裏ビデオ屋『マロン』の仕事を済ませると、俺は真っ直ぐ家へ帰る。部屋へ戻り、今日習ったニ小節分を弾いてみた。この程度の長さなら記憶しているのですぐに弾ける。短い部分を何度も繰り返し弾いた。
一つ感じた事がある。実際にグランドピアノを弾いてみて分かった事。弦楽器は電子ピアノと比べると、当たり前だが音が違う。電子ピアノは電子で作られた音でしかない。いくら感情を込めても、聴こえる音は同じだった。
先生が言った言葉を思い出した。
「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」
あの時俺は、秋奈に聴かせたいと必死に感情を込めて鍵盤を叩いた。自分がどれだけ彼女に聴いて欲しいか。それだけの為にピアノを始めた。俺がピアノを弾くのは、秋奈にザナルカンドの曲を捧げたいからだ。一小節で七つの音。どんなに小さな音でも、無駄な音符がないように思えた。
その想いが音色に現れたのだろうか? もしそうなら素直に嬉しかった。秋奈以外の人間がそう感じてくれるという事は、彼女にこれを聴かせた時、絶対に喜んでくれるはずだ。
俺は完璧にザナルカンドをマスターしたかった。この曲だけは、世界中で一番うまく演奏できるようになりたい。たったの二小節分を一心不乱に弾いた。
気がつくと、それだけの為に三時間も弾きっぱなしだった。
タラタラタンタンターン…、タラタラタンタンターン…。先生風にいえば、タンタンタンタンタンタンターン、タンタンタンタンタンタンターン…って、感じか。
本当に最初の部分。そこだけは完璧に弾けるようになれた。もの凄い嬉しかった。
練習を終えると、いつものジャズバーへ行く。今日はライブも何もなく通常営業だった。どっちかというと俺は静かなほうが好きなので、通常の営業のほうがいい。
ライブがある日以外、基本的に暇な店だったので客は一人しかいなかった。
カウンターへ座ると、グレンリベット十二年のボトルと、ショットグラスが置かれる。チェイサー代わりに、アイスコーヒーを頼んだ。つまみにカマンベールチーズを頼む。
視界の隅にジャズバーのピアノが見える。
今は客、俺一人だ…。チャンスは今だ。
「マスターすみません」
「はい?」
「音楽止めてもらってもいいですか?」
「え、何故?」
それは確かにそう言うだろう。ジャズバーなのに、俺は音楽を止めろと言っている。
「ピアノ…、あのピアノをちょっと弾かせてもらえませんか?」
「神威さん、何でまた?」
「実は俺、今日からピアノを始めたんですよ」
我慢しきれずに、とうとう言ってしまった。
「えー?」
「そんなでかい声、出さないで下さいよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「何でまた?」
「もう、いいじゃないですか。今、俺一人でしょ? 他の客が来たらすぐにどきますから」
「分かりましたよ」
そう言って、マスターは音楽を消してくれた。
俺は立ち上がり、軽く首を鳴らす。それからピアノへ向かって歩いた。椅子を引いて、ゆっくりと腰掛ける。
鍵盤の上に静かに指を置いた。一瞬、目を閉じて軽く息を吐く。
指先に気持ちを込める。ジャズバーのピアノは、ザナルカンドのメロディを奏でだす。ちょっとした違和感があった。鍵盤を弾いた感じ、少しばかり重く感じたのだ。
たった二小節分の短い演奏を終え、カウンターのほうを振り返る。マスターは目を丸くして驚いていた。
「か、神威さん…、いつの間にピアノを……」
「へへ、今日やったばかりなんですよ」
「へー、それはすごい。気にしないで、次を弾いて下さい」
「いや、それがまだここまでしか習ってないんですよ」
俺とマスターは声をそろえて大笑いした。
この場所でいい…。ここで、早く秋奈にザナルカンドを聴かせてやりたかった。
今現在、いや過去のビデオ屋をしている従業員でピアノを習っている男など、世界でも俺一人ぐらいのものだろう。歌舞伎町ではピアノを習っている事は、誰にも伝えていない。ゲーム屋『フィールド』や裏ビデオ屋『マロン』の人間で、ピアノの事を理解してくれる人間なんて誰もいないはずだ。
秋奈にはいつぐらいに、この事を伝えたらいいだろう。曲が完成するまで? いや、そんなのいつになるか分からない……。
しばらく考えていたが、そのタイミングが分からない。まあいい。今彼女は実家にいるんだし、いずれ機会があれば勝手に話してしまうだろう。
早く秋奈と逢える日が待ち遠しかった。
