浅草には、浅草寿司屋通りと呼ばれる寿司屋の密集した通りがあった。お目当ての緑寿司が休みなので、そこへ向かう事にした。
先ほどの台詞のせいか、秋奈はまだ顔を真っ赤にして黙った状態で歩いている。何度かデートを重ねる内に、彼女から腕を組んでくれるようになるだろうか。勝手に想像すると、顔がニヤけてくる。俺から肩を組んでもいいが、今はまだ早い。焦るなよと自分に言い聞かせた。
浅草に通勤していた頃は緑寿司以外の寿司屋に行っていない。なので彼女に店を選ばせてもいいだろう。
「ねえ、秋奈」
「はい……」
「どこか入りたいお店あるかな?」
「私、全然、分からないので……」
「俺だってそうだよ。じゃあ、適当にその辺の入ろうか」
「はい」
センスの良さそうな店構えの店を選び、中へ入った。
「へい、らっしゃい」
元気のいい板前が挨拶をしてくる。店内は多数の客で賑わっていた。俺たちはカウンターに腰掛ける。
「先に何かよろしければ、お飲み物どうぞ」
「ウイスキーってあります?」
「ええ、ありますよ。国産のやつになりますがね」
「じゃあ、それをストレートで下さい」
「へい、ウイスキー、ストレートで一丁」
秋奈は飲み物のメニューを真剣に眺めていた。
「ビ、ビールを下さい……」
こういった店に来るのは初めてなのか、声が震え、緊張していた。
「ビンですか、生にしますか?」
「え、えっと……」
そのような場に慣れていないのか、秋奈は困っていた。
「あ、板前さん。中生でお願いします」
「へい、中生、一丁」
秋奈は俺を見て、微笑んでくれた。
「あまり寿司屋は来ない?」
「ええ、恥ずかしながら…。親の仕送りも大変なので、贅沢できないんです」
「全然、恥ずかしい事じゃないよ。俺はそういう謙虚なところって、とても大事な事だと思うよ。親に対する感謝の気持ち。秋奈を見て、俺はホッとして癒されるよ」
「そんな……」
「だって最近の若い子って勘違いしてるの、多いじゃない?」
「そうですか?」
「うん、俺は秋奈に逢うまで、色々な飲み屋に行っていた。キャバクラとかね…。その分、様々な女をたくさん見てきたつもりだ。だから最初に逢った時、言ったでしょ?」
「え?」
「君みたいなタイプって、ほんと初めてだって……」
秋奈はプチトマトのように顔を赤くしている。今のは自分でも決まったと手応えを感じた。改心の一撃というやつである。
俺は出来る限り優しく彼女を見つめた。秋奈は俺と目が合うと、慌てて視線を反らす。本当に可愛い。年は十歳も離れているが、二十歳になれば充分立派な女性である。いい雰囲気が二人を取り囲んでいた。
「へい、お待ち」
カウンター越しに酒が乱暴に置かれ、ムードは一気にぶち壊しになる。
「何を握りましょ?」
この野郎…、少しは空気を読めってんだ。怒りを顔に出さないよう、冷静にメニューを見た。
「好きなもの頼んでよ」
「うーん、並を一人前下さい」
「へい、並いっちょ……」
慌てて俺は板前の声を遮った。
「待って下さい。並じゃなく、特上でお願いします」
「へい、特上、一丁」
秋奈は遠慮して並を注文したのである。心遣いは嬉しいが、二人の初デートなのだ。俺は精一杯見栄を張りたかった。
「すみません、神威さん……」
「ううん、いいんだ。でも、初めぐらい俺に見栄を張らせてくれよ」
「ありがとうございます。私、けっこう貧乏性なんです。あ、私ばかりじゃなくて、神威さんも注文して下さいよ」
「ああ、俺は簡単。すみません、まぐろの赤身を一人前下さい」
「へい、まぐろ赤身、一丁」
寿司屋に自分で誘っておきながら、俺はまぐろの赤身以外、食べられなかった。緑寿司の焼きアナゴは特別で、それ以外はまったく駄目だったのである。
そう秋奈に説明すると大笑いしていた。
多少腹もこなれたし、酒でも飲もうかと誘う。秋奈は快く返事をくれ、俺は以前働いていた浅草ビューホテルへ向う事にした。
もう五年は経つのだ。当時俺と一緒に働いていたスタッフはまだいるだろうか? ホテル内へ入ると、右手にはカピタンという多国籍料理のレストランがある。その先にはフロント。さらに奥へ進むとエレベーターがある。
