絶体絶命の大ピンチ……。
今、俺は刑事二人に囲まれ、まったく身動きがとてない状態でいる。頼みの綱だった野中には電話を切られ、どうする事もできないでいた。
このままパクられるのか……。
何とかあと二日間だけ捕まるのを見逃してもらえないだろうか? 無理に決まっている。
あれだけ時間を掛けてピアノを弾き、集大成を見せる時が来たというのに……。
もし会場へ秋奈が来ていたら、何て言い訳したらいい?
しかも捕まっていた原因が裏ビデオの販売。格好悪いったらありゃあしない。
ゲーム屋の頃は本当に良かったな……。
様々な目に遭ったけど、ちゃんと無事にやり過ごす事ができた。こうなったのも、全部北方のせいじゃねえか。
それなのに俺は、まだあの馬鹿をかばっている……。
しょうがない。俺は警察も大嫌いだ。いくら捕まるからって、警察に絶対協力なんかするもんか。
「刑事さん…。俺、本当に何も知りません。捕まえたいならどうぞ。但し、これ以上叩いたって何も出てきませんよ。それでいいならどうぞ、手錠を掛けて下さい……」
どうせ捕まるなら格好良く捕まってやろうじゃねえの。見苦しい真似なんぞ、したくなかった。
「今までたくさんのこういう稼業見てきたけど、ここまで酷いところは初めてだぞ?」
「え?」
「おまえみたいな奴が、何でこんなところにいるんだ?」
刑事は不思議そうに聞いてくる。
「だから言ったじゃないですか。昨日入ったばかりだって……」
「そんな嘘はいい! 何でおまえみたいな奴が、こんなところで働いている?」
刑事の目は真剣そのものだった。
俺はカバンの中からプリントアウトして作った自作の小説『新宿クレッシェンド』を取り出した。そしてパラパラとページをめくりながらざっと見せる。
「刑事さん…。この小説、俺が書いたものなんですよ。あくまでも内容は作り物ですが、この街のリアルさは追求しているつもりです。でももっと色々知りたかった。だから昨日からこうしてちょっとだけ働いてみようかなと……」
「おまえは馬鹿か?」
「ええ、大馬鹿です。よくそう言われます」
「そのピアノは何だ?」
「あ、これですか? はは、実は明日ピアノ発表会でしてね…。捕まっちゃうから、出場できなくなっちゃいますけど……」
「おまえ、何者なんだ?」
「俺ですか? さっきから言ってるじゃないですか。昨日ここへ入ったばかりの新人だって……」
できるだけ明るく笑顔で話した。最後ぐらい笑っていたいもんだ。
「発表会?」
「もちろんピアノのですよ? ちゃんと市民会館借り切って、大勢の観客の前で演奏して……」
「おまえがピアノを弾くのか?」
「もちろんそうに決まってんじゃないですか? あ、疑ってますね。いいですよ。どうせ、捕まるんだ。その前に俺の演奏を聞いて下さいよ」
俺はキーボードの電源を入れ、ザナルカンドを弾きだした。中に入ったら、もう弾けないんだろうな……。
秋奈……。
これがおまえに聴かせる事のできる最後の演奏だ。ちゃんと君の耳に届いているかい?
こんな俺に口説かれないで本当に正解だ。だって俺はこれから娑婆にいられなくなるからね……。
俺は全身全霊の気持ちを込めて、精一杯弾く。だから聴いてくれよ、秋奈……。
ザナルカンドをゆっくり奏でながら、俺は泣いていた。
何の為の涙だろうか?
分からない。自分の馬鹿さ加減にうんざりしてだろうか?
デューク、ほんとごめんな……。
でもさ、どうだい。俺のザナルカンド……。
こんなにうまく弾けるようになったんだぜ?