待てよ。ちゃんとザナルカンドを完成してから逢ったほうが、格好いいじゃないか? 違う。それよりもまず秋奈と同じ時間を共有したい。様々な想いが交錯する。
どっちにしろ秋奈と逢えるまで、昼間は気色悪い客相手に裏ビデオを売り、夜になればピアノのレッスン。しばらくはこんな感じになるんだろうな。
夕方六時になると、俺は北方から『デズラ』をもらい、一目散に地元へ帰る。駅に着くと全力疾走で『ノクターン』まで向かう。確かあそこの営業時間は夜の九時ぐらいだったよな……。
俺は元気よく挨拶しながら中へ入った。
「先生、お疲れさまです」
「あら、こんにちわ」
「仕事を終え、急いで帰ってきました。今日もピアノを教えてもらえますか?」
「ええ、いいですよ」
「やったあ!」
早速、俺はピアノの前に座った。
「実は昨日いきつけのジャズバーで、あのあとピアノを少し弾いたんですよ。もう習った部分は完璧ですよ。ちょっと聴いてもらえます?」
「いいですよ」
昨日ジャズバーで弾いたピアノの感触と、先生のところのグランドピアノとは少し癖が違うような気がした。同じ音を弾いても気持ち、音が違うように聴こえたのである。俺の気のせいだろうか。
呼吸を整え、ザナルカンドの最初のニ小節を弾く。ミスもなく、完全にうまくできた。あれからこの部分だけを何百回弾いただろう。
先生は満足そうに頷いて、俺の横に腰掛ける。
「じゃあ、今日はもっと先の部分を行くわよ」
「はい、よろしくお願いします」
ピアノを弾き始めて本当に良かった。こうしている時間がとても楽しい。今まで何も弾けなかった俺が、実際に自分で弾きたい曲を弾いているのだ。興奮と感動に包まれながら、俺はザナルカンドの先の部分をどんどん覚えていった。
そういえば、ファイナルファンタジーⅩの主人公が、最後のエンディングでこんな台詞を言ってたっけ……。
「俺、あんたの息子で良かった……」
確かそんな台詞だと思ったが、今は「俺、ピアノを始めて良かった……」と、声を大にして言いたいぐらいだった。
二回目のレッスンは二時間頑張って習う。だから覚えたのも初日の倍以上だった。今日は新しく四小節分を吸収する。
俺はニ時間分のお金、六千円を払ってから家に帰った。部屋に戻ると、早速今日の分を何度も繰り返し弾き始めた。
その日の夜、大崎秋奈から連絡があった。秋奈の母親は検査で入院しただけで、特に異常はなかったようである。ホッとしたという思いと、秋奈の声を聞けて嬉しいのが半々だった。
明日、夜になれば、秋奈はこちらへ戻ってくるらしい。
できればすぐにでも逢いたかったが、彼女も疲れているだろう。俺のほうが十歳も年上だし、あえてここでは誘うのを我慢した。電話で話している間、ピアノを習い始めた事を言いたくてウズウズしていた。でも今はまだ、言う訳にはいかない。
「神威さん、何か今日、生き生きとしてますね。何かいい事でもあったんですか?」
「うーん、どうだろ? しいて言えば、秋奈からこうして連絡あったからじゃないかな」
嘘ではない。俺の声が弾んでいたとしたら、秋奈のおかげである。
「ふふ、ほんとに口がうまいですよね」
「酷いなー…。これでも俺、かなり秋奈の事、気に入ってるんだぜ」
「だって、すごい女性の扱い方が手馴れているなあって感じますもの」
何気に秋奈は鋭い。今までの女の扱いについてわざわざ言う必要性はないが、隠すほどのものでもない。
「それは以前、仕事柄バーテンダーだったからね。仕方ない部分だってあるよ。確かにプライベートで他の女性とデートぐらいはした事あるけど…。でもね、出逢った場所はああいう店でも、俺は本当に秋奈と逢えて良かったって思ってるんだ」
「お世辞でも嬉しいです」
ほんとだって…。そう言いたかったが、ここで焦ってもしょうがない。
「俺はお世辞を仕事以外じゃ言わないよ」
そう言うのが精一杯だった。
「あ、神威さん」
「ん?」
「明日は帰るの、夜中になると思うんです。だから、その次の日、もし予定がなかったら、食事でも行きますか?」
秋奈の言葉を聞いて、何ともいいようのない感動が全身を駆け巡る。胸から扉が開いて、鳩がバタバタと出てきそうなぐらい嬉しかった。
「うん、絶対に行く。予定なんか全然ないよ。もしあっても全部キャンセルしちゃう」
実は仕事だった。でも『マロン』なんてどうでもいい。明日仕事へ行った時、北方へどうしても休まなきゃいけない用事があると、強引に休みを取ればいい話だ。
「あはは……」
