あまりこの系列グループの人間とは、関わり合いにならないほうが賢明だなと思った。
今日から昼の十一時出勤。ゆっくり寝ていられるし、電車も混んでいない。元々朝起きるのは得意なほうじゃないので、理想的な出勤時間である。仕事内容が裏ビデオじゃなければ……。
歌舞伎町に着くと、裏ビデオ屋の『マロン』の入口の鍵を開け、看板を外に出す。当然の事ながら、北方はこの時間にはまず来ない。
店内の掃除を済ませると、ビデオ用のファイルを見た。ある程度、置いてある作品ぐらいは頭に入れておかないと話にならない。ビデオの種類だけで五百はあるのだから。
客の要望を聞いたら、すぐに「これはどうです?」ぐらい言えないと駄目だ。
しばらくはこの作業だけに没頭した。
客が買いに来ると、作品名が書いてあるメモを見て、倉庫の人間に電話をする。来る前に代金だけ受け取っておき、配達人が来れば品物を渡す。非常に単純な商売である。
北方が店に来るのは、いつも夕方の四時頃。
「おい、神威。今、売上はどのくらいだ?」
「まだ四万ですね」
それだけ確認すると、北方は上の『グランド』へ行き、ゲームをしに行く。この時間帯だと、客もほとんどいないだろう。
毎度INOUT差を見て有利な台に座りゲームをする北方の愚痴を言いに、中番の小坂が玉に『マロン』まで降りてきた。
「まったく北方さんには参りますよ」
「またロイヤルでも出したんですか?」
「それぐらいならいいんですけど、他の客がいるのに構わず、他の台のキープまでしますからね。おかげでこっちに客がいつも文句を言ってきます」
元々ポーカーゲームは負けるのが当たり前。しかし、自分たちが金を突っ込んだ台をキープされて、北方だけがその分を毟り取る。まさに極悪非道だ。
「オーナーの渡辺さんに言ってみたらどうです? 北方さんの件を」
「そうすると、誰が言ったんだってなるじゃないですか? みんな、自分が悪者になりたくないんですよ。まあ、自分もですが……」
これではただの悪循環だ。みんな、思っている事は同じなのに誰も行動に移さない。北方の傍若無人ぶりをやめさせない限り、この悪循環は続く。
ひっそりと営業している『グランド』は常連客しかいないが、あまり流行っているゲーム屋とはいえない。そこへ北方が輪を掛けてそんな事をしたら、余計に客は減るだろう。
小坂が愚痴を言って『グランド』へ戻ると、客がパラパラと入ってきた。みんな熱心にビデオのファイルを眺めている。
一人の客が、壁に貼ってあるDVDのジャケットを見つめ、メモをとっていた。
「では、八本で一万円ちょうどになります」
ビデオを八本買う客の会計を済ませ、続いてDVDを買う客が書いたメモを出す。
「ちょっと待って下さいね」
俺は慌てて倉庫に電話をした。品物を運ぶなら、一度に持って来させたほうがいいだろう。「はい」と機嫌悪そうな声がして、倉庫の人間が電話に出る。
「え~とですね。『女子高白書』と……」
「どっち?」
「え?」
「だから、DVD? ビデオ? どっちだよ?」
何だこの言い方は……。
「DVDですよ」
「あとは?」
「全部DVDで、『乙女座の憂鬱』、『いちごの気持ち』。それと『外人娘と大和撫子』です」
ガチャン……。
何も言わずに切る配達人。毎回このような対応だと、こっちも気分が悪くなってくる。一度、暇を見て話し合ったほうがいいかもしれない。
五分ぐらいして配達人がDVDやビデオを持ってくると、袋に入れ客に渡す。配達人は客に挨拶もなく、店の冷蔵庫に置いてあるコーヒーをバックの中に四、五本入れると黙ったまま『マロン』をあとにした。
ストレスの溜まる日々。自然と飲みに行く回数も増えた。
『ワールド』にいた頃と違い、今は月に三十万程度の金しか稼げない。金がない時はゲームをしてプライベートを過ごす。特にハマっているゲームもなく、俺は『ファイナルファンタジーⅩ』を買い、プレイしてみる。ロールプレイングゲームは、非常に時間が掛かる。のめり込むと、仕事も手につかなくなるという事を知っていた。だから今まで興味があっても手を出さなかった。