視界が滲み、鍵盤がぼやけて見える。でもさ、俺、この曲だけは目隠ししたって弾ける。それぐらい多分だけど、世界一練習したんだ。
曲を弾き終えると、俺は静かに立ち上がった。
最後ぐらい堂々としよう。
「刑事さん、どうぞ。抵抗なんてしませんから」
俺は両腕を合わせて真っ直ぐつきだした。
俺が捕まったの知ったら、おじいちゃん悲しむだろうな……。
ごめんね、こんな馬鹿野郎で……。
「……?」
いつまで経っても刑事は俺の両手首に手錠を掛けてこない。
「あれ、どうしたんです? 刑事さん」
「俺たちは何も見てない」
「は?」
「これは独り言だ」
「……」
「こんなところでおまえは働くな。今日で辞めろ。分かったな?」
「それって全然独り言じゃないじゃないですか」
俺は大笑いしていた。心の底から笑った。
「うるせー、本当にしょっぴくぞ?」
「刑事さん、ありがとうございます。俺、本当に今日限りでここ、辞めますよ……」
「うるさい。懐くな!」
刑事はそのまま『マロン』を出て行った。
夢の中にいるようだった。信じられない。俺はこの窮地を本当に脱出できたのだ……。
看板をしまい、防火扉まで閉め、俺は『マロン』の中に閉じ籠もる。鍵を掛けられるところはすべて鍵を掛けた。
俺はあんな目に遭っても北方の名前を出さないで守った。だからひと言何かを言わない事には、気が済みそうもない。
北方の携帯電話へ連絡をした。数回コール音が鳴り、電話に出る。
「北方さん……。今、刑事が来ましたよ……」
「うるせー、今忙しいんだ!」
そう言って電話が切れた。後ろで麻雀牌を掻き回す音が聞こえていた。
このクソ野郎が……。
何の為に俺は体を張って、この店を守ったんだ?
もう一度電話をする。
「何だ、おまえは?」
「おい、ふざけんじゃねえぞ?」
「……」
「どれだけこっちが体を張ったと思っていやがるんだ?」
「おまえ…、誰に口を利いてるつもりだ?」
「北方! テメーにだよっ!」
「どういう目に遭うか、分かってんのか、小僧!」
「やれるもんならやってみろよ、コラッ!」
「おい、俺はだな…、真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台……」
「うるせーよ! ヤクザが何だってんだよ? おまえ、喧嘩強いんだろ? 今出てきて俺とキッチリタイマンしろや!」
「おい、本当におまえの命なくなるぞ?」
「何だ? ヤクザ者でも動かそうってのかよ?」
「どれだけ俺がヤクザに顔が利くと思ってんだよ。命がねえぞ!」
「知らねえよ、んなもん。やれるもんならやってみいや、ボケッ!」
俺は受話器を叩きつけ、足で粉々になるまで踏みつけた。熱くなっていた。しかしあんなクソ野郎にこれ以上媚びたくなんてなかった。
あいつの事だ。本当にヤクザ者に手を回すだろう。
これだけコケにされた事はないだろうし、金に物を言わせ、手当たり次第に俺を追い詰めてくるだろう……。
だけど後悔はしていない。
最低二日間生き延びられれば、それでいい……。
ピアノ発表会まで無事なら俺はそれでいい。
最悪、家に手が回るのだけは嫌だった。
俺は店内をくまなく探し、自分の履歴書を見つけた。その場で火をつけ燃やす。
今日の売り上げの入った財布を見る。二十七万円入っていた。
俺は退職金代わりに全部抜き取り、自分の財布へ入れた。
このビルを出る前に、一つだけやっておかなきゃいけない事がある。
心臓が大きな音を立てていた。
やめとけ……。
自分の心の中からそんな声が聞こえてくる。
やめられる訳がないだろうが……。
ここまで来たら、引けねえんだよ。
三階まで上り、笹倉連合の事務所をノックした。
「あい、何でっか?」
「失礼します……」
俺は軽く頭を下げ、中へ入る。目の前には組長の岡村を始め、他の組員が何名かいた。
「どないしたんや、神威はん?」
「岡村さん、お話が……」
「なんや?」
「俺、ヤクザ者ではないです…。でも裏稼業の人間です。世界は違うかもしれませんけど、同じ種類の仲間だと思いながら、ずっと今までやってきました。だから義理人情って、本当に大事にしてきたつもりです。先ほど警察が来ました。俺は北方をそれでも売るような真似だけはしませんでした……。それなのにあいつは、どうでもいいような事を抜かしました。だから俺、喧嘩を売りました。北方はヤクザを使って俺に追い込みを掛ける。そう言いました。だから上等だって受けました。でもそれはあなた方、暴力団に喧嘩を売った訳ではありません…。でも、北方の金で俺の命を狙ってくるというなら話は別です。俺、大和プロレスのはぐれ者です。その時は全力で立ち向かいます……」