「何で笑ってるの?」
「だって…、神威さんって大袈裟だなって……」
笑い声を受話器越しに聞いているだけで、俺は幸せな気分である。実際に彼女とデートしたら、もっと素晴らしい感動があるのだろう。完全に俺は、秋奈に夢中になっていた。
明日もピアノのレッスン行くとして…。駄目だ……。
さすがに明日一日じゃ、ザナルカンドをどんなに習っても完成までもっていけないだろう。何とか初デートまでに間に合わせたかったが、どう考えても無理な話である。
「明後日は、何時ぐらいに待ち合わせする? 夜中に帰ってくるんじゃ、ゆっくり寝ていたいでしょ? 秋奈の都合に俺は合わせるよ」
「うーん、そうですねー…。じゃあ、お昼の二時ぐらいに駅の改札前でどうですか?」
「大丈夫だよ。二時に改札ね」
「それでは今日、明日と、久しぶりに実家で羽を伸ばしてきます」
「うん、ごゆっくり。電話ありがとう」
「いえ、こちらこそ、この間はすみませんでした」
「気にしないで、では明後日というわけで……」
「楽しみにしてます。おやすみなさい」
「うん、おやすみ……」
時間にして十五分ぐらいの会話。何て優雅な十五分間だったのだろうか。俺ってメチャクチャ幸せだ。
俺は秋奈のどこが好きなんだろう……。
考えてみた。
顔も好みだし、声も可愛らしい。
ショートカットのヘアースタイルも似合っていて素敵だし、素直で優しい性格も大好きだ。
右目の下にある泣きボクロもいい。
あとザナルカンドが非常に似合う点もいい。せつなさが同居している部分もたまらない。
俺は秋奈のすべてが大好きだった。
ゆっくりお酒を一緒に飲みながら、彼女の目の前でピアノを弾いてやりたい。ザナルカンドを聴いた彼女は一体、どのように感じるのだろうか。
一日じゃどうしようもないのは頭で理解していたが、それでも三日間連続で俺は先生のところへピアノを習いに行った。親戚が亡くなった事にして、北方へ明日休みをもらう。ついでに今日もそんな大変な状況なのでと、昼の二時には上がらせてもらう。
明日は秋奈との初デート。もし神さまがいるのなら明日だけでいい。俺にショパンでもベートーベンでもいいから、乗り移って欲しかった。もちろん、ピアノを弾く時だけでいい。そしてピアノを奏でるスキルだけなら尚いい。姿形まで乗り移って、あんな変な髪形になるのは嫌だ。
もともとやる気のあった俺に、さらなるやる気が備わっていた。先生が真剣に教えてくれるのを懸命に叩き込み、魂を込めながら鍵盤を奏でる。少しでも早くこの曲をマスターしたい。そんな想いが俺のピアノを上達させていた。
まだ先生の『ノクターン』も、オープンして間もない状況というのも味方して、この日、俺は仕事を早引きしてから七時間ぶっ通しでピアノを習い続けた。
音符にカタカナをふってもらわないと駄目な俺は、必死に曲を丸暗記した。
鍵盤を押さえる指を目で確認する。
指で鍵盤の弾く位置を記憶する。
耳で奏でる音がおかしくないかチェックする。
俺にはその方法しかなかった。
「神威君、そろそろ休憩を入れない?」
先生がそう言って、ピザの出前をとってくれた。さすがにぶっ通しだったので、俺は少し疲れていたみたいだ。でも今日だけで、ザナルカンドの四分の三以上を弾けるようになっていた。
デリバリーのスタンダードなピザをここまでおいしく感じたのは、生まれて初めてだった。先生の優しさに感謝する。
帰る時になって思った。三千円×七時間…。俺は財布を取り出すと、先生は笑いながら言った。
「あ、今日は三千円だけでいいですよ」
「何を言ってるんですか。俺、今日は七時間も教わったんですよ?」
「いいのいいの…。私も何だか楽しくなっちゃって、時間をすっかり忘れてたのよ」
「でも……」
「だから、頑張ってピアノを続けて曲を完成させてね」
「はい、ありがとうございます」
先生の心遣いがとても嬉しかった。本当にいい先生に巡り合えたんだな…。そう感じた。あと一回のレッスンで、ザナルカンドをひと通り弾けるようになるだろう。そのぐらい今日は根を詰めて頑張った。
明日はいよいよ秋奈とのデートである……。
七時間ぶっ通しのレッスンのあと、俺は近所の化粧品屋へ行った。
秋奈に何か、プレゼントを渡すつもりだった。あまりそのような事をした事がないので、そういう時は決まって近所の化粧品屋に相談していた。
「あら、龍一ちゃん。今日はどうしたの、久しぶりね」
「あ、おばさん、お久しぶりです。実は明日、デートなんですよ」
「あらやだ、また?」