うん、変わっていない。非常に中の空気が懐かしく感じた。
エレベーターに乗り込み、二十八階を押す。このホテルの最上階である。昔はいつも、従業員用のエレベーターが主だったので、通常のエレベーターは新鮮に感じた。
六階を通過する時、和食レストランの歌留多を思い出す。よく朝の五時に起きて、朝食のヘルプに行ったっけ。中庭の池にいた亀の亀吉はまだ元気でいるだろうか? ヘルプに行く度、いつも俺がパンをあげていたっけな……。
最上階へ到着すると、目の前には会員専用のメンバーズバーが見える。
セントクリスティーナ。メンバーズバーの名前である。まだマネージャーの大川さんはいるかな…。俺は扉を開け、中を覗いた。
扉の開いた音で気付いたのか、誰かが近付いてくる。
「いらっしゃ…、おぉ、神威じゃないか」
「お久しぶりです」
以前、違うセクションなのに可愛がってもらった大川さんが出迎えてくれた。五年経つのに、この人は全然変わっていない。顔を見て少し安心した。
「聞いたぞ、新宿で今、バーテンやってんだってなあ」
今の裏稼業を言う訳にはいかなかったので、俺はそう回りに誤魔化していた。
「ええ、おかげさまで……」
「ん、誰だよ。横の可愛い子はよ」
大川さんは秋奈を見て、ニヤニヤしている。
「あ、紹介遅れました。秋奈と言います。大学生なんですよ」
俺は秋奈をさり気なく、自分の彼女のような感じで紹介した。
「はじめまして……」
秋奈も特に嫌な顔はせず、笑顔で合わせてくれた。
「この野郎。おまえ、三十だろ? こんな若い子ゲットしやがって……」
「えへへ…。可愛いでしょ?」
「うるせえ、この野郎」
悔しそうな表情をする大川さん。昔は遊んでいたみたいだが、今は四十を越えた、ただのやんちゃオヤジである。
「まあいい、寄ってけよ。今、まだ客は誰もいないからよ」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます」
「失礼します」
セントクリスティーナへ入り、通路を左手に沿って歩く。俺たちはカウンターに腰掛けた。テーブルの向こう側は、壁がガラス一面になっている。
「おまえは確か、グレンリベットの十二年だったよな?」
いきなり言われたので、びっくりした。
「五年も経つのに、よく俺の好み覚えていましたね」
さすがはプロフェッショナルなバーテンダーである。いつもはふざけているように見えて、締めるところは締める。酒に関しては、もの凄い知識と記憶力があった。
「当たり前じゃねえかよ、馬鹿野郎が…。俺を誰だと思ってんだ?」
「『恐るべし』…、ですよね」
「おまえだって、よく覚えてるじゃねえかよ」
「それはそうですよ」
休みの日や、ホテルに泊まりで仕事の時は、よく一緒に麻雀をやって遊んだ。不思議とこの人は妙な悪運があるようで、ビリでオーラスなのにいきなり役満とかでかい手が入ったり、リーチのみの安い手に裏ドラがたくさん乗り倍満まで化けたり、一発でツモったりとメチャクチャだった。そんな悪運が何度も続くので、みんなからついた仇名が『恐るべし」だった。大川さんはその仇名を自分でも気に入っているらしい……。
「えへへへ……」
いやらしい笑い方でワザと笑う大川さん。この姿を見た人は、バーテンダーとは逆立ちしても思えないだろう。横で秋奈は、顔を真っ赤にして笑っていた。
「お腹は減ってるか?」
「さっき、お寿司食べてきたんです」
「何だと、この野郎」
「そう言うと思って、これどうぞ」
俺はおみやげで、特上寿司を五人前、買っておいたのだ。俺が働いていた隣のラウンジ、ベルヴェデールには四人前も渡せばいいだろう。その一つを大川さんに渡す。
「気が利くじゃねえかよ、この野郎」
機嫌が良さそうなので、俺は少しだけ甘える事に決めた。
「じゃあ、大川さん。下の唐紅花の……」
「車海老のエビチリだろ」
「いいっすか?」
「おうよ、ちょっと待ってな。注文してくるから」
「すみません」
大川さんは駆け足でセントクリスティーナを出て行った。ホテルマンは通路を決して走っちゃいけないというのに…。相変わらずだな……。
カウンターの向こうに広がる景色。秋奈はしばらく黙って景色を眺めていた。