体が震えていた。本当は泣きそうになるぐらい怖かった。でも引きたくなかった。
組長の岡村は真剣に俺の目を見つめていた。
「神威はん…、ワイはな、北方はんとは銭金の絡んだ大人の付き合いや。ただな、神威はん。あんさんとは銭金の絡まん人間同士の付き合いやと、ワイは思うとる。また連絡下さいや。飯でも一緒に食いまひょ」
「あ、ありがとうございます……。生意気言ってすみませんでしたっ!」
俺は岡村に向かって深々と頭を下げ、感謝をした。
北方の店『マロン』を去って二日間。
どの組も俺を狙うという事で、動く事はまるでなかったようだ。
岡村から電話があった。
「ほんまあの男は腐ってるのう。ワイのところにも金を出すから、神威はんを消せなんて連絡あったわ。あ、安心してくれや。あんな奴の金なんかで、あんさんやりに動いたら、仁義もクソもないですわ」
今日はピアノ発表会。
家から近くなので、歩いて市民会館まで行く。昔、この市民会館にはいかりや長介率いるドリフターズが来た事があった。幼い頃見に行き、これがそのままテレビで映っているんだと興奮して見たものだ。
今、俺はこのホールでステージに立ち、ピアノを演奏するのだ。
他の演奏者たちの家族や友達などが、多数、見物に来ている。俺は秋奈が会場に来場してないか、辺りをキョロキョロ見回した。奥の通路からピアノの先生が歩いてくる。発表会用に豪華なドレスアップした衣装を着ている。
「うわ~、先生。派手派手じゃないですか」
「恥ずかしいわ。でも、発表会ぐらいはね……」
「紫一色のドレスですか」
「そうね、一番好きな色だから…。神威君、今日は頑張ってね」
「了解しました」
先生との会話を終え、俺は秋奈を探す。
ひょっとしたら来てくれないのか……。
一抹の不安を覚えたが、無情にも時は進んでいく。
控え室のほうへ向かい、『ノクターン』のスタッフと世間話をしてリラックスした。
まだ時間はある。秋奈も何か事情があって遅れているだけだ。誰と話をしていても上の空だった。
ステージを覗く。まだ客席には誰もいない。俺は正面に置かれたグランドピアノに近付く。音の調子を確かめたかったというのもあるが、秋奈に対してザナルカンドを聴かせたかった。
椅子に座り、鍵盤の上に手を乗せる。俺はザナルカンドを弾きだした。
指先にこの想いを込めて……。
観客席のほうのドアが開き、明かりが漏れる。秋奈か……。
俺は演奏を途中で止め、ドアを見た。数名の人間がぞろぞろと入ってくる。
「あ、やっぱり兄貴だ」
聞き覚えのある声。俺は立ち上がって見てみると、弟の龍也、龍彦を始め、最上さん夫婦、後輩のたー坊が会場内にいた。
「どうしてここへ?」
「兄貴が演奏をするって言うから、仲のいい知り合いに声を掛けたんじゃねえかよ」
「みんなで通路で話していたら、聴き覚えのある曲が聴こえて。龍さんがよく弾いていた曲だって。それで覗いたら案の定」
「久しぶり。ちょっと痩せたんじゃないか?」
みんな、俺の演奏を聴きにわざわざやってきてくれた。
人と人の繋がりって本当にありがたい。真面目にみんなと接してきて、これほど良かったと思った事はなかった。
「だって俺なんかの……」
「何を今さら言ってるんですか。みんな、龍さんの発表会を見に行こうって」
「ありがとう……」
まだ涙ぐむのは早い。本番はこれからなのだ。
控え室で先生と談話をする。終始、先生は笑顔だった。よほどこの発表会開催を待ち望み嬉しかったのだろう。自分の育てた生徒たちが公の場で自分の曲を披露する。先生にとって至福の瞬間かもしれない。
「神威君、一応さ、楽譜を置いておいたほうがいいわよ」
「だって俺、楽譜は読めないですよ」
「あなたはちゃんと読めてるのよ。読もうとしてないだけ」
「違うんですよ。俺、本当に楽譜読めないんですって……」
「たまに見ながら弾いてるじゃない」
「それは先生がカタカナで、音符の下に書いてくれているじゃないですか。それを見ているだけなんです。俺が楽譜を置いたら、みんなが暗記してないじゃんって思うじゃないですか? だから何も置かずに堂々と弾きますよ」
「分かったわ。頑張ってね」
「了解っす。任せて下さい」
俺はギリギリの時間まで秋奈がいるか、会場内を探し回った。彼女はどこにもいない。来てくれないのか……。
俺が送ったメールに何か問題でもあったのか?