だが、裏ビデオ屋『マロン』ならほとんど暇な店である。寝不足のままでもそんな仕事に差し支えないだろう。
ファイナルファンタジーをプレステーション2に入れ、スイッチを入れる。しばらく読み込んでから、画面は真っ暗になる。
いきなりコンピューターグラフィックの綺麗で鮮やかな映像が始まる。それと同時に聴こえてくる。悲しげなせつないメロディ。
それだけで、俺は感動を覚えた。
体に電撃が走ったようなビリビリ感……。
この物語の主人公と仲間が、たき火を囲んで暗い表情をしている。始まりから暗いムードが漂う。
ゲームをやった事のない人が見ても、グラフィックは素晴らしいと感じるだろう。下手したら、ゲームだとは思ってくれないかもしれない。
俺はそのすごい映像より、何故か音楽に惹かれた。ピアノだけで奏でられる寂しげな音色。不思議と耳にこびりついた。
それからというもの、俺は仕事から帰ると毎日のように、ファイナルファンタジーⅩに没頭した。休みの日になると、時間も気にせず思う存分やり込んだ。
ホテルでのバーテンダーやゲーム屋の仕事と、人に見られる商売をしているせいか、プライベートでは一人でボーっと過ごすのが好きだった。
十五日ほどかけて、ようやくクリアできた。エンディングを見ていると、涙が出そうになる。音楽、キャラクター、グラフィック、シナリオ。すべてがお気に入りだった。
おかげで通常の規則正しい生活から一転して乱れてしまった。徹夜で仕事へ行くなんてザラだった。でもそんな事はどうでもいい事である。
キャラクターのパーラメーターの数値をこれ以上、上がらなくなるまで育てる。地味で面倒な作業だった。しかし最後のボスを数撃の通常攻撃で簡単に倒せるほど、強くなり過ぎていた。
俺はファイナルファンタジーのCDがないか、レコード屋へ探しに行った。あのザナルカンドを好きな時に好きなだけ聴きたかった。それだけの理由で探し回った。ゲーム音楽なので、何件回ってもなかなか見当たらない。店員にいちいち注文するのも、恥ずかしい気がした。
ひたすら、町のレコード屋を求め、歩き回った。
五軒目の店で、ようやくファイナルファンタジーⅩの音楽CDを見つける。早速家に帰り、聴いてみた。
寂しげな音色。俺はずっと聴き惚れていた。何て、素晴らしい曲なんだろうか。ゲームだけの音楽にしとくのは、もったいない気がした。人間、自分に本当に合った曲を聴くと、体が痺れる。頭の天辺から、足のつま先まで、電撃が走るようにできているらしい。聴いているだけで、俺の腕は鳥肌がたっていた。その日は、部屋にこもり、ずっとザナルカンドを何度も繰り返し聴いていた。
休みの日、俺は飲み屋の女を誘い、飲みに行く約束をする。真澄という名前の女で何度かこうしてプライベートで会っていた。今日はいきつけのジャズバーで待ち合わせをして、俺は一足先に店へ入る。
「どうもー」
ちょうどこの日はジャムセッションの日で、いつもはガラガラのバーがほぼ満席になっている。俺はカウンター席に腰掛けた。グレンリベットの十二年のボトルが、目の前に置かれる。
「こんな早い時間に珍しいですね。お休みですか?」
マスターが笑顔で話し掛けてくる。
「ええ」
「それはそれは、ゆっくりできていいですね」
「これからもう一人、連れが来るんで、先に飲んでますよ」
俺はショットグラスにウイスキーを注ぎ、生演奏を眺めた。今、演奏している曲はテイクファイブだった。ジャズの中で三本の指に入るほど、自分の好きな曲である。
生演奏を楽しんで聴いているはずの俺。途中からある音楽が頭の中に響いてくる。それはファイナルファンタジーⅩのオープニング曲であるザナルカンドだった。何故か、耳に残っている。
演奏が終わり、ステージは休憩に入る。テイクファイブ以外、他の曲名は分からない。しかし、俺にとって曲名など、どうでもいい。ノンヴォーカルのジャズをリラックスして聴くのが好きなのである。
ようやく真澄が、店に来た。
「ごめん、ごめん。化粧に時間かかちゃってさ」
「全然、かまわないよ。俺も今さっき来たところだ」