「仲がいいんですね」
「え?」
「だって五年も会ってなかったんでしょ?」
「ああ、まあね」
「それなのに、すごいなあって思いました」
変なところで秋奈は感心していた。楽しんでくれているから、まあいいか。
「さっきエビチリって言ったでしょ?」
「はい」
「この下の二十七階に唐紅花って中華レストランがあるんだ。そこのエビチリって車海老を使ってるから、とてもでかくて、しかもすごくおいしいんだよ」
「へー…、楽しみです」
通路から息を切らしながら、大川さんが帰ってきた。
「ひー、疲れたよ」
「大川さん、電話で頼めばよかったじゃないですか。いちいち階段降りて、下まで言いに行かなくても……」
「馬鹿野郎、おまえを彼女と二人っきりにさせてやろうと、気を使ったんじゃねえか」
「そうだったんですか?」
「当たり前だ」
俺と大川さんのやり取りを見て、秋奈は声を出して笑っていた。
「そうそう、彼女のほうはお酒どうする?」
「うーん……」
「よし、分かった。俺がとっておきの大川スペシャルを作ってやる」
「大川スペシャルですか?」
「そうだ、俺のオリジナルカクテルよ」
そう言うなり大川さんは、準備をしだした。シェーカーに材料を入れ、氷を静かにシェーカーへ落とす。大川さんはシェーカーを振る時、舌を少しだけ出す癖があった。それは時間が経っても変わっていなかった。
俺は昔話に花を咲かせ、有意義な時間を送った。もっぱら秋奈は、俺たちのエピソードを聞いては受けて笑っていた。
唐紅花からエビチリが届く。秋奈は車海老のエビチリを見て驚いている。赤ん坊の握りこぶしぐらいある海老のでかさ。大抵の人は、初めてこの料理を見ると大抵は驚くものだ。
何でも素直に喜んでくれる秋奈の性格。そばで見ているだけで幸せになってくる。
セントクリスティーナを出る時、大川さんは会計をかなり安くしてくれた。
「悪いから、ちゃんと払いますよ」
「いいんだって、三千円だけでいい」
「だって車海老のエビチリだけでも、六千円はするじゃないですか」
「いいんだよ。隣も行ってこいよ。今日はおまえと仲が良かった梅木もいるぞ」
「じゃあ、今回はご好意に甘えます。ご馳走さまでした」
「とてもおいしかったです。カクテルもお料理も……」
「秋奈ちゃんだっけ? 今度は俺とデートしようね」
「勘弁して下さいよ、大川さん」
秋奈が釣られて返事をしないか、冷や冷やした。
昔の職場であるベルヴェデール。何度も通った見慣れた通路。その短い通路を歩くと、外人の声で歌が聴こえてくる。今の俺にはどの歌手か分からないが、すべてが懐かしく感じる。
「いらっしゃいませ。お客さまは二名様でよろしいですか?」
「ええ、そうです。あの、梅木さんって、今日はいらっしゃいますか?」
「梅木ですか。ええ、よろしければお呼びいたしますか?」
「お願いします」
赤モンキーという短いチョッキを着たスタッフは奥に消えていった。あれから時間が経っているので当たり前だが、俺の知らない顔だった。
あまり待たずに梅木さんが来た。俺の顔を見ると、嬉しそうに笑いを我慢しながら、近付いてくる。
「お久しぶりです」
おみやげの寿司を手渡した。
「そんなに気を使うなって、本当に久しぶりだなー、元気か?」
「ええ、もちろんです」
「あれ、横の子は……」
「あ、秋奈といいます。はじめまして」
礼儀正しくお辞儀をする秋奈。梅木さんも丁重に頭を深く下げた。
「とりあえず席に案内するよ。浅草側と上野側、どっちがいい?」
「どちらでもいいですよ。あ、でも、できたら浅草側で……」
「分かったよ」
梅木さんのアテントで、俺たちは中へ進む。真ん中にあるステージでは、外人歌手が歌を歌っている最中だった。客の入りはまばらだった。
「うわぁ~、綺麗……」
秋奈は思わず溜め息を洩らしていた。ベルヴェデールでは両サイドの壁がすべてガラス張りになっている。高所恐怖症の人は窓際には座れないだろう。そのぐらい綺麗な夜景が、辺り一面見えた。
「こういう場所も初めて?」
「ええ、さっきも感動しましたけど、こっちはもっとすごいですね…。何だか吸い込まれそう」