それとも秋奈に何か用事でもあったのか?
「神威さん、そろそろお時間です」
『ノクターン』のスタッフが呼びに来る。タイムオーバーか……。
いや、秋奈はこの会場にきっと来るさ……。
「頑張って下さいよ、龍さん」
「おう、ありがとう。行ってくるわ」
「龍一、ちゃんと俺がおまえの姿を映像で撮っといてやるからな」
「いつもすみません、最上さん。奥さんまで一緒に…。それではいってきます!」
大袈裟に手を振って、俺は控え室に消えた。頭の中は秋奈の事でいっぱいだった。
俺の出番は次だった。手前の人の演奏が聴こえる。曲はベートーベン作曲のエリーゼのため。最初の部分は誰でも聴いた事のあるぐらい非常に有名な曲だった。
他人の演奏はとてもうまく聴こえる。俺は大丈夫なのか。緊張が全身を走った。
向こうから拍手が聞こえる。演奏が終わり自分の番がやってきた。
秋奈は会場にきているのだろうか。それだけが気にかかる。
「四十三番、神威龍一。ドビュッシー作曲、月の光……」
シーンと静まり返った場内。俺はカーテンを開け、堂々とグランドピアノに向かって歩く。
正面を向いて挨拶をした。俺の視線は秋奈を探していた。弟たちの姿はすぐに確認できた。
いない…。秋奈がいない……。
いつまでも探す訳にはいかず、仕方なく椅子に腰掛けた。
軽く深呼吸をする。鍵盤の上に指を滑らせる。ペダルを軽く踏んでみる。うん、いい感じだ。
静まりかえった会場の中、俺は静かに月の光を弾き始めた。
出だしのスローテンポな綺麗なメロディ。
最初はここからじゃなく、いきなり寂びの部分からってわがままを先生に言ったっけな。こうしてじっくり聴きながら弾くと、最初の出だしの良さが分かる。今までどれだけ弾いてきたと思っているんだ。鍵盤を押さえる指、一つ一つを目でチェックする。
淡々とメロディは流れていく。複数の音を重ねて弾く和音。ズレがないよう丁寧に押すよう心掛けた。
秋奈、君はこの会場に来ているのかい……。
今、俺はこんな難しい曲を弾いているんだよ。
結構、頑張ったんだぜ。
寂びの部分に入る。俺は左端のシャープの『ミ』と次の『ミ』に、左手の中指と親指を置く。ここからだ。ここが一番弾きたかった。
一瞬、目を閉じ、軽く息を吸う。
「ダァーン~……」
今まで頑張ったすべての想いを指先に集中し、感情を込めて弾いた。鳴り響く重低音。
俺の指はダンサーになったかのように、鍵盤の上を軽やかに飛び跳ねる。一番大好きで練習を重ねた部分だ。グランドピアノは最高の音色を奏で、会場内奥まで鳴り響かせる。
ゾワッと全身に電撃が走り、鳥肌が立つ。もう一人、自分が別にいて、後ろから弾いている姿を見ているような感覚を覚える。
誰かが優しく俺の肩をつかんでいるような気がした。
もの凄い快感。俺は幸せだ……。
まだまだ曲は続く。
今までの反復練習を思い出し、次のメロディはこれ、その次はといった感じで一生懸命弾いた。
「……!」
一つ音を間違えた。俺の耳がそれを教えてくれる。慌てるな。軽く息を吹きだす。冷静に次の音へと繋ぐ。
もう中盤以上は、こなしたかな……。
まだ油断するなよ。必死に自分に言い聞かせる。
うまい具合に、月の光は進む。
七つ目のパートに差し掛かる。最初と似通ったメロディ。指を押さえる部分が似ているだけ、かえってややこしい。俺は余計な事を考え、音を外した。すぐに正規の音を弾く。
「とちった……」
心の中で呟く。小さかった焦りが、徐々に大きくなってくる。落ち着け……。
頭の中が真っ白になる。
ヤバい……。
どうしたんだ?