「そんな言い方しないで下さいよ」
「だってまた違う子なんでしょ?」
「え、ええ……」
「龍一ちゃんは、うちの靖史と同じだから三十でしょ?」
「はい」
「あの子も今頃生きていたらね……」
「……」
おばさんの息子、岩崎靖史は、俺の小、中学時代の同級生だった。そしてこの岩崎の件で俺は歌舞伎町という街へ流れ着いたのだ。奴は二十五歳の若さで亡くなった。交通事故で即死だったそうだ。そう新聞にも書かれていた。二千万円分の札束をばら撒きながら……。
岩崎とは学生時代、そこまで親しくなかったが特別仲が悪いという訳でもない。社会人になってから一度だけ酒を一緒に飲んだぐらいだ。彼の死を新聞で知り、それを理由に歌舞伎町へ行くきっかけになった俺。俺の中で大きな波紋を呼び、気づけば歌舞伎町で働くようになっていた。今でも奴の死の真相は分からぬままである。いや、違う。俺があの街で働きだして何年になる? その間岩崎の事故について何か調べたのか? 実際俺は何もしていない。ただ歌舞伎町の人間として、日々染まっていっただけである。
そんな罪悪感に近い感情もあり、俺は時たま岩崎のお袋さんの店へ顔を出すようにしていた。そして意味もなく化粧品をよく買った。
「ごめんね、湿っぽくなっちゃって…。もう五年も経つのにね……」
「五年ですか……。時間が経つって本当に早いもんですよね」
「そうそう、そんな事より明日はデートなんでしょ?」
「は、はあ……」
「ゆっくり楽しんできてね。でも、色々な子をあまり泣かさないようにね」
「そんなに遊んでいないですよ。ただ、明日の子はですね。今までとは違って特別なんですよ。だから何かお勧めのいいもの、ないかなって思いまして……」
「いつも今回は違うって言ってるじゃない。まあでも、ありがとね。男の人で、定期的に化粧品を買ってくれるの、龍一ちゃんぐらいだもんね」
そう言いながらおばさんは大笑いした。
「そうそう、俺…。ピアノを始めたんですよ」
無理に話題を変えてみた。
「え、龍一ちゃんがピアノ?」
「ええ」
「あなた、バーテンダーでしょ?」
「それは随分と今の話じゃないですか。明日逢う子…。秋奈って言うんですけど、本当にその子の事気に入っちゃって……。それでピアノでも弾いてみたいなと思いまして」
「なんだか凄いわねー…。あ、龍一ちゃん、これなんかどう? 今、四月でしょ。春の新製品で限定発売なのよ。女性はこれ、みんな好きよ」
きっとおばさんは、冗談半分ぐらいにしかとってくれてないのだろう。
まあいい。今度俺の腕前を曲が完成したら聴かせてあげよう。その時の表情が楽しみだ。
「今度の子、二十歳の大学生なんですよ。何をあげたら喜びますかね?」
「真面目な子だったら、あまり高価なものをあげても困るんじゃないかしら」
「うーん、でもですね、初のデートだし、二万ぐらいのやつで何かお勧めあったら、お願いします」
「二万円? 充分、高価でしょ」
「言ったじゃないですか、特別な子だって」
「じゃあ、さっきの限定発売のにしたら? 本当にこれ、女性に人気あるのよ」
「分かりました。じゃあ、それを綺麗にプレゼント用で包んでもらえますか?」
「お安い御用よ」
「あ、それとですね。この絵も一緒に包んでもらえますか?」
俺は『マロン』の仕事中に描いた絵を出した。
「あら、幻想的な絵ね。どうしたの?」
「自分が描いたんですよ」
「嘘、これ、本当に龍一ちゃんが描いたの? あなた、すごい絵を描けるのね」
「よろしくお願いしますね」
プレゼント用の化粧品を包み紙にテキパキと包むおばさんの手つきを見ながら、素直に感心した。秋奈はこれを喜んでくれるかな……。
家に帰って、今日のピアノの復習をする。たった三回のレッスンだが、合計のレッスン時間は十時間になっていた。しかも週に一度じゃなく三日間連続である。家での反復練習も十時間以上は費やしていた。睡眠を削ってまで。身にならないほうがおかしい。
本当に先生には感謝である。頭が上がらない。こんな俺に付き合ってもらい、丁寧に指導してくれた。あと一回のレッスンで、ザナルカンドが弾けそうなぐらいまできた。
俺は五時間掛けて、部屋でキーボードを弾く。真夜中になっていた。ピアニストは確か、一日中ピアノを弾いてられると聞いた事がある。でも一つの曲を五時間ぶっ通しで弾けば、俺だってピアニストに、ザナルカンドだけは負けないはずだ。
一生懸命、一心不乱に弾いた。
夢で見たデュークの姿を思い浮かべながら、自分のイメージと重ね合わせる。この自分の想いを音に……。