本当は向こうの会員制のほうが、普通じゃ入れないので価値があるのだが、あえて言うのはやめておく。秋奈のムードを壊したくなかった。
「ほら、あそこの建物が競馬のJRA浅草。すぐそこに見えるのが、さっき言った浅草寺。近くにジェットコースターみたいの見える?」
「あ、はい……」
「あれが花やしきだよ」
「へー、想像してたより小さいんですねー」
秋奈は窓にしがみつきそうな勢いで眺めている。
「あ、タイミングが良かった」
「え、何がです?」
「ほら、あそこで遠くに花火見えるでしょ?」
「ほんとだ……」
「あれ、ディズニーランドの花火だよ」
「へー……」
無我夢中で景色を眺めている秋奈。俺はしばらく話し掛けるのをやめた。彼女の横顔は、薄暗い店内でさらに美しく見えた。
「夜景なんかより、君のほうがずっと奇麗だ……」
そう言いたかったが、キザ過ぎるのでやめておく。
梅木さんがメニューを持ってくる。でも一冊しかなかった。
「どうせ、おまえはグレンリベットだろ」
「へへ、よくご存知で……」
「彼女はどうする?」
「あ、梅木さん。俺が以前考えたオリジナルカクテルの『ミューテーション』ってレシピ、覚えてます?」
「覚えている訳ないだろ。何年前だと思ってんだ。でもレシピを言えば作ってきてやるよ」
「えーとですね、ジンベースで、ジンはビーフィーターを使ってください。それとマティーニ用に使うグラスには、ブルーキュラソーをつけて砂糖でのスノースタイルで……」
「あーあー、思い出したよ。それにグレープフルーツジュースと、最後にブルーキュラソー、シロップグレナデンを落とす、三色のカクテルだろ?」
「そうです、そうです」
「しょうがねえな、まったく…。食い物は?」
「お任せします」
「あいよ、任せときな」
梅木さんは一瞬だけニタリと笑い、遠ざかっていった。ちょうど外人歌手のステージが終わり、スローテンポなジャズが掛かりだす。ゆっくり話す時はショーステージの音量はうるさ過ぎるのでタイミングがいい。
「神威さんってすごいですよね……」
「ん、何で?」
「だって今日だけで、色々なところ連れてってもらい、そのほとんどのところが顔利くじゃないですか」
それはそうだ。秋奈にいいところを見せたくて、知り合いばかりのところへ連れて行っているのだから。でもここは謙遜しておこう。
「たまたまだって…。でも、どうせ秋奈と行くなら、少しは知り合いがいるところのほうが、いいかなって思っただけだよ」
「今日は忘れられない日になりそうです……」
下をうつむきながら、恥ずかしそうに彼女は言った。テーブルの上にあるキャンドルの明かりが、微かに秋奈の顔を照らす。
「そんな言われ方をされたら…。本当に光栄だよ……」
梅木さんが、カクテルとグレンリベットを運んでくる。俺はショットグラスにウイスキーを注ぎ、秋奈と乾杯をした。
ホテル側も俺に気を使って、次々と料理を運んできた。
オショートルのキャビア……。
世界三大珍味の一つ。グレードはベルーガが最高級で、オショートル、セブルーガという位置づけになる。キャビアとはチョウザメの卵。もちろん俺は食えない。あのプチプチとした食感がたまらなく嫌だった。
フォアグラのペースト……。
これも三大珍味の一つで、ガチョウの肝臓。それをペーストした状態で、パンにぬってある。もちろんこれも俺は駄目だ。まず、匂いが嫌だ。
チーズの盛り合わせ……。
カマンベールチーズやブルーチーズ。エメンタールチーズにゴーダチーズなどで構成されている。俺はカマンベールチーズしか好きではない。
ミックスピザ……。
オーソドックスな普通のピザ。本当はこういうのが一番好ましい。
エスカルゴのガーリック風味……。
フランス語でカタツムリ。それをパセリやにんにく、エシャロットのみじん切りを練ったバターと、一緒にオーブンで焼いたものだ。これはパンの上に乗せて一緒に食べるとかなりおいしい。
フルーツの盛り合わせ……。
もはや説明はいらないであろう。
一つ一つを秋奈に丁重に説明した。
「このカクテル…、すごい綺麗で、とてもおいしいです」
「ありがとう。昔、ここで考えた俺のオリジナルなんだ」