早く思い出せ……。
指を止めちゃいけない。
焦りが自分の神経をおかしくさせる。
このまま中途半端な状態で、俺の発表会は終わっちゃうのかよ……。
あんなに練習したじゃねえか……。
「力を貸しましょう……」
そんな言葉が、頭の中で聞こえたような気がした。
肩から背中に掛けて、暖かい何かが体内に入ってくるような感覚。
止まっていた指が再び動き出す。ワザとスローに弾き、演奏を止めたところをさり気なくカバーした。うん、思い出してきたぞ。大丈夫。そのまま弾くんだ。
俺は必死に指を動かす。
あれだけやってきたんだ。
妙な自信が湧いてきた。
本来なら静かに微かに弾く部分。俺は気にせず、感情を込め思い切り元気よく弾いた。
通常とは違う元気いっぱいの月の光。これも俺らしいだろう。
頭の中で、薄暗い屋根裏部屋が思い浮かぶ。デュークの部屋だ。
「見ていろよ、デューク……」
そっと呟く。おまえの無念さ、俺が晴らしてやるよ。
すべての感情を噛みしめて鍵盤を叩きつけた。
気がつくと、月の光をすべて弾けていた。頭がボーっとする。
ゆっくりと立ち上がり、観客席のほうへ向かう。
精神的な疲労感が全身を覆っている。秋奈はどこだ? 俺の視線は観客席内のあちこちを見回している。
いない…。彼女は来なかった……。
観客席すべての人が、俺に注目している。
俺の演奏を聴いてくれて、ありがとう……。
心から感謝を込めて、深々と一礼をした。
「パチパチ……」
頭を下げたまま、数名の拍手が聞こえてくる。
「バチバチバチバチ……」
一人増え、また一人……。
拍手の音がどんどん大きくなる。なかなか頭を上げられなかった。
俺って自分の為に、この曲を弾いたんだ……。
素直にそう感じる。目頭が熱くなってきた。こんな大勢の前で泣く訳にはいかない。俺は頭を上げ、さっさと奥へ引っ込んだ。
あの月の光を俺は全部弾けた……。
自分で弾いておきながら不思議に感じた。あんなに練習したのに、発表会の時が一番うまく弾けていたのだ。
結局、秋奈は発表会に来なかった。でも気分はスッキリしていた。
秋奈が来なかったのは、俺の返事に対する答えだったのだろう。
悲しいが仕方がないと割り切れるしかない。
駄目なものは駄目なんだ……。
きっかけは秋奈にピアノを聴かせたいから始めた。
そんな想いから始まった俺のピアノ。
あの嵐のような拍手が俺に教えてくれた。
あの発表会に出場して本当に良かった。俺は自分へ捧げる為にピアノを弾いてきたのだ。誰の為でもない。俺が俺の為に……。
こんな素晴らしい想いをできたのも、秋奈のおかげ。それについて感謝しよう。
発表会を振り返ってみた。
途中で二度音を外し、よくあの状況から持ち直して最後まで弾けたものである。自分でも感心してしまう。
後日、ピアノの先生から一枚の写真と音楽CDが届いた。
音楽CDは、俺が発表会で演奏した時の月の光が収録されたものだった。
いっぱいダビングして知り合いに配ろう。それで自慢しまくってやる。
一枚の写真……。
それは俺がグランドピアノに向かって、月の光を弾いている姿だった。俺ってこんなに格好良く弾いていたのかな……。
そう思うような写り方だった。
「んっ……!」
写真の頭の部分、変な光みたいなものが見える。
俺の頭から、まるで光の角が天井に向かって突き出ているような写真。不思議な写真だった。
「私が力を貸しましょう……」
演奏中に頭の中で聞こえたあの言葉。
体内に何か暖かいものが入ってきたような不思議な感覚。
ひょっとしてデュークが、不甲斐ない俺に力を貸してくれたのかな……。
そう思うと、口元がニヤけてくる。
「ちょっとは無念さが晴れたかい?」
天井を向いて話しかけてみる。
何も返答はなかった。
当たり前か……。
発表会の音楽CDをかける。俺は自分の演奏した月の光を何度も繰り返し聴いた。
セレナーデ……。
親しい相手や賞賛する相手に対し、夕方指す演奏を指すと言う。大抵は愛する女の為に音楽を演奏しながら捧げるという意味らしい。
秋奈の為に始めたこのセレナーデ。
こんなに頑張ったのに、彼女は分かってくれなかったなあ……。
俺は膝を丸めて、静かに泣いた。
― 了 ―
題名『新宿セレナーデ』 作者 岩上智一郎
執筆期間 2009年2月17日~2009年2月21日 5日間
原稿用紙605枚分
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