺に気があるんじゃねーかと思ってさ」
危なく吹き出してしまうところだった。
十八年間、彼女のかの字すらできた事の無い男が、どこからその自信は出てくるのであろうか。普通に考えたら、仕事の通勤で同じ車両、同じ時間に乗るのは当たり前のような気がするが……。
「よく俺のほうを見ているような暖かい視線を感じるんだよね。乗る駅は違うけど、彼女も俺と同じで田無の駅で降りるんだ。何か感じるものがあるだろ?」
私には何も感じる事はなかったが、せっかくゴッホが異性に対して重い腰を上げたのだ。ここは乗せて頑張らせるしかない。
「へー、もしそうならゴッホから誘っちゃえよ」
「えー、でもさー……」
私はゴッホの顔に迫り、マジマジと目を見て話す。
「いいかい、ゴッホ…。例えばだけど、自分のタイプじゃない女から『好きです』って、いきなり告白されたとするよ……」
「俺は付き合わないなー」
「今はそんな事を聞いてるんじゃないって。その場合、全然タイプじゃなくても、自分自身の気持ちはどうだよ。嫌な気分になるか?」
「うーん、そりゃー、好きって告白されて気分を害す奴はいないだろ」
「…だろ?」
「ああ……」
もう一押しだ。自分の中に眠る意地悪な人格が、ゴッホの調子をのせようと口を軽くさせる。
「女だって一緒だよ。タイプじゃない奴に告白されたとしても、ムカつくとか思う訳ないだろ。やっぱり嬉しいはずだよ」
「い、いやー。この場合はちゃんと、彼女も俺のほうを見て……」
「だったら尚更だろ。きっと向こうはおまえが誘ってくるのを待ってるんだよ」
「そ、そうかな……」
「絶対にそうだって!」
「そ、そうかな……」
「きっとそうだよ!」
今まで一人で色々考えていたのだろう。私に話した事で急展開になったもんだからゴッホは戸惑っている様子だ。背中を押せ。もう一息だ。
「いつ誘うんだ?」
「え、いつって……」
「結構その女っていい女なんだろ? モタモタしてると他の男に盗られちゃうぞ。いいのか、それで?」
「い、いい訳ないだろ」
「じゃー、早速、明日電車から降りたら誘っちゃえよ。今週はちょうど日勤だろ?」
「そうだけど……」
「明日金曜日だから、言わないと十日ぐらい間が空くぞ。その間に彼氏とかできてもいいのか? こういうのは早目早目が勝負なんだって。鉄は熱い内に打てって言うだろ?」
「俺は別に鉄じゃねーよ」
「馬鹿だなー、あくまでも例えだろ。例え」
「そ、そうか……」
「じゃ、明日に早速決行だな」
「待ってくれよ」
「待てないよ。俺にできる事あったら協力するから頑張りなって」
「ん…、ああ……」
私の、マシンガントークでゴッホはその気になりつつあった。
「じゃあ明日、決行だぞ?」
「そ、そうだな……」
私たちはそこで別れ、明日に備える事にした。
翌日の金曜日。私は普通に会社に行き、定時を待って、寄り道もせずに真っ直ぐ家に帰った。この頃はプロレスラーを目指していた訳でなく、普通のサラリーマンをしていたのだ。
当時は今みたいに携帯電話という物が無い時代だったので、自宅の電話で報告を待つしか方法がない。
果たしてゴッホはちゃんと彼女を誘えたのか。いや…、あいつの性格じゃ、声すら掛けられなかったのかもしれない。
他にする事がなく、ぼんやりと窓の外を眺めていると白いものが宙を舞っていた。雪だ。関東で雪が降るのは珍しい。ひょっとしたら、これが最後の雪になるかもしれない。私は頭の中に一面の銀世界を思い描いた。
いい気分に浸っていると、自宅の電話がけたたましく鳴り出す。受話器を手に取り耳に当てると、何やら相手は小声でブツブツ言っているが、よく聞き取れなかった。
「もしもしー? 神威ですけど。もしもし…、もしもし?」
「寒いよー」
「へっ?」
「寒いよー」
「ゴッホか?」
「ああ…。か、神威。外は…、す、すげー寒いよ……」
「少し事情を言ってくれよ。話が全然見えない」
「いやー、今日さー。朝の電車で彼女に声を掛けたんだよ」