しかし、キーボードには俺の感情が伝わらない。どんなに指先に感情を込めて弾いても、聴こえてくる音はすべて同じだった。これが電子で出せる音の限界なのだろう。ピアノ独特の音源。あれが弦楽器の魅力なのだろう。その事を少しだけ理解したような気がする。
調律士という仕事があるのを俺は知っていた。何故なら以前いたゲーム屋『ワールド』に来る客で、調律士をしている人がいたからである。ある日、仕事の話を聞く機会があったが、その時はピアノ自体まるで興味がなかったので何も感じなかった。今思えば、よく聞いておけばよかったと思う。
おそらくピアノの弦の部分を調整する作業なのだろう。調律する人によって、ピアノの個人差が出てくるのではないだろうか。だからジャズバーのピアノと、先生のグランドピアノは弾いた感じが違ったと感じたのかもしれない。
デートが明日でなく明後日だったら、ザナルカンドが間に合ったのにな……。
これも嬉しい悲鳴ではある。
まあ贅沢も言っていられない。明日は秋奈とお待ちかねのデートなのだ。ピアノの事はあとに回して存分に楽しもう。
もう秋奈はこっちに戻っていて寝ているだろう。黙ったままこっそり駅へ迎えに行けば良かったかな。いや、それは反則だ。明日の二時に駅の改札で秋奈が待っているのだ。時計を見ると、夜中の四時を回っていた。そろそろ俺も、寝るとするか。
寝る前にもう一度だけザナルカンドを弾いた。弾くたびに秋奈の顔が浮かぶ。この曲は、彼女に捧げる為の曲だ。
一度はキャンセルになった秋奈との初デートの日が、とうとうやってきた。
俺はいつもの黒いスーツを着た。別にお洒落をしている訳ではない。黒のスーツしか持っていないのである。スーツだけは三十四着持っていた。
考えてみると、俺は生まれてからこのかた、ジーパンというものを一度もはいた事がなかった。友人のジーパン姿を見ていると、とても窮屈そうに感じ拒絶反応を起こしてしまうのだ。
「背も高いし、ジーパンが似合うと思うよ」
よく人からそう言われるが、俺は絶対に嫌だった。多分、一生ジーパンをはく事はないだろう。ある意味それが俺のポリシーなのかもしれない。
気分良く駅へ向かう。足取りが軽い。秋奈と出逢ってから、まだ一週間も経っていない。俺の完全な一目惚れだった。その子との初デート。気分はウキウキして当然だ。
時間は一時五十分。もっと早く着いてもよかったが、昨日寝たのが遅かったので、起きられなかったのだ。駅の入り口を潜り、改札口へ向かう。
遠くを見つめながら、俺を待っている秋奈の姿が見えた。俺のいる方向とは逆を向いていた。俺はその場で立ち止まり、しばらく彼女の横姿をジッと見つめる。
やっぱり秋奈は可愛い。通りすがりの男どもが、チラチラと秋奈を見ていた。悪い虫がつかないように早く行かなくちゃ……。
「ごめんね、けっこう待たせたかな?」
俺に気付くと、秋奈は大きな瞳を開いて嬉しそうにニッコリと微笑んでくれた。
「いえいえ、私も今さっき来たばかりです」
「お袋さん、大丈夫だったの?」
「ええ、電話で言った通り、大した事ないんですよ」
「よかったよかった…。俺、結構心配しちゃったよ」
「すみません、心配掛けさせてしまい…。あ、あと、この間も急で申し訳なかったです」
「しょうがないよ。事情があったんだもん。それで、俺との約束を優先にしてたら、逆に怒ってたかもしれないよ」
心にもない事を言ってみた。俺が彼女を怒れるはずがない。秋奈は恥ずかしそうに笑った。少しは効果があったようである。
「今日は何か食べたいものある?」
「うーん、神威さんのお勧めでいいですよ。私、好き嫌いないですから」
「じゃあ、前に話した焼きアナゴのおいしい寿司屋へ行こう」
「はい、楽しみです」
「食べたら、ほっぺたが落ちちゃうかもしれないよ」
「やだー…、そんなにおいしいんですか?」
「もちろん、じゃないとわざわざ誘わないよ」
俺は不適な笑みを浮かべながら言ってみた。
俺と秋奈は電車に乗って、まずは新宿へ向かう。北方に出くわしたら、親戚の法事で休んでいるのでまずいが、まあどうでもいい事だ。
外の景色を見る秋奈。俺はその横顔にずっと見とれていた。
「やだ、神威さんたら……」
「え、どうしたの?」
「そんなに私の顔をジロジロ見ないで下さい」
「しょうがないじゃん」
「え?」
「俺、秋奈がメチャクチャタイプなんだからさ」
「……」
顔を真っ赤にして下をうつむく秋奈。そんな行動もとても可愛く感じる。