「濁った黄色で、下のほうが赤と青って、ちゃんと断層になっていますね。それにグラスの周りについた青色の砂糖…。それと一緒に飲むと、さっぱりしながら、ほんのり甘く、私にはすごい飲みやすいカクテルです。『ミューテーション』でしたよね?」
俺にとって最高の褒め言葉だ。それも秋奈から言われる日が来るなんて……。
「うん、そうだよ。突然変異って意味なんだ。そんなに喜んでくれて俺のほうが嬉しいよ。ありがとう……」
秋奈の目をジッと見つめる。頬がほんのり赤くなっていた。俺にはアルコールのせいか、恥ずかしくてなのか分からなかった。
秋奈は、俺のホテル時代の話を聞きたがった。
「そんな面白くないよ?」
「そんな事ないです。神威さんがここにいた時の話、ぜひ聞いてみたいです」
何かを期待するような顔で、俺を見つめる秋奈。仕方ない…。俺は、昔のエピソードを思い出しながらゆっくりと話し出した。
俺が二人連れのカップルを今と同じ席に案内した時の話……。
席に着く前から、男性の客は怒っているようだった。色々な客を見てきた俺は、それが何なのかすぐに理解できた。
「俺はバランの三十年。こいつはねー……」
「私、お酒弱いので、ジンジャーエールでいいです」
「ふざけんな、ここまで来て…。おい、兄ちゃん。酒…、そうだ。モスコ、モスコミュール持って来い」
やけに威張った客だった。
「困ります。私、お酒、駄目なんですよ」
「うるせー、おい、兄ちゃん早く持って来いよ」
「はい、かしこまりました」
俺の対応に女性客は恨めしそうな視線を向けてくる。気づかないふりをしてカウンターへ向かう。
このラウンジでのモスコミュールは、非常に贅沢な作り方をしていた。ライムを二分の一使い、十字に線を入れてから、グラスの底に軽く絞ってそのまま置く。氷を入れ、スミノフのウォッカ、ジンジャーエールの順に注ぎ、軽くステア。マドラーを添えて出すのだが、この時だけ俺は、一切ウォッカを入れなかった。
モスコミュールの酒抜きだと、サラトガクーラーというノンアルコールカクテルに変身する。見た目はモスコと変わらない。ウォッカは無味無臭なので、匂いを嗅いだぐらいでは、そうそう素人には気付かれない。
先ほどのケースの場合、ホテル側にとって本当の客は男性のほうである。何故なら金を払うのは絶対に男だからだ。だからあの場面では男を立てないといけない。でも陰で女性の味方ですよと分からせてあげればいいのだ。
先に俺は男性客のバランタイン三十年をテーブルに置いた。次に女性客にサラトガクーラーを置く。そこで初めて俺は言った。
「お客さま、大変そちらのカクテルは、アルコール度数が強めになっていますので、ごゆっくり飲んで下さい」
「うるせえよ、早くあっち行け」
乱暴な口調で話す男性客。こっちに注意を向けたから、モスコミュールの確認をいちいちしなくなるだろう。
恐る恐る口をつける女性。一口飲んで、こちらの意図が分かってくれたようだ。不安で強張った表情が一辺して緩んだ。
「あら、お勧めのカクテルって、おいしいですね」
「だろ、もっとガンガン飲めよ」
女性が一安心したところをこの目で確認してから、俺は静かにその場を離れた。
日曜日は、いつもの外人歌手のステージは休みだった。代わりにピアノの演奏や、バイオリンの四重演奏などで、ステージを開催していた。
ラウンジ内の真ん中にあるステージ。たまに困った客もいた。ステージの前で、音楽に合わせ勝手に踊りだす客がいる事だった。四回目の最後のステージの時のみ、その行為をホテル側は黙認していた。俺的にはそれで客が楽しくいられるなら、それも有りかと思っている。
ある日、注文された酒を運んだ時に、老夫婦までいかないぐらいのカップル客から声を掛けられた。
「ねえ、あそこのステージの下で踊ってはいけないの?」
「いえ、最後のステージの時は構わないですよ。よろしかったらご自由に踊り下さい」
婦人客は旦那が隣にいるのに、いやらしい笑い方をしながら俺を見てくる。
「じゃあ、お兄さん。私と一緒に踊ってよ」
げっ…、そうくるか。もちろん顔には微塵も出さないようにした。