「本当、あなたって優しいよね。そういうところ大好き」
自分の膝の上に置いた左手の上に、真澄は手を重ねてくる。俺は気付かないふりをして、酒を飲んだ。
セカンドステージが始まる。
簡単なバンドのメンバー紹介のあと、ピアノのソロ演奏が始まった。俺の横で、真澄はうっとりしながら見ている。少しばかりの嫉妬を覚えた。
「なあ、真澄」
「なあに?」
返事はしても、顔を俺のほうに向けようともしない。
「ピアノが好きなのか?」
「うん、大好き。私ね、小さい時これでもレッスン行ったんだよ。ピアノのね。でも、すぐに挫折しちゃったの。今になってあの時ちゃんとやっておけば良かったなあって、ずっと後悔してるんだ」
「ふーん」
そう思うなら、今からでもやればいいのに…。あえて口には出さず、留めておいた。
「男の人で、ピアノ弾ける人って格好いいじゃん」
「そりゃそうだな」
俺は一人の女にしばられるのは、嫌だったので、彼女は作らないようにしていた。だから、いつもデートしてホテルというパターンぐらいしか、した事がない。
そのくせ、俺と一緒にいる時の女には、妙に独占欲があった。俺と話しながら、ピアノのほうを向いたまま答える真澄。正直、面白くない。
「なあ、もしだよ。俺がいきなり、あそこ行って、ピアノを弾きだしたら、どう思う?」
「もっと格好いい。ひょっとして、弾けるの?」
真澄はこっちを向いて、目をキラキラさせている。
「弾ける訳、ねえだろ。言ってみただけだ……」
ジャズバーを出て、ホテルで一夜を過ごす。真澄は酒が入っていたせいか、いつもより激しかった。
一人でシャワーを浴びて部屋に戻ると、真澄は先に寝ていた。ベッドに腰掛け、煙草を吸う。さっきのピアニストの姿を思い出した。
男がピアノを弾けたら、格好いい。確かに理屈は分かる。誰でも、そう感じるだろう。自分ができない非日常的な事をするといった行為は、できない者から見れば素敵に見える。その点では、バーテンダーも似たような感覚だろう。
俺がバーテンダーになったのも、それが原因だという部分もあった。まわりから、格好良く見られたい。そういう思いがなかったとはいえない。客は、俺がカクテルを作る動作をそう思いながら眺めている。もちろん、すべてではないが……。
さらに、俺がピアノを弾けるようになったら、どんなに素晴らしいだろう。でも、「ネコ踏んじゃった」すら弾けない俺が、ピアノをやるなんて到底不可能だ。もう三十歳なのだから、いくら頑張ったところで無茶な話である。
ザナルカンドのフレーズを口ずさむ。あのような曲だったら、弾いてみたい気もする。しかし、どっちにしても、それはただの理想に過ぎない。
今は寂れた裏ビデオを売るだけの男だ。
翌日眠い目をこすりながら店に着くと、北方が散らかしたままのテーブルの上を掃除する。北方は掃除というものをまったくと言っていいほどしない。
客のいない時間を利用して店のファイルを眺め、ビデオの種類を覚えるよう心掛ける。ビデオの仕事さえ覚えてしまえば、あとは俺のパソコンタイムだ。ゲームだけでなく、色々な事をできるようになっておきたい。
階段を降りる音が聞こえる。客か。俺は入口を見ると、ミンミンが『マロン』へ入ってきた。女性がここへ来る事なんてまずないのでビックリする。
「神威さん、お願いある。いいか?」
「何でしょう?」
ミンミンはセカンドバックから封筒を出し、テーブルの上に置く。中身を見ると、婚姻届の保証人の名前を書く書類だった。
「パパと私、結婚する。でも保証人二人必要。一人、神威さん頼む。いいか?」
「ちょ、ちょっといきなり過ぎますって」
「大丈夫。この書類、名前書けばいいだけ」
「いや、そういう問題じゃなくてですね……」
「いつになったら書く?」
何で保証人をお願いされているのに、こんな催促されるような言い方をされなきゃいけないのだ。
「待って下さいって。少し考える時間を下さいよ」
「分かった。また来る」
そう言って彼女は『マロン』をあとにした。ミンミンという名前しか分からないのに、何で俺が保証人にならなきゃいけなんだ?