今までは女とこうしていても、最後には抱くという下心が必ずあった。でも純粋に俺はこの状況を楽しく思っている。もちろん秋奈を抱きたくないというのではない。むしろこれだけ気に入っているのだから、絶対に抱きたい。ただそんな簡単に抱くというのではなく、彼女に関してだけはザナルカンドをこの手で聴かせてからだという思いもあった。
今、俺が君に聴かせる為にピアノを始めたんだと言ったら、どんな表情をするだろうか。考えるとウズウズしてくる。
「どうかしたんですか?」
「い、いや……」
「何か神威さん、とても楽しそうだから」
「そんなの当たり前じゃん。こうして秋奈と二人で話しているんだもん」
「もう…、恥ずかしくなるからやめて下さいよー」
こんな会話をしている内に、電車は新宿へ到着した。
最初に新宿プリンスホテル地下一階にあるロビーラウンジで、コーヒーを飲む事にした。特別おいしいと訳ではないが、ここのマネージャーと仲が良かったのだ。
西武新宿駅のエンジ色のレンガの壁沿いの道を歩く。道路を挟んだ向こう側は歌舞伎町のエリアになる。ホテルの入口は駅前通り沿いにあった。
ホテルに入り、地下一階への階段を降りる。右手にフロントがあり、俺たちはそのまま正面に向かう。キャッシャーにいたマネージャーが、俺に気付いて近づいてくる。
「ようこそいらっしゃいませ、神威さん」
「あ、お久しぶりです、マネージャー」
ロビーラウンジ内は六名ほど客がいた。マネージャーは比較的、人のいない席を選んで座らせてくれる。
「今日は暑いですね」
「そうですね。神威さん、お時間あったらたまにはいらして下さいよ」
もうそんな余裕あるほど稼いでない。そう言いたかったが、秋奈の前である。適当に相槌を打っておく事にした。
「ええ、お言葉に甘えさせていただきます」
「ご注文、よろしければ……」
「アイスコーヒーを二ついただけますか?」
「かしこまりました」
俺とマネージャーのやり取りを秋奈は、ポカンとした表情で眺めていた。
「ん、どうしたんだい?」
「いえ、神威さんって顔が利くんだなあって……」
「そんな事ないよ。三十にもなれば顔が利く場所なんて、どこかしらあるもんだ」
「すごいですよ」
「そんな褒めたって、何も出てこ……」
そう言いかけて思い留まる。昨日、買っておいた秋奈へのプレゼント。今の内に渡しておこう。
「あ、これ…。良かったら受け取って」
ピンク色のチェックの包み紙を秋奈へ手渡す。
「え、私ってこの間、誕生日だって言いましたっけ?」
「誕生日…? え、誕生日って秋奈の?」
「はい、四月九日です。明日ですけど……」
「じゃあ、明日で二十歳になるんだ?」
「ええ、そうなんですよ」
今日は四月の八日……。
二十歳になる誕生日の前日に、俺とこうして逢ってくれている。そう思うと喜びは倍増した。
「これ、良かったら開けてもいいですか?」
「どうぞ、その為のプレゼントだし」
「嬉しい、ありがとうございます」
秋奈は丁重に包み紙を開けていく。さすが女の子である。俺だったら乱暴にビリビリと、破っているに違いない。
「あー、これ春の新製品で、限定発売だったやつじゃないですかー…。嬉しい…、これ、とても欲しかったんです。高くて手が出なかったんですけどね。すみません。これ、高かったですよね?」
「いやいや、そんなに喜んでくれて何よりだよ」
「あれ? 絵も入ってる。うわ~、何だかいい絵ですね。とっても神秘的だわ。誰の絵なんですか?」
「実は俺が描いた絵なんだけど……」
「本当に? すごい、神威さん。絵の才能あるんじゃないですか?」
こんなに嬉しがるとは微塵も想像していなかった。岩崎のおばさんに心の中で感謝する。絵も久しぶりに気持ちを込めて描いて、本当に良かった。
アイスコーヒーが運ばれてくる。ここのアイスコーヒーは氷までコーヒーでできているのが特徴であった。
秋奈は可愛らしく口をすぼめ、ゆっくりストローに口をつける。一つ一つの動作を見ているだけで、俺は幸せに感じた。
このプリンスのマネージャーと知り合ったのは、以前の店『ワールド』でだった。当初は、プリンスホテルの人だとは思ってもいなかった。仕事中なので客から話してこない限り、こちらから職業を聞くのは失礼にあたる。
最初は礼儀正しく金をよく落としてくれる客だなというのが、第一印象だった。
よく客は平等に接しろというが、それがすべてではないと、俺は思っている。何故ならばこちらの店側にとっても客は平等に接してはくれないからだ。