「いえ、あのですね…。当ホテルでの従業員のそのような行為は禁止されています。申し訳ないのですが……」
「客が言ってるんだから、ちょっとぐらい、いいじゃないのよ」
「そのようにおっしゃられましても、私が困ってしまうのです」
「じゃあ、私がここのマネージャーに話つけるから、それならいいでしょ?」
駄目だって言っているのに、しつこい奴だな……。
「いえ、あの…、恥ずかしい話ですが、私はダンスがまったく踊れないのです」
「そう…、あなたはこんなおばさんと一緒に踊るのが、嫌だって言いたいのね?」
何でそうなるんだ、このボケ。そう声に出して言ってやりたい。
「それでは今、私がマネージャーと相談してきますので、失礼します」
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
俺は聞こえなかったふりをして、ラウンジ内から姿を消した。マネージャーに事情を話すと、面倒臭そうな顔をしている。
「そういう訳で、マネージャー、あとは頼みますよ」
そのまま俺は奥に引っ込む事にした。あとで時間が経ってから、中を覗くと、マネージャーが嫌そうな顔をしながら、ステージの前であのおばさんと踊っていた。
ベルヴェデールはスカイラウンジという名目なので、酒というよりもメインは、窓際の席から見える景色だった。
基本的にカップルや女性客同士が多かった。窓際の席が埋まってしまうと、空くまでは中央の席で座ってもらうようになる。
一度だけ相撲取りが来た。椅子にそのでかいケツが入るのかなと心配していると、すごい勢いで座った為、椅子が壊れた事もある。
たまに男性客同士で来る人もいた。その時は暇で窓際の席に案内したが、すぐに混み合ってきた。
中央の席に座っていたベタベタのカップルが、苦情を言ってくる。
「すいません、窓際の席って空かないのですか?」
「申し訳ございません。只今、窓際はすべて埋まっておりますので、空き次第のご案内とさせていただきます」
「早くしてよね」
おまえらの為に、他の客に帰れとでも言うのか、このボケが…。そう言いたいのをこらえながら、笑顔で了承する。皮肉にも、そんな時に限って、なかなか客は帰らないものである。
暇な時に来店した男同士の客。もう三時間はいるのに、最初のジンジャーエールを一本だけ頼んだだけで、ただ外を見て話をしていた。
例の中央のベタベタカップルに呼び出される。
「ちょっと、もう三十分は待ってるわよ。早く空けてよ」
「すみません。申し訳ないですが、それはさすがにできません」
「何でよ?」
「席が空いてねえだろが、よく見てみろよ。何でおまえみたいな奴の為に、他の客をどかさなきゃいけねえんだよ」
もちろん、心の中で呟いた台詞だった。
「他のお客さまがご利用されていますので、もう少々だけお待ちになられて下さい。お席が空き次第、すぐにご案内いたしますので」
「まったくもう……」
俺は頭をひたすら下げ、ご機嫌をとるようにするしかない。奥で梅木さんに愚痴をこぼす。
「ほんとムカつきますよ、あのバカップル…。あと、他の客はまだオーダーあるからいいですけど、あの窓際の男二人。あいつら三時間以上もいるのに二人でジンジャーエールのビンをたったの一本しか頼まず、そのままずっといるんですよ?」
「じゃあ、飲み物のお代わりはどうですかとか、聞けばいいじゃん」
「とっくにそんなの聞きましたよ」
「え、何て答えたの?」
「じゃあ、水、下さいって……」
「それは笑えるな」
「言われた俺は笑えないですよ。俺、ハッキリ言ってきましょうか?」
「何て?」
「お客さん、野郎二人で三時間以上いて、ジンジャーエール一本だけ。それって少し居過ぎとちゃいまっかって」
「馬鹿、ふざけんなよ」
「そんな事、言うわけないじゃないですか。言ってみたかっただけです」
結局その男二人は最後まで、ジンジャーエール一本で済ませて帰っていった。
秋奈は両肘をついて、俺の話を楽しそうに聞いていた。上目遣いの顔にドキッとしながら俺は、酒を飲んで誤魔化した。
「そんな大変な事とかあったんですね」
「まあ、仕事柄しょうがないよ」
「なんか、あのアルバイトをしてる私が、恥ずかしく思います……」