「おぉっ! それで、それで?」
勇気を懸命に振り絞ってゴッホは話し掛けたのだろう。それだけでも今までと比べたら格段な進歩だ。
「田無の駅に着いた時に捕まえて、『今日仕事終わったら話しあんだけど』ってハッキリ言ってさー。彼女にこの駅の改札で待ってるけどいいかなってね」
「それで相手は何て答えたんだ?」
「『はい、分かりました』って」
「いちいちダミ声で女の真似までしなくていいよ。それにしても、やったじゃん、ゴッホ」
「ま、まーね」
こいつもやる時はやるもんだ。今までにない頑張りに驚きを隠せない。
待てよ、喜ぶにはまだ早い……。
今、話している出来事は、今朝の会話なのだ。時計を見ると六時を回っていた。さっきゴッホが言った『寒いよー』という台詞を思い出すと、まだ彼女はその待ち合わせ場所に来ていない事になる。ようするにゴッホは雪の降るこの寒空の下で一時間ほど、待ちぼうけを食っている訳だ。
「まだ彼女は来てないのか?」
「当たり前だろ。来てたらワザワザ神威なんかに電話するかよ」
相変わらずムッとするような言い草だ。しかし今、ここで私がムッとして突っ込んでも意味がない。今の発言の借りはまた今度、お返ししてやればいいだろう。
「そんなに怒るなよ。待ってるって言っても、まだ、たったの一時間だろう?」
「あ、ああ……」
「じゃあ、たぶん残業かなんかで遅くなってんだろ。ところで今朝、どんな風に誘ったのよ。変な事言ってない?」
「変な事なんか言わねえよ。田無の駅で声掛けて、前から気になってたんだけど、今日、仕事終わったら少し時間とれないかなって言ったんだよ」
「へー、意外と正攻法だな」
「そしたら分かりましたって言うから、ここの駅の改札で待ち合わせにしたんだ」
実際その通りに誘ったのなら、ゴッホにしては上出来だ。
「中々やるじゃん。あと少し頑張って待ってなよ。たださ、今、駅の公衆電話からだろ?改札の傍でちゃんと待ってたほうがいいんじゃないの?」
「何でだよ?」
「だってもし彼女が改札に来て、おまえの姿が見えなかったら、すぐにそのまま帰ってもおかしくないだろ?」
「ああっ。神威、電話切るぞっ」
俺の言葉にゴッホは慌てて反応し、電話を切った。
それから一時間後、私がテレビを見ていると、突然自宅の電話が鳴った。受話器を取る時に窓の外を見ると、雪はさっきよりも降りが酷くなっていて地面が白くなりつつあった。
「はい、もしもし神威ですが……」
「まだ来ねえよー」
電話の相手はゴッホだった。雪の降る中、外で二時間……。
ゴッホの声はかなり弱々しくなっていた。
「どっかでコーヒーか何か飲んでて、彼女が来たのを見逃したんじゃないの?」
「そんな事はねーよ。俺、ずっと改札の所で待ってたから」
二時間…。何て言っていいか微妙な時間だ。返答に困る。
「おまえ、本当に彼女と今朝、約束したのか?」
「ああ、したよ」
「ほんとかー?」
「ほんとだよ。じゃなきゃ、こんな雪の降る寒い日にわざわざ二時間も待たねえよ」
確かにゴッホの言う通りだ。ここまでゴッホが気合い入っている以上、私は友達として元気付けてやらないといけない。そんな使命感に駆られた。
「じゃあ、せっかく二時間も待ったんだ。まだ頑張って待ち続けろよ。な?」
「でも寒いよー」
「何、寝言言ってんだよ。待つのが嫌ならとっとと帰ればいいだろ。これはおまえと彼女の問題なんだから。寒いぐらいなんだよ。気合いで吹き飛ばせよ」
「き、気合いで暖かくなるなら、今すぐそうしてるよ」
「馬鹿。俺だって前に一人の女を雪の中三時間待った事だってあるぞ。そういう頑張りがあるからこそ、女だってグッとくるもんなんじゃねえの?」
「そ、そうだよな。わりーな…。俺、もうちょっと頑張るよ」
さっきまでの弱々しい声は嘘のようなぐらい、力の籠もった声だった。
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