例えば金の使い方だけでも差は出る。テケテケにゲームをしながらINも入れず、ダラダラと五時間粘る客もいれば、一時間でIN六万円も回してくる客だっている。前者と後者、どちらが大事か? もちろん両方大事な客ではある。だからサービスは最善を尽くしてするが、後者の客にはそれだけでは逆に不公平になると思うのだ。
金の面だけではない。従業員に接する客の対応。俺は客だぞという感じで偉そうな態度の客もいれば、こちらの様子を気づかいながら対応してくる客だっている。
裏稼業をするほうだって人間である。顔には出さないものの、丁寧に応対されると嬉しいものだ。
だからこそ俺は思う。きちんとしたサービスをできた上での理論だが、えこいひいきしてこそ始めて平等であると……。
その点でいうと、プリンスのマネージャーはゲーム屋の客として最高の部類に入った。よく職場の仲間も連れてきてくれ、陽気にゲームへ没頭し、金を使い果たしていく最高級の客だった。
当時彼らが来店すると飲み物を出してからまず俺は、自腹でタバコを買いに行った。彼らのタバコがなくなるのを見計らって、さりげなく差し出す。最初は戸惑っていたが、表情を見る限り、嬉しかったに違いないという自信はあった。
プリンスの従業員はそれ以来、本当によく来店するようになった。俺はオーナーにも許可を得て、彼らの負けが込むと、通常の客に入れる『特サ』という五千円分のサービスをバンバン入れた。
ある日、俺が別の女と新宿でデートをしているところ、食事をするのにたまたまプリンスホテルを選んだ。地下二階にあるイタリアンレストランのアリタリアへ行こうとして、階段を降り通路を進む。
「いらっしゃいませ」
黒服の従業員が俺たちに気付き挨拶をした時、お互いが顔を見合わせた。いつも『ワールド』の店に来ていた客の一人が、このレストランの従業員だったのである。俺も向こうもビックリしていた。本当に偶然だった。
中へ案内された俺たちは、最高のもてなしを受けた。
「良かったら、お飲みになって下さい」
プリンスの従業員は、俺の好きなウイスキーをデカンタに入れて持ってきてくれた。
以前『ワールド』で、俺がウイスキーを好むという会話をした事をちゃんと覚えていてくれたのだろう。しかもショットグラスまで用意してあった。俺の通常の飲み方まで、記憶してくれていたのだ。まさにサービスマンの鏡である。
一人一万円のコース料理を二人分頼む。するとメニューにはない料理が、テーブルの上にどんどん置かれていく。四人掛けのテーブルだけでは置ききれず、隣の席のテーブルまでくっつける始末である。
「神威さんが偶然来たの、うちの料理長まで喜んでいるんですよ。勝手に料理を作っていますので、苦しかったら残して構いませんからね」
そう言って従業員は微笑んだ。女の前で格好をつけさせてもらったし、最高のもてなし方をされた。
食事をしている間、各セレクションから見覚えのある従業員たちが、わざわざ俺に挨拶しにテーブルまで来てくれた。細かい心遣いが非常に嬉しかった。
しかしこれだけのサービスを受け、帰りの会計でいくらぐらい掛かるのだろうか? 少々不安だった。
「今日は、六千円でいいですよ」
ありえない金額だった。安過ぎる……。
「え、だって、一万のコースを二つは頼んでますよ?」
「いいんですって、お互いさまです。持ちつ持たれつって言葉あるじゃないですか」
そう言って、従業員はウインクした。
レストランを出ると、一緒にいた女はベッタリと俺の腕にしがみついてきた。勝手に俺の事を何者なんだと勘違いしたのだろう。この日、苦労する事なく簡単にホテルまで行けた。
これは三年前の話……。
それ以来、俺とプリンスホテルの仲は急激に良くなった。
新宿プリンスホテルを出ると、今度は浅草へ向かう。
花屋敷や浅草寺のある近くの寿司屋。うまい焼きアナゴを秋奈に食べさせたかった。以前、ホテルで働いていた頃、よくそこへは行ったものである。
地下鉄田原町の駅で降り、国際通りを真っ直ぐ歩く。商店街は下町の雰囲気を醸し出していた。懐かしい。浅草に来るのは何年ぶりだろう。
「秋奈は浅草って、来た事あるの?」
「いえ、初めてですよ。私、こういう雰囲気って大好きです」
「うん、俺もなんだ。不思議と落ち着くんだよな……」
酒のイロハを教わった地でもあった。いわば俺のバーテンダーとしての原点の場所だ。もう、あれから五年以上経っている。
「ちょっと歩くけど大丈夫かい?」