そう言いながら、秋奈は目を伏せた。
「アルバイトってキャバクラの事?」
「はい。実は、私には一歳上の兄がいます」
「二十一?」
「そうです。私には厳しい兄ですが、いいお手本でもありました」
「うん、それで?」
「この間、仕事先でトラブルがありまして、新しい仕事を探しているのですが、なかなかうまくいってないようでして……」
「何関係の仕事を望んでいるか。それによっても色々条件は、違ってくるだろうしね」
「ええ、それでこの間帰った時に、兄へ私がキャバクラでアルバイトをしてる事を話したんです」
信頼関係に結ばれた兄妹。聞いていて羨ましかった。続けて秋奈は熱っぽく話した。
「当然、兄は怒りました。でも親には言わない。こっちでの生活が大変なのは分かるが、早いところ辞めろと言われました」
「そうなんだ…。でもね……」
「はい、なんでしょう?」
「確かに秋奈は、あのような場所で働くのは似合わない。でもね……。矛盾しているようだけど、君があそこで働いていなかったら、俺は出逢えなかったんだ。その事だけについては、本当に感謝している」
心の底から真面目に出た台詞だった。彼女がキャバクラみたいなところで働いているのは本当に嫌だ。しかし、だからこそ俺は、秋奈とあの場所で出逢ったのである。
「ありがとうございます。でも、なんだか恥ずかしいです……」
再び秋奈はモジモジしだした。いい雰囲気だ。今日で彼女を口説き、俺のものにしたい。俺は夜景を見ながら、グレンリベットを飲んだ。
恥ずかしそうにカクテルを飲む秋奈。できれば「君の瞳に乾杯」とでも言いたかった。キザ過ぎて笑われちゃうな……。
俺たちは夜景を見ながら、無言で酒を飲んだ。
ちょうど、タイミングよくステージが始まった。こうなると音がうるさく静かに会話もできない。夜景と秋奈のほんのり赤くなった横顔を交互に見ながら酒を飲む。性格も良く、気遣いもあり、可愛く美しい。俺にとって彼女は最高の女だった。
妻をめとらば才たけて、見る目麗しく情あり。
秋奈とだったら、結婚したいな……。
素直に思った。こんな子が仕事を終えて帰ると、家で待っていてくれたら最高だ。
俺は勝手な想像をしながら、グレンリベットをガンガン飲んだ。
こんなに気分よく飲んだのも、久しぶりだった。珍しく酔っているなと自覚する。グレンリベットのボトルをすでに二本も空けていた。
この子とこうしてずっといられたら、どんなに幸せだろう…。そういえば、俺からちゃんと言ってない。改めて好きだって正々堂々言いたかった。
「俺さー……」
「どうしたんです、大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込む秋奈。抱きしめたい衝動に駆られる。
「初めて秋奈に逢った時から、ずっと好きだった…。もっと…、もっともっと頑張らなくちゃって、いつも考えてしまう……」
「か、神威さん……」
「もう、言っちゃうぞ……」
「え?」
「俺はね、君にどうしても聴かせたい曲があってね……」
「はい……」
「だから、ピアノを習い始めたんだ……」
「……」
「君に聴かせたくて、その一心で……」
やばい目の前が回ってきた。
「私…、そんな簡単に口説かれないですよ」
言葉とは裏腹に、秋奈は下をうつむきながら上ずった声で答えた。時計を見る。もう十一時半を過ぎていた。そろそろ帰らないと電車がなくなる。でもそんな事はどうでもよかった。このままずっと一緒に、秋奈といたかった。
十二時を越せば、秋奈の誕生日。記念すべき二十歳の誕生日なのだ。彼女にとってそんな素晴らしい大事な時に、俺が横にいるのだ。最高に嬉しい気分である。
「そろそろ、帰らないと電車が間に合わなくなっちゃいますよ……」
さすがに甘いか。俺は残念な様子を出さないよう心掛けながら笑顔で頷く。
「そうだね、じゃあ、そろそろ出ようか」
俺は梅木さんにお礼を言って、会計をする。
「今日は久しぶりだからいいよ」
「駄目ですよ、あんなにご馳走になって……」
「いいって」
「女がいるんです。格好つけさせて下さい」
秋奈に聞こえないぐらいの小声で話した。梅木さんはやれやれといった表情で、二万円だけ請求してきた。