新しい客が入ってくる。俺は客の対応をしながら仕事をする事にした。毎日こんな事をしていると、必然的にビデオの種類を覚えてくるものである。出前を頼み食事を済ませると、北方が店に来た。
「あの北方さん。先ほどミンミンさんが来まして、結婚の保証人がどうとか……」
「ああ、あれか。じゃあ、名前書いとけ」
何なんだ、この言いようは? 自分たちの結婚なのに、何故俺が引きずり込まれ、こんな言われ方をされるのか。常識がないにも程がある。それに北方自身の結婚に関する事を言っているのに、どこか面倒臭そうに感じた。
「今日から神威は、倉庫へ行ってくれ」
「え、俺が倉庫ですか?」
「たまには倉庫の野中さんをゆっくり食事でもさせてやるだよ」
野中という名前なのか。あの倉庫の無愛想な人は……。
「食事って、一時的にって事ですか?」
「もちろんそうだよ。俺が店にいるから神威は倉庫に行って、その間野中さんを食事へ行かせるだけだよ」
「でも、倉庫の場所…。自分は分からないですが……」
「ちょっと待ってろ。今、野中さんに電話してこっちに呼ぶから、倉庫の場所を教えてもらえ」
頭の中で想像してみた。店だけで六百種類ぐらいのビデオやDVDがあるのだ。倉庫はストックもあるはずだから、二千本ぐらいビデオがズラッと並んでいるかもしれない。もし、俺が倉庫にいる時に電話があったとして、注文したビデオを探す事ができるだろうか?つい、妙な不安をしてしまう。
「だ、大丈夫ですかね? 自分なんかが倉庫で……」
「大丈夫だよ。野中さんにビデオの置いてある場所とか説明させてから食事に行かせるから。なあに、簡単な仕事だ」
「はあ……」
階段を「はぁはぁ」と野中が駆け下りてきた。
「野中さん、食事ゆっくりしてくればいいだよ。その間、神威に倉庫をやってもらう事にしたから。今日だけ神威に、倉庫の仕事を教えてから食事に行ってくれ」
「ああ、そう」
オーナーである北方に対してもタメ口の野中。この人は言葉遣いというものを少しは勉強したほうがいいのではないだろうか。
そんな訳で俺は、これから野中と倉庫へ向かう事になった。
ビデオ屋『マロン』を出て、花道通りを風林会館方面へ向かって真っ直ぐ歩くと、一軒の古いマンションがある。倉庫はその四階の一室にあった。
野中がドアを開けた瞬間、俺は目を丸くした。
「……」
鼻が曲がりそうな何ともいえない腐った臭い。口で吸っても味がしそうな臭いである。そんな悪臭が鼻をつく。倉庫は玄関先から、とてつもなく散らかっていた。
「早く上がりなよ」
入口で上がるのを躊躇っている俺に、野中は声を掛けてきた。俺は一瞬だけ外に出て、目一杯息を吸い込んだ。こんな事をしても、しばらく倉庫の中にいるようだから無意味なのは分かっていたが、それでも新鮮な外の空気を吸いたかった。
入ってすぐキッチンがある。まずビックリしたのが、ガスコンロに出しっ放しのフライパン。よく見ると、ゴキブリの死骸が何匹かいた。ゾゾッと鳥肌が立つ。
「何か飲むかい? コーヒーなら冷蔵庫にあるから、勝手に飲んで」
「ありがとうございます」
思ったより野中はいい人なのかもしれない。喉の乾きを覚えていたので冷蔵庫を開けた。
「ゲッ……」
季節は冬。この時期にゴキブリなど普通は出ない。それが倉庫の冷蔵庫には、ウジャウジャとゴキブリが徘徊していた。缶コーヒーの口をつけるタブのところにも、構わず動き回っている。さすがに水で洗っても口をつける気はしない……。
「遠慮しないで飲みなよ」
「あ、今、喉乾いてないから大丈夫です……」
野中さんは何も気にせず、このコーヒーを飲んでいるのか? そういえばDVDやビデオを『マロン』に持ってくる時、いつも客用に買ってあるコーヒーを持っていく。…という事は、普通に飲んでいるという事なのだ。大丈夫なのか、この人は……。
倉庫の部屋は十畳一間で、壁に沿って棚がズラッと置いてある。一つ一つの棚には、各ジャンル別にビデオが並べられてあった。
「一番右の棚から『和物』ね。タイトルで、あいうえお順に並んでいるから。次が『熟女』、『盗撮』、『SM』、『スカトロ』ね。『レイプ』は『和物』と同じにしてある」
「……」
何を言っているのか、さっぱり分からない。野中さんは構わず話を進め、「最後が『洋物』だから」と言って食事へ行ってしまった。
部屋の中にはテレビが二台とビデオデッキが全部で九台置いてある。ひょっとしてこんな小汚い環境で、あの裏ビデオのダビングでもしているのだろうか?
それにしても臭い部屋だ。ボロボロの絨毯の上には、ゴキブリが我が物顔で歩き回っている。とてもじゃないが、地面に腰掛ける気になれない。かといってそのまま立っている訳にもいかない。
部屋に転がっているダンボールの一つを潰し、座布団代わりにして腰掛けた。
携帯の電池が少なくなっていたので充電をしようとビデオデッキで一杯の蛸足に、コンセントを挿そうとした時だった。絨毯の汚れと思っていた黒いものが、一斉にサササと動く。
「うわっ!」
思わず出る叫び声。黒い汚れ…。それはゴキブリの塊だった。蛸足のコンセントに籠もった熱で、温まっていたのだろう。野中という人間は、どんな生活をしているのか……。
尿意を感じトイレへ向かう。床にゴキブリがいないか注意しながら、常に慎重に一歩一歩進む。
トイレの中へ入ると、思わず鼻を押さえてしまう。ムワッとする物凄い臭いだった。手探りで電気をつける。
「ゲッ……!」
中はユニットバスになっており、左手にトイレ、右手が浴槽になっていた。
手を洗うはずの洗面器の上は、漫画本が積み重ねられている。
異臭を放つ元は便器だった。水の溜まる部分はこげ茶色に染まり、掃除をまったくしていないのか便が固まってついたままである。
そして尻をつく部分のカバーの片側は、何故かガムテープでグルグルに巻かれている。カバーが折れるなんて聞いた事もないが、実際に折れたからこその処置なんだろう。
浴槽を覗いてみると、普段使っているという気配がない。底は黒い細かいものがまばらにある。ひょっとしてゴキブリの糞だろうか?
駄目だ……。
これ以上、ここにいると気が狂う……。
俺は一度倉庫から出る事にした。ドアを開けた瞬間、心地良い新鮮な空気が鼻に飛び込んでくる。空気がこんなうまいものだなんて、生まれて初めて感じた。
倉庫の外でタバコを吸っていると、野中が帰ってきた。
「おまえ、何をしてんの?」
「あ、タバコ、中で吸っちゃいけなかったかなと思いまして……」
適当に言い訳をしてみる。
「そんなのは全然構わないよ。外にいちゃ寒いだろ。中に入りなよ」
久しぶりにゆっくりできたのがそんなに嬉しかったのか、野中は上機嫌だった。笑顔でドアを開け中へ入っていく。俺はタバコを消し、あとに続いた。またあの臭いを嗅がなくてはならないのか……。
「北方さんから電話は?」
「特にないです」
「相変わらず暇だな~。まあいいや。とりあえず倉庫でやってもらいたい仕事ね。電話来たら店にビデオを運ぶっていうのが第一だけど、いる間は少なくなったビデオのダビングをやってほしいんだよね」
「はあ……」
野中はダビングについて色々何かを話していたが、そんな事ぐらい聞かなくても分かる。彼の言葉は俺の右耳から左耳へそのまま通過した。そんな事よりも、これからこの倉庫へ毎日来るようなのである。この臭さをどう対処したらいいか。そんな事ばかり考えていた。
「野中さん、俺、倉庫にはだいたいどのくらいいればいいんですか?」
「俺が飯に行く間だけだから、一時間から二時間ぐらいだろ」
「そうですか」
少しだけホッとする。ここ専門になったら、俺は窒息死してしまう。
「明日も出勤だろ?」
「いえ、明日はお休みなんですよ。ではそろそろ俺、『マロン』に戻りますね」
「もうちょっとゆっくりしていけばいいじゃんか」
親切心で言ってくれるのは充分分かるが、ノーサンキューである。一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。
「いえ、北方さんが一人で店番をしてるでしょうし……」
「倉庫にさ、人が来たなんて久しぶりだよ」
野中は俺の台詞など聞いてないかのように喋り出している。横にあるテーブルの上を一匹のゴキブリが走り出す姿が見えた。野中は普通に話しながら素手でゴキブリを潰し、ゴミ箱へ放り込む。見ていて吐きそうになった。
「……。久しぶりって、前にいた浦安さんは来てなかったんですか?」
「あいつはいい加減だろ? だいたいうちで働く人間って北方さんから金を借りて返せなくなり、その肩代わりに安い金で働かせられるだけだからさ。倉庫はビデオ屋にとって命綱だし、そうそう簡単に教えられるもんじゃないんだよ」
こんな汚い場所が『マロン』の命綱……。
「そういうもんなんですか」
「まあおまえは、北方さんから信頼されているんだろうな」
「どうなんでしょうね。とりあえず今日は帰りますね」
「明日もよろしくね」
「だから明日は休みですって」
視線をずっと下を向けたまま湿った床を歩く。うっかりゴキブリを踏んでしまったじゃ、洒落にならない。
仕事帰り、真澄へ電話をしてみるが出なかった。仕方なく月に一度ぐらいの割合で行くスナックへ飲みに行った。本当に暇な店で、二十五歳前後の女が三人で働いている店だった。
「あ、神威さん、いらっしゃい」
「おう、久しぶり」
「いつもので、いいんでしょ?」
「ああ」
「グランリベ……」
「グレンリベット。いい加減、覚えろって……」
「あー、ごめんごめん」
女の質は落ちるが変に気を使わないでいいので、俺は気に入って通っていた。
俺はグレンリベットの十二年が大好きでたまらない。目の前にこの酒を置かれるだけで、ニコニコしてくるから不思議だ。
以前、ホテルで働いていた時の話だが、色々な酒を飲み、自分にあった酒を探していた時期があった。何万種類の酒を飲んだか分からないぐらい、様々な種類の酒を飲んだ。
その時に俺はグレンリベットに出会った。俺が一番、日本でこの酒を飲む。みんなにそう思われるぐらい飲んだ。この酒に出会ってからは、とんかつ屋へ行こうが、焼肉屋に行こうが、行きつけの店にはすべて、グレンリベット十二年を置かせてもらうように頼んだ。
店内は、相変わらず観光鳥が鳴いていた。俺が来た時点で、客が一人だけいた。しかし、三十分もすると帰ってしまい、とうとう俺一人だけになる。
「ねえ、神威さん」
「何?」
「私たち、ビールもらってもいい?」
「はいはい、どうぞ」
「わーい、ありがとう」
これで会計にビールが三杯分足される事になる。三千円は掛かるという意味だ。
「いただきまーす」
俺の持つグラスより、女たちはグラスを上に高くした状態で乾杯してきた。サービス業をやるなら、絶対にやってはいけない行為である。でも俺は何も言わず、笑顔で乾杯した。
「それにしても、本当に暇な店だな」
無駄に広い店内をゆっくり見渡す。閑古鳥が鳴いているとはこういう事を指すぐらい、暇な店である。よく、こんな状態で店がもっているものだ。ある意味、感心する。
「ほんと、そうなんですよ。神威さんって、前にホテルでバーテンダーやってたんでしょ?何か私たちにカクテル作ってよ」
「悪いけど仕事以外じゃ、俺はシェーカーを振らない。それに今はバーテンダーじゃない」
「えー」
昔は違った。ホテルで働き出した頃は、給料が入ると色々な酒を買った。
部屋にたくさん色々なボトルを並べ、友達が来るとカクテルを作ってやった。みんな、おいしいと喜んでくれた。
ただそれを数年繰り返して、気がついた事がある。何年にも渡って、俺は友達たちにタダで酒をずっと振舞っていただけなのだ。実際に多数のカクテルを家で作れるようにするには、メチャクチャ金が掛かる。でも誰一人として金を払ったり、酒を差し入れしたりしてくれた奴はいなかった。タダ酒だから、みんな喜んで来ていただけなのだ。
別のスナックに通っていた頃、ちょうど口説いている女にいいところを見せようと、カクテルを作った事がある。散々飲んでみたいとせがまれ仕方なしにといった形の上だが、店の女全員が飲みたいと言い出した。ママが「悪いけど神威さん、みんなの分も作ってあげてくれないかな?」と言うので作った。帰る時になって会計を見てビックリ。店の女全員に頼まれて作ったカクテルの分まで会計に上乗せされて請求されたのだ。
これに懲りてカクテルは仕事以外、二度と作らないようにしていた。今となってはどうでもいい話である。
「何で、うちの店ってお客がこないのかなあ?」
「簡単だよ、原因は……」
「えー、何で?」
目の前に座る女三人は、俺の顔を真剣に見ている。
「まず、聞くぞ。今だったら、キャバクラってもんがあるよな?」
「うん」
「でも、おまえたちが水商売で働こうって頃は、まだなかった商売だよな?」
「そうだね…。スナックか、クラブか、キャバレーぐらいだね」
「私は熟女パブにいたよ。二十一の頃だけど……」
「まあいい、よく聞けよ。もし、おまえたちが高校を卒業して、水商売をやるとしたら、それが今だとしたらの話だけど、そこにキャバクラという選択肢もある。そしたらどこで働く?」
「キャバクラ」
三人は即答で声をそろえて言った。
「何で?」
「だってぶっちゃけ、ここの時給千五百円なのよ。キャバクラなら、最低でも二千五百円はもらえるでしょ」
こんな適当な仕事ぶりで、時間給千五百円ももらえているという事に感謝すら覚えない馬鹿な女たち。
「私もー、スナックって大勢の団体さんが来ると、忙しくても基本的に一人で全部こなすようでしょ。キャバクラなら、一人だけ相手すればいいわけだしね」
「ここはママって存在がいないから気楽だけど、普通はいるでしょ? 前にいた店でいつもうるさいぐらい怒られてね。だからやっぱ、金もよくて、うるさいママのいないキャバクラがいいな」
こいつらは、恥という言葉を知らないのだろうか。
「何でこの店が暇かって言ったろ?」
「うん」
「そんな考え方で仕事をしているから、いつまで経っても流行らないんだよ。それにさっきの乾杯。客である俺のグラスの位置より、上でグラスをつけたろ? それって飲み屋の女として、一番やっちゃいけない事だぜ。ただ、店に女がいるってだけで客が来るほど、今の世の中甘くないぜ」
「すいませ~ん」
「すいませんじゃなく、すみませんが正しい日本語だ」
俺の指摘を受け、三人はしゅんとなっていた。今日の酒は、非常にまずく感じる。
スナックを出て帰り道を歩いていると、新装開店したばかりのキャバクラの看板が見えた。このまま帰るのもつまらないし、寄ってみる事にする。店内へ入ると、新しい新人の女の子をつけてくれた。
「失礼します」
その新人の子は、おどおどしながら挨拶をしてくる。俺の横に座り、酒を作ろうとした。普通の能天気なキャバ嬢とは違い、どこか暗い陰りがあるような感じに見える。少し気になった。さりげなく横顔を見る。顔だちは非常に綺麗な子だ。ただ、目に寂しさが宿っているように思えた。
「あ、俺はウイスキーをストレートで作ってくれるかな」
「は、はい」
ストレートと言ったのに、その子はグラスを持ち、いきなり氷を入れだした。
「ちょっと、ストレートだよ。氷は入れなくていい」
「す、すみません。初めてなものでして」
すいませんではなく、すみません…。正しい謝り方で言う彼女に、少し好意を持てた。
「そうなんだ。じゃあ、しょうがないな。どっちかというと、ちゃんと教育しない店側が悪い」
「すみませんでした」
「そんな謝らないで、ストレートって、氷も水も入れず、そのまま飲む事を言うんだ」
「へえ、そうなんですか。お酒強いんですね」
少しだけ彼女の顔が明るくなる。一瞬、俺はその表情にドキッとした。顔だけでなく、この子の持つ雰囲気も好きなのであろう。でも、会ったばかりなのに、気に入ってしまったと認めたくない自分がいた。つき合っている訳ではないが、真澄の存在だってある。
「ロックは氷で割った状態の事。水割りは…、分かるよね」
「はい」
嬉しそうに唸づく彼女。まずい…。俺はあえて顔をそらした。その子の顔を見ているだけで、妙にそわそわした気分になってくる。
「そういえば、名前は?」
「由実です」
「それって源氏名だろう?」
「ええ、そうです」
見た目と同じで、正直な女だと思った。何でこんな子が、キャバクラで働いているんだろう。俺には理解できなかった。
「俺は、神威龍一。良かったら、君の名前も聞きたいな」
出来る限り、優しく言った。
「私は秋奈って言います。大崎秋奈です。」
彼女は馬鹿正直に、名字まで教えてくれる。思わず俺は笑ってしまった。
「俺今まで腐るほどキャバクラに来たけど、君みたいなタイプの子ってほんと初めてだよ」
「え、そうですか?」
キョトンとする秋奈。そんな表情も可愛らしい。俺は最初見た時から、気に入っていたのだ。今までちゃんとした彼女も作らず、ただ適当に遊んでここまできた。一人の女性を気に入る事などないと、ずっと思っていた。
「何で、君みたいな子が、こんな場所に?」
俺がそう言うと、彼女は寂しそうに微笑んだ。言い辛い事情でもあるのだろう。初対面で、こんな事を聞くのは失礼だった。
「実は今日でまだ二回目なんです、働くの……」
恥ずかしそうに彼女は言った。
「ごめん、変な事、聞いちゃって……」
「ううん、いいんです。私、実は大学生で、こっちに来たばかりなんです」
「へえ、若いなって思ったけど、じゃあ、十九歳なんだ?」
見た目よりも、しっかりして見える秋奈。二十前半だろうと感じていた。
「いえ、二十歳なんです。受験の時、風邪をこじらせてしまいまして……」
「それは災難だったね」
「ええ、余計な学費も親にかけさせているので、アルバイトしなければならなかったんです」
いつもならそんなもの言い訳だろとか、突っ込みを入れていた。しかし彼女に関しては、何故かそれができないでいる。
「今度、良かったら、おいしいものでも食べに行かないかい? 君とはゆっくりと時間を掛けて話してみたい」
ついデートの誘いを口にしてしまう。もちろん今までだって、たくさんの女に声をかけた。でもそれは抱く事が目的である。真澄だってそうだ。それが今、俺は純粋にゆっくりこの子と話したいと思っていた。俺の言葉に、秋奈は嬉しそうな表情で笑う。
「ええ、いいですよ」
胸の奥が、うまく表現できないけど変な感覚になった。嬉しいだけという言い方では、何かが足りないような気がする。むず痒さ、胸がキューっと締め付けられるような感覚もあった。
「いつなら、予定空いているんだい?」
「うーん、明後日なら、大丈夫だと思います」
「そっか。じゃあ、おいしい焼きアナゴのお寿司でも、食べに行こうか」
「焼きアナゴのお寿司ですか?」
「うん、メチャクチャおいしいんだ。嫌いじゃないなら、一度連れて行きたい」
「はい、楽しみにしています」
秋奈は明るい声で、ハキハキと答えてくれた。とても美しいが、どこか陰りを感じさせる彼女。見ていると、何故かせつなくなってくる。
その時、思った。秋奈には、ザナルカンドの曲がピッタリとマッチするのだと……。
家へ帰る途中、すぐ近所にあるマンションのところを通り掛かる。その一階にある空き店鋪は、こんな真夜中だというのに明かりがついていた。自然とガラス越しの中の状況に目がいく。
中には三人ぐらい人がいて、慌ただしく掃除やら、荷物の整理をしていた。どうやら、近い内、ここで何かオープンする準備をしているらしい。しかし何の店だろう?
俺は外の看板を見た。
『ノクターン』
それだけしか看板には書いていなかった。俺は気になりだすと止まらない。どうせ近所なんだし、挨拶がてら聞いてみよう。俺はドアを開けて中へ入った。
中は十畳ほどの広さで壁は清潔感あふれる白。壁に沿って茶色の大きな棚があり、本がぎっしり詰まっていた。奥にグランドピアノが置いてある。しかし、まだ引越しの片付けが終わっていないのか、目の前で三人の従業員らしき人が、たくさんのダンボール箱をゴソゴソと漁っていた。誰一人、俺が入ってきた事に気付かないほど集中している。しばらく様子を見ていたが、声を掛ける事にした。
「すみませーん」
俺の声に、三人の動きはピタッと止まる。パーマのかかった四十台ぐらいのメガネを掛けた女性。同じくメガネをかけた二十台半ばの男性。またまたメガネをかけた高校生ぐらいの女の子。親子同士だろうか。みんなメガネである。
「はい、何でしょうか?」
四十台の女性が、不思議そうな顔で声をかけてくる。
「自分、すぐ近所の者なんですけど、たまたま目の前通り掛かったんです。何のお店ができるのかなと思いまして」
「そうですか。よろしくお願いします。ここで楽譜屋のお店をやるんです」
「え、楽譜を売るお店ですか?」
そんなんで商売が成り立つのだろうか?
「ええ、そうです。他には、ピアノのレッスンもしていますけどね」
ピアノか…。秋奈に弾いてやれたら、格好いいと思われるだろうか。
「すごいですね。自分、まったく音楽関係には疎いもんでして」
棚に詰まっているのは本でなく楽譜なのか。俺は一つ一つ手にとって眺めてみる。ベートーベン、ブラームス、ショパン。小学校時代、音楽の時間で聞いた事のある音楽家の楽譜も多数あった。
「楽譜って、主にクラシック系を置いてるんですか?」
「ええ。でも、別のジャンルも取り寄せられますよ」
ゲームの楽譜なんてあるのだろうか……。
いや、初対面でこんな事聞くのは失礼だ。しかもこんな真夜中に来ているし…。とりあえず何か買って帰ろう。俺は棚から、適当に一冊取り出した。
「これ、良かったら、買ってもいいですか?」
俺が偶然、手に取ったのは、『マーラー』と書いてあった。
「いいんですか? こんなバタバタしている状態なのに…。何だか気を使っていただいて申し訳ないです」
「いえいえ、その内、自分が欲しいものをお願いするかもしれませんから」
代金を払い、店をあとにする。買った楽譜はまったく興味ないものだ。いきつけのジャズバーの客にプレゼントすれば、誰かしら喜んでくれるだろう。
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