「はい、問題ないですよ」
タクシーで行くには近過ぎて、徒歩だと多少は歩く。そんな場所にうまいアナゴを食べさせる緑寿司はあった。
五年経つのに街並みがあまり変わっていない。まだ四時だったので浅草寺や、アーケードの掛かった仲見世などを見て、時間潰しをした。
「お腹は減ってない?」
「大丈夫ですよ」
二天門に安置される増長天と持国天。昔から俺はこの二天門が好きだった。もっと有名な雷門や宝蔵門と比べ、華麗さに欠けるところはあるにせよ、二つの像の力強さが気に入っていた。だが、雷門の雷神、風神も嫌いではない。
「月曜日なのに、結構人が出ているんですね」
「そうだね。みんなご利益を求めて来てるのかもしれないな」
俺は五百円玉を二枚取り出して、秋奈に渡そうとする。いつもならお参りで投げる賽銭は百円だった。でも、今日は秋奈と一緒だという特別な日なので奮発してみた。
「神威さん、駄目ですよ」
「え、何が?」
「お賽銭箱には自分のお金で入れないと、効果がないですよ。だから気持ちだけもらっておきます」
「ああ、それはそうだね」
彼女のしっかりした一面が見れ、さらに俺は惚れ直した。目を閉じ、両手を合わせる。願い事を懸命に、頭の中で思い浮かべた。
秋奈とこうやって、ずっと長くいられますように……。
あと、彼女にザナルカンドを弾かせる日が来られますように……。
あ、それには俺がちゃんと、ザナルカンドをピアノで弾けるようになりますように……。
彼女も俺に惚れてくれますように……。
できれば明日の秋奈の誕生日も一緒に過ごせますように……。
本来明日は『マロン』で仕事だが、そんな状況になれるならサボってしまおう。
こんな気持ちになったのは初めてなので、神様も応援されますように……。
いけない、願い事が六つになっちゃった。俺は五百円玉のほかに百円玉も足し、賽銭箱に投げ入れた。
横をチラッと見ると、秋奈は目を閉じた状態で、しっかりと願い事をしている。何をお願いしているのだろうか。非常に気になる。彼女のまつ毛が、一瞬、ピクリと動いたのを見逃さなかった。
俺は慌てて正面を見て、誤魔化すように鐘をガラガラ鳴らした。
そろそろいい頃合いだったので、緑寿司へと向かう。俺も浅草自体、本当に久しぶりだったので懐かしい。あの焼きアナゴを想像すると、自然に唾が口の中に溜まった。
「すごいおいしんだよ」
「ええ、とても楽しみです」
国際通りを横断して真っ直ぐ歩いていると、左手に緑寿司が見えてくる。まだ、のれんが出ていないようだ。
「ちょっと早かったかな、来るの……」
入り口の扉に、張り紙が貼ってあるのを気付く。
『本日定休日』
頭をハンマーで殴られたような気がした。よりによって何で今日が定休日なのだ。はるばる遠くからやってきたのに……。
「あれれ、お休みみたいですね」
「ごめん、本当にごめん……」
俺は誠心誠意、必死に謝った。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。あれだけおいしい焼きアナゴだと散々あおっておき、期待を裏切ってしまったのだ。
「そんなに謝らないで下さいよ。また、次の機会にくればいいじゃないですか」
また浅草で秋奈とデート…。それもナイスアイデアだ。
「ありがとう」
「そんな、私、充分楽しいですよ」
とても優しい秋奈の言葉。俺の心を暖かく包み込む。
「じゃあ、別のお寿司屋へ行こう」
「ええ」
自分の選んだ女に間違いはなかった。俺の目に狂いはなかったのである。こんなにいい子はそうそう探してもなかなかいない。真剣に惚れたのが、秋奈で本当に良かった。ザナルカンドの主人公の台詞がまた、思い浮かんできた。
「俺、あんたの息子で良かった……」
ゲームをやり込んだ者は、この台詞に痺れるであろう。
「俺、秋奈を選んで良かった……」
俺は今、この台詞で自分に痺れていた。
「え、神威さん、どうしたんですか?」
思っていた事を実際、口に出してしまったようだ。
「い、いや……」
自分でも考えていなかった予告なしの告白…。当然、発してしまった言葉。今さら後悔しても遅い。俺は軽いパニック状態になった。
秋奈のほうをさりげなく見る。
彼女は下にうつむき、モジモジしていた。何気なく発してしまった台詞も、効果があったようである。
怪我の功名…。昔の人はいい言葉を残してくれたものだ。
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