新宿まで向う。平日なのに、相変わらずの人混みだった。
普通に歩いているつもりだったが、秋奈が俺の腕をつかみ支えてくる。
「大丈夫ですか、神威さん」
「ああ、らいじょうふよ」
やばい、ろれつがちゃんと回っていない。
「飲み過ぎですよ。ボトル二本も……」
「いるもは、らいじょうふなんらけどれ」
いつもは大丈夫なんだけどね…。そう言うはずが、うまく喋れないでいる。これだけ酔ったなんて、ここ数年では記憶がない。それだけ秋奈と一緒にいる事に喜びを感じたのだろう。
今までどんなに飲んでも、ここまでなる事はなかった。
「一度でいいから、神威さんを酔わせてみたいわ」
そうスナックのママから、よく言われたものである。
人混みを掻き分けるように、俺は秋奈をガードしながら歩いた。大きなゲームセンターの前を通りかかる。
「あ、ヒリクリャら」
ちくしょう、うまく喋れない。
「え、何ですか?」
俺はプリクラを指差す。一緒に撮ろうと、秋奈にゼスチャーした。
十二時を回っていたので、もう彼女の誕生日になっている。どうしても記念として、撮っておきたかったのだ。
「いいですよ。そんな事にこだわるなんて、神威さんもけっこう子供っぽいところがあるんですね」
秋奈は笑顔で答えてくれた。
俺はプリクラの画面の前に立つと、さりげなく秋奈の肩に手をまわす。いい匂いがした。画面に映る秋奈は笑顔のままだった。大丈夫、嫌がっていない。
何回かに分けて、連続でプリクラを撮った。あまりにも愛しくて、強く彼女を抱き締めた。今までない感動と喜びが、俺を支配する。
今まで何度も女を抱いた事がある。それでも気付かなかった。こんなに女性の体って、柔らかくて気持ちのいいものなんだと……。
シールを現像している間も、ずっと中で抱き締めていた。二人とも何も話さなかった。
出てきたシールを見て驚いた。
俺って今、こんな顔しているのか……。
これじゃただの酔っ払いである。彼女ははさみを使い綺麗に二等分してくれた。大事に財布にしまう。俺の一生の宝物……。
酒の酔いがどんどん回ってくる。辺りの景色が回って見えた。
「大丈夫ですか?」
秋奈の顔が目の前でグルグルと回っている。
俺の意識はその辺りでプッツリとなくなった。
うるさい騒音が耳につく。やかましいなあ……。
俺はゆっくり目を開いた。
目の前に見える風景。そこは電車の中だった。向かいの座席に座っている四十台ぐらいのサラリーマン。口を開き、よだれを垂らしながら寝ていた。だらしのない奴め……。
まぶたが重い……。
けだるい……。
「あ、まだ着かないから寝てて下さい」
声が聞こえた。見ると、横に秋奈が座っている。心配そうに俺を見つめ、手を伸ばしてきた。
「私の肩に寄り掛かっていいですから……」
そう言いながら彼女は、俺の頭を自分の肩へ持っていった。いい匂いだ…。
「優しいなあ……」
それだけ言うのが精一杯だった。再び俺は、睡魔に引きずり込まれた。
赤ちゃんの頭を撫でるように、秋奈は俺の頭を撫でてくれている。
何故か俺は、どこかの店の中で立っていた。
辺りを見回しても誰もいない。
あれ、秋奈は……。
いつも薄暗い店内。しかし、今はそれが薄気味悪く感じた。
何を俺は怖がっているんだ。
俺は、ソファーに腰掛けてみる。うん、いい座り心地だ。
サービス業は立ちっぱなしの仕事である。
たまには、こういう風にくつろぐのも悪くない。
そういえば喉がカラカラだ。
酒を飲んだあとは、いつもこうなる。
何か飲み物は…。俺はカウンターの中へ入る。
ロックグラスに氷を入れ、烏龍茶を注ぐ。
一気に飲み干した。
うん、うまい…。最高に喉越しが、気持ちいい。
再び、落ち着いてソファーに腰掛ける。
いい匂いが微かにした。
心が和らぐ。
この匂いって、確か……。
そうだ、俺はこんなところで何をしているんだ。
秋奈とデートしてたんじゃないのか?
何故、ここに俺はいるのだろう。
秋奈はどこに行ったんだ……。
俺は立ち上がった。
秋奈は……